窓と壁

【前説 1/3】

悲しくも人類にしか出来ない暴力の形。

Sirens of the lambs : Banksy

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 【前説 2/3】

 “Güterwagen" =「貨物のワゴン」。このドイツ語は、日本語では通常「貨車」と訳される。

ポーランド南部の小さな村ブジェンジンカ(Brzezinka)村境沿いのユデンランペ(Judenrampe)に、数十年インストールされているこの年代物の “Güterwagen" は二軸車である。スポーク車輪の軸受の上には、相対的に簡便廉価なサスペンション・システムであるリーフスプリングが渡されている。決して乗り心地が最上であるとは言えない。しかし「客車」ではない「貨車」であるから、この「貨車」を走らせていた者にとってそれは問題とはならなかったのだろう。

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これと似た型式の「貨車」の内部はこうなっている。「貨物(Güter)」が「窓」を必要とする事は「無い」。この羽目板二枚分の開口部は「窓」ではなく、最低限の「換気」の為のものだ。この開口部に有刺鉄線を巡らせたケースもある。開口部から「貨物」が車外に「飛び出して」しまう事を防ぐ為にだ。 

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他の型式のものには「貨物」への監視塔が備えられているものもある。

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ブジェンジンカ村の「貨車」は、上掲ストリートビュー左手のポイントで左側の支線に入り、170R 前後の左カーブを100度強曲がり、この村で唯一の直線道路、ウリツァ・オフィアル・ファシズム(Ulica Ofiar Faszyzmu)とゲートを潜って、操車場を備えた施設に到着する。直近のオシフィエンチム(Oświęcim)駅で「仕分け」され、窓の無い「貨車」の中で生き残った者は、そこから再び窓が殆ど無いか、或いはそれが全く無い「働けば自由になれる(Arbeit macht frei)」が掲げられた建物へと収められて行く。

「窓」を奪って「貨物」にするという、悲しくも人類にしか出来ない暴力の形。そこからそれは始まっている。

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【前説 3/3】

嘗て東京の恩賜上野動物園に「ブルブル」という雄ゴリラがいた。1957年(園長:古賀忠道=初代)に同園に推定4歳でカメルーンから「来園」し、同園の「ズーストック計画」事業の一環である「ゴリラ・トラの住む森」エリアが東園にオープンした翌年の1997年(園長:斉藤勝=10代)に、その生涯を閉じた(推定44歳)ウェスタンローランドゴリラ(西ローランドゴリラ)である。

日本の動物園史に於いて、第二次世界大戦敗戦直後の国民的動物園アイドル――占領下の日本国有鉄道が特別仕立ての象列車を走らせた――が、名古屋・東山動物園に生き残っていたアジアゾウの「マカニー」と「エルド」(1937年に同園が木下サーカスから購入した4頭=「アドン」「エルド」「マカニー」「キーコ」の内の2頭。「アドン」と「キーコ」は栄養失調等による衰弱死)やインドのネール首相(当時)から贈られた上野動物園の「インディラ」であるとすれば、1955年の「事故」による名古屋の2頭の象の表舞台からの退場後は、東京の「ブルブル」もその役の一端を担っていた。

ゴリラは非常にセンシティブな動物の一つである。「ブルブル」は、1970年前後に一時期自傷行動に陥っていた。自らの体毛を毟り取ってしまうのだ。食餌を含めたゴリラの飼育ノウハウが日本の動物園でまだ確立されていなかった試行錯誤の時代。「ブルブル」と一緒に暮らしていた雌ゴリラが「リウマチ」と見立てられた症状に罹ってしまう。その治療の為に雌ゴリラが隔離状態に入った為に、その「別離」のストレスから「ブルブル」の自傷行動は始まったとされている。

1971年、「ブルブル」のストレスを低減させようと、飼育関係者がバックヤードの彼の「寝室」に設えたのが、当時一般家庭の普及率が20%前後だったカラーテレビ(19インチ:大卒初任給の5ヶ月分前後の値段)だった。彼に与えられた番組は「野生の王国」(古賀忠通氏監修:主題歌は昭和40年代の日本を象徴する音でもある「シンガーズ・スリー」)や「野生の驚異」、後にプロ野球、プロレス、キックボクシング、ハクション大魔王いなかっぺ大将帰ってきたウルトラマン、ドラマ等といったものであった。

果たして「ブルブル」は「テレビ漬け」のゴリラになって行く。「野生の王国」や「野生の驚異」以外の番組には全く興味を示さなかったというが、それら「野生もの」(テレビサイズの判り易い物語を作る為の脚色/編集あり)の「ドキュメンタリー」は、 9時30分〜17時、及び定休日(月曜)といった、開園時間――それは来園者からの好奇混じりの「監視」の視線を浴び続ける時間(「休憩」無し)である――外という「オフ」の時間を、そこでしか過ごせない「窓」の無い「寝室」に於ける「窓」の代替物であった。21世紀の今ならば、「畜舎」に Wi-Fi を引き、ゴリラに iPad やニンテンドーが渡されていたかもしれない。

f:id:murrari:20110402010206j:plain電波によって運ばれたものの表示に依存する「ブルブル」。野生の何百万倍もの量の人間の視線を集める「博物学」の対象にされて生き続けるという、悲しくも人類にしか出来ない暴力の形からそれは始まっている。

 【前説終わり】

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走る美術館「現美新幹線」

 

 JR東日本では、世界最速の芸術鑑賞「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の運転を2016年春頃に、上越新幹線「越後湯沢〜新潟間」で予定しています。

 

本列車では、
注目のアーティストがこの場所のために制作した現代アート、地元の素材にこだわったスイーツやコーヒーを提供するカフェ、沿線に広がる車窓など、様々な魅力をご用意しております。

 

新幹線で移動しながら現代アートを鑑賞するというユニークな演出をぜひ体験してみてください。

 

http://www.jreast.co.jp/genbi/

 来年(2016年)の「春頃」から、「世界最速の芸術鑑賞」を謳う「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が越後湯沢〜新潟間を走るという。営業キロ134.7kmを50分弱で結ぶ区間である。ミニ新幹線規格のE3系という、JR東日本で余りに余った車両の再利用になる。「アートキュレーション」は「SCAI THE BATHHOUSE」及び「TRUE Inc.」、総合プロデュースは「TRANSIT GENERAL OFFICE INC.」という「東京資本」によるものだ。

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「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の編成図はこうなっている。

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JRは「下り」線の行き先方向から1号車が始まる決まりになっている。従って東京(「上り」方面)を背にした新潟(「下り」方面)に近い方から、11号車の「松本尚」氏、12号車の「小牟田悠介」氏、13号車の「paramodel」(キッズスペース)と「古武家賢太郎」氏(カフェ)、14号車の「石川直樹」氏、15号車の「荒神明香」氏、16号車の「ブライアン・アルフレッド」氏という6両編成(2M4T)になっている。

11号車の「松本尚」車は、通常のE3系を相対的に小改造のまま使用する様だ。12号車の「小牟田悠介」車、14号車〜16号車の「石川直樹」車、「荒神明香」車、「ブライアン・アルフレッド」車は、下り進行方向右側の窓を塞ぐ改造がされて「壁」になっている。上掲動画の車窓風景は、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」で見る事は可能にも思える(素通しガラスの場合)が、その反対方向の車窓風景はデッキに立たない限り見る事が出来ない。

一方13号車の「paramodel・古武家賢太郎」車では、それらの車両の窓とは反対側が開けられているものの、そこは「paramodel」による「キッズスペース」部分に限られていて、車両の残り半分の「古武家賢太郎」氏のエリアである「カフェ」は、その座席周囲以外は全くの窓無しである。

この図面(恐らく実際の設計と大きな変更点は無い)から読み取れるのは、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」を利用する乗客に、なるべく「車窓」から見える外の世界を見させない様にする工夫がされているという事である。11号車の「松本尚」車に、どの様に「アート」作品がインストールされるのかは判らないが、他の(「paramodel」エリアに集まる事を許された「キッズ」以外を除く)車両では、乗客が「車窓」を背にする座席配置になっている。それは鉄道車両に設えられた「壁」に掛かる「芸術」の「鑑賞」に極めて適した座席配置であり、且つ「壁」に掛かる「芸術」の「鑑賞」以外には全く適さない座席配置である。

これは例えば、米アムトラックスーパーライナー・ラウンジ車の、室内に背を向けて「車窓」から見える外の世界を見るのに最適化された外向きの座席配置とは全く正反対のものだ。

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果たして「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の窓は通常車両の様に素通しだろうか、或いは採光の為にのみ存在するスモークの入ったものになるのだろうか。同じE3系の改造車で、同じ6量編成(S51編成)のE926形「新幹線電気・軌道総合試験車(East i)」――所謂「ドクターイエロー」。車体色は黄色ではない――は、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」より窓数が多い。測定機器を積載する車両であるのに。

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いざこの「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が現実化した際には、そうしたものは排除されてしまうのかもしれないが、しかしこの「現在検討中のイメージイラスト」に描かれている「パース」図の、「壁」部分下部のグレーに塗られた「腰板」の存在こそが、この高速鉄道車両に「現代アート」を持ち込もうとする欲望の形とその限界を、極めて良く表しているとも言えるだろう。その意味で、この些かも「現代アート」的ではない「腰板」こそは、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」から決して外してはならないものの様な気がする。

仮にそれが、「腰板」を外された全くの「ホワイトキューブ」になったとしても――それが多少見難くなるだけで全く同じであるとは思うが――「現代アート」→「現代アートであるからこそ壁の存在は必要条件である」→「E3系に遮光性の高い壁を設ける改造を施す」という判断の流れは、恐らく動かし難く既定のものだったと想像される。結果的に「現代アート」→「現代アートであるからこそ壁の存在は必要条件ではない」とはならなかったのである。

しかし窓無しの車両は、外からは「貨車」の様にも見えてしまう。そこで蜷川実花氏による晴れやかな花火でラッピン(wrap in=覆い隠す)する事が必要とされたのだろう。確かにそれで「世界最速」の「貨車」のイメージは払拭されるかに思える。但し所謂「ラッピング」を施された貨物列車(先頭機関車のみ)というのは過去に存在している。

この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」に於いて「壁」が「現代アート」の必要条件の一つであるとすれば、他には何が必要だろうか。「監視員」というのはどうだろう。この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」にインストールされた作品が、同時に動産的な価値を有するものであるとして、その場合「作品に手を触れないで下さい」と書かれていても、動産的価値を毀損する=手を触れてしまいそうになる様な観客/乗客に対して彼らが必要であるとすれば、やはり各車両にそれは配されるべきであろうか。或いは、監視カメラで観客/乗客を集中管理すべきであろうか。その場合、センサー仕掛けのアラームが車内に鳴り響いたり、回転灯が回ったりするというアイディアも有りかもしれない。そうした一連の「監視」には、鉄道警察官を割り当てるべきか。しかし現実的にはセンサー入り防弾ガラスの向こう側に作品を置くのが最もコスト安になるだろう。勿論一切を監視しないままに任せ、通勤電車の車内広告に対するのと同じ様なセキュリティ・レベルにしておくというのも、それはそれで「現代アート」ではある。

「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が走れば、全ての「展示」を見たくなるというのが、この列車をわざわざ選ぶ人間の人情というものだろう。多くの観客/乗客が、この50分弱の間に目の前の1メートル前後(恐らく90センチ〜120センチ程度)の幅の通路を11号車から16号車までの「展示」を移動して見て回るのである。「通路」に対して向けられたシートに座る自分の直前を、次から次へと他車両の観客/乗客がやって来る。大きな作品に対しては、引いて見たくもなるというのも人情だから、その場合は「ソファー」に座る自分の膝先に他の観客/乗客が迫って来る事にもなるだろう。「ガイドツアー」すらあるかもしれない。この通路は通勤電車のそれ以上に「往来」なのである。

「芸術」の「鑑賞」の場は眠りこける場ではない。そもそも「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」のシートは、「ソファー」をイメージしている為に――近距離通勤電車のシートと同じ長手方向に並ぶ――リクライニングしない。この観客/乗客が行き交う落ち着かない場所で、しかもテーブルの無い状態で弁当を食べる訳にもいかなかろう。但しロングシートの通勤電車でそれを食べる事の出来る人間は別だ。

(たったの)50分間を「芸術」の「鑑賞」に浸ってもらうという名目で、敢えて Wi-Fi もコンセントも付けないという事はあるだろうか。確かに「美術館」や「ギャラリー」の展示室内では充電は不可能ではあるし、そこでスマートフォンタブレット端末を取り出すのは美的に躊躇わさせられる。況してやここでラップトップコンピュータ(この席では文字通り膝上に載せての使用になる)を取り出して見積書を作るなど以ての外とされるだろう。

試しに “train lounge" で画像検索を掛けてみると、世界各国の鉄道ラウンジ車両内に於ける「ソファー」の使用例がヒットする。

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これらの多くで重要視されているのは、互いの「顔」を向き合わせた「会話」だ。互いの視線の正面には相手の「顔」があり、その背後にパノラミックな「窓」がある。「順番」としてはそうだ。

何よりもこれらは番号を振られた座席ではない。基本的にラウンジ車両の「ソファー」はチケット販売時に割り当てられた座席ではなく――それらの席は別に存在する――「空き」を見つけて座る椅子だ。

「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の「ソファー」は指定席なのだろうか。その場合、どの席が人気が高いだろう。

f:id:murrari:20151022222959p:plain従来通りのシート配列の11号車の各席は指定席かもしれない。一方、12号車〜16号車の「ソファー」はどうだろう。それは「空き」を見つけて座る席なのだろうか。即ち乗車チケットは潜在的な「立席」である自由席の形で販売され、観客/乗客は椅子取りゲームの様に「空き」を争奪するといった様な。であれば「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」のシートは通勤電車のそれと同じものになる。

それは “Fine art" が壁に掛かっている列車だったこのモスクワの通勤メトロと、構造的には全く同じだ。

外国メディアが差し出すマイクに向けて、動画内のロシアのコミューター(乗客?観客?)氏は言う。"I use this line often and it's nice to see these pictures. I hope it makes art more accessible to young people,"(私はこの3号線をちょくちょく使っているけど、この様な絵画を見る事が出来るのはとても良いね。こうしたものがある事で、若い人達がより芸術に親しめる様になれればと思うよ)。

今から半年後の「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が開通した初日、これとそっくりな「感想」が日本のテレビでオンエアされるのは確実だろう。仮に実際にそれが出て来なくても、テレビ局の編集室や新聞社のPC上で、その様に「要約」すれば良い。そしてその「乗客の声」を以って、報道は「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の「予定稿」通りの「成功」を伝える事になる。

動画の車内の乗客の様子が極めて興味深い一方で、動画の最後のホームのカメラから見た「芸術を見る人達」のバックショットも、中々に良い味を出していると言える。そして「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」は、その外側を覆うラッピングも含めて殆どこのメトロと同じものになる(コンテンツだけ異なる)のである。

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それにしても、何故に「アート」は人々の「正面」に「壁」として立ちはだかり、その視線を我がものにしようとするのか。「背後」であり続ける「アート」というのは無いのだろうか。