引込線2017

2008年に行われた「所沢ビエンナーレ・プレ美術展2008 —引込線—」(以後「プレ展」)から始まった「引込線」。10年目となる今回の「引込線 2017」(以後「2017展」)は、その第6回目だという。

f:id:murrari:20171019121223p:plainプレ展

2008年の「プレ展」と、翌年2009年の「第一回 所沢ビエンナーレ美術展2009 —引込線—」(以後「第2回展」)(注1)は、西武鉄道所沢駅西口の旧西武鉄道車両工場で行われた。私鉄には極めて珍しく、自社で鉄道車両の製造業務を行っていた工場の跡地だ。同工場は旧陸軍立川航空工廠所沢支廠跡地をGHQから借り受けた事から始まる。初期の主な業務は空襲によって被災した車両(国鉄の「戦災国電」含む)の修繕復旧というものであった。

(注1)同展の正式名称は「第一回 所沢ビエンナーレ美術展2009 —引込線—」であるが、今回の2017展が「第6回」と銘打っている為に、そこから辿る形で「第一回 所沢ビエンナーレ」を「第2回展」とする。

1981年に所沢駅西口周辺の再開発計画に組み込まれた同工場は、2000年に業務を終了した。プレ展と第2回展が行われた建物は2014年から2016年に掛けて解体され、敷設されていたアスファルトやコンクリートが撤去された後、土壌汚染対策法で定められた基準値の110倍のテトラクロロエチレンと基準値の3.5倍の鉛が検出された汚染土も「処理」された。現在そこは所沢駅西口土地区画整理事業施行区域になっていて、ようやく昨年その都市計画が発表される。数年後にはそこに29階建の高層マンションや高級ショッピングモール、公園等が出来るらしい。

凡そ40年越しの所沢西口周辺再開発だが、しかし40年という歳月は再開発が意味するところをすっかり変化させてしまった。子供は減り、老人は増え、経済は縮小し、税収も減り、住宅需要が縮小して空き家が増え、仕舞屋も増える(注2)。平成とは異なる元号となった所沢駅から徒歩数分の高層マンションに住み、隣接するバリアフリーの高級ショッピングモールで買い物をする人々の平均年齢はその時どの位であろう。都市の中心部に高齢層世帯、郊外や周辺部に若年層世帯という見慣れた構図は、ここ所沢市もリフレインされるのだろうか。

(注2)プレ展や第1回展のステートメントで企画者が嘆いていた「バブル期以降の美術をめぐる経済の肥大と衰弱」は、こうした大きな流れに接続している細流の一つである。そして当然の事ながら、この40年間に「美術作家」「評論家」「展覧会」「作品」の意味も大きく変化している。

2011年の「所沢ビエンナーレ『引込線』2011」(以後「第3回展」)は、現下の投機的対象として地価上昇中の東住吉の旧西武鉄道車両工場を離れ、地価がその数分の1の所沢市生涯学習推進センター(旧所沢市立並木東小学校)(注3)と旧所沢市立第2学校給食センター西武鉄道航空公園駅」下車)の2会場になる。小学校が生涯学習センターになり、集中化による施設維持管理や人件費削減がメリットだった学校給食センターが廃止されてしまうのは、子供が減って老人が増え、食に対する意識が変化したという状況の反映である。

(注3)所沢市立並木東小学校は、1983年に同市立並木小学校(開校1979年:2016年度生徒数237人)の生徒数が1000人を超えて手狭になった為に、隣接する同市立並木中学校を挟んで東に200メートル隔てた地に分校化され1984年に開校した。しかし開校5年目の1988年から生徒数が減り始め、開校から22年目の2006年に閉校。旧所沢市立第2学校給食センター近傍の同市立中央小学校(同市立中新井小学校と統合:2016年度生徒数404人)へ移転。中央小学校は初年度後期より給食センター供給方式から自校給食になる。現在は同市立小学校の約半数(15校)が、自校給食(含む「親子方式」)へと切り替えている

所沢市生涯学習推進センターは、今回の「引込線 2017」のサテライト会場(多目的室)でもあったが、この時は体育館とプールで展示が行われていた

2011年の第3回展で遠藤利克氏、高見澤文雄氏、山路紘子氏が展示していたプールを6年ぶりに訪れると、果たしてそこは「除染土壌仮置き場」になり、上部には有刺鉄線が張られていた。6年前にプールの横にあった「中国帰国者定着促進センター」も2016年に閉所している

f:id:murrari:20171019121833p:plain2011年

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プールの向こう側にアメリカ第5空軍374空輸航空団所属の「所沢通信基地」のアンテナが見える。生涯学習と除染土壌と97万平方メートルの広大な米軍基地が隣り合わせているという風景。

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そもそも1979年開校の並木小学校も並木中学校もこの元並木東小学校も、1978年に第2次返還された元米軍基地の敷地であり、また終戦後にアメリカに接収されるまでは日本最初の航空機専用飛行場である陸軍所沢飛行場だった。

所沢飛行場は1910年(明治43年)臨時軍用気球研究会の研究試験場として始まり、翌年に陸軍の飛行場として発足する。その後同飛行場は軍事基地色を強めると共に拡張を重ねて行く。満州事変から2年後の1933年(昭和8年)には、飛行場周囲の土地に対して、軍用機の不時着陸の障害物となる住宅や桑等の樹木を強制撤去し耕作地とする「愛国耕作地」が設定される――現在の所沢市生涯学習推進センターの一部、旧所沢市立第2給食センター近傍のヤオコー所沢北原店の一部、松屋所沢北原店等もそこに含まれている――ものの、それも第二次世界大戦大戦末期1944年(昭和19年)の拡張によって全て飛行場に飲み込まれている。同飛行場及びその周辺――旧所沢市立第2給食センターがある中富も――は、大戦時に米軍による空襲を度々受けている。1944年11月24日には所沢の飛行第73戦隊が、東京を空襲したB29を四式戦による特攻作戦で迎え撃っている。

第3回展の第2会場だった旧所沢市立第2学校給食センターは、2013年の「引込線2013」(以後「第4回展」)から単独会場になり、現在の2017展に至っている。そしてその旧所沢市立第2学校給食センターの背後には、畑と幾つもの霊園とくぬぎ山がある。

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第4回展から、展覧会名の「引込線」の前に「美術作家と批評家による第n回自主企画展」という同展の説明文が加えられている。そもそも同展はプレ展から、それが「自主企画展」である事を謳っていた。プレ展や第1回展のステートメントに於ける「表現者の原点に還って作品活動のできる場をつくること」というのはその表現の一つだろう。

「自主企画展」を分解してみると「自主」と「企画」と「展(覧会)」になる。するとそこで直ちに問題として浮上するのは、「自主」とは何か、「企画」とは何か、「展(覧会)」とは何かという事になる(注4)。仮に「自主企画展」を謳う者にとって、「自主」が「自明」なものであり、「企画」が「自明」なものであり、「展(覧会)」が「自明」なものであるとしても、今般は「自明」視されているものそれ自体に対する「説明」が必要とされる時代だ。21世紀にあっては「『自明』とされているから『自明』なのだ」というトートロジーは許されなくなっている。それらは何故に「自明」とされ、その「自明」の及ぶ範囲はどの程度のものであり、それが誰にとっての「自明」であるのかが常に問われる。

(注4)それにリンクして「美術作家」や「評論家」や「作品」とは何かも問われる。

「引込線」が始まった10年前とは異なり、「アート」を可能にする重要な根拠の一つである「パブリック」は既に「自明」なものではなく、「アート」の理念たる「デモクラシー」もまた「自明」なもので無くなって久しい。「パブリック」と「デモクラシー」のものである「アート」が「自明」なものであった時代はとうに過ぎ去ってしまった。現在それら「パブリック」「デモクラシー」「アート」は、再び多くが信じるに足るものになる為の「技術」的「メジャー・アップデート」の真最中にある。

仮に「自主企画展」の「自主企画」が、自らの「作品活動のできる場」の、「美術作家」自らによる確保といった意味に留まるものであるならば、それは21世紀の「展覧会」(グループ展)としては些かナイーブに過ぎると言えなくもない。取り敢えずどこでも良いから「作品活動」の「容れ物」を「自主」的に確保し、そこに「自主」の「作品」を運び込んで、「自主」による「手配」をしつつ、その「自主」が対応可能な「他者」に見せる事を「自主」の「企画」とするのは、今日の「展覧会」(グループ展)が求められているものに対して極めて「イノセント」、或いは「クラシック」過ぎるスタンスと言える。「自主企画展」の「企画」は、「プランニング」としてのそれではなく、寧ろ「企画画廊」的な意味での「プロモート」(注5)を意味している様に思える。その「セルフ・プロモート」的な「企画」という言葉の使用のされ方に、同展の「美術作家」や「評論家」が「企画」をどの様に捉えているのかが現れている。

(注5)「引込線」のカタログ(2015年版)に掲載されている「自主企画」の奥村雄樹氏による英訳は、“Self-Organized Project" となっている。しかし「オーガナイズ」は、「構造」的に「総合」する意志の存在と、それに基づく「構想」が不可欠だ。

美術館やギャラリーの「展示室」は「容れ物」として特化した装置であり、その「容れ物」の中は取り敢えず「同一的」に「均質」な「空間だ。確かにその「均質」な空間の中であっても、「展示室」の特定の場所に「作品」をインストールすれば「作品」としてより効果的に見える/より効果的に見えない等々といった様な「展示技術」的な意味での「不均質」は存在するものの、しかしそれは飽くまでも「同一性」が担保されている「美術」の「容れ物」の空間中での「差異」でしか無い。

一方そうした「容れ物」以外の全ての場所は、様々な意味で原則的に「均質」な空間を生存の条件として欲する「美術」が生息するのに適していない「非均質」な空間である。そうした場所では、物が数センチ移動しただけで、それが持つ存在的な意味が全く変わってしまうという事が常に起きる。「『作品』が『場所』を変容させる」という言い回しは「美術」の人間から常に発せられる常套句/定型句であるが、その一方で「『場所』が『作品』を変容させる」という事実は「美術」の人間からは余り顧みられない。

例えばこういう事を考えてみる。2011年の第3回展に於いて、所沢生涯学習推進センターのプールに遠藤利克氏、高見澤文雄氏、山路紘子氏が「作品」をインストールしていた事は先に述べた。そしてその「会場」が現在は有刺鉄線と鉄柵扉で仕切られた「除染土壌仮置き場」になっている事も記した。その「除染土壌」が、「除染された土壌」ではなく「某ホットスポットを除染した結果、運び込まれて来た汚染土壌」の略であるとしたら、有刺鉄線/鉄柵扉を挟む事によって生じている分断は、そのまま他の場所で生じている分断と相同なものにもなるだろう。

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その事を踏まえた上で、2011年の第3回展でプールにインストールされた「作品」を、2017年に「除染土壌仮置き場」となったプールの南側に移動させてみる。たった20メートル程の極めて単純な平行移動だ。2011年に「倉庫」にインストールされていた作品は、「倉庫」と全く同じ大きさの「仮設展示室」を作ってその中で展示する。作品は当時と同じのもの、若しくは再制作を以って――20メートルを移動したという以外は――極力「再現」する事にする。

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2011年時

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「均質」な空間内での20メートルの移動であれば、「作品」はそれが持っているとされる意味を変化させる事無く「再現」されるだろう。しかし、こうした「非均質」で「多様的」で「多元的」な空間内での20メートルの移動は、「作品」が全く「同じ」ものであったとしても存在的な意味は全く変化してしまう。それは「均質」空間でこそ可能になる様な単純な「再現」にはならない。「周辺環境」との「関係性」や「異化効果」的な側面に於ける変化以上の意味的変化がそこにはある。2017年に於ける所沢市生涯学習推進センターのプールが、来場者の「作品鑑賞」を可能にしていた第3回展時のそれとは根本的に異なった空間になっている事を、たった20メートルの「作品」の移動は明らかにするだろう。

「非均質」な空間に「作品」を設置するという行為自体が既に「政治的」なものである以上、全く「政治的」に見えない「作品」であっても、こればかりの操作で「作品」がインストールされている場所の持つ「政治性」を明らかにする事が出来る。良かれ悪しかれ「人間の空間」が「人間以外の空間」と異なるのは、そこに様々な分節が存在するからだ。「人間の空間」の分節の「同一性」を意識しない、多様的であり多元的であり、自らを取り囲むものと自らに備わっているもののその都度のアレンジメント的存在である動物だけが、有刺鉄線や鉄柵扉の向こう側に行く事が出来る。20メートルの移動によって、人間は想像の中で動物になる事で分断を乗り越えようとする。

その一方で、「作品」や「美術作家」自らが属している「政治性」もまた20メートルの移動で明らかになる。例えば「仮設展示室」を、テレビ番組制作の専門家に依頼するなどして、エージングまで施した「本物」の「倉庫」と見紛う舞台セットの中で「作品」を展示するのも「政治性」の一つの現れであるし、コンパネ貼りでフィニッシュとしたそっけない箱の中で「作品」を展示するのもまた別の「政治性」の現れであるし、その部屋の中を白く塗って「展示室」としてしまうのもまた良くある「政治性」だ。「ノンポリ」であっても「イマジン」であっても「隠遁者」であっても、それが「政治性」の選択である事には変わりが無い。

「美術」に於ける「企画」とは、「作品」が属している「世界」を、他の「世界」との「間」に置く事で、逆説的に他の「世界」が、「作品」が属している「世界」との「間」にある事を、「展覧会」という形で表し示す行為を言う。それぞれの「世界」は、決して合致する事の無い複数の経験だが、しかしこの〈世界〉はそうした無数の「世界」の絡み合いによって構成されている。

当然或る「世界」から見えているものと、別の「世界」から見えているものは異なるものの、その交錯点ではそれらが多次的に重なり、説明不可能な何かとして見えて来る。所謂「自主企画展」に欠けているのは、こうしたものに目を向ける「企画」の力であり、それ以前に「間」の「世界」である「自主」に対する批判的視点である。それはそもそも「自主企画展」として始まり、現在もその性格を色濃く残す多くの所謂「公募団体展」も持ち得ていないものだ。

アダム・シムジックやカスパー・ケーニッヒの様な人達が、日本やアジアやアメリカの近現代史を始めとする無数の経験の交錯点――それは何処でも同じだが――である所沢――キーワードは「311」「環境」「戦争」「未来」等々幾らでもある――に来たとして、彼等は「展示室」的ではない旧所沢市立第2学校給食センターでどの様な「展覧会」を「オーガナイズ」するだろうか。勿論「自主企画展」は彼等の様な存在を敢えて必要としない――所謂「公募団体展」がそうである様に――スタンスを採るものであるが、であれば、それに代わるものを示さなければならない必要性は「展覧会」として生じる。

「展示室」ではない複数の経験の交錯点である、凡そ「容れ物」とは言い難い場所を「会場」(注6)とし続けて来た「引込線」だ。本来的にはそこは「空間を活かした展示」等といった「展示技術」レベルで留まってはならない場所であり、敢えて言えば「空間を活かした展示」で自足してはならない場所だ。今後も引き続き旧所沢市立第2学校給食センターで「引込線」が行われるとするならば、「恒例」化してしまった「会場」(注7)という印象を払拭する為にも、少なくとも「自主企画展」の「自主」「企画」「展(覧会)」それぞれの抜本的な「メジャー・アップデート」が求められる事になるだろう。

(注6)但し「会場」という言葉自体、そこが「容れ物」である事を前提としてしまっているところがある。

(注7)「公募団体展」に於ける「東京都美術館国立新美術館」の様な「会場」化が「引込線」に起きつつある。

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所沢市立第2学校給食センターの「在りし日」を思い起こさせる所沢市立第3学校給食センターの日常業務。

「美術作家と批評家による第6回自主企画展」である。

しかし「美術作家」や「批評家」であっても、同時に「お父さん」や「お母さん」の側面を持つ者もいる。「美術作家」や「批評家」で、時にSNS辺りで「これから労働なう」的に「生業(なりわい)」――教育業含む――に就く事を逐一報告してくれる者もいる。一人の人間が、時に互いに矛盾しもする複数の経験の交錯点であるならば、些か戯言めくが「お父さんとお母さんと子ども(注8)による自主企画展」や「労働者と事業者による自主企画展」といった括りで「展覧会」を開催する事も可能ではある。

(注8)誰もが誰かの子どもである。

「引込線」は「美術作家」と「批評家」の顔のみが見える「展覧会」だ。マネキン作家中学生入墨の彫師等といった「美術」の「外部」に「同時代」的に生きている者の参加が、「展覧会」の重要な要素ともなっている昨今からすれば、極めて珍しく「純度」が高い(注9)ものと言える。

(注9)「純度」を高くするには「排除」が必要になる。

仮に同展の「純度」を低くして、「美術作家と批評家による自主企画展」という縛りを外してみれば、この旧所沢市立第2学校給食センターで行われる「展覧会」では様々な試みが出来るだろう。例えば上掲給食センターの動画を、単純なドキュメント――「作品」ではなく――として、元調理場空間に設えた巨大スクリーンに上映するというのはその一つになり得る。

また厨房機器メーカーを他の「美術作家」と同じ「参加作家」の一つとし、2009年で時間が止まった旧所沢市立第2学校給食センターで、「展示会」宜しく自社新製品のデモンストレーションを行って貰いつつ、同時に同所に残された古い厨房機器の数々と、そこでの労働について語ってもらうという事も考えられる。

或いはその厨房機器で、美術館の内覧会やレセプション等の立食パーティーで供されるお喋りの「付け合せ」的な料理を、数人の労働者が――上掲給食センターの動画の様に――巨大な杓文字を全身を使って撹拌したり、延々と下拵えをしているところを可視化させつつ、立食パーティーを模した設えでそれを観客に振る舞い、観客はそれらの汗みどろの労働を背景にして「メインディッシュ」である美術談義に花を咲かせるという展示――「食」の産業的側面を「美術」をも絡める形で見せるという点で、「リクリット・ティラバーニャ」よりも遥かにダイナミック且つクリティカルである――があっても良いだろう。

それは「美術作家」が「食」(注10)について「考察」した「作品」を見せられるよりも、遥かに具体的に「食」についてのイメージを膨らませる事が出来る。そして厨房機器の「展示会」とは異なる「展覧会」で、「食」の生産の実際の稼働状況――給食センターの業務や、厨房機器のデモンストレーション――を見せる事のメリットは、それらを複数の経験の交錯点とする事で、労働や経済や政治等を含めた「世界」の全体系を想像する事による、地に足の着いた批判性の獲得に繋がる事にある。経験の複数性に自らの身を投じる――「複数の経験を利用する」ではない――事で、「純粋」から脱して「不透明」に生きる「覚悟」こそが、現下の「美術」には求められているのだ。

(注10)「美術手帖」2017年10月号の特集は「新しい食」だった。

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会場を一巡して感じたのは「平和」な展覧会というものであった。或る参加作家に聞いたところでは、同展で「作品」をインストールする場所の選定は、各作家の「ここが良い」という「場所取り」で何となく決定されたという。参加作家選定の実際の一端も聞いた。何となく集まり、何となく集められ、何となく区割りが決定し、何となくグループ展が成立し、その何となくを “Self-Organized Project" とするという「奇跡」がここにある。

作家の選定、作品の内容、それがインストールされる場所などについて、「注文」という「暴力」を働く「主体」(例:「キュレーター」)の存在はここには無い。全ては「平和」の内に事が運んでいる様に見える。しかしそれは、「異物」の存在が予め排除されているが故の「平和」であるのかもしれない。

本来「グループ展」に於ける「作品」は、その「作品」の作者の「個展」とは大きく異なる見方をされる。「グループ展」で何よりも可視化されるのは「他者」との関係だからだ。「グループ展」は、複数の主体=複数の経験が集まって構成されている「世界」の「模型」でもある。

「グループ展」であっても「個展」会場の様に「一部屋」(「パーティション」含む)を与えられている例も無いでは無いが、それも「他者」との関係に於ける相対的位置をしか示す事が出来ない。他者の「作品」が、自分の「作品」の「ノイズ」であるのは「グループ展」に於いては避けられない。であるならば、「グループ展」は、時に「脅威」的「ノイズ」としてより立ち現れるかもしれないものとしての「異物」を含めた「共生」の一つのモデルとして、積極的な形で成り立ち得るとも言える。即ち「グループ展」というのは、それだけで社会学の対象なのだ。

この「平和」な空間内に於いて、確かに「共生」は成立しているかに見える。その「共生」は何に基いているものだろう。互いに互いを「利害」が一致する「仲間」=「美術作家と評論家」=「似た者同士」として認めた上で、それぞれが他者を「無関心」の対象とする事による相互不可侵的な「共生」だろうか。或いは互いが互いの領分を越境する事を認める「共生」だろうか。「共生」のルールは予め決定され「洗練」され尽くしているものだろうか。それとも絶えず更新され続けるものだろうか。

些か「平和」当たりして外に出ると、やはり「平和」の空間から逃れて来た様な人がいて、クルクルと円を描いて歩いていた。

水野亮氏はこのクルクル回る人を「引込線2017」に於ける「異物」の一人と評している。

これまでの「引込線」に圧倒的に欠如しているのは「異物」が「暴力」的に現れる事である。次回の「引込線」もまた「平和」なものになるのだろうか。