やわらかな脊椎

大寺俊紀+乙うたろう「やわらかな脊椎」展の周回軌道上をグルグルと周る。

尚、同展の作品はバッテリー上がりの為に撮影していない。下掲レビューや、美術手帖2017年10月号の副田一穂氏の月評(208〜209ページ)等に掲載の画像/写真を参考にして欲しい。

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大地(注1)がどうやら球体(注2)らしいと認識され始めたのは紀元前6世紀の頃だという。あのピュタゴラスにその創始者たる伝説的栄誉を持たせようという見方もあるにはあるが、それを証明する証拠が無い為に本当のところは判らない。しかし紀元前5世紀に至ってピュタゴラス派がそれを明文化したとされている。

(注1)日本語の「地球」という単語は、幕末期から明治期に中国から伝来した。その中国語の「地球」は、ヨーロッパから中国に大地球体説が伝えられて以降に誕生したものだ。

(注2)現在では「ほぼ球体」とするのが「正しい」。


「ほぼ球体」の大地は、その内部でマントル対流外核対流の二つの対流が生じている「やわらかな」ものだ。「やわらかな」ものであればこそ磁場も形成される。その様に「やわらかな」ものの上にあれば、「ほぼ球体」上のどこであっても「震え」もするのは当然である。


大地に対する認識が2次平面から3次曲面へと徐々に移行するのと並行して、大地の記述である地図の精度は地図作成者の生活圏を中心に上がって行った。但しヨーロッパとその周辺部は精緻化する一方で、アフリカとアジアは極めてラフな描写で永年済まされていた。オーケアノスで囲まれていようがいまいが、地図の周辺部及びその外部は黙殺の対象だった。

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ヘカタイオス(紀元前550年頃 - 紀元前476年頃)の地図

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エラトステネス(紀元前276年-紀元前194年)の地図

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プトレマイオス(83年頃 - 168年頃)の地図

やがて航海テクノロジーの発達等により、球体である大地の世界一周が現実的に可能になり、世界の隅々までを詳細に記述する必要が生じるにつれ、地図は終わり無き難問に直面してしまう事になる。3次元の球体である大地を、2次元の平面である地図にどの様な形で落とし込むかという難問だ。

勿論全ての地図が球体であれば話は極めて簡単である。大地の相似形である球体の地図=3次元地図である地球儀は、そうした難問から基本的に逃れられている。しかし壁に貼る事が出来る、机の上に広げる事が出来る、本に挟む事が出来る、モニタ画面に表示する事が出来る、携帯に適している等といった取り扱いの利便性に関しては、平面の地図=2次元地図の方が圧倒的に有利だ。利便性を正確性よりも優先させてしまう選択が、現在に至るも解決されない――される筈も無い――2次元地図の難問が生じてしまう原因である。斯くして数々の投影図法というトリックが生まれる事になるも、当然の事ながらそれらの図法のいずれもがトリックであるから、面積、角度、距離を同時に全て正確に表示する事は出来ない。即ちそれらはどの地図も完璧には正確なものではなく、相対的な「正確」の気分を得る為のものである。

現在最も我々が見慣れているだろう投影法はメルカトル図法ミラー図法等といった円筒図法だ。

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メルカトル図法

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ミラー図法

小学校の教室に貼り出される地図の殆どは円筒図法のそれだ。それ故にメルカトル図法やミラー図法で育った我々の世界像は、知らず知らずの内にそれらの円筒図法を刷り込まれ歪められていたりもする。グリーンランドやロシアやアラスカやスカンジナビア半島やノヴァヤゼムリャ列島や南極大陸を実際以上に広大なものとして思い込んでしまったり、飛翔体の射程距離を円筒図法の地図上に同心円で表してしまったり、円筒図法上の直線が最短距離であると誤解してしまったりといった悲喜こもごもが日々繰り広げられている。

Google Map を始めとする多くのWebマッピングシステムもまた、メルカトル図法の派生形である Web メルカトル図法によって描写されている。オンライン地図をズームアウトすれば、あの見慣れた巨大グリーンランドや、地図の下端を帯状に占める巨大南極大陸に再開出来る。

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© OpenStreetMap

オンライン地図もまた、極に近付くにつれて歪みが指数関数的に増大するメルカトル図法の一種である為に、任意の点で上端・下端を切る必要があるが、多くのオンライン地図に共通しているのは、北緯、南緯共に85.051129度でカットするという設定である。その理由は偏に描画や通信等の効率を優先させる利便性にある。

Web メルカトル図法に於ける最大の特徴は、地図が表す世界全体を256✕256 pixel(注3)の正方形と設定した点にある。その結果、正方形の上下、即ち北緯/南緯85.051129度より高緯度の地域はカットされてしまう事になるが、しかしそこには人間が住んでいないが故にニーズが極端に少ないという理由で「世界の外部」と見做している。即ちネット上の地図サービスの図法は、或る意味で紀元前の地図の再現となっているのだ。

(注3)“256" という数字、即ち2の8乗(8bit)は、2進法に生きるコンピュータにとっては極めて「切りの良い」数字である。「GIF 画像」が256色であるのも、所謂「フルカラー」が16,777,216(2の24乗=24bit)色であるのも、全てはコンピュータにとって「切りが良い」という理由による。

後はその256✕256 pixel の「世界全図」を縦横1/2、面積比で1/4に分割し、そのタイルをまた同様に分割して行き、それをクライアントからズームの要求のある毎に、256✕256 pixel の相対的に高解像度の画像と順次切り替えていく。それこそが Web メルカトルがオンライン地図の描写に於ける効率的勝利者たる根拠になっているのである。

円筒図法の最大の難点は、極点に近付くにつれて面積が無限大に近付いてしまうというものだった(注4)。円筒図法に於いて、極点の描画は現実的に不可能だ。

(注4)ゆるキャラ「地球くん」をメルカトル図法で現したらどうなるだろう。

しかしそうした円筒図法の「限界」を逆手に取った “Mercator: EXTREME" というオンライン地図サービスがある。

http://mrgris.com/projects/merc-extreme/

これは地球上の任意の点を極点(初期画面はボストン)にして、それを射軸メルカトル図法で表すものだ。開発者の説明に “whereas others avoid the distortion, we embrace it."(他の人が歪みを避けるのに対し、我々はそれを喜んで受け入れる)とある様に、歪みが極まった極点、即ち本来黙殺の対象である「世界の外部」を画面の右側に極大化し、敢えて歪みを歪みとして表示する地図である(注5)

(注5)エクストリーム・メルカトルの元データはオンライン地図のそれである為に、「リアル」な「極点」である「北極点」と「南極点」は指定する事が出来ない。

試しに「柔らかな脊椎」展が行われていた CAS を「世界の外部」にするとこうなる。

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因みにエルサレムのゴルゴタの丘を極点にするとこうなる。

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「極点」が幾許かでもずれれば、地図の様相は大きく変化する。「極点」がどこにあるか――私がどこにいるか――で世界の見え方は大きく変わる。

「メルカトル:エクストリーム」の開発者による解説を再び引けば、それは “... all the way from the human scale, to the global scale... It really creates this "center of the universe" feeling"(人間のスケールから地球規模に至るまで、それは正真正銘『宇宙の中心』の感覚を作り出す)のである。そしてあの “THE NEW YORKER" 1976年3月29日号の、ソール・スタインバーグ(Saul Steinberg)による、ニューヨーカーの独善性を皮肉ったとも評される表紙絵、“View of the World from 9th Avenue"(9番街から見た世界)が引き起こす感覚の数学的具現化(mathematical embodiment of the sentiment)とも言っている。

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開発者は冗談交じりにこうも言う。“the extreme Mercator is an excellent way to visualize long-distance driving routes"(エクストリーム・メルカトルは長距離の運転ルートを視覚化する優れた方法だ)と。確かにカーナビやポケモンGO 等の画面にはこの図法が最も適しているかもしれない。それを見る極点としてのドライバーやプレイヤーという主体は、「中心」であると同時に、極大化した歪みを持つ世界の「辺境」なのである。ヘカタイオスやエラトステネスやプトレマイオスがそうだった様に。

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アニメーションは2次元表現ではあるものの、描画されたものに運動を与える事で表現が成立するという性格上、そこには必然的に回転運動の表現も含まれてしまう。アニメーションに於ける回転運動とは、即ち3次元世界の法則を2次元世界が受け入れる事である。如何に優秀な2次元キャラクターと言えども、己がアニメーション展開を承認した時点で、取り敢えず3次元法則に従わなくてはならないのだ。

ミッキーマウスは純粋にアニメーションの為に生まれて来たキャラクターだ。紙のコミックスが下敷きになったものではない。

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しかしそれでもミッキーマウスには、キャラクター設定(2次元)と回転運動(3次元)の齟齬という難問が、初登場の「蒸気船ウィリー」(1928年)から21世紀の「ミッキーマウス クラブハウス」に至るまで、90年間未解決のままに「放置」されている。

具体的にはこういう事だ。アニメーション内のミッキーが顔の向きを回転させる。すると左右の耳の空間的位置が、2次元の設定に基いて移動してしまうのだ(参考:上掲「ミッキーマウス クラブハウス」動画 6秒〜7秒)。ミッキーが顔を右に向けると、右耳の位置が上がると同時に左回転して観客に対して正対し、一方左耳の位置は最初の位置よりも下がりつつ後頭部方向に移動し右耳同様に左に捻れる形で正面性を確保するという不可思議な法則がミッキーには存在する。これは「アトム」の「角」や「花形満」の「髪」問題とも重なる難問である。

アニメーターが苦労するばかりのこの難問は、しかし TDL でゲストに愛想を振りまくリアル3次元ミッキーには適用されない。彼の耳は回転によって移動する事は無い。但し仮に TDL の3次元ミッキーの耳が移動/変形する事を可能にする画期的な技術が開発されたとしても、それでも解決されない最大の問題は、ミッキーを観察する視点が複数 TDL に存在するという点にある。即ちゲストのAちゃんにとって「正しく」変化したミッキーの形は、別の角度からミッキーを見るBちゃんには少しも「正しくない」という難問だ。

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回転を画面内でシミュレートする2次元のアニメーションが、現実的な回転を観察されてしまう3次元フィギュアよりも「有利」な点はここにある。アニメーションは静止画2次元キャラクター同様、観客の視点を1つに制限する事が出来る。そしてそれ故に、フレーム毎に「図法」(projection)を切り替える事が出来る。投影法が特定の視点から見て最も都合の良い世界の記述法であるならば、まさしく2次元のキャラクターというのは心象が唯一の変換公式となる「キャラ図法」(character projection)とも呼ばれ得る、3次元への逆変換式を想定しない――即ち3次元とは無縁な――記述の方法論なのである。そしてアニメーションはそうした「図法」の切り替えを、恰も3次元的に見える動きを伴いつつ見せるものなのだ。

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「図法」である2次元キャラクターを、3次元フィギュアに正確に落とす事は難しい。3次元へのトランスレートを完璧に視野に入れたキャラクター――即ち可逆性を持った変換式が存在する――であるならまだしも、2次元でのみ可能な表現をされてしまう――ミッキーの耳の様に――とフィギュア作家は途方に暮れてしまうのである。こうしたものの場合、全方向的な再現の正確性は諦めて、比較的正確に見えなければならないと思われる部分と、そうでないと判断される部分を分別し塩梅し=「調整」(注6)する事で辛うじて立体化する。即ち現状のフィギュアの造形とは、徹頭徹尾利害調整的な「政治」に基いているのである。

(注6)最も重要とされる「調整」は、それが「人体」の形をしている事だ。

そうした造形上の「政治」をこそ評価する世界もあるし、最近では2次元と3次元のトランスレートに於ける「調整」がすっかり整っていて、その固定化した「調整」に則った3次元造形が成されてさえいれば、「ソース」側である2次元側から「正確」性について強い抗議がされない様な「平和」な「共存」関係に両者はある。しかしその「共存」も、従わせる者(2次元)/従う者(3次元)という非対称性の固定化によるものだ。その固定化はまた、2次元世界と3次元世界のそれぞれの固定化に繋がっている。

乙うたろう氏は「絵具を空間上に置く」。それは単純に「壺の上に絵を描く」ではないのだろう。「壺の上に絵を描く」では「絵」(2次元)が「壺」(3次元)に従属する言い方になってしまう。

3D ペンと称される「絵具を空間上に置く」玩具が販売されているが、2次元クリエーターも3次元クリエーターも、この玩具が示している両次元の交錯点からキャラクターを見直すという事があっても良い。2次元と3次元の交錯点からこそ発想されるキャラクターの可能性。乙うたろう氏の「つぼ美」はその一つになり得る。凡庸なクリエーターは、そこに於いてすら従来のキャラ絵やフィギュアの再現を試みてしまうだろうが、それは既存の「政治」に馴致されてしまった者の限界を示すばかりだ。

ABSやPLAといった柔ら目の樹脂をフィラメントとして使用する3Dペンでキャラクターを壺形に描いた後、その壺の開口部に指を入れて無理矢理こじ開けて平らにすれば、位相幾何学的に正しく1枚の2次元絵画になる。その時それは、地図の投影法のいずれかに近いものになるかもしれない。そしてそれこそは、数多の2次元クリエーターが見た事も無く、想像することすら出来なかった2次元美少女の姿だろう。

それとは別に乙うたろう氏の作品で興味深いのは、それが絵具で描かれているものであるというところにある。プリンタで出力したものではない。従ってそれには描き始めと描き終わりが必ず存在している。因みに2次元キャラクターの顔の描き方を動画共有サイトで見てみると、殆どのクリエーターが――顔の輪郭は別にして――目から描き始めている事が確認された。鼻から描く、口から描く、髪から描くといったものは殆ど無い。寧ろ髪は多くの場合最後に描かれるものになっている。

乙うたろう氏の「つぼ美」はどこから描き始めているのだろうか。やはり目なのだろうか。或いは後頭部からだろうか。それともこの絵画の様に、描き始めと描き終わりの区別が意味を成さない様な描き方をしているのだろうか。

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紀元前ヨーロッパの地図の描き始めは、自分達の生活圏=ヨーロッパからだったと想像される。知っているところから描く、最も関心のある場所から描く。そして描き終わりに近くなった時点で、相対的に関心が薄い辺境が描かれたのだろう。

果たして「つぼ美」に於ける辺境はどこだろう。それは後頭部なのだろうか。顎下なのだろうか。それともそれは存在しないのだろうか。しかしそれが「つぼ美」自体に存在しないとしても、今回の展示に於いてその周りを人工衛星の如く周回する事が可能な「つぼ美」をカメラに収める多くの撮影者は、それでも無意識の内に顔を正面、或いは目を正面にして撮影してしまったりするのである。

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大寺俊紀氏が属していた「ニュー・ジオメトリック・アート・グループ」の中心メンバーとされる岩中徳次郎氏は、戦後間もなく「美術評論家」の外山卯三郎氏から聞いたという「西洋の絵は脊椎動物であるが、日本の洋画は軟体動物である。骨格がない。」という口頭発言を、その著書「画面構成-セザンヌから北斎まで」に再三「引用」している。

ここで言われている「脊椎動物」は、後段の「骨格」の「ある」と「ない」に掛けられている。この言表に基づけば、「骨格」があれば「脊椎動物」、「骨格」がなければ「軟体動物」という分類が可能であるかの様に思えてしまうだろう。しかし例えば外骨格生物も骨格を持っているものの、それは決して「脊椎動物」ではない。それどころか「軟体動物」である貝類の貝殻もまた骨格なのである。恐らくここで言われている「骨格」とは「内骨格」の略と思われる。であるならば、外山卯三郎氏の「言葉」はこの様に言い換える事で相対的に正確なものになる。

「西洋の絵は脊椎動物であるが、日本の洋画は軟体動物である。内骨格はないものの骨格は備えていたりもする。」

更に続けて

「そして世界には外骨格生物の絵画もあれば、それ以外の生物の絵画も存在する。」

とすればより正確性を増すだろう。

「(内)骨格がない」というのは、単に事実を述べたものでしかない。従ってそこまでは正しく科学的な立言である。但し事実を記す論である「生物進化論」を「社会進化論」のメタファーに使用し、そこに価値観という非科学が入り込んでしまっている様なものには気を付けなければならない。シャレになる「ソーカル」もあれば、シャレでは済まなくなる「ソーカル」もあるのだ。

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社会進化論」者がしばしば陥るところの、進化(evolution)が進歩(progress)をそのまま意味するという見方からすれば、「脊椎動物」は優位(superior)を意味し「軟体動物」は劣位(lesser)を意味するものであるかの様に思えたりもするだろう。外山卯三郎氏が言ったとされているこの「西洋の絵は脊椎動物であるが、日本の洋画は軟体動物である。骨格がない。」に続けて、ロック魂を込めつつ「それがどうした。So what?」とオチを入れる(注7)事も当然可能なのだが、いずれにしても絵画の進歩を信じたい人々――或いは絵画に於ける進化と進歩を混同してしまう人々――の曲解を生じさせ易いメタファーではある。

(注7)「正論」を述べ立てた直後に、“but" に続けてそれを引っ繰り返すという方法論が、ロックの歌詞に於ける定形の一つになっている。

岩中徳次郎氏は「骨格」を「構成」のメタファーと捉えたらしい。しかし寧ろそれは広く「法則」と呼べるものだろう。単に「構成」では、「ニュー・ジオメトリック・アート・グループ」が「あらゆる旧来個性主義の思考、および手法を否定して、徹底した非個性の中より生まれるクールな個性表現に努力する。」(同グループPR文)として否定した筈の「旧来個性主義の思考、および手法」に依存してしまう――形態や構図の決定に於ける恣意性から――可能性が生じてしまうからだ。

「あらゆる旧来個性主義の思考、および手法」に完璧に無関係で、それ自体が「徹底した非個性」/「非個性の徹底」的な存在であり、従って「クールな個性表現」とは別次元で単純に「クールでしかないもの」。しかも「ジオメトリック」な表現ならぬ「ジオメトリック」な出力を極めて得意とするものと言えば、あらゆる地球人のクリエーターを遥かに置き去りにしてコンピュータを於いて他には無い。

コンピュータに任意の「法則」を条件として与えさえすれば、「何も悩まない」という意味で「何も考えない」知能であるそれは、「幾何学的抽象」と「有機的な形態」の「差異」を無効にするかの様な演算結果を淡々と吐き出す事もある一方で、それを地球人は「オプティカル」なものとも「トリッキー」なものとも感じたりする。

大寺俊紀氏はこう記している。

基本的に、幾何学的なフォルム(形態)から、水や有機的な形態が生まれてくることは、無機的な元素の組み合わせによって、有機的な被造物が創造されていくことを表しています。

http://sennan.holy.jp/nifty/library.html

そもそも「有機的な形態」/「幾何学的フォルム」という「対立」は、人間=地球人の物理的スケールでのみ限定的に有意性を持つ。例えばバクテリアやウィルス――時にそれらは地球人に「免疫」反応を起こさせたりもする――といった、地球人とは全く別のスケール/しかし地球人と同じ世界に生きている存在にとって、「有機的な形態」という言葉は単に無意味極まりないものでしかない。或いは地球人の物理的スケールを遥かに超える存在があり得るとして――論理的にあり得るだろう――その視点から見ても「有機的な形態」なる概念は無意味でしかない。「有機的な形態」と「幾何学的フォルム」を分かつ事に有意性を見るのは、宇宙広しと言えども――恐らく――地球人しか存在しない。

大寺俊紀氏の絵画に於ける「幾何学的なフォルム(形態)」のユニットが「無機的な元素」であるとして、その組み合わせが膨大なものになるにつれて、それは「有機的な形態」を形成しもするだろう。「脊椎動物」にしても「軟体動物」にしても、「かたい」にしても「やわらかい」にしても、全てはこの様な「幾何学的フォルム(形態)」の「モジュール」としてしか表せないものから始まっているのだ。

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我々がギャラリーで「幾何学抽象」として見えているものは、それを「幾何学抽象」としてしか見られない我々の認識の限界をも示す。100メートル先、或いは「神」の視点から見れば、そこには既に「有機的な形態」が現れているかもしれない。