読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ヨコハマトリエンナーレ2014 華氏451の芸術


He saw a family consisting of the father, and mother with 2 boys and a baby. Keith saw father take the baby and throw it from the cliff into the water far below, and then he pushed the other children off the cliff. After that he pushed his wife and then jumpded himself. Keith and his men got there and saw guy still floating alive, so they shot him.


(断崖の上で)彼は父親と二人の男の子の手を引き赤ん坊を抱いた母親の一家を見た。その父親が赤ん坊を取り上げると断崖から遥か下にある海面へと投げ入れ、それから二人の男の子を突き落とし、妻の背中を押した後、父親自身も飛び込んで行ったのをキースは目撃した。キースとその仲間達が一家が飛び降りた場所に到着すると、父親が海面から浮かび上がってまだ生きている事が判ったので、彼等は父親に向けて銃を撃った。(拙訳)


Richard Carl Bright "Pain and Purpose In the Pacific: True Reports of War"
http://www.amazon.co.jp/Pain-Purpose-In-Pacific-Reports/dp/1425125441


IDカードを首から下げた「横浜トリエンナーレ関係者」は、書類に不備が無い事を確認するとニッコリと微笑み、「マイケル・ランディと横浜トリエンナーレ組織委員会による審査を経て承認された」女性に「断崖」の上へと続く階段を登る様に促した。ゲートが開けられた。女性はそれを無表情に上がって行く。その肩には大きめのトートバックが下げられていた。


階段を登り切ると、そこは「断崖」の下にいる「観客」の目が注がれる場所だった。こうして女性は「鑑賞」と「評価」の「対象」になった。「断崖」の下から「証拠」の「記録」を目的とした「カメラ」がその時を今や遅しと狙っている。その時が何時どの様にして訪れるのかばかりが、「断崖」の下の「観客」と「カメラ」の専らの関心事だった。


やがて女性はトートバックを下ろすと、そこから小さなパネル画を何枚か出した。それから少し時間を置いた後、それは「断崖」の下に投げ入れられた。次にまたパネル画を手に持った女性は、今度は少しだけ投げ方に「工夫」を加え、それをブーメランの様に回転させて「断崖」の下に投げ入れた。それを見ている自分の傍らでは、上方に顔を向けた二人の「横浜トリエンナーレ関係者」が「にやり」としている。そしてその内の一人が「断崖」の上に立つ女性に声を掛けた。「アクリルにぶつけて!」。投げ入れ方の指示だった。


「鑑賞される者」と「評価される者」に加えて「指示される者」となった女性は、その指示通りに「ゴミ箱」を構成する透明アクリル板に次のパネル画を激突させた。「横浜トリエンナーレ関係者」の目の前の透明アクリル板に亀裂が入った。その瞬間「横浜トリエンナーレ関係者」の口許は、より一層「にやり」度を増した。そこで女性のパネル画の在庫は底を突き、ドローイングの紙がパラパラと落とし入れられたところで「ショー」は終わった。「断崖」の下から「ショー」に対して拍手が起きた。「ショー」のステージから降りる女性の顔は、達成感に満ち溢れたものではなく、また感傷に浸っている様にも見えなかった。


アート・ビン」を前にした自分を含めた「観客の目」は何処にあるのだろうか。それは「断崖」の写真や映像を撮影した「カメラ」の「位置」と同じものだろうか。我々は「断崖」を、落ちて行く者をその傍らから見る「目(カメラ)」が収穫してきた「テレビ」に映る「光景」でしか知らない。「断崖」へ落ちて行った者の「言葉」はその者の生命ごと失われてしまったし、恐らく今日の我々はそうした「言葉」を聞いて反芻し考える「脳」よりも、「光景」を投影する「目」をこそ優先する。レイ・ブラッドベリの小説「華氏451度」で「言葉」を「焼く」のは、2007年にブラッドベリ自身が明かしている様に、"fireman”をその末端とする所謂「政府」による「検閲」などではなく、「光景」を途切れる事無く大量に提供してくれる自動給餌器の様な「装置」と、それに馴致された「感性」なのである。


" […] Ask yourself, What do we want in this country, above all? People want to be happy, isn't that right? Haven't you heard it all your life? Iwant to be happy, people say. Well, aren't they? Don't we keep them moving, don't we give them fun? That's all we live for, isn't it? For pleasure, for titillation? And you must admit our culture provides plenty of these."


「(略)自分の胸に聞いてみろ。この国で、おれたちがなによりも求めているものはなんだ? 人はみんなしあわせになりたがるものだ、そうだろ? 昔からみんな、そういってただろう? しあわせになりたい、とみんないう。じゃあ、しあわせじゃないのか? おれたちは人を感動させつづけているんじゃないのか、人に愉しみを提供しているんじゃないのか、それがおれたちの生きがいだ、そうだろ? 愉しみと快い刺激を求めて、おれたちは生きているんだろ? おれたちの文化がそういうものを大量に提供してくれていることは、お前も認めなくちゃならんぞ」(伊藤典夫氏訳)


Ray Bradbury "Fahrenheit 451"(1953)


焚書を行う "fireman" の "Captain Beatty(ビーティ署長)" の言葉である。同小説に於けるブラッドベリの最大の「失敗」は、焚書をリテラルな形で使用してしまった事かもしれない。同小説が長年メタファーとしての「焚書」として「誤解」されて来たのは、皮肉にも1951年にリチャード・マシスンに宛てた手紙に書かれていた "QUICK reading people" がそう読み取ってしまったからだと言えなくもない。しかし同小説内での焚書は、思想統制的画一性へと自ら飛び込む事によって進行している人々の「忘却」を「完成」させる為のものでありこそすれ、決して「忘却」の「原因」ではない。その「原因」となるのは "parlor wall(パーラー壁=壁面化した超薄型テレビ)" や "Seashell(巻貝=イヤフォンスピーカーによる音声出力の超小型オーディオデバイス)" といった「装置」だ。


従ってこの「デストピア」で「本」を消して行く尖兵となるのは "fireman(チャッカマン)" ではなく、「パナホーム(例)」や「アップルストア(例)」なのであり、"Guy Montag(ガイ・モンターグ)" は本が入った本棚の前に直接 "parlor wall" を取り付ける施工業者(本を全く「破壊」せずに、その存在を「忘却」させるだけの)として登場すべきだった。そして施工業者モンターグの仕事の後には、象徴的な空っぽの書棚ではなく、極めて楽しそうなプログラムを1日24時間流し続ける4面マルチのテレビが嵌っている。しかもそれはクローゼットのドアの様に簡単に開閉可能になっていて、何時でもテレビの後ろにある本棚の本を取り出す事が出来るサービス機能付きだ。しかしそんな「余計」な機能を使おうとする人間は、この「デストピア」には最早存在していないに違いない。「華氏451度」というのはそういう世界の話なのである。


"sit down and get into a novel(腰掛けて小説の中に遊ぶ)" 様な揺蕩う時間感覚が、「装置」の普及によって決定的に失われたという現実(彼がそれを感じたのは携帯小型ラジオの普及)を目の当たりにして、レイ・ブラッドベリは「華氏451度」を書いたともされている。

      • -


ヨコハマトリエンナーレ2014 華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」展の話だった。同展はとても巨大な「プログラム(「番組」)」である。開場時間は10時から18時までだ。自分は10時10分に横浜美術館の前庭に立ち、18時まで「新港ピア」までを含めて見ていたが、それでも時間は全く足りなかった。ヴィム・デルボア氏と、ギムホンソック氏(「序章1『アンモニュメンタルなモニュメント』」)で30分以上を「使って」しまった。続く「序章2『世界の中心にはなにがある?』」の「アート・ビン」では、「ショー」自体の10数分を挟んでそれについて「考える」時間20分と、その奥の笠原恵美子氏の作品を含めてやはり1時間以上も「使って」しまった。既に時刻は「正午」を回っていた。


そこで「悪魔」の囁きが聞こえて来た。「『断崖』を撮影した『カメラ』の『目』になりな。『テレビ』の『プログラム』の様にここから始まる『展覧会』を見るのだ。ブラッドベリが嫌悪した "QUICK reading people" である事が、この『プログラム』を『踏破』する唯一の方法だ。それで今日のスケジュールを滞り無く進められるぞ。そもそもこの巨大『プログラム』こそは、それを観客に強いる様に出来ているのだ」。現実的な面を優先すれば、そうでもしなければ全てを見られない。確かにまだチケットを捥って「有料」のゾーンにすら入ってもいないのだ。少しだけ「悪魔」に魂を売った。「アート・ビン」の前で敗北感に打ち拉がれた。


あまりに美しい風景を見てしまったとき、
あまりに悲しい出来事に出くわしたとき、
あまりに大きい怒りがこみあげてきたとき、
私たちは語る言葉を失い、絶句してしまう。
「沈黙」とは、「美」や「悲」や「怒」について語られた何万語より、
ずっとずっと重く深くそれらを語る、声なき声である。
あるかなきかの「ささやき」も、聞き入れば聞き入るほど、
心にしみわたる浸透力を持っている。
「沈黙」や「ささやき」に秘められた重みや深度や浸透力には、
よどみない饒舌や大音量の演説をはるかにうわまわる強度がある。
その強度こそ、まちがいなく芸術を生み出す力そのものである。


最初の「本編」は「第1話『沈黙とささやきに耳をかたむける』」だった。或る意味で、ここで本展の全てが終わったとしても良かったのではないかとも思えるが、流石に「巨大ヴォリューム」である事が外す事の出来ない絶対条件になっている「横浜トリエンナーレ」という「プログラム」的にはそういう訳にも行くまい。しかしこの「第1話」では自分の「カメラ」のファインダーからは目を外した。「カメラ」(入力)こそは「テレビ」(出力)と対になって「沈黙とささやきに耳をかたむける」事を阻害するものであるからだ。実際カジミール・マレーヴィチやアグネス・マーティンを「カメラ」の「目」で見ても面白くも何とも無いだろう。この「第1話」は、この先「カメラ」の「目」でこの「プログラム」全体を見るかそうでないかの選択を迫っているのだとも言える。


「第2話『漂流する教室にであう』」。観客の多くはリアルな「カメラ」をここぞとばかり取り出した。人々のサイトシーイングが始まった。或いは多くの観客がサイトシーイングしなければならない程に、彼等にとって「釜ヶ崎」は遠い。しかし「想像力」の力によってそれは極めて近いものにもなる。更にここには「10時から18時まで」最長8時間座れる椅子もある。


「第3話『華氏451はいかに芸術にあらわれたか』」の白眉は、自分にとっては「大谷芳久コレクション」と「松本竣介の手紙」だった。そしてケースの向こう側に「見る」ものとして置かれた「本」をして、それを「眺める」しかない身を恨んだ。ページを捲って読める様になっていれば(それこそが「テクノロジー」によって可能になっていても良かった)、最低2時間(本の全てを読むにはその位掛かる)はここに "sit down and get into" して読みたかったものだったのに、「プログラム」の都合上か「本」は遠ざけられてしまった。


それからは想像上の「カメラ」をしばしば取り出しつつ、足早になってしまった事を告白せねばならない。10時台から美術館に入り、作品に対する「礼」を端折りに端折って15時にシャトルバスを待つ。新港ピアに行かねばならない。何故行かねばならないのかは自分にも説明は出来ないが、兎に角行かねばならない。しかし展覧会のクローズ時間までには後3時間しか無い。そして残り3時間弱では、やはりそこでも何かを「捨てる」しかないと思った。「アート・ビン」を思い出して苦笑した。


案の定、新港ピアでは足を運ばなかったエリアが存在した。足を運んだだけというエリアも多かった。「カメラ」を取り出す余裕も無かったエリアも存在した。映像作品の幾つかはその途中まで見て立ち去った。それら多くのものを「捨て」、「海岸通りエリア」も「黄金町エリア」も「捨て」、みなとみらい線への接続に便利な美術館行きの最終バスの人になった。やり方によっては全てを「回る」事は可能だっただろう。しかしそれはそれで別の何かを「捨てる」事になる。いずれにしても、美術館やギャラリーに展示されていても、それでも作品は「捨てられる」のである。"parlor wall" の後ろにある、誰からも顧みられない本の様に。


美術館の西側に到着したバスから、美術館の中を通ってみなとみらい駅へと向かう。再び「アート・ビン」の前を通る。この「断崖」の下にあるものに対しては、「参加作品は会期終了後に全て廃棄処分いたします。返却はできません」という「宿命」が待っている。会期終了後に横浜美術館にパッカー車がやって来て、「崖下」の「ゴミ」は横浜市資源循環局の何処かの工場に行って処理され、そこから最終的に南本牧廃棄物最終処分場へと向かうのかもしれない。


でもなぜ「ゴミ箱」なの


(略)失敗作、未完成作、制作の途中で捨てられてしまった作品、これらの果てしない試行錯誤なしに、 名作は生まれてきません。有名無名を問わず、また成功か失敗かには関係なく、さまざまな場所でさまざまな人が試みるさまざまな表現のすべてが、 美術の世界をささえる礎(いしずえ)となります。


http://www.yokohamatriennale.jp/2014/artbin/index.html


「作った者」から「失敗」と見做されたものが「捨て」られるという古い話を思い出した。


雖然久美度邇此興而生子水蛭子此子者入葦船而流去次生淡嶋是亦不入子之例


然れども久美度に興して、子水蛭子を生みたまひき、此の子は葦船に入れて流し去てたまひつ、次に淡嶋を生みたまひき、是亦子の例に入れたまはず。


However they mated anyway and later fathered a child Hiruko, who was placed in a reed boat dragged by the current. Afterwards they gave birth to Awashima. Neither Hiruko and Ahashima were considered legitimate children of Izanagi and Izanami.


古事記


赤ん坊を海に投げ入れ、二人の幼い息子を突き飛ばし、妻の背中を押した父親の信ずるところは「『戦陣訓』本訓其の二第八」だったのかもしれない。水蛭子や淡島は、伊邪那岐伊邪那美の信ずるところを以って、彼等が「失敗」であるとされ「捨て」られるに至った。「アート・ビン」での信ずるところは何だろうか。


日本全国には水蛭子を祀る神社が多数存在している。それは少なからぬ「国生み神話」の「裏」を読める「想像力」を持った人達によって建てられたものだ。そうした「想像力」は、小説「華氏451度」の後半に登場する、書物を諳んじる行為以上のところにある。「古事記」や「日本書紀」を自らの脳に収めているだけでは駄目なのだ。


果たして「横浜トリエンナーレ」という「プログラム」を見た観客の内、その手の「想像力」を持った者はどれだけ居るものだろうか。「想像力」というのは、「横浜トリエンナーレ」という「プログラム」の「現象」的レベルから、どれだけのものを「読める」のかという各々の持てる「能力」の事である。少なくとも森村泰昌氏は、それを「横浜トリエンナーレ」という巨大な「プログラム」に仕込みつつ、それを見る観客の「能力」がどれ程に備わっているのかを「意地悪く」試しているだろう。そうでなければこの「プログラム」の持つ意味は何も無い。


「世界の中心」と言うよりは「世界の基部」に「忘却の海」はある。そしてそれを覗けるのは唯一つ「想像力」だけなのである。