不純物と免疫 03

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大和田俊作品の全容めいたものがほぼ見える位置に立つ。但し51%の御本尊はまだ見えていないと思われる。

ヘッドフォンの中では今見ていたばかりの仲本拡史氏作品の解説が流れている。自分の関心とのタイムラグとして現れるこの「不純物」をどうしたものだろうかと微笑してみる。その「齟齬」に対する態度を企画者に試されているのだろうかとまた微笑してみる。それを受け入れるのか、受け入れないのかと重ねて微笑してみたりもする。

その結論として、耳の中に聞こえているものに関心を示さないという形を取る事にしてみた。人は耳栓の力を借りずとも、そうした事が出来てしまうという現実がある。そして確かに共存の現実的な方法論の一つとして、無関心(注1)という選択はあり得る。「聞く」という営みは関心という脳的関数の中にある。それは目覚まし時計のけたたましいアラーム音を聞いて、起床出来る/起床出来ないという日々悶々的な事実からも明らかだ。その意味で、耳は閉じたり開いたりしている器官だ。

(注1)それは相対的に多様社会である都市生活をするに当たっての、事実上の知恵になっているものでもある。自分に対して無関心であって欲しいというのが、それぞれの都市生活者の無意識の中にある。路上生活者が、大量の無関心が往来する場所に住まう理由もそこにある。過剰に自分に関心を持たれてしまう場所では住み難いからだ。

予てより大和田俊氏という作家は、以前から音と関心との相関性、或いは関心に於ける音を作品化する人だと感じていた。石灰岩を溶かして音を出す氏の作品は、音源をマイクスタンドが矢印の如くに指し示す事で、音への関心を視覚的に喚起させていた。従って、視覚障害者にとっての大和田俊氏作品体験は、当然の事ながら視覚によって多くの情報を得る者のそれとは全く異なるものになる。

今回の破裂音への関心の喚起は、偏に受付で投げ掛けられる51%という呪いの言葉と渡される耳栓によって100%もたらされる。受付で51%の呪いを掛けられ、その言葉の意味するところを理解しなければ、この大和田俊氏作品から破裂音への関心を引き出す事はほぼ不可能だろう。呪いの言葉を理解する事が出来ない者は、51%で生じるとされる破裂音への期待/恐怖を生じる事は無い。確率というものを理解しない、確率などというものがどうでも良い蟹にとっての破裂音は、51%とは全く無縁のものとしてある。蟹にとっての音は予期に全く関わらない。

確率の呪いに掛かってしまう人間としての自分は、「さあ、もう行こう。」「だめだよ。」「なぜさ?」「破裂を待つんだ。」「ああそうか。」(注2)という、確率変動大当たり――51%よりかなり低い――を、パチンコ店の営業時間中に必ず現れるものとして待ち続けるパチンカーの実存を表したものと言えなくもない戯曲=サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら」のもじりを、頭に思い浮かべてみたりして微笑してみたりする。午前6時台に、テレビのお天気お姉さんの口から、その日の帰宅時までの降水確率が50%であるという呪いの言葉が掛けられたとして、その50%を「雨が降る」の方に賭けて、未だ降っていない雨を有事防衛的な関心の対象とし、それに対処する為に傘を持って仕事に出掛ける人の様に、50%超=51%とされる未だ破裂していない風船に相対しようとする自分にまた微笑してみたりする。

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この日、この時間の雨雲レーダー

(注2)http://samuel-beckett.net/Waiting_for_Godot_Part1.html

そうした予期の機制とは別に、眼に最初に飛び込んで来たのは、有孔ボード壁の断面だった。

厚さ 5.5mm の2枚の合板が、垂木材をサンドする形で、その壁面が出来ている事が伺われた。しかし通常の仮設壁の工法では、こうした仮設壁の断面は、縦に渡した垂木等と突板等で覆われ隠されるべきものだ。従って仮設壁の祭典でもある見本市会場でも、この様な仮設壁に出会える事はほぼ皆無だ。構造を剥き出しにした断面を持つその壁は、壁ならぬものである事を主張し始めている。この角度に於いて、仲本拡史氏作品がハングされていた壁面が、大和田俊氏作品という形で大和田俊氏に帰属するものである事が視覚的に明らかになる。それはまさしく「複数種の生物が相互関係を持ちながら同所的に生活する現象」としての共生の図だ。

どれ程に潔癖症な人物であっても、その腸内には1000種類以上、数にして600〜1000兆個、総重量 1.0kg から 1.5kg の細菌が共生していると言われる。言わば人間の身体の数十分の一は「他者」である細菌で構成されている。人によっては、それらを良い細菌と悪い細菌に分けたがりもするものの、――しかし全く当然の事として――細菌の存在それ自体に善と悪の区別が存在するなどという事はあり得ない。20世紀末になるまで、人類はそれらとの――善玉も悪玉も含めた上での――共生を「当たり前」のものとして事実的に受容していた。それらの細菌を善玉と悪玉に分ける事に強迫的なまでの意味を見出したのは、人類史に於いて、たかだかここ数十年の話なのである。清潔という概念は、共生のレベルを下げる。そして共生のレベルを下げる事で、免疫の作動点もまたレベルが下がるという循環の最中に現在はある。

それにしても改めてこれは震撼すべき図ではないか。美術を始めとする「表現」の領域に於ける共生は、しばしば「コラボレーション」なる言葉に翻訳されたりするものの、勿論「コラボレーション」は実際には「協働」とされるべきものであり、その「コラボレーション/協働」なる概念は、紛れも無く何らかの「目的」に対する相互許諾から発している。「コラボレーション」はそれによって得られる「成功」をこそ欲する。その意味で「コラボレーション」は「契約」的なものだ。

一方共生的な関係に於ける宿主たる樹木とヤドリギの間に――或いは宿主たる人間とその腸内細菌の間に――共通の「目的」など存在する筈も無い。即ち共生という状態は、些かも「成功」を指向する――「失敗」を指向する事も無い――「コラボレーション」的ではないし、或る意味でそれは「コラボレーション」の対極にあるものだ。「合目的性」に於ける「目的」が、果たして「誰」のものであるのかという最も根本のところに無自覚な、或いはそれを巧妙に隠す「コラボレーション」は、しばしばその美しさを纏ったスローガンだけが独り歩きし、纏われた美しさの観念/題目だけが消費されるばかりとなる。

そもそもが「美術」――及びその上位概念であるとされる「芸術」――と呼ばれるものこそ、「不純物」を排除する事でしか成立し得ない極めて「政治」的な営為と言える。今日「美術」/「芸術」と称されているものの殆ど全ては、「作者」や「作品」に「不純物」が混じってしまう事を徹底的に嫌悪する。「排除」こそが「美術」/「芸術」の「作品」に於ける市場価値を決定する前提になる。その意味で、今日的な「美術」/「芸術」と称されているものそれ自体は「共存」や「共生」の対極に位置している(注3)

(注3)例えば「美術」/「芸術」の人間が、その会話の中で「一般人」という単語を使用する際、それは自分達と「共存」や「共生」の関係にあるものとは捉えていない。「美術」/「芸術」の人間が言うところの「一般人」は、「美術」/「芸術」が信じる価値的連続性に於いて、「美術」/「芸術」の人間の下位に位置させられている。従って「美術」/「芸術」の人間が名指す「一般人」は、「美術」/「芸術」への「同化」/「教化」の対象となる。本展が他でもない「東京」の後に、他でもない「沖縄」という地に巡回する事の意味を、これまでの「東京」と「沖縄」の――時に対称的な――関係を踏まえた上で考えてみたい。

大和田俊氏作品に共生する仲本拡史氏作品といったこの状況を、「コラボレーション」という微温的な名で呼ぶ者は誰もいない。人間と腸内細菌が「呼応」関係にあるなどとは誰も言わない様に、仮に両者の間に立ち上がって見えて来るヴィジョンがあったとしても、それは乾いた関係という積極的な意味でそれだけのものでしかない。仲本拡史氏作品は大和田俊氏作品と、翻って大和田俊氏作品は仲本拡史氏作品と共通の「目的」を有する事無くそこに相互侵食的に存在している。だからこそ、この周到に仕組まれた光景は、それだけで「免疫」概念である「美術」/「芸術」自体に対する極めてクリティカルな光景と成り得ている。

などという事をつらつら考えていては、足が止まりっぱなしになってしまう。足を進めよう。黒い風船の本体が有孔ボードに貼られたスポンジマットに挟まれているのが見えて来た。

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スポンジマットの凹凸が、嘗て見た内視鏡による腸内の輪状襞を思い出させた。仮にこれら風船やスポンジマットが黒色ではなく赤色であったなら、いやが上にも内蔵的な印象が高まったかのもしれない。内蔵的に存在する作品という言葉が浮かぶ。内臓は外側ではなく内側にこそその機能がある。ここから見えるのはその輪切り状態なのだろうか。

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そもそも内蔵もまた自己にとって共生的な他者だ。人は見も知らぬ他者として現れるものから摂食の要求を出され、排泄の要求を出され、睡眠の欲求を出される。人生とは排除不可能な生理という他者と常に共生する事だ。時に予期はそうした生理に対しても行われる。nヶ月後に死亡する確率がn%などという呪いの数字が宣告されたりもする。その呪いの数字を極めて意味あるものとして受け入れる時、人の身体は予期的数字に翻弄される場と化す。

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#ターン3

「不純物と免疫」の内蔵に背を向ける。ターン1で見えていたソーラーパネルと法面と屋根の大画面の写真作品と、その横に3行✕3列の9個の小作品。そしてそのまた横に再び法面とソーラーパネルが写る小作品がある(都合小作品は10点になる)。

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この会場にある百頭たけし氏の全ての写真には人間が写っていない。とは言え、確かに今回出品されている作品の中には、墓地の中に立てられた進入灯の上を、ランディング・ギアを出してその奥にある基地滑走路への着陸態勢にあるロッキード P3C 対潜哨戒機というものもある。

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当然その機体には複数の人間が搭乗している筈ではあるものの、それでもそれは相対的に高速なシャッターで撮影されている為に、4発のプロペラは殆ど停止している様にも見える。寧ろその機体は、ワイヤーで吊るされたりスタンドの上に固定されたディスプレイの如き印象すら受ける。

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それらは、突如この地上から人間が消えてしまったという SF の設定を思い出させもする風景だ。或いは人類の存在自体が、宇宙全体の秩序維持にとって有害――「不純物」――であると看做されて気化させられてしまった――不久就遭到全体气化的灭族处分(注4)――のだろうか。

(注4)張系國SF小説「星雲組曲」から「翻译绝唱」(邦題「翻訳の傑作」)の一節。百頭たけし氏は、同展の少し前に行われた個展「カイポンする / 我蓋朋」に寄せて、同小説を引く形で次の様なステートメントを記していた。

「私は風景をカイポンし、打ち捨てられた神仏や野犬をカイポンし、ヒトをカイポンする。みんなカイポンする。台湾をカイポンする。

カイポン(蓋朋):台湾SF小説の始祖とされる張系国の『星雲組曲』に収められた短編小説『翻訳の傑作』に現れる異星の言葉であり、概ね「親愛」を意味する。

太古から行われてきた食人行為の際に上げる歓声を語源としている。」

http://hyakutou.tumblr.com/

その「異星」はカイウェン族(盖文族)の星を指している。カイウェン族の言葉の多くには「カイ(蓋=簡体字で「盖」)」が接頭詞として登場する。その接頭詞「盖」(英語では “cover" )は「食人」行為を指している。

カイウェン族にとっての最上の「親愛」の形は、互いに「食べる/食べられる」というものだ。それは、食事の際に固定化した「マナー」として発せられる日本語の「いただきます(=お命いただきます)」という「エクスキューズ」に似たものとも言えるだろう。

しかし自分自身が食べられる存在となった時、それでも食べる側の発する「いただきます」という「エクスキューズ」を許容出来るか否かが、「いただきます」の世界に於いて最大の問題として存在する。そして確かに、百頭たけし氏の写真には、そうした「いただきます」に於ける相互性の「世界史」が写っている。

 その誰もいない世界の中を歩くただ一人地球に残された者――即ち観客――は、恰も「人新世」(Anthropocene)を調査分析する遥か未来の地質学者――それは人類ではないかもしれない――が、人類の営みの全てに等しくアンテナを張る様に、それらの光景に視線を投げ掛ける。そうした未来の地質学者の目からすれば、法面の様な造成/造形の一つ一つですら、ロバート・スミッソンの「スパイラル・ジェティ」の如くに見えて来る。寧ろ人類登場以降の人類居住可能な地上の全ては「スパイラル・ジェティ」で構成されているとも言える。

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未来の地質学者の目にとっては、人類の営みに於いて有為も無為も無い。有為と無為――有用と無用――の越境に関心を持つ、トマソンの意味論的な目には未来の地質学者はならない。「スパイラル・ジェティ」を無為の造成として見てしまう視点は、有為と無為の弁証法に未だに囚われている。ここにある写真が提示するものは、その様な弁証法の先にあるものだ。

これらの写真には人間は写っていない。しかし人類という枠組みはしっかりと写っている。所謂「世界史」と呼ばれる、人間の「不純物」と「免疫」の概念を巡る相克の記述は、枠組みとしての人類の一断片をしか示さない。人間の「行動」を写そうとする写真が世界中に数多く存在する一方で、人類の「活動」それ自体を写そうとする写真は極めて少ない。ここにあるのは、そうした数少ない「『活動』写真」の一つだ。

人類の「活動」は、人類と人類ならぬもの――例えばそれは蟹であり、或いはまた地質や気象であったりする――の間で規定される。それを「世界史」と呼ぶ事は可能であり、また可能以上のものでもある。これらの写真にはその様な「世界史」の入口が見えている。

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#ターン4

ここまでで既に30分を費やしている。9枚に背を向けて180度ターンする。

f:id:murrari:20180124132531p:plainソーラーパネルと法面の写真小品の右隣に、石が描かれた佐々木健氏の具象小品がある。その対面の壁=大和田俊氏「作品」であるところの有孔ボード上には二枚の雑巾がマウントされ、そして正面の壁には谷中佑輔氏の何やら壁から張り出したものが見えている。その全てを同時並行に考察出来る程の聖徳太子ではない自分は、まず雑巾作品――カタログの同作品の写真は、有孔ボードの上にマウントされていない――に目を遣る事にした。

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同展の公式サイトは、その作品の素材を “oil on canvas, wood panel" としている。日本語で記された素材説明は無い。公式サイトを表示させたスマホを前に微笑する。“canvas" のそもそもの原義は「粗野な布」だ。画布としてのカンヴァス地は「粗野な布」を美術産業的に極端に洗練――洗練は排他も意味する――したものだが、その一方で、パイル地の雑巾もまた紛れも無く「粗野な布」である。即ち雑巾(=雑・巾)は、それ自体で既に字義的に “canvas" なのだ。従ってこの雑巾作品に於ける “oil on canvas" の日本語訳は、「カンヴァスに油彩」という一般的な表現ではなく、「粗野な布(canvas)に付着(on)した油絵具(oil)」という直訳調の方が適しているだろう。

一方で英単語の “canvas" には「創造的な仕事の基底(A basis for creative work)」という意味もある。絵画制作/絵画製造の現場に於ける雑巾は、専ら筆洗の為に存在するものだ。それは――絵画が「創造的な仕事」と仮定される限りに於いて――「創造的な仕事」を成立させる下部構造的な「基底」であり、またそこに付着している油絵具は「創造的な仕事」から弾かれた「余剰」と言える。

前世紀中葉の所謂「シュポール・シュルファス」は、絵画の形式を半ば強引に社会構造とリンクさせる事で、社会に於ける絵画の「基底」と「表面」を露呈させようとした試みだった――程なくしてそれは「支持体」(例:木枠)と「表面」(例:画布)という「絵画の問題」に落とし込まれてしまった――が、この雑巾は “canvas" という語の多義性を示す事で、「基底」と「表面」の分断から始まる思考を乗り越えている。それは「基底」が描かれた「表面」であると共に、「創造的な仕事」と「非創造的な仕事」に引かれた分断線を振動させる。

絵画の下部構造であるこの雑巾には、絵画と同様に「有害」物質が染み込んでいるという。そもそも絵画にしても、彫刻にしても、陶芸にしても、ガラス工芸にしても、今日「有害」とされるもの――放射性物質すら――が、物体を通した「表現」上の「有益」の為に積極的に取り込まれて来た――「有益」/「有害」=ファルマコン――という経緯がある。鉛白やカドミウムウランといった「有害」物質でしか出せない「有益」が確かにあるのだ。

「環境へ悪影響を及ぼす」という言い方がそうした「有害」物質に対してしばしばされるものの、しかしその「環境」という言葉には「『環境』という語の発話主体は誰なのか」という前提が常に隠蔽されている。「地球にやさしい」の「地球」もまた同じだ。「地球にやさしい」の「地球」は、数十億年前のそれを指さず、数億年前のそれを指さず、数万年前のそれすら指さない。それらは紛れも無く「私たちの地球」の短縮形でしかない。従って「地球にやさしい」は、正確には「私たちの地球にやさしい」とするべきであり、またその様にする事こそが、この天体に対する唯一の誠実の形となる。そして「不純物」もまた「私たちの不純物」の短縮形であるが故に、それらを口にする者が「私たち」と「私たち」でないものをどの様に線引きし固定化しているのかを常に露呈させてしまうのである。

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小さな石が描かれた具象の小品に向き合う。どうと言う事も無い石の様に見える。絵にされなければ、それをしげしげと見る事も無いだろう石だ。具象絵画の強みの一つは、確かにこうしたところにある。どうと言う事も無いものに対しても、相対的に長時間の労働をその描画に費やさざるを得ないという具象絵画という労働形態が、そこに描かれたどうと言う事も無いものへの眼差しを、非合理な労働を媒介にする形で観者に結果的にもたらす。

具象絵画は表象の再現という事でしばしば批判の対象になったりもするが、具象絵画の持つ最大の力は表象されたものの外側――描けていないもの――にある。「画家の問題は画布の中に入ることではない。彼はすでにその中にいるからである(絵画以前の課題)。むしろ問題はそこから出ること、そうして紋切り型の外に出、蓋然性の外に出ることが問題なのだ(絵画の問題)」(ジル・ドゥルーズフランシス・ベーコン 感覚の論理学」宇野邦一訳)(注4)。一見すると表象再現に忠実に見えるこの石の絵は、しかし厳密な表象再現としては整合性の無いものだ。表象再現の訓練所である様な絵画教室で、アベイラブル・ライトのテーブルの上に置かれた小石を訓練生がこの様に描けば、中途半端な描画スキルを己のプライドの拠り所とする様な手合いから、「石が置かれている面が描けていない」――「この石は何処に置かれているのか」――などと言われて手直しを受けてしまうだろう。しかし何処にも無いものを何処にも無いものとして描くのが、具象絵画が本来目指すべきものだ。テーブルの上を現実的なテーブルの上の様に描くというのは、有用と無用/有害と無害が交差する様な場所としてそれを描く事を言う。しかしこの小石が属しているのは、そうした世界ではない。この石の絵の右隣には次の部屋へと続く開口部がある。その開口部から垣間見える数点の具象絵画もまた、そうしたものである様な予感がした。

(注4)“Le problème du peintre n'est pas d'entrer dans la toile, puisqu'il y est déjà (tâche pré-pieturale), mais d'en sortir, et par là-même de sortir du cliché, sortir de la probabilité (tâche picturale). " : Francis Bacon, logique de la sensation / Gilles Deleuze

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靴の底にぬるつきを感じる。床に目を落とす。何らかの油脂が床の上に薄く広がっている。その油脂が何処から来たものか一瞬訝しんだものの、それが谷中佑輔氏が手掛けた何やら壁から張り出したものの「樋」に溜まっているものが延ばされ広げられたものであると知るのに、さほどの時間は掛からなかった。

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オーディオガイドは、そのぬるつきの正体を鯨油であると明かしてくれた。

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