裏声で歌へ【後編】

【承前】

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「間々田」の町が語り掛けて来るもので、既にお腹は一杯になってしまった。しかし展覧会は「別腹」だ。前者は「白米」の様なもので、後者は基本的にキュレーターと呼ばれるパティシエが作る「ケーキ」だ。

スポンジケーキとシャンテリークリームと苺とキウイと黄桃と焼きプリン(例)(注1)といった「素材」(注2)からなるケーキは、「基本」的にはそれらの「要素」の「食べ合わせ」(注3)による「味」を「愉しむ」ものである一方で、ケーキというキュレーションを前にして「プリンだけ食べたい」や「キウイ残して良い?」といった、パティシエの仕事の全体を「否定」しつつ「愉しむ」のもまた「自由」ではある(注4)

(注1)間々田駅西口に「間々田店」がある「不二家」の「フルーツのプリンショート」の例。

因みに所謂「ショートケーキ」の定番である日本独自の「ストロベリー・ショートケーキ」は、不二家の創業者である藤井林右衛門が考案したものである不二家は主張している。

(注2)これらの 6つの「素材」は、「裏声で歌へ」展の「五月女哲平」「小山市立乙女中学校」「大和田俊」「本山ゆかり」「戦争柄着物」「國府理」の 6つの「素材」に掛けている。

(注3)「不二家」の「フルーツのプリンショート」の場合、最初の一匙でプリン、クリーム、スポンジの「組み合わせ」(例)が口に運ばれ、次の一匙ではスポンジ、クリーム、苺の「組み合わせ」(例)が続いたりする。その諸「要素」の「組み合わせ」は、6「要素」の順列組み合わせプラス・アルファの数だけある。

(注4)目の前にある「ショート・ケーキ」の「素材」全てが「情報」を全く欠いた「未知」――それが甘いのか酸っぱいのか苦いのかも判らない、得体の知れないものだけで構成されている――のものである場合、作り手の立場から「何も考えずにまずは食べてみろ」と言う事は可能だ。勿論それを食べ手に受け入れさせる技術を備えている事が最大の条件にはなる。

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チケット売り場に立つと、「小川家肥料蔵」の方から歌声が聞こえる。誘われる様にそちらに向かう。

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四角形の中の四角形の中の四角形の中に四角形...。四角形の外の四角形の外の四角形の外に四角形...。ふと後ろを振り向く。自分の背中側にもあるに違いない四角形を探してみる。それはずっと自分が背負って来ていたのかもしれない四角形だ。

「作品」と呼ばれる四角形の中に四角形。

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それを見ながら戯れに「こんな『トリミング』もあり得るな」などと思ったりもする。

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「(良き)絵画」はその「外部」――それは「論理」的なものであるが故に、空間的な「内部」にあっても良い――の存在を指し示している。現実の「日章旗」をして、敢えてそれを「(良き)絵画」として見る事をしてみれば、そこには様々な「外部」の存在が見えても来るだろう。

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西田幾多郎は「善の研究」の中で「意味或は判断の中に現はれたる者は原経験より抽象せられたるその一部であつて、その内容に於ては反つて之よりも貧なる者である。」と書いた。ここで書かれている「抽象」は、「貧なる」という「定量」的な語の採用によって「劣位」のものとして断じられている。即ちここでの「抽象」は「抽象にすぎない」の略であり、「〜にすぎない」という「評価」の態度が、西田の「裏声」として隠されている。

しかし仮に「真実」の「原経験」/「純粋経験」があり得るとしても、それは「事実」的にはアモルフな刺激の奔流としてしか「現れ」ない(注5)。即ち「原経験」/「純粋経験」には、何もかもが「ある」一方で、何もかもが「ない」。

(注5)「『ここでのほんとうの困難は、 時間の流れにしたがって触覚で認識してきたひとたちが、さまざまなものの同時的な認識に不慣れであるということだ』わたしたち五感が備わった者は空間と時間の世界で暮らしているが、盲人は時間だけの世界に生きている。盲人は(触覚、聴覚、嗅覚の)印象の連続によって世界をつくりあげていて、晴眼者のように同時的な視覚認識によって状況を把握することができない。」(吉田利子訳:早川書房

“The real difficulty here is that simultaneous perception of objects is an unaccustomed way to those used to sequential perception through touch.” We, with a full complement of senses, live in space and time; the blind live in a world of time alone. For the blind build their worlds from sequences of impressions (tactile, auditory, olfactory), and are not capable, as sighted people are, of a simultaneous visual perception, the making of an instantaneous visual scene."

オリバー・サックス「火星の人類学者」(Oliver Sacks: “An Anthropologist on Mars")から「『見えて』いても『見えない』」(“To See and Not See")

五月女哲平」を始めとする「抽象」絵画の「力」は、「量子跳躍」の如き「論理」上の「準位」の「跳躍」を「観者」にもたらす――但し「準位」の「跳躍」は、「観者」の「跳躍」に対する「能動」性を絶対条件とする――ところにある。一般的に思い込まれている様に「抽象」は決して「単一」の「視点」に収斂させる様なものではなく、指示対象が明示的ではない「形象」によって「跳躍」へのドアを開けるものだ。「抽象」は「描かれたもの」のその「先」――それは「裏」でも「表」でもない――をこそ見せるのである。

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2016年10月21日「小山市立乙女中学校 合唱コンクール」の「ドキュメント」。舞台は同校の体育館ステージと思われる。

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My Own Road 僕が創る明日(歌唱は同校生徒のものではなく参考。以下同)
大切なもの
この星に生まれて
ヒカリ
明日への扉
ジェリコの戦い

桜の雨(桜ノ雨)
友〜旅立ちの時
翼をください

画面中ステージ後方の垂れ幕には、「漢(おとこ)」や「武士(もののふ)」といった語に極めてフィットする書体で書かれた「鼓動」という大書に続き、行書気味の書体で「心震える感動を」と書かれている。

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そしてそれを背にして(日本では)「軍隊」から始まった「制服」が並び、その「制服」が「教会」から始まった「合唱」を歌うという図ではある。「よさこい」や「南中ソーラン」の「群舞」から、「デモ」の「シュプレヒコール」に至るまでの、凡そ「勢揃い」である事を良しとするもの全てに対して苦味を感じる者は、この図にも同様の味を感じ取る事もあるだろう。

確かに「合唱」は「規律訓練」によって練り上げられるものだ。「合唱」に於いては、自分が出している「声」を、自分以外の「周囲」の「声」――それは「周囲」を構成する誰の「声」でもない――に「合わせる」事が何よりも要求される。「歌詞」に込められている「メッセージ」は「理解」の対象であり、それに対するそれぞれが持つだろう様々な「思い」――「合唱」に込める「思い」は「指導」の対象としてのそれである――を決して表に出してはならない。それは中学生の身体から発せられている「声」ではあるものの、一方でそれは毛の先程にも中学生の「声」ではない。

しかし中学生を舐めてはいけない。中学生には「制服」や「合唱」の「破れ目」が彼等なりに見えている。それが見えているからこそ、彼等には「未来」がある。それぞれ自分自身が中学生だった頃を思い返せば、その様な事はたちまち判明する事だろう。だからこそ、「可能的」な「未来」を信じて、ここに「美術」が中学生の「合唱」と同居しているのだ。河原温の “Pure Consciousness" の如く。

「合唱」を歌う「制服」姿の中学生達の顔を見る。この中から将来の内閣総理大臣が出るかもしれないし、電力会社の社長が出るかもしれない。或いはノーベル物理学賞受賞者が出るかもしれないし、人気歌手が出るかもしれない。更には地質学者が出るかもしれないし、建設会社社長が出るかもしれないし、イタリア料理人が出るかもしれないし、染め職人が出るかもしれないし、養豚経営者が出るかもしれないし、美容師が出るかもしれないし、原発廃炉技術者が出るかもしれない。

そうした「将来性」の「拡がり」に関してだけ言えば、「制服」を着ていない「自由」な「精神」を持つ筈の「アーティスト」――しかし「市場」の要請による「作品を作り続けなければならない」という「拘束」の中で生きている(注6)――よりも、「制服」の「中学生」の方がより「可能性」の「幅」を持っている事は確かだ。「アーティスト」の集合写真を見て、この中から将来の内閣総理大臣や電力会社の社長が出るとは、現実的な思考をする者なら誰も考えない。集合写真から30年経っても「アーティスト」に留まり続けている事が「アーティスト」には求められる。「2016年度 小山市立乙女中学校合唱コンクール」の小中合同合唱で歌われた「翼をください」は、人生が固定化した/固定化しつつある「大人」の為にこそある曲だ。「中学生」には、まだ「翼」がしっかりと備わっている筈だからだ。

(注6)2018年に配信開始されるという「パレットパレード」(シリコンスタジオ)という「スマートフォン・PC向け芸術家育成ゲーム」は、プレイヤーが「街の片隅」にオープンした「客が全くいない」という「パレット美術館」の「館長代理」(「館長」は「解雇」されたか「降格」されたか「入院」しているか「死亡」しているかなのだろう)となり、「一流の美術館」(何をして「一流」たらしめるのかは明らかにされていない)を目指すというものである。「パレット美術館」を盛り上げる為に「館長代理」のアシスト(=手駒)をするのは、「美術館」と「雇用契約」しているのか「業務委託」されているのかは判らない「ダ・ヴィンチ」「クールベ」「ゴッホ」「ルノワール」等といった7人の「個性豊かな画家」(「芸術家育成ゲーム」であるから「画家未満」になる)である。果たして「美術館」を盛り上げる一方で「美術館」に育成される彼等は、「美術館」の為に「絵」を描かされ続けるのだろうか。

「将来性」の「拡がり」を持つ「人生」の「可能性」に溢れた「小山市立乙女中学校」の284人(2016年度:含特別支援学級)の「中学生」(及びその近親者)が、「小山市立乙女中学校 合唱コンクール」の「ドキュメント」を主なる目当てに「小山市立車屋美術館」に足を運ぶ。そして曲目やDVDプレーヤーの操作法を記した「ドキュメント・シート」には、「向かいの建物でも展覧会が開催されています。要チェック!」とあるのを見たりする。

「國府理」や「本山ゆかり」や「大和田俊」や「五月女哲平」を見る「中学生」。それはやがては「國府理」や「本山ゆかり」や「大和田俊」や「五月女哲平」を少年少女期に見た内閣総理大臣になるかもしれない(注7)。その様な「可能的」な「未来」に期待したいし、「美術」はそうしたあり得べき「可能的」な「未来」の為にこそある。「それでも何も変わらないかもしれない」という悲観は、「未来」の為に封印されなければならない。その「未来」に対して「大人」である「美術」は「責任」がある。

(注7)果たして現職の第97代内閣総理大臣は、その少年期に「現代美術」の展覧会を見ただろうか。仮に見ていなかったとしたら「腑に落ちる」者もいるのだろうが、一方でそれを見ていたとしたらどうだろう。

「善男善女」の「大人」の「涙腺」を緩ませもする「メッセージ」が込められた「音」の部屋を出て「米蔵」に向かう。

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「普通、『君が代』のことと言ふと、民主主義的ではないとか、非科学的とか、そんなことばかりでしよ?」
「小石が岩になるのはをかしい、というやつね」
「ええ。岩がだんだん崩れて小石になるのに、なんて」
「だつてあれは詩的誇張でせう。嘘とは違ふんですね。(略)」

「裏声で歌へ君が代丸谷才一

しかし確かに「小石」(さざれ石=細石)は「岩」(巌)に「なる」のである。雨水などによって溶け出した石灰石の石灰分が、礫(小石)をセメント状に繋いで生成したものが「さざれ石の巌」の正体だ。

ヌガーという菓子がある。

ヌガー(仏:nougat)は、菓子のひとつ。ソフトキャンデーの一種。
砂糖と水飴を低温で煮詰め、アーモンドなどのナッツ類やドライフルーツなどを混ぜ、冷し固めて作る。茶色くて固く、歯に粘りつくような食感が特徴である。

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君が代」歌詞中の「さざれ石(細石)の巌となりて」というのは、要は「ナッツやドライフルーツのヌガーとなりて」といった様なものである。ヌガーに於けるナッツやドライフルーツを膠結する砂糖と水飴が、「君が代」の「巌」(limestone breccia:石灰質角礫岩)に於けるさざれ石を膠結する炭酸カルシウムや二酸化ケイ素である。

日本列島という狭小なエリアでは、相対的に「希少性」を有するが故に、時に「注連縄」を張られたり「天然記念物」扱いをされたり――それもまた「トリミング」である――もする石灰質角礫岩だが、勿論「地球」規模の地質学的視点から言えば、極めて「一般的」な現象であるところの「さざれ石の巌となりて」(注8)である。

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(注8)「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」は永年(千代に八千代に)を表す表象の一つだ。従ってその代わりに最大級の「詩的誇張」を込めて「星間ガスの主系列星となりて白色矮星になるまで」(=「日の丸」の「日」=「太陽」の「一生」)でも良いし、その方が「さざれ石〜」よりも桁違いに「千代に八千代に」にはなるだろう。その場合は白色矮星に「注連縄」を張ったり「天然記念物」指定をするかもしれない。

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「大和田俊」のクエン酸による石灰岩の溶解もまた、炭酸カルシウムの殻を作る為に海中に溶け込んだ二酸化炭素を吸収した海生生物(有孔虫等)由来の石灰岩――その化石が含まれたものも多くある――が、古生代中生代の境目(約2億5100万年前)の大量絶滅によって多量に生成してからの極めて一般的な現象をなぞっている。或いは石灰岩クエン酸を掛ける事で二酸化炭素と水(炭酸)とクエン酸カルシウムに分解し、二酸化炭素を固体化する生命誕生以前の地球の大気組成(二酸化炭素が大部分を占める)に相対的に近付けている。確かに石灰岩はその星の「(炭素系)生命」の存在の有無を測る指標の一つになる。

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自然界であれば数百万年〜数億年掛かるそれを、雨水や地下水よりも遥かに酸性度の高い液体を掛ける事で、恰も早回し/逆回しの「地球の歴史」ドキュメンタリーの如くに「大和田俊」は見せてくれる――「効果音」や「劇伴」無しに。

マイクを通してスピーカーから聞こえてくる音は早回し/逆回しのそれだ。数百万年〜数億年の音は数時間の音に圧縮される事で、初めて我々の耳に届く形になる。果たして数百万年〜数億年の実際の音を我々が聞く為には、桁違いの性能のマイクが必要になるのかもしれないが、しかし恐らくそれとは全く別の方法でその音を「聞く」事は可能なのだろう。

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戦争柄着物(乾淑子氏コレクション)。1895(明治28)年1942(昭和17)年まで(注9)に作られたというそれらは、国策や戦争宣伝とは直接的には無縁であったという。「百貨店などの業者が売れそうなデザインとして時流の戦争を選び、消費者が最新トレンドとして受け入れた」(「ひと 『戦争柄の着物』を収集し、研究する=乾淑子さん」毎日新聞 2012年11月3日付)ものだ。即ちそれは「声」の大きな「軍部」主導ではなく、「新しもの好き」の「声なき声」の「善男善女」の「大人」によって、「自由」な経済原理の中で屈託無く作られ、売られ、買われたものだ。

(注9)戦争柄着物は1895(明治28)年から作り始められているが故に、「戦時下」という言葉は俄には当て嵌まらない。寧ろそれらが「戦時下」ではない「平時」に多く作られて来た事にこそ注目しなければならない。実際「太平洋戦争下」としての「戦時下」に於いては、物資の欠乏というリアルを前にしてそれらは作られなくなったのである。

伝統的な「鶴亀」や「高砂」や「宝尽くし」等に代わり、戦争柄着物では「富国強兵」や「近代化」が「吉祥」のシンボルになる。とは言え、例えば「五月人形」(明治・大正までは「武者人形」(注10))なるものも、「鎧」や「兜」や「刀」や「幟」といった「吉祥」の表象としての「」のイメージを配する事で、「男子の誕生を祝うとともに、無事に成長し、強く、逞しく、賢い大人になるようにとの願いを込めて(株式会社「久月」)」、「善男善女」の「大人」が、各「家」――「跡取り」が「重要性」を持つ――で飾るものだ(注11)。それが「鎧→軍服」「兜→鉄兜」「刀→戦闘機」「幟→旭日旗」といった屈託の無い変換を経たものが戦争柄着物とも言える(注12)。「善男善女」の「大人」の我が子への「願い」の「本質」は何ら変わってはいない。そして戦争柄着物を着る「善男善女」の「子供」達と言えば、「宇宙戦隊キュウレンジャー」「仮面ライダーエグゼイド」「キラキラ☆プリキュアアラモード」――いずれも「武」が物語の根幹を形成する――の「Tシャツ」を、21世紀の「善男善女」の「子供」達が着る様にそれらを着たのだろう。屈託の無い「声」が戦争柄着物から聞こえる。

(注10)江戸時代から始まる「武者人形」には「三韓征伐」時の出で立ち――何故か近世の武具を身に付けている――の「神功皇后」(+武内宿禰応神天皇)のそれも含まれる。現在も人気の「五月人形」には「東征」(金鵄飛来)時の出で立ちの「神武天皇」がある。それらはいずれも「美術工芸」に於ける匠の技術を極めた作りとなっている。

(注11)参考:「第九課 靖國神社 五月五日ニ軍人形ヲカザリ、ノボリヲ立テテ、男子ノ福運ヲイノルコト、我ガ國古ヨリノ風習ナリ。靖國神社ノ春ノ大祭ハアタカモ此ノ日二始ル。」尋常小学讀本 巻九(明治43年)

(注12)当の「五月人形」にもこうした変換が存在した。

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「さざれ石の巌」を研磨すれば、この様な文様が現れもする。

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ややもすれば、この赤褐色の部分が「地」で、薄褐色の部分が「図」にも見えてしまうかもしれない。しかしこの文様の「地」と「図」に見えるものは、実際には「地」と「図」の関係には無い。それらは単に「隣接」しているに過ぎない。

「壺」の形となって現れた「三次曲面」の「外側」に存在していたものは、「切削」と「研磨」によって失われ、同時にその「壺」の形の「面」の内側もまた我々は伺い知れない。失われた「外側」と、見る事の出来ない「内側」の間にこの「絵画」的な「面」はある。即ちそれは「断面」としての「平面」であり、組飴――金太郎飴に「代表」される――の「絵柄」に於ける「地」と「図」――誰が金太郎飴の顔の周りの「白」い部分を「画用紙」(例)などと呼ぶだろうか――がそうである様に、「支持体」/「表面」――恰も「国家」/「国民」の如き――という議論が起きる余地も無いものだ。しかしそもそも「平面」なるものは、凡そ「断面」でしか無いものなのではないか。

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infrared scan of Robert Rauschenberg's Erased de Kooning Drawing(1953)

戦争柄着物の対面の壁面。「本山ゆかり」。アクリル板の厚み分に二重化された「断面」。

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 白いアクリル絵具と黒いアクリル絵具の「隣接」の妙によって生まれる、恰も「画用紙」の上に描かれたかの様に見えてもしまう「絵柄」。この5ミリ程の厚さのアクリル板による「断面」の手前側と向こう側には、今見えている「絵柄」とは別の「絵柄」が無数に存在するのではないかとも思える。

再び書く。「(良き)絵画」はその「外部」の存在を指し示しているものだ。その「外部」の指し示しの力に於いて、現実的には「具象」絵画は「抽象」絵画よりも「不利」なところがある。多くの「具象」絵画は、相対的に「絵画」の「内部」に自足する事で閉じ籠もりがちになるからだ。「画家」と「モチーフ」の間にある「衝立/画面」が、既に「世界」の「断面」であるというのに。

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「本山ゆかり」は「具象」絵画の様な顔付きをしつつ、それが「断面」である事を見せる事で、「外部」の存在を指し示す。「具象」絵画の「画面」に描かれたものに踊らされてしまうという事は「本山ゆかり」という体験には無い。

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福島まで202キロ。東京まで71キロ。

これらのキロポストから 5km 程北に行くと「道の駅思川」がある。そこで行われているサービスの一つに「食品の放射性物質濃度測定」がある。或いは「放射線量測定器の貸し出し」や「身近な場所の放射線除染について」のリーフレットがダウンロード出来たりもする栃木県小山市なのである。

富士重工業株式会社(現:株式会社SUBARU)の「EK23」(排気量544CC、直列2気筒水冷4ストローク:1977年〜1990年:4代目サンバーKT6、 KT2、KT1 搭載型)という、1958年の「EK31」(スバル360)から始まるクラシックな設計のエンジンが、水を湛えた1立方メートルの水槽の中に吊り下げられている。

1トンの水を湛えるべき水槽のフレームを構成するアングルステンレス材は十分な強度を持っているものの、一方で水中の状態を「見せる」べく採用された――「見せる」必要が無ければ、原子炉の格納容器の如き光を通さない、耐熱性が相対的に高い材料で作れば良いし、その上で経済性の高い平面で構成される必要も無い――アクリル板は、厳密な構造計算の対象にはなっていない様にも思える。

「作者」の「國府理」による、この「水中エンジン」が最初に公開された2012年の個展(京都:スペース虹)の展覧会概要には「水は約1トン」とあるが、実際にこの水槽に1トンの水が満たされた事は無い。設計上の「欠陥」がそれにはあるからだ。水槽のプロである日プラの技術者にこの水槽を見せたら、彼等はどう思うだろうか。

f:id:murrari:20170809035121j:plain「組み上がった」ばかりの「EK23」。但し「水中エンジン」のものとは細部に於いて異なる。

敢えて地中に埋めずとも、実際に稼働して来たエンジンは、多かれ少なかれ「腐食」もするし「劣化」もする。金属部分は疲労や摩滅に苛まれる。シールド類は短期間でその役目を果たさなくなる。それは「物質」である限りに於いて避けられないものだ。自動車整備工場が町中に多くあるのは、町中を走る自動車が常に「メンテナンス」を施し続けなければならない「物質」であるからだ。その様な「脆い」ものが町中を走り、「現代社会」がそれに全面的に依存している事態を「構造的欠陥」と言う事は確かに可能ではある。

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 一方で「EK23」にはその生産終了までに「解決」されなかった、設計上の致命的な「欠陥」が存在していたとも言われている。

「EK23」の「レストア」を試みる者は、ここで「欠陥」を「欠陥」として残したまま、飽くまでも「オリジナル」に「忠実」であるべきか、或いはそれを「より良き」エンジンとする為に、敢えて「オリジナル」の設計を無視して「より良き」技術に換装する事で「欠陥」を排除するかを迫られる。

仮に「レストア」を純粋に技術的なものと考えるのであれば、「誠実」であるのは紛れも無く後者だ。しかし確かに世の中には別の「誠実」も存在する。「技術的欠陥」を持つ「オリジナル」が「構造的欠陥」を表す事実こそが重要であるとする「誠実」だ。

その「誠実」に則れば、「不完全」は「不完全」であるが故に何かを「指し示す」とされるものの、勿論それを決して言ってはならない立場の者もいる。全ての――発明家ならぬ――技術者がそれであり、なかんずく BWR 廃炉という敗戦処理的作業に従事する技術者にあっては尚更だろう。彼等には「絵画」を「鑑賞」する様な「メタ視点」に立つ事は許されていない。リアルに「誠実」な技術者は、「当面」という「断面」にこそ生きねばならない者だからだ。

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技術者も見学者も設計者もいない、「運転」を「停止」した「水中エンジン」を見る。「動いている」事が「当たり前」。それは「ひねればジャー」が「当たり前」と同じ様なものなのだろう。

「あの時」、そして現在も「善男善女」が依存していた/いる「当たり前」を支える「声なき声」の多くの「メンテナンスを施し続ける」技術者の存在に思いを致す。

と同時に思う。確かにこの「水中エンジン」が示すところの技術的サイクルから、我々は一刻も早く離れなければならないのかもしれない。そしてそこに至って、晴れて「水中エンジン」は美しき「笑い話」の一つになれる。その「可能的」な「未来」に於いて、我々は「水中エンジン」に対して「笑う」という形で「声」が出せるのだ。

 この項のみ「水中エンジン REDUX」(別稿)に【続く】。

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ここまで来たのだからと、もののついでに「小山市立車屋美術館」の「本体」である「旧米蔵」の向かいにある「小川家住宅」(「主屋」)を見る事にした。

入口で「解説ボランティア」の男性から、建物内撮影禁止である事を告げられる。神棚にボーダーがいきなり突き刺さっていたりする洗練されていない「和洋折衷」。21世紀ならばそれが「和洋折衷」であると即座に悟られない程度には洗練させるだろう。

見学者を瞠目させる「和洋折衷」の間を廊下伝いに通り過ぎる。そして次の和室の柱時計の横、長押の上にそれはあった。

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幅50センチ✕縦40センチ程の、外周に彫刻を施した写真額の中にマットが切られ、そのマットの上部には十六八重表菊、下部には「靖国神社」の文字。そしてマットの中には、開門した神門越しに見る中門鳥居と拝殿の靖国神社のモノクロ写真。その上部やや左寄りに楕円でトリミングされた戦闘帽に軍服の若い男性の写真が嵌め込まれている。

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この男性は、「善男善女」の「大人」の上げる「万歳」の声と、屈託無く振られた「なびく旗」に送られて、この家を出ていったに違いない。「小川家」の御家族は今何処で暮らしておられるのかは判らないが、この遺影はこの家にこそあった方が良いという御判断なのだろう。

「主屋」から出る。再び「未来」に生きる中学生の「合唱」が聞こえて来る。身が引き締まる。

【了】