PARASOPHIA(序)

【序】


美容師には「現代アート」(表記例/以下同)好きの人が少なくない。その京都のヘアサロンの人もそうだ。待合のテーブルの上には「現代アート」関連の本が置かれていて、先般国立国際美術館(大阪)にも巡回した「アンドレアス・グルスキー展」のカタログもそこに含まれていたりする。あいちトリエンナーレには行かなかったものの、横浜トリエンナーレには行ったという人だ。カテゴライズのバンドを極めて広めに取れば、「現代アート」の範疇にあると言えなくも無い数点の小作品も、店内のディスプレイとして置かれている。


3月下旬の事。その京都のヘアサロンで髪を切られながら、その「現代アート」好きの人に「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015」の話を振ってみた。果たしてここから遠隔の「横浜トリエンナーレ」にも足を運ぶ「現代アート」好きのその人は、この「地元」で行われている「PARASOPHIA」のいずれの作品もまだ見ていなかった。店の極めて近傍にある「京都芸術センター」や「京都府京都文化博物館 別館」、況してや何時でも見られる「大垣書店烏丸三条店(ショーウィンドー)」すら「未見」なのである。毎日の自転車通勤でその傍を通る「堀川団地(上長者町棟)」にも足を運んでいない。


どうやら「現代アート」好きのその人は、「PARASOPHIA」の会場すらどこにあるかを良く知らない様だった。「京都芸術センター」からも、「京都府京都文化博物館別館」からも、「大垣書店烏丸三条店(ショーウィンドー)」からも、それぞれ数百メートルの位置にあるその店の周囲には、「PARASOPHIA」を想起させる何物も町中に存在しない。何かの足しになるのではないかと思い、市中では入手困難な――会場内では幾らでも手に入る――青色のガイドブックを渡した。


「始まる前は行かなければと思っていたんですけどね」


それでも低確率ながら「PARASOPHIA」を見に行く(行ける)かもしれないその「現代アート」好きの人に、一つだけ今回の展示の重要な情報を教えてしまった。それは嘗ての「ドリフ大爆笑」の「もしもシリーズ」が、「京都市美術館」では現実のものとなっているという事である。


いかりや長介が「この映像作品はどの位の長さ?」と聞くと、志村けんが「それは6時間ですよ。ご覧になりますか?」とさらりと惚けて返す。いかりや長介が「こっちの映像作品はどの位の長さ?」と聞くと、志村けんが「それも6時間ですよ。ご覧になりますか?」とさらりと惚けて返す。いかりや長介が「ここにあるの全部見るとどの位の時間?」と聞くと、志村けんが「見るだけで18時間はありますよ」とさらりと惚けて返す。いかりや長介が「開館時間は9時から17時までの8時間(注)しか無いよね。じゃあそれとそれとそれだけを少しずつ」と言うと、志村けんが「それじゃ本当に見た事にはなりませんけどね」と諭す(或いは客のいかりや長介に聞こえない様に小声で嫌味を言う)。


(注)開館時間が10時間の日もある。


この様な形に書き起こしてみれば、「京都市美術館」の展示はいかりや長介の「だめだこりゃ」で落ちて然るべきコントであると判るのであり、従って観客の心に相当に十分な余裕があれば笑うべき事態である。或いは京都の高級料亭の席にその店の厨房で出来る全ての料理がそれぞれ大皿で一度に運ばれて来て、その食べ切れない量に困惑する客を前にして、「当店がセレクトするところを見てくれれば分かる人には分かる」と一品一品がどれだけ素晴らしい料理であるかを長舌を振るって自慢気に解説する店の主人といった様な「ちぐはぐ(非合理)」な事態そのものを、「非常に珍らしいものを見せて貰った」と「有難く」思うべきものであろう。


そんなドリフのコントに「世界を一望する事は、誰にとっても原理的に不可能である」的な誰もが言えそうな付会を与えてガードを固める事は可能かもしれない。しかし「PARASOPHIA」という単なるアート・イベントの弁明の為にそれをしたところで些かも生産的なものになる訳では無いし、やはりそれはドリフのコントを体現していると思った方が余程良いのである。福永信氏のレビュー「第1回京都国際現代芸術祭のために」には、「京都市美術館」の展示に関して「詐欺」という語が複数回登場するものの、詐欺には騙すという明確な意志に基づく周到な計画というものが必要だ。しかしこれはそうした騙しを目的としたものではなく、単純に「アーティストリスト」に基づいて映像作品の時間を重ねていったら「あれれ」になってしまったという事なのだろう。


「PARASOPHIA」で観客がするべきは、「PARASOPHIA」の全イベントを通じてそこに見え隠れしている様々なフェイズの「ちぐはぐ(非合理)」を発見して行く事だ。その事によって、ひいては現実世界の様々な「ちぐはぐ(非合理)」に目を向けるプラクティスにはなるし、実際「PARASOPHIA」の多くの作品が見せよう(暴こう)とするものは、正にこうした現実世界の様々な「ちぐはぐ(非合理)」なのである。従って「あなたの芸術観が変わります!」などというのは本当にどうでも良い話なのであり、寧ろそうした口当たりが良さ気に見える「最先端の芸術に触れる」的な関わり方こそが、実際には「芸術」の持つ力を「啓蒙」の「善意」によってスポイルさせる最悪のものだと言える。



ヘアサロンでの施術が終わり、京都の町へ出る。石を投げれば相対的に美大生に当たる確率の高い京都。既に大学の春休みは始まっている。水も温む晴天の日。烏丸通に出る。「大垣書店烏丸三条店 ショーウィンドー」の向かいのエクセルシオールカフェ烏丸三条店辺りから、20分程そのショーウィンドーの中のリサ・アン・アワーバックとその前の歩道を行き交う通行人を、脳のズームレンズを広角側にズームアウトして観察していた。果たしてそこで立ち止まって作品を見る通行人は誰一人としていない。本当に誰もいない。そもそも世界の「ちぐはぐ(非合理)」をこそ見せようとするそのパネル写真を、その様なものとして認識している者もいない。


後になってショーウィンドー右脇下に美術館形式の相対的に地味なキャプションボードが貼られ、――看板や広告が生き馬の目を抜くラウドな町中でそれらの隙間に埋没して――ショーウィンドー内のパネル写真が「美術作品」である事を通行人に示す形にはなったものの、だからと言ってそれで何かが根本的に変わった訳では無い事を一昨日もその前を通って確認した。寧ろ「美術作品」であると示される事で却って見えなくなるものがある。「『美術作品』を見る」という身構えは、「それ以外の全てを見ない」という事に往々にして繋がってしまうからだ。



エクセルシオールカフェ烏丸三条店は「京都府京都文化博物館別館」の烏丸通からの「入口」でもある。そこから南に歩く事10分。四条烏丸で地下に入り、阪急烏丸駅の駅構内とその車内。その計約1時間で「PARASOPHIA」の青いガイドブックを持っている者には一人も遭遇しなかった。それは自分が見た「横浜トリエンナーレ」の時の横浜の風景とも、「あいちトリエンナーレ」の時の名古屋の風景とも大きく異なるものだった。

      • -


要するに、お上がやるという感じを持たせるのは、それは京都ではないんですね。祇園祭などもみな町衆がつくったんです。この芸術祭も、あとから文化庁助成金を入れましたが、民間ベースで始めました。まず我々でやって、行政は後づけでやっていただくというのが本来の筋ではないかと思っています。日本人はそういうボトムアップのやり方ではあまりうまくいかないことが多いですが、市民が主体となってやった方が面白いという発想もあり得るんです。(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭 組織委員会会長 長谷幹雄氏)


http://synodos.jp/culture/13599


今回の「PARASOPHIA」はオーガナイズに大いに難点がある。勿論初回で慣れていないという事はあるだろう。しかしもしかしたらそれは半ば狙ったものなのかもしれないし、或いはそれは単純に京都という町の持つ、内と外を分けたがる「城壁」的な志向性から来るものなのかもしれない。


「PARASOPHIA」は「メイン会場」の「京都市美術館」=「お上」に合わせる形で全会場の「休場日」が月曜日に設定されている。「公益財団法人」の二会場(「京都府京都文化博物館 別館」「京都芸術センター」)の「休場日」は元から月曜日だが、「堀川団地(上長者町棟)」やオープンエアの「河原町塩小路周辺」「鴨川デルタ(出町柳)」にまで「休場日」を設け、しかもそれを「お上」と同じ月曜日としたのは、実際的に「お上」を頂く形に「PARASOPHIA」があるからだろう。先述の「現代アート」好きの美容師氏は、この月曜日で横並びしている全ての会場の「休場日」に自身の店の「定休日」がぴったりと重なってしまう為に、「PARASOPHIA」に行く機会を予め奪われている。「開館時間」や「作品公開時間」もしっかり「営業時間」と重なっている。


京都市民(「城」の中にいる者)に対してその存在を広報しているのは、着物姿の門川大作京都市長の似顔絵が似合う「お上」の媒体が大半だ。市内で「PARASOPHIA」の相対的に判型の小さめなポスターが貼られている掲示板は、「お上」の息の掛かったものが大部分である。阪急や京阪や近鉄京福といった私鉄各線やバス路線が「PARASOPHIA」のポスターを掲示する事は極めて稀だが、市営地下鉄や市バスといった「お上」の交通機関は、それを駅構内やバス停留所を含めて「取り敢えず」的な掲示はしている。


最初に「PARASOPHIA」を訪れたのは、例外的に月曜日が「休場日」ではなかった3月9日だった――以下に書くのは基本的に3月9日時点での話という事になる。雨まじりの日。自分にとってのアクセスの容易性から「京都芸術センター」を最初に選んだ。降車駅は阪急京都線烏丸駅。「PARASOPHIA」のポスターは構内に一枚も見当たらない。あいちトリエンナーレの時には名古屋市営地下鉄駅構内にトリエンナーレ会場の位置を示す大きな地図が貼られていた。それを見ながらスマホGoogle Map アプリと照らし合わせる。それは町に不案内な自分にとっては必要な情報だった。


一方烏丸駅にはそうしたものは無い。四条駅にも無い。それどころかこちらへ行けという矢印も、どの出口がアクセスに便利かという掲示も無い。地図や地下鉄出口の情報が載っているガイドブックは会場に行けば貰える。しかしそうしたものは駅構内や駅周辺には置かれていない。道案内のボランティアが立っている訳でも無い。つまり最初の目的地に到着して初めてその目的地までのアクセス情報が手に入るのである。これもまた「ちぐはぐ(非合理)」と言えよう。


烏丸駅構内から「PARASOPHIA」のスマホサイトに接続し、出口22から出る事に決める。四条烏丸界隈には「PARASOPHIA」がこの近くで行われている事を伺わせる何も無い。街灯の支柱に「PARASOPHIA」の垂れ幕が下がっているといった様な、そうした「町全体で盛り上がっている」的な風景は皆無だ。実にひっそりとしたものであるし、まだ始まっていないのではないか、出る場所を間違えたのではないかという疑いすら起きる。烏丸通錦小路通の交差に矢印は無いし、錦小路通室町通の交差にも矢印は無く、ここにも道案内のボランティアはいない。付近の商店の軒先に「PARASOPHIA」のポスターを見掛ける事は殆ど無く、青色ガイドブックを置く店も無い。この界隈の道行く人を捕まえて「パラソフィア ハ ドコデ ヤッテイマスカ?」と訪ねても無駄な様な気がする。恐らく100%近くの通行人がその質問には満足に答えられないだろう(町興し的な「堀川団地(上長者町棟)」周辺だけは別)。人跡未踏のジャングルを踏破する様な、観客のアクチュアルなサバイバル能力が試されていると言えなくも無いものの、それを言う事はオーガナイザーに対して些か優し過ぎるのではないかと思い、その考えを引っ込めるに至った。いずれにしてもここに「町衆」感は欠片も無い。何処か隠れた所に「民間のお上」はいるのかもしれないが。



元明倫小学校。最初の会場。「序」であるから、展示(コンテンツ)については別稿に記す。オープンから3日目の3月9日の状態はこうだった。「PARASOPHIA」の会場である事を示す何物も無い(現在は奥の建物の壁の前の手摺に横断幕が見えるものの、会場がここである事を明確な形で伝える情報伝達力には大いに欠ける)。「PARASOPHIA」に金が無いとは聞く。この状態はそういう事情の現れなのだろうか。それとも別の理由、或いは理由にもならない理由(「ちぐはぐ(非合理)」)によってこうなっているのだろうか。


アーノウト・ミックを2時間程見て(その2時間で5人がやって来た。僅か5人である)会場を出る。この日の「展覧会ドラフト2015 PARASOPHIA特別連携プログラム」は、最初に見るべきと作家から指示されている展示が機器故障だった為に見る事を諦めた。そういう日もある。


各会場を繋ぐ横浜トリエンナーレのシャトルバス、あいちトリエンナーレのバスツアーやベロタクシーは、広報的な意味も担っていた。それらの非日常的な「宣伝カー」が市中に走り周り、その各拠点を線で結び付けるだけで、十分以上に「市民」にトリエンナーレの開催を印象付けていたが、「PARASOPHIA」にはそういうものは無い。



京都芸術センターではこういうものを渡される。痒いところに手が届くものを見るのは始めてだ。こういうものの現れこそが「想像力」の賜物というものである。但し次の会場「京都府京都文化博物館 別館」へは、「徒歩10分」(“10 min. walk")というたったそれだけの文字列だけを頼りに行かなければならない。「パラソフィア ハ ドコデ ヤッテイマスカ?」。これから外国人に道を聞かれても「何分歩け(“~ min. walk!")」とだけ言えば良い事を知る。そして後は「ええスマートフォン持ったはるなぁ(=そんなのは自分のスマホで調べろ)」と言えば良いのだろうか。



京都府京都文化博物館 別館」。ここが「PARASOPHIA」の会場である事を示すのは、入口奥の仄暗い空間に掲げられた青いボードだ。


京都市美術館」の最寄り駅、地下鉄東西線東山駅。凶暴な紫に襲われる。暴走するセルフイメージ/ナルシシズム。



改札を出ると床にこういうものが1枚だけ貼ってあった。



京都市美術館へは、徒歩約10分」。「右に行け」とも「左に行け」とも書いていない。そしてそれは日本語のみで書かれている。しかしだからと言って、ここでも “10 min. walk"で良い訳ではないだろう。「パラソフィア ハ ドコデ ヤッテイマスカ?」。


京都市美術館」へ向かう。界隈の「市民」が貼るポスターは、見事なまでに京都国立近代美術館の「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である」(巡回展)ばかりだ。「PARASOPHIA」の「メイン会場」の「お膝元」だというのに。


      • -


多くの美容師が現実的にそうである様に、その人もまた「美術の専門的な教育」を受けてはいない。「美術の専門的な教育」というのは、「美術の作り方」事だけではなく、「美術の読み方」を「学ぶ」事をも――或いはそれを最大の目的として――含まれる。「美術の読み方」を体系的な形で「学ばなかった」人の「現代アート」に対する興味の持ち方は、「美術の専門的な教育」を潜り抜けた者の「現代アート」に対するものとは多かれ少なかれ異なっている。言わばそれは、美術手帖(例)や大学の専門的な講義(例)、或いは「現代アート」の関係者間で成立している言説空間から入って行く「現代アート」の読み方の流儀ではなく、ヘアサロンの施術中に渡されるカルチャーマガジン――トラベルとグルメとカルチャーが一誌の中で同居する様な――に掲載されている「現代アート」紹介記事経由の様なもの、或いはミュージアム・ショップの商品越しから見える「現代アート」の様なものと言ったら良いだろうか。


2015年時点の日本で「美術の読み方」に「精通」していると自認する者が認識するべき現実は、「現代アート」の一定以上の大きなイベントに訪れる観客の「量」的な意味でのマジョリティが、こうした人達によって占められているという事だろう。四国汽船のフェリーに乗って瀬戸内海の島に「現代アート」を見に来る100万人(延べ)全てが、「美術の読み方」に「精通」している――或いは「精通」しようとする――人間であると考えるのは余りに可憐な認識というものだ。「現代アート」イベントの来場者100万人がいる一方で、民事再生法の適用申請をする美術出版社という現実がある。その100万人の大多数は、実売部数から盛りに盛った公称部数が「数万部」の美術専門誌を読む事は無い。彼等は、美術専門誌よりも相対的に「ライト」な媒体の「ライト」な紹介によって沸き起こった「ライト」な動機によって、瀬戸内海の島々に導かれて来ている。


所謂「地域アート」や「国際芸術祭」は、二つの成功によって計られるところがある。一つ目は「美術の読み方」に「精通」していると自認する者が評価する、企画面に於ける「美術」的な意味での「質」的な成功であり、二つ目は実質「美術の専門的な教育」を受けていない者がもたらす来場者数を始めとする「量」的な成功である。アートイベントが発するコードの「質」――「美術の読み方」に「精通」していると自認する者から見て――は極めて優れているが、来場者数は1,000人に届かないというアートイベント(仮定)というものが存在したとして、それは所謂「地域アート」や「国際芸術祭」として成功と言えるか否か。一方で「量」的な成功を第一の目的とする事は、しばしば「質」的な成功への道をスポイルするという考え方もある。来場者数100万人の内、99万9,000人が「誤った読み方」――「美術の読み方」を知っていると自認する者が判定する「誤った読み方」――をする観客で「膨れ上がる」アートイベント(仮定)があったとして――加えてその「膨れ上がった」状態こそが一般的に「地域アート」や「国際芸術祭」の成功の根拠とされていると仮定して――、その一方でその99万9,000人が足を運ばない/足を運ぶ気にさせない(読まない/読む気にさせない)来場者数1,000人のアートイベント(仮定)は、「良さ」の「実質」としては同じものになるのだろうか。


但し「美術の読み方」に「精通」していると自認する者の感度もまた、相互間に広い帯域幅の中にある。「最先端」とされている作品を見に行った――わあ誰某の作品だ、わあ誰某の作品だ。これを見た、あれも見た。それらを「各自の生活を美しくし(吉田健一)」たものとして、自身がこれまでに自分が見た「最先端見聞」コレクションの新たな一項目としてピン止めし、その記憶をリアクション/リプロダクションする事無く、またする気も無く、自コレクションのリストをコレクションのリストとして自慢気に披露はするものの、そのままひっそりと墓場に持って行く――という名所巡り的な演算処理が存在する一方で、その作品を見た事で自身の人生を根本からやり直そう、自身の社会への関わり方を根本から変えようとまで思ってしまう演算処理まで存在し得る。


そのいずれが「正しい読み方」であり、また「誤った読み方」になるのだろう。仮に作家が「この作品を見た者は生き方を根本からやり直して貰いたい」とか「この作品を見た者は社会への関わり方を根本から変えて貰いたい」と考えてその作品を作っているとして(多かれ少なかれ「アーティスト」にはそういうところがある)、観客が作品が様々な形で発しているコードを「正しい読み方」に従って作品に沿って読んだ上で、それでも自らの生き方を1ミリたりとも変化させない事を「誤った読み方」とする事も可ではある。或いは作家がそうした意図を持って作品を作っていないにも拘わらず、その作品を見た事で自身の生き方を根本からやり直そう、自身の社会への関わり方を根本から変えようとまで思ってしまう事を、「誤った読み方」の結果とする事も可ではある。果たして観客自らの人生がすっかり変わってしまう様な「誤った読み方」の出現の可能性は、1,000人も100万人も全く変わらないものであろうか。

      • -


1993年の第45回ヴェネツィアビエンナーレで、金獅子賞を取ったハンス・ハーケ(Hans Haacke)の「ゲルマニア(Germania) 」を思い出している。それは彼の出身国であるドイツの「黒歴史」を扱った作品だった。しかし同時にそれはヴェネツィアビエンナーレ/イタリアの「黒歴史」でもある。1933年に政権掌握したアドルフ・ヒトラーの最初の外遊先が、盟友ベニート・ムッソリーニの待つヴェネツィアビエンナーレの会場だった。1993年の「ヴェネツィア」は、自らの「黒歴史」を扱った作品に金獅子賞を送るだけの「度量」を持っていたのである。


今回の「PARASOPHIA」開催に際して、その関係者は過剰なまでに「京都」を強調する。しかしその「京都」は例外無く口当たりの良い「白歴史」ばかりなのである。「京都」(事実上「洛中」)が「(権力の)中心」であった期間が歴史的に永きに渉るが故に、縁辺の「洛外」とその外側に広がる広大な地域との様々な非対称性から言っても、京都の「黒歴史」は千数百年分だけ存在する。しかし京都の「黒歴史」の部分になると「PARASOPHIA」の関係者は途端に口篭るか、ぼかした表現になってしまうのだ。


今回の「PARASOPHIA」では、フランツ・ヘフナー/ハリー・ザックスという二人のドイツ人が「河原町塩小路周辺」(ぼかし表現)に作品を設置した。ここは或る意味で「京都」に最も近い「洛外」の一つであり、且つ京都の多くの「黒歴史」の中の一つである。「あそこでやりたいの?(長谷幹雄氏)」という「民」のさらりとした言葉の裏にこそ、「PARASOPHIA」の観客は京都が今でも抱え持つ「ちぐはぐ(非合理)」の一つを嗅ぎ付けるべきだろう。


浅田彰京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長:肩書)氏は「パラパラソフィア——京都国際現代芸術祭2015の傍らで」と題されたレビューの中で、「PARASOPHIA」を「国際芸術祭の中でも最もつまらない部類に入る」とした。その浅田氏が「この機会にぜひ訪ねたい」としたのも、京都の「ちぐはぐ(非合理)」が顔を覗かせる場所であるこの「洛外」だった。「河原町塩小路周辺」(ぼかし表現)が今回「PARASOPHIA」の会場の一つとなったのは、二人のドイツ人――「部外者あるいは異物」(ガイドブック解説文より)――の観察力によるものである。精神的に「洛中」の人である河本信治氏も長谷幹雄氏もそこは視界には入っていなかった。


京都には、日本の一部を背負っているという自負があるんです。未来をつくろうとするなら、まず京都が思考と創造のプラットフォームにならなければならない」と河本信治氏は言う。しかしその「日本の一部を背負っている」という「自負」は、例えば沖縄県が「日本の一部を背負っている(背負わされている)」現実とはレベルが全く異なるところで成立している。


京都は「PARASOPHIA」を開催する事で、いつかは「ヴェネチア」になりたいらしい。しかしそこまでになるには相当な「度量」が必要になる。意外に思うだろうが志村けんにはその「度量」が備わっている。志村けんはナルシシックなセルフイメージ=「白歴史」=先人の七光ばかりを語りたがる自慢ばかりの人ではない。世の中には他人から笑われる事(視点の相対化)で何かを表現しようとする「度量」というものがある。そして確かに1993年の「ヴェネチア」にはそれがあった。


これからの「国際展」を開催する都市に真に求められるのは、自己観察に基づく自己肯定という「非合理」な「ナルシシズム」ではなく、開催都市自身による透徹した「自己批判力」=「合理の力」だ。そもそもが「国際」という近代的な概念自体が、「自慢」とは相容れない「合理/合意」の形成に基づくものなのである。

      • -


長過ぎる「序」を終了する。


【続く】