クロニクル、クロニクル!「中編」

承前

日本独自のステージカーテンの進化形式である緞帳(注1)には表面と裏面があり、その表面を見る者(客席側)と裏面を見る者(舞台側)がいる。客席側に華やかな刺繍絵画が施される一方で、舞台側は素っ気ないグレーの裏地や「火気厳禁」等の注意書きばかりだ。やがて緞帳が開き、照明を落とされた客席の眼は、華やかな刺繍絵画を見ていたのと同じ視線で舞台上にその焦点を定める。舞台上にいる者は、それ自体が発光体として存在している。発光体の視線は、客席に眼の焦点を定めない。その視線は、両眼視差による立体視を「職業」上禁じられているマネキンの斜視のそれと同じだ。

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(注1)「緞帳芝居」や「緞帳役者」という日本語に残っている様に、「緞帳」は官許の証である「引幕」の使用を許可されなかった「下流」演劇への差別語でもあった。

吉原治良氏は見せる絵画の人である。見せる絵画の人であるから客席側から見えるものに心血を注ぐ。しかし見せる人である吉原治良氏自身が立っているところは舞台の側だ。見せる者としての絵描きは、常にカンヴァスの裏側(舞台)にいて表側に筆を入れる者の事を謂う。インデントを掛けたカンヴァスの裏側の世界(それはキュレーターが属している世界でもある)に生きる者は、同じ地平にいながらにして不連続な場所にいる。それは緞帳を必要としないもの――演者と観客が「地続き」に感じられる様に仕込まれた/仕込みでしかないもの――であっても変わらない。「畳の上で死ぬ」という日本語がある一方で、「板の上で死ぬ」という言い回しがある。見せるアーティストは「板の上で死ぬ」事を求められる――その訃報すらが客席によって消費される――舞台の上の者なのだ。

「大阪朝日会館」の緞帳(「朝の歓喜」)は、どれが最もオリジナルであろうか。吉原治良氏一人の手になると思われる「原画」がそのオリジナルで、下手側に「大丸」のロゴと文字が入った綴織緞帳がそのコピーという事になるのだろうか。であるならば、岡本太郎氏の原画が最もオリジナルで、吹田の万博公園に立つ「太陽の塔」がそのコピーという事になる。或いは草間彌生氏の原画が最もオリジナルで、直島の海岸にある「南瓜」がそのコピーという事にもなり、また成田亨氏の原画が最もオリジナルで、「ウルトラマン」の撮影用スーツがそのコピー(注2)という事にもなるのだろうか。しかし我々の記憶に残るそれらは、全てがそうした「コピー」の側にある。

(注2)いずれの「コピー」の制作現場にも「彫刻」が出自である者がいただろう。

それらの「原画」を複写するのも当然「コピー」である。しかしその「コピー」とは別系統の、万博公園に立つ「太陽の塔」をオリジンとする「コピー」の分岐――「太陽の塔ストラップ」の様に――もあるだろう。

吉原治良原画の「大阪朝日会館」の緞帳(日本最初の綴織緞帳)を制作した川島織物工業株式会社(現・株式会社川島織物セルコン)のものでは無いが、綴織緞帳についての住江織物株式会社の説明文を引く。

綴織緞帳(綴錦織、西陣本綴織緞帳)は、その豪華さ、その風格において他の追随を許さない美術織物の最高峰です。
そのゆえんは、機械に頼らず、300〜900色を超える織糸(おりいと)を、織り手(職人)が織り上げていく手工芸の技であり、デザイン効果を最大限に織物へ表現していく熟練した技術の結晶であるからです。
原画を緞帳製作の原寸大(製織用原図)に拡大し、使用する織糸の番号をその製織用原図に書き込み、経糸の裏側に設置し、番号通りの色と品質の織糸で織り込んでいきます。綴織緞帳の完成まで通常は4〜6ヶ月もの長い時間がかかり、職人によって心血を注がれた究極の手工芸品です。(太字強調は筆者)
 
「製品情報|緞帳」住江織物株式会社
https://suminoe.jp/doncho/product/doncho/index.html#a01

川島織物セルコンは、2012年に旧東急文化会館の映画館「パンテオン」にあったル・コルビジェ原画の綴織緞帳を1/5サイズで再現する際に、その大きなポイントとして「①(原画ではなく)緞帳の再現である ②1956年納入作品のプロジェクトの復元である」事を上げている。それは「原画」の複写による「コピー」の系統とはまた異なる系統の「コピー」だ。

世に子供じみた問答がある。「問:大阪城は誰が造ったか?」「答:大工さん」。しかしそれはこの「クロニクル、クロニクル!」に於いては極めてシリアス、且つラディカルに繰り返される通奏の一つなのである。

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パリ・オペラ座近くのホテル・スクリーブ(Hôtel Scribe)のグラン・カフェ(Grand Café)地階にあった、東洋風の装飾が施されたインドの間(Salon indien)。1895年12月28日、世界で最初の「映画」興行で映し出され、33人の観客が目撃したのは “La Sortie de l'usine Lumière à Lyon" というフィルムだった。日本語では通常「Lyon(リヨン)」や「Lumière(リュミエール)」を省略し、単に「工場の出口」と訳される。国によっては「リュミエール工場からの労働者の立ち去り」(立ち去り=移動、或いは搬入/搬出)という訳にされる事もある。

しかしそれは何故に “sortie"(出口/出力)なのだろうか。“porte"(「門」)とする事も可能だった筈なのに。“porte" ならば「工場の出入口」(「工場の開口部」)とする事も出来る。或いは “passerelle" というのはどうだろう。それは確かに「出口」ではある(「橋」という意味もある)が、一方でコンピュータ用語の “gateway" も意味する。プロトコルの異なるネットワークを接続する装置。それがゲートウェイというノードだ。

最初のインデントである「クロニクル、クロニクル!」のゲートウェイに、世界で最初に興行された/興行の為に整えられた――リヨンのリュミエール工場のゲートウェイが映し出される。「市民」と「観客」のプロトコル変換の場所に、「市民」と「労働者」のプロトコル変換が重ね合わされる。果たして展覧会の「内」/「外」とは何だろうか。

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アール・ブリュット」というプロモートは、事実上或る種の「傾向」を条件とするところがある。それは「既知」のものとされる「文明」に対する「未知」の「野生」を記述しようとする人類学的視線の不可避的な限界を内包する。そこには二重化された「他者」――「我々」の関心を引く「他者」――が存在する。それはどこまでも「他者」でなければならないものであるが故に、「それを見ている『我々=文明』には重ならないもの」として留め置かれる。

その「傾向」の一つに「稚拙」(=非文明)がある。「稚拙」でなくては「アール・ブリュット」足り得ないとすら思われている節があり、実際多くの「アール・ブリュット」展は、事実上「稚拙」展となっている。であれば、さしずめ荻原一青(「制作者」としての名)/荻原信一(「労働者」としての名)氏は「アール・ブリュット」には組み入れられないのかもしれない。

荻原一青/荻原信一氏は尼崎城(注3)址に建つ尼崎第一尋常小学校を卒業後、大阪・天下茶屋の蛭川芳雲画塾で友禅の下絵描きを修行した。即ち氏は紛れも無く「『専門』的な『美術』の教育を受けて来た」と言える。仮に「『専門』的な『美術』の教育を受けていない」事が「アール・ブリュット」の「アール・ブリュット」たる事の譲れない条件であるならば、氏は「アール・ブリュット」である資格を有していない。

(注3)「クロニクル、クロニクル!」の会場では、その尼崎城の復元画のコピーのみが「額装」されていた。

しかし「描く」事がその生に於いて或る意味で自目的化している、即ち「つくることが生きること」であるところの荻原一青/荻原信一という在り方を、ジャン・デュビュッフェの在り方ではなく、ヘンリー・ダーガー(例)の在り方と敢えて並べてみる事は可能かもしれない。その時「アール・ブリュット」の定義中の条件分岐は違った構文になる。

荻原一青/荻原信一氏の心の城の原画は、「こうあって欲しかったもの」が1/1で現実化してしまった、おとぎの城=熱海城2階の「日本城郭資料館」に、マッチ棒(JIS で定められた規格サイズの木片)で作られた姫路城、松本城名古屋城(1959年外観復元)、大阪城(「こうあって欲しかったもの」が1/1で現実化したおとぎの城:昭和復興天守)と共にある。

荻原一青/荻原信一氏が卒業した第一尋常小学校は現在の尼崎市立明城小学校である。その校門を入って右手に、教職員と児童が古写真等を元に協働制作したコンクリート製の尼崎城天守閣の模型がある。1940年(昭和15年)4月から7月の1学期間に作られたものだという。それは太平洋戦争中の度重なる尼崎空襲を「生き延びて」来た「城」だ。

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Tout en introduisant l’enfant dans le monde de l’art, KAPLA stimule la créativité, les capacités de concentration, l’ingéniosité et les facultés d’adaptation que la vie exige de chacun. En construisant, on se construit soi-même.
Tom van der Bruggen – Inventor of KAPLA
 
カプラは芸術の世界に子供を導き入れ、誰もが人生にとって必要な創造力、集中力、独創力と適応力を刺激します。それ(カプラ)を構築する事は、あなた自身を構築する事なのです。(拙訳)

トム・ファン・デル・ブリューゲン - カプラ考案者

http://www.kapla.com/vitrine/jeu-kapla/kapla-histoire/

 2009年4月8日〜5月16日まで、東京西新井の朋優学院 T&Sギャラリーで行われた「斎藤義重'09 複合体講義 創造と教育の交錯点 -中延学園・TSA・朋優学院-」展の朋優学園によるレポート「<展示風景>」には、飯塚八朗氏の以下の文章が「<講義1> 造形遊びの効用と教育」を説明するものとして上げられている。

“遊びの中の美術”ということに注目した授業の展開、それは造形遊びの楽しさを含んだものです。例えば迷路をつくる課題では、作品を友人たちと交換して迷路遊びをすることで、人と人を結ぶ働きを体験します。構成の課題では、積み木遊びを取り入れ、積み木をつくる、くみあわせるなど、この体験は数学や物理などの他教科と関連するものとなります。 −中略− 美術を知る、考える、自分発見の機会でもあります。身近な環境に美術を取り込む壁画の授業は、20年以上続けていますが、美術は広く生活や文化の中にあるものなのです。
 
斎藤義重'09 複合体講義 創造と教育の交錯点 -中延学園・TSA・朋優学院- <展示風景>

http://www.geocities.jp/hoyu_art/pages/rinen/gijyu09_2.html

加えてそのページの「<講義5> 開かれた教育環境」には同展「体験コーナー」のレポートとして「来場者や生徒が、斎藤義重の規格サイズのバルサを用いて、複合体マケット遊びを体験できる」とある。その画像中のバルサピースを見て、アッセンブル・トイ――「進行の状態がそのまま形態となる(斎藤義重)」トイ――のカプラを思い出した。

斎藤義重の規格サイズ」と言えば、「トム・ファン・デル・ブリューゲンの規格サイズ」(1:3:15 = 8 x 24 x 120mm の1サイズ)であるカプラも同じであり、またそれも「創造と教育の交錯点」にあるものである。「フランス文部科学省推薦教材としてフランスで国の教育システムで使われているペタゴジックトイ」であるカプラが教育に於いて目指すものは、斎藤義重氏が教育に於いて目指していたものと重なるところが多い。

フランスの “planchette magique" (魔法の板)で「斎藤義重」を作ってみた。

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これは現前(représentation)的な再現ではなく、反復(répétition)的な再現としての「斎藤義重」である。「クロニクル、クロニクル!」に言うところの「繰りかえし」は、「反復」としてのそれだろう。そして教育もまた、人類史的な発生や発達の「反復=手渡し」の中にある。

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ゴミ屋敷。それは家という物理的容器に於ける「インプット(搬入)」と「アウトプット(搬出)」のバランス崩壊から生じる。「アウトプット」が何らかの理由で限りなく細り、その結果留まる事を知らない「インプット」(注4)が、相対的に超過した状態がゴミ屋敷として顕現する。或る意味で「抜群の強度」を持つゴミ屋敷からは、しかしそれに至らしめた者の熱量を感じる事は無い。

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(注4)例えばタイムセールや100円ショップが「『賢い』消費者」に向けてプレゼンテーションする「お買得」感――今日的な「消費」サイクルの在り方を前提とする所謂「もったいない」主義――への全面的敗北がそれを加速させてしまう。ゴミ屋敷の住人は、「インプット」が超過状態である事を「悦楽」(或いは「倫理」=ものを「大切」にする)の対象として強迫的に発見する事で、それに自目的的に「落ちてしまう」のである。

ゴミ屋敷の中からその断片を拾い上げる様に「インプット」の一部を抜き出して「主題」化し、その為の方法論を「コントラーブル」に「ソフィスティケート」して行く作品になる以前の三島喜美代氏の「平面」作品は、それ自体「インプット」超過の「バランスの悪さ」の上にある。その絵画は、20世紀半ばの氏の日常にあって、印刷や出版といった情報産業の全面化によって生じた、相対的に「コスト」の低い(=流通量の飛躍的上昇によってデフレーションした)多くの「情報」の生活への「インプット」を、どの様に「アウトプット」の形で表わせば良いのかという戸惑いの中にある様に見える。今日的な「有り合わせ」の技術は、都市化の亢進によって生じた余剰物の存在を前提とする――「買い置き」という消費スタイルや「作り置き」という生活スタイルを可能にしたテクノロジー=冷蔵庫(注5)の「残り物」で作ったカロリーの高い料理の様に。

(注5)多かれ少なかれ空間恐怖症的にゴミ屋敷化した大型冷蔵庫(=生ゴミの保存装置)というのは、その機械を持つどの家庭にも存在する。そしてまた大型冷蔵庫同様、テラバイトのハードディスクも、ギガバイトのストレージやメモリーカードやオンラインストレージも、凡そ「蓄積」に適したものは全てがゴミ屋敷化するのである。

他ならぬそれを売る者によって、同時代の市民であれば共有されるべきとされる「情報」と呼ばれる「商品」が、伝統社会に於いては揺るぎなく頼もしい存在として存在していた、文字通り “firewall" としての煉瓦造りの「壁」で守られていた筈の「私空間」にまで、舟底に穴の空いた小舟に入り込んで来る水の様に無遠慮に雪崩れ込む。

小舟を沈ませる大量の水を、砂遊びのそれの様に極めて小さなバケツで掻き出し、その掻いた水の僅かばかりをカンヴァスに貼り付けて「絵画」というアウトプットにする。それもまた「つくることが生きること」の「症候」として「生の芸術」であろう。

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「川村ネスト」の「外」にある非常階段の踊り場に出た者は、眼下にある鋼鉄製の構造物――嘗て「ウィンチ」として機能していたもの――の造形に心奪われてしまうかもしれない。

仮にこの構造物を「廃棄」するとして、しかしここまで錆付いてしまうと、最早それを「分解」する事は難しいだろう。元々それは構成要素(「部品」)を「組立(アッセンブル)」して構成されたものであり、またそれは逆順的に「分解(ディスアッセンブル)」可能なものであった。アッセンブリーに於いて、締める為のボルトはそのまま緩める為のボルトである。アッセンブリーは――基本的に――「組立」と「分解」の反復(繰り返し)を前提とする(そうでないと「修理」が出来ない)。錆付きによって構成要素が一体化し、反復的な「分解」の道が閉ざされる――「分解」する意味も無い――事で、溶断等によって「解体」するしか無くなってしまったこの鋼鉄製の構造物は、それ故に「オブジェ」として「美しい」客体なのである。

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「清水久兵衛彫刻」の造形原理は、工業製品と同じアッセンブリーだ。従ってそれが車の生産ライン(注6)の様なところで作られていてもおかしくはない。清水九兵衞「京空間」の月産4万個(プリウスと同じ)は――そうした需要がありさえすれば――その作られ方からして可能なのである。

(注6)清水九兵衞に先行する彫刻家でもあるデイヴィッド・スミスは、その10代から20代に掛けて(1920年代半ば)自動車工場のアッセンブリー・ラインで働いた事がある。そのエピソードは彼の彫刻に於ける造形原理を説明する形で、彼の評伝に必ずと言って良い程に引かれている。例えば晩年の彼の彫刻の表面処理と、彼がアッセンブリーラインに立っていた頃に流行っていたエンジン・ターニング加工を結び付ける事は、強ち意味の無い事ではないだろう。

石を投げれば清水九兵衞に当たる様な関西地方だが、その巨大な朱色のアッセンブリーはそのままの形でその場所に到着したのではなく、建築資材の様に複数のトラックで運ばれて来て現場でアッセンブルされているものだ。実際、この「クロニクル、クロニクル!」で展示されていた作品「京空間B」も、「部品」の形でこのCCOに「搬入」され、そこでスタッフ(=「組立工」)によって「完成車」の様にアッセンブルされている。

そして「第1クロニクル」(2016年1月25日〜2月19日)終了の際には、それは「組立工」によってボルト(注7)を緩められて再び「部品」になり、その「部品」が大阪府江之子島芸術総合センターに向けて「搬出」される。「クロニクル、クロニクル!」はそのアッセンブル/ディスアッセンブルの作業をも見せる「展覧会」だ。

(注7)斎藤義重氏の「複合体」(「本物」)の「素材」キャプションは「ラッカー,木・ボルト」であり、ボルトが「ボルト」として明記されている。一方、清水九兵衞氏の「京空間」のそれは「アルミニウム」としか書かれていない。ボルトの扱いに於ける両者の差異を、作品に関する考察の対象とする事は十分に可能だ。

アッセンブリーとしての「清水九兵衞彫刻」。それは「分解」をしたくなる彫刻なのである。少なくとも時計を「分解」したくなる様な子供はそう思うに違いない。そして〈観念〉としての「時計」が、子供の「失敗」により二度と組み上がらない様に、〈観念〉としての「清水九兵衛彫刻」が二度と組み上がらなくても、それはそれで反復の中に生きる、「失敗」を「失敗」として認識しない子供――「失敗」を主題的に浮上させる様なロマンティシズムに決して陥らない者――にとってはどうでも良い話だ。そしてその時、「清水九兵衛彫刻」は(子供にとっては)「準=芸術品」としての「プロトタイプ」の地位を得るのかもしれない。

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「クロニクル、クロニクル!」のマネキンは裸だった。それは本来マネキンにとって決して人様の前に出して良い姿ではない。

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その裸の姿は、マネキン工場やクローズされる事で客の視線が及ばない閉店後の店内等の中でこそ、露わにして良い姿である。一般的に、彩色される事で完成するマネキンとは、裸を見せない「リカちゃん」や「バービー」同様、マネキンという「職業」を指しているのであり、それは「職業」意識の全く異なる彫刻に於ける人体の意味とは重ならない。昨今の洋品売場を席巻中の、平和マネキンによる「きゃらもあ2」は、「キャラ設定込み」という点も含めてマネキンという職業の今日的な在り方を示しているが、しかしそれを裸にしても得るところは殆ど無いだろう。

クラシカルなマネキンを客体的な意味での「彫刻」として見る事。それは美大や美大予備校――ルーブルの様な美術館(日本のそれは含まれない)の展示室内でも良いのだが――で、「ギリシャ時代」や「ローマ時代」等の、その時代なりに理想化されたプロポーションを持つ「人体」彫刻(として再発見された「マネキン」)を、イーゼルを立ててデッサンする者の視線と同じものを「彼女」たちに投げ掛ける事になる。

但し正確に言えば、石膏デッサンに代表される彫刻デッサンに於いては、描く対象である「彫刻」に対して「彼女」という人称的な認識はされない。イーゼルを挟んで見る「ミロのビーナス」は「彼女」としては存在しない。剰えイーゼルの向こうに「ある」ものが生身のヌードモデルであったとしても、「美術」ではそれを「彼女」として描く事は禁じられている。それは後にも先にも「人体」の造形的な〈観念〉でしかないものだ。

アカデミーの石膏デッサンで育った者がマネキンを作る訳であるから、そこに彫刻的に見るべきところが現れもするだろう。それは大衆音楽の歌い手である淡谷のり子藤山一郎の歌唱に、クラシック唱法的に聞くべきところが現れる様なものだろうか。とは言え、彫刻が求める非人称性と、マネキンが求められる非人称性は、根本的に異なるものであるという事実は最低限抑えておく必要がある。

その上で、2017年の1月にクラシカルな「彼女」達がこの会場に再び呼ばれる事を拒まないとして、その時「彼女」達は2016年の同展同様に、再び「美術」的な対象としての裸の姿でここに立っているだろうか。であれば、次はイーゼルを立てての「マネキンデッサン」のワークショップなのかもしれない。

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credule, quid frustra simulacra fugacia captas? quod petis, est nusquam; quod amas, avertere, perdes! ista repercussae, quam cernis, imaginis umbra est: nil habet ista sui; tecum venitque manetque; tecum discedet, si tu discedere possis!

Metamorphoses: Publius Ovidius Naso

 

浅はかな少年よ、なぜ、いたずらに、儚い虚像を捕まえようとするのか? お前が求めているものは、何処にもありはしない。お前が背を向ければ、お前の愛しているものは、無くなってしまう。お前が見ているものは、水に映ったumbra(影)でしかない。そのものは、固有の実体を持たず、お前と共に来て、お前と共に留まっているだけだ。

変身物語:オウィディウス

西洋絵画の主要な主題の一つとして存在する「自画像」は、畢竟「鏡面」を描く事を意味している。ただそれを見ている者(画家自身すら)が、それが「鏡面」である事を意識していないだけの話だ。

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Autoritratto entro uno specchio convesso: Parmigianino(1524)

「牧田愛」に、牧田愛氏(やそのカメラ)は映り込んでいるだろうか。当然それらは「映っている」筈である。しかしそれは「浅はかな少年」(ナルキッソス)の静まり返った水面とは全く異なる波打つ水面だ。波打つ鏡面ビックリハウスの鏡は「アンチ・ナルシス」だ。

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遠からずこの世から失われてしまう/それまでは世界にあり続ける儚げな鏡を描く。それは遠からずこの世から失われてしまう/それまでは世界に生き残っている自分を描く事でもある。

「牧田愛」を見ている背中に鏡の存在を感じた。

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瞳の中に自分が映り込んでいる。誰かに「見られている」という感覚は、こうしたところからも来るのかもしれない。瞳の中に映り込んでいる「牧田愛」をバックにした、遠からずこの世から失われてしまう/それまでは世界に生き残っている自分――2017年の「第2クロニクル」時にこの世に生き残っていない可能性は当然ある――を写真に撮った。

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二つ目の「川村ネスト」を見た後、CCO二階の最後の部屋で斎藤義重に遡行的に繋がった

あの天井から電源コードで宙吊りになっていた――床から離されていた――60ワットの電球は、重力に全面的に身を委ねていて、床に着地する事が出来た「同じ電気」を分け合う650ワットに照らされていた。それらの反射光の減衰の度合いによって感じられる空間的な距離感が、それらをして空間内に位置する「実体」であるかの様に思わせていた。

その天井から電源コードで宙吊りになっている電球は、あの電球とは違って飛ぶ事が出来る。但し「リード」に繋がれている為に、その動きは動物園の動物を思わせたりもする。野生の蛍とは違うのだ。

その飛び回る電球は、そこにあるものが「実体」として落ち着こうとする事を常に妨げようとする。空間に於ける位置の基準点として存在しないその電球は、壁を、床を、天井を常に不安定なものにする。加えてそこにある大小様々な鏡が、その電球の光をてんでばらばらに「増幅」する事で、それらの不安定さはいや増しになる。当然この部屋に入り込んだ者も同じだ。

恐らく所謂「聖書」に書かれているところの “Dieu dit : « Que la lumière soit » et la lumière fut."(神は「光あれ」と言われた。すると光があった)の「光」は、こうした不安定極まりない「光」を想定してはいなかっただろう。しかし所謂「聖書」が想定しているだろう「光」を放つ、地球星人に「太陽」と呼ばれているところの、しかし「全宇宙」的には極めて平凡な恒星―ー「聖書」という古代の聞き書きが、「太陽」よりも「上位」にある現実的な「光源」を想定しているとは到底思えない――は、複雑に重畳した「周回」を回る「リードに繋がれた電球」でしかないのである。

この部屋に置かれていた「鏡」の全ては「平面鏡」だった。「鏡」=「平面鏡」という、あのナルシスから始まる観念的な「縛り」は、それだけ人類にとって強力なものだ。仮にそこに「牧田愛」の「鏡」があったらどうだったのだろうか。

【続く】