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無人島にて

大ロンドン市(グレーター・ロンドン:Greater London)内、及びその均衡を走るロンドン・オーバーグラウンド鉄道(London Overground)の路線に、イースト・ロンドン線(East London Line:2010年からロンドン・アンダーグラウンドからロンドン・オーバーグラウンドへ移管される)がある。



そのイースト・ロンドン線にはロザーハイズ(Rotherhithe)ワッピング(Wapping)という駅があり、その両駅間はテムズ川の下を通るトンネルになっている。1843年3月25日に完成したテムズトンネル(Thames Tunnel)である。テムズトンネルは、今日の多くのトンネル工事で採用されている「シールド工法」の先駆けであり、その最初の成功例になる。テムズトンネルに「シールド工法」が採用された理由は、それ以外にテムズ川の下にトンネルを掘削する方法が事実上存在し得なかったからだ。


19世紀初め、大英帝国とその植民地の貿易のハブだったロンドン港は、世界で最も活気付いていた最大の港だった。世界中から海洋上のあらゆる危機を掻い潜り、世界中の積出港から最新鋭の大型外洋帆船で数千マイルの行程を生き延びて来た珍重すべき産品は、しかし事もあろうにそのロンドンという町の中世的なインフラによって流通の速度をスポイルされていた。物流の妨げの一つになっていたのはテムズ川に掛かるロンドン橋である。シティ・オブ・ロンドン(City of London)を最終目的地としてテムズ川に入って来た大型外洋船は、12世紀に架けられた桁の低いその橋梁に、100フィート(約30メートル)の高さのマストを阻まれる形で停止させられる。その停止線=ロンドン橋から下流側の両岸はプール・オブ・ロンドン(Pool of London、ロンドン波止場)として発展し、やがて荷揚げの中心はプール・オブ・ロンドンから下流側のドックランズ(London Docklands)に移る。


問題は市の中心部シティ・オブ・ロンドンの対岸のテムズ川南岸サザーク(Southwark:サウス・バンク=South Bank)地区からシティ・オブ・ロンドンへと至る地上交通路が、事実上ロンドン橋しか存在しなかった点にある。中世とは大きく異るトラフィックの量に、ロンドン橋のキャパシティは限界を超えて久しく、そこでは世界一の慢性的な交通渋滞が常に起こっていた。しかしロンドン橋から下流側に、世界中から集められた富を積む大型船の通行を妨げる様な低い桁の橋を架橋する訳にはいかない。とは言え、仮に固定橋で100フィートを超す高さの橋梁を作ろうとすれば、重いカーゴを引いた馬がその高さまでに登れる為の、非現実的なまでに長大な長さを持つ緩勾配のスロープを作らねばならない。一方で大型の跳開橋を実現させる技術はまだ存在しなかった(タワー・ブリッジ〈Tower Bridge〉が完成するのは1894年)。斯くして両岸をトンネルで結ぶという選択肢が浮上する。



1882年時点でのドックランズ全図。図中に橋は一つも無い。ロンドン橋は図の左外になる。


テムズ川の地質は極めてトリッキーである。それは堆積性の砂、砂利、シルト、石化した木、古代の牡蠣殻等が層を成す「半液体」になっている。蒸気機関車の発明者として知られるリチャード・トレヴィシック(Richard Trevithick)を始めとする数々の技術者と、彼等を擁したプロジェクトの数々が、「半液体」に対して硬い岩盤を前提にした鉱山掘削技術(トンネル側面と天井を木材で強化して行く)でトンネル掘削に挑んでは、深刻な出水の前に敢え無く敗れ去って行った。


フランス革命からアメリカ経由でイギリスに逃れてきたノルマンディー人のマーク・イザムバード・ブルネル(Marc Isambard Brunel)は、「半液体」を掘削するアイディアを持っていた。ブルネルは、トマス・アレクサンダー・コクラン(Thomas Alexander Cochrane)と共に、その工法=「シールド工法」のパテントを取得する(1818年)。そして1825年にブルネルは、同工法でテムズ川両岸のロザーハイズとワッピングを結ぶ水底トンネル=テムズトンネルを着工する。それは容易ならぬ工事であり、途中7年間の休工期はあったものの、最終的に1843年にテムズトンネルは完成する。


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マーク・イザムバード・ブルネルが、今日に続く画期的なトンネル掘削法である「シールド工法」を構想するヒントとなったエピソードが、広く「伝説」として伝わっている。


シールド工法の発明

1800年代初頭、英国のエンジニア、マーク・ブルネルは、フナクイムシ(注:ブルネルのそれは Teredo navalis)が木を掘ると同時に木材の膨張からどのようにして身を守るのかを観察した。これにより彼はモジュール式の鉄の枠組みを使ってトンネルを掘り進むシールド工法を発明し、テムズ川の脆弱な川底の下を通るトンネル工事を成功させた。これほどの幅をもつ可航河川の下へ潜るトンネルはこれが最初であった。その後 Greathead によって改善されたシールド工法は、現在もトンネル掘削において盛んに行われている。


(フナクイムシの)生態


水管が細長く発達しているため、蠕虫(ぜんちゅう)状の姿をしているが、二枚の貝殻が体の前面にある。貝殻は木に穴を空けるために使われ、独特の形状になっている。

海水生。その生態は独特で、海中の木材を食べて穴を空けてしまう。木材の穴を空けた部分には薄い石灰質の膜を張りつけ巣穴にする。巣穴は外界に通じる開口部を持ち、ここから水管を出して水の出し入れをする。 危険を感じたときは、水管を引っ込めて尾栓で蓋をすれば何日も生きのびることができる。



Wikipedia「フナクイムシ」(章立逆)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B7


フナクイムシにとって、海洋中の木材(船を含む)は、彼等の食糧であり同時に住居である。それは彼等がそれを食べ尽くし、住居としての用を成さなくなるまで陸地に回収されてはならないものだ。仮に彼等の食糧/住居がそのまま陸地にすっかり帰属するものとなってしまったとしたら、一転してそこに留まる事は彼等の生存を危うくするだろう。フナクイムシは食糧/住居=木材が陸地の法則に回収される前にそこから脱出し、再び海洋中の新たな木材=食糧/住居へと移る。


フナクイムシが穿孔した木材は、外から見る限り「穴」が開いている様にしか見えない。しかし透視の目でそれを見るとこうなる。



一匹のフナクイムシが、一つの木材を専有する事は無い。ほぼ例外無くそこには複数のフナクイムシがいる。それは人(L'homme)の目には寂れて(déserte)いない様に見える。しかし一匹のフナクイムシにとって、他のフナクイムシは「他者」としては現れない。「壁」を隔てて互いに声を掛け合うという事を彼等はしない。そもそも彼等は「壁」を隔てた先に誰かがいる事も知らないし、それ以前に「壁」を隔てた「横」方向に世界が存在するという「信念(belief)」を持っていない。木材の中のフナクイムシに存在するのは、木材を食べる口を備えた「前」方向と、尾栓を備えた「後」方向のみの世界だ。それ以外には、端的に何も存在しない。前進して行った先が「元いた場所」に行き当たったとしても、彼等はそれが「元いた場所」であるという認識を持たない。フナクイムシ(を始めとする巣穴生活を営む生物)は、巣穴の中に於いては自身のY軸もZ軸も欠いた観念的な意味での「一次元」の生物である。一匹のフナクイムシは、自分が木材にどの様な形で(真っ直ぐなのか、曲がっているのか)、どの様に位置しているのか(真ん中なのか、端っこなのか、縦なのか、横なのか、斜めなのか)を知り得ない。木材がすぐにでも食べ尽くされてしまうのか、それとも(自らの命が尽きるまで)それが食べ尽くされる事が無いのかをフナクイムシは見通せない。そこにあるのはただ「木材とその住人の一体性」だ。


L'unité de l'île déserte et de son habitant n'est donc pas réelle, mais imaginaire, comme l'idée de voir derrière le rideau quand on n'est pas derrière.


無人島とその住民の一体性とは、それゆえ、カーテンの裏にいずしてカーテンの裏を見ていると考えるのと同様に、現実的なものではなくて想像的なものなのである。(國分功一郎訳)


Gilles Deleuze "Causes et raisons des îles désertes"
ジル・ドゥルーズ「無人島の原因と理由」


確かに「人(L'homme)」にとって「無人島とその住人の一体性」は想像的なものである。しかしフナクイムシにとって「木材とその住人との一体性」は紛れも無く現実である。「或る島が無人であるということは、我々にとって哲学的には正常なことと思われて然るべきなのだ(qu'une île soit déserte doit nous paraître philosophiquement normal)」や「或る島が無人島でなくなるには、そこに人が住めば済むわけではない(Pour qu'une île cesse d'être déserte, il ne suffit pas qu'elle soit habitée)」(以上ドゥルーズ前掲書から。訳同)が言えるのは、「二次元」以上を認識出来てしまう能力=原罪を負ってしまった「人(L'homme)」に対してであり、フナクイムシという「一次元」の生物には妥当しない。繰り返すが、フナクイムシには「他者」がいない。従って「他者」との関係で「自己」の位置を定位する事が出来ない。フナクイムシに「自己」は成立不可能だ。言い換えれば「他者」とその反照としての「自己」は、それぞれが平面上、乃至は空間内の「別の位置」を占めると「感得」される「二次元」以上の世界に於いて初めて「出現」する。

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「他者」との関係でのみ成立する「芸術」は、それ故に「二次元」以上の世界で「二次元」以上のものとして現れる。「芸術」が「アーティスト」の「自己」、そして「観客」の「自己」と切り離せないのであれば、原理的には「一次元」の(での)「芸術」というものは存在し得ないし、それを想像する事すら出来ない。


ところで例えば下掲画像は、「彫刻/立体作品及びそれを見る人」と「インスタレーション作品及びそれを制作する人々」に見えたりもする。



しかしこれらはそれぞれ「アリの巣穴にメタルを流し込んだもの」と「ウサギの巣穴にコンクリートを流し込んだもの」である。それらをキャストしたものを掘り出して「三次元」の世界に露出させる事で、「アリ」や「ウサギ」の「営み」を人(L'homme)が「理解」するのに都合良い形に次元変換したものだ。そして「一次元」の世界に住んでいた者の「営み」の「痕跡」を、「三次元」の世界の中で「見通せる」形の「形象」にすれば、確かにそれらは「三次元」の世界に住む「人(L'homme)」からは「彫刻/立体/インスタレーション」に「見える」のである。


フナクイムシやミミズ、或いはアリやシロアリ、またはウサギやモグラよりも、「他者」認識に於いて「高度」であり、従って卓越した空間(三次元)感覚を持っている筈の「人(L'homme)」であっても、例えばこの「JR/東京メトロ京王電鉄東京急行電鉄・渋谷駅」という「巣穴」(burrow、nest、warren) の任意の場所に立った時、果たして自分が何処にいて何処を向いているのかの「感取」は、複数の「他者」の視点が総合される形で記述された「構内図」や「案内板」無しに可能であろうか。



こうした「構内図」もまた一つの「立体図」であるが故に、それは「アリの巣穴にメタルを流し込んだもの」や「ウサギの巣穴にコンクリートを流し込んだもの」の様な「彫刻/立体/インスタレーション」の「形象」を持つ。しかし、駅構内の「立体図(=「立体・図」)」は、他ならぬ駅構内の中にいる者にとっては、誰もその様には「全体」を「像」として「感取」する事は出来ない(=「壁」や「天井」や「床」の向こう側に何があるのかを知る事は出来ない)という点で、この「彫刻/立体/インスタレーション」もまた「カーテンの裏にいずしてカーテンの裏を見ている」様な、「現実的なものではなくて想像的なもの」の「抜け殻」なのである。


我々はこれらの「アリの彫刻/立体」や「ウサギのインスタレーション」をどう見れば良いのだろう。少なくとも「アリ」や「ウサギ」そのものを良く知ろうとするのであれば、それとの距離を保ちつつ腕を組みながら眺めるというアプローチとは異なるものにならねばならない。その様な態度は「人(L'homme)」がそれとして制作した「彫刻/立体/インスタレーション」に対するものだ。しかし「アリ」も「ウサギ」も、当然「彫刻/立体/インスタレーション」を作ったつもりは更々無いのである。従って「アリ」や「ウサギ」に、彼等の「彫刻/立体/インスタレーション」に関して尋ねたとしても、当然「人(L'homme)」が期待する様な回答は得られないだろう。

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無人島にて 「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション


1980年代、オールオーバーで装飾的なインスタレーションレリーフ的な絵画、あるいは絵画/彫刻の復権といった動向とは一線を画しつつも、しかし緩やかなる同時代性を帯びた作家たちの実践があった。建畠晢は彼らの一部を「時代の状況から鋭く孤立したところにそれぞれの拠点を定めた作家」と呼んだが、「関西ニューウェーブ」が席巻し、すべてが「インスタレーション」として呼びならわされていくその過程において、彼らはどのように自らの作品と向き合ってきたのだろうか。そこにはただ60年代や70年代との切断や急激な転換の痕だけが刻まれているわけではないはずである。


「ひとつの島が無人島でなくなるためには、なるほど、単に人が住むだけでは足りない。」―ジル・ドゥルーズが残した奇妙なテクストが私たちにヒントを与えてくれる。他者なきそれぞれの拠点=無人島において、本展の作家たちは自身の日常を信じつつも反転させ、制作を行ってきた。彼らの実践は、無人島になり続けようとする不断の過程なのかもしれないが、その創造性は、これまでの80年代美術のイメージに修正を促すものだ。


断片的に語られてきた彼らの創造性をつなぎとめる係留点をつくりあげることで、本展が「80年代」を再考する一契機になるとともに、それぞれの作家の実践を現在と結びつける場となれば幸いである。


http://aube.kyoto-art.ac.jp/archives/1449


京都造形芸術大学ギャラリーオーブで行われていた「無人島にて」と題された展覧会には、「『80年代』の彫刻/立体/インスタレーション」という副タイトルが付けられている。企画者によるコンセプト文を含めて、メインの展覧会タイトル「無人島にて」を「説明」するかの如くに付された形でこう提示されてしまったら、観客は会場に存在しているものに対して、それぞれの「80年代」(しかし一体何処の世界の「80年代」なのだろう)と、「空間」が先験的な形式であるとして疑わないそれぞれの「彫刻/立体/インスタレーション」(しかし一体何処の世界の「彫刻/立体/インスタレーション」なのだろう)を意識しなければならない気にさせられる。実際この展覧会について書かれたテクストの多くが、多かれ少なかれ「それぞれの『80年代』観」と、「それぞれの『彫刻/立体/インスタレーション』観」を、何処かで巡ってのものであったりする。しかしこの副タイトルとコンセプト文こそは、恐らく極めて巧妙に仕掛けられた本展の「トラップ」なのである。会場にあるものを単純に「(もう一つの)80年代」と見てしまったらそこでゲームオーバーとなるのだろうし、また会場にあるそれらを単純に「彫刻/立体/インスタレーション」と見てしまったらやはりそこでゲームオーバーとなるのだろう。


「無人島にて」というタイトルは、企画者自らが明かしている様に、前掲したジル・ドゥルーズの「無人島の原因と理由(Causes et raisons des îles désertes)」に由来している。1953年に書かれた未発表のこのテクストは、彼によるデヴィット・ヒューム論(「経験論と主体性 ヒュームにおける人間的自然についての試論("Empirisme et subjectivité. Essai sur la nature humaine selon Hume":以下「経験論と主体性」)」1953)の前後に書かれていると思われる。「精神はどのようにして一つの人間的自然に生成するのか(comment l'esprit devient-il une nature humaine ?)」というヒュームの「問い」が、イマヌエル・カントの超越論哲学の内在平面(plan d'immanence)と対比され、最終的にそれら(ヒュームの「経験論」とカントの「超越論」)の内在平面を総合する形で書かれているのが「経験論と主体性」だが、「無人島の原因と理由」もまた、それと同じ「問い」の極めて凝縮されたエッセンスであるとも言えるテクストだ。


先般から何回か引用している「無人島の原因と理由」に於ける「カーテンの裏にいずしてカーテンの裏を見ていると考える」というセンテンスでは、「現実的なものではなくて想像的なもの」として、感性の先験的形式としての「空間」の、他ならぬその先験性を疑っている。即ち「空間」は「前提」的な「形式」としては存在せず、「他者」の存在によって初めて「構成」される様な、「想像的なもの」が「事実」化したものなのである。従って「彫刻/立体/インスタレーション」と称される「観点」(キャストされたアリやウサギの巣穴が「彫刻/立体/インスタレーション」という「空間的表象」に「見える」といった様な)もまた、「想像的なもの」である「空間」をその存在の最大の拠り所とする限りに於いて「現実的ではなくて想像的なもの」になる。


「無人島にて」展会場で配布された「資料」(リンク先 pdf書類)には、実作者の言葉の引用が非常に少ない。「インスタレーション―――1979-1997」という章では建畠晢氏、たにあらた氏の言葉が引用され、続くチャプター「彫刻―――求心的、あるいは遠心的」では中村敬治氏、峯村敏明氏が、チャプター「立体―――ロダンから遠く離れて」では三木多聞氏、石崎尚氏、田近憲三氏、藤枝晃雄氏、他にも帯金章郎氏や、篠原資明氏や、渡部誠一氏や、藁科英也氏といった人達が、「それぞれの『80年代』観」(及び「歴史」観)や、「それぞれの『彫刻/立体/インスタレーション』観」(及び「空間」観)を述べている。しかし敢えて踏み込んで言えば、彼等は「アリの巣穴にメタルを流し込んだもの」や「ウサギの巣穴にコンクリートを流し込んだもの」が、彼等のものの見方の基板である「秩序(ordre)」によって「彫刻/立体/インスタレーション」に「見えてしまう」人達とは言えないだろうか。少なくとも「アリ」や「ウサギ」の側ではなく、彼等は「人(L'homme)」としてそれらを「観察」しようとする人達だ。従ってこの「資料」は、例えば2014年という時間平面でスライスされる「情況」を記すのに、「人(L'homme)」である2010年代の「評論家」と「学芸員」の言葉のみを載せる様な「乱暴」なものにも見える。


当然ほぼ全ての実作者は、現実的な「アリ」や「ウサギ」などと違って(仮に語りたがらなくてはあっても)言葉を発する事は出来るから、30数年前であっても丁寧に掘り起こせば何処かにそうした言葉の断片位は残っているだろう。その中に「空間」という言葉が出現する頻度は、これらの「人(L'homme)」によって発言されたものに比べて如何ばかりだろうか。しかし企画者の文章の締めの部分に「冒頭のエピグラフ(注:「君にそっくりな秩序だ」=ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』より)は強い自戒である」と先回りの形で書かれている様に、この「資料」に見られるこうした「乱暴」さもまた「トラップ」の一つなのだろう。


個人的な経験的知見から言えば、括弧付きではない80年代当時の「空間的表象」に「見える」仕事をする(自分の周囲の)実作者の多くは、しかし「空間」にそれ程興味があった訳では無い様に思える。即ち「先験性」としての「空間」が一義的な制作原理の位置にあった実作者は、実際にはそれ程には多くなかったのではないだろうか。勿論「美術手帖」誌を始めとする美術ジャーナリズムを構成する「人(L'homme)」が喧伝する「空間」をそのままに受け入れて制作した実作者がいなかったと言うつもりは無い。「『空間』に広げる」事こそが関心事であった実作者も確かにいるだろう(直接問い質した訳では無いので仮定法で書く)。その事が「80年代」をして、「『インスタレーションの氾濫』と『彫刻の復権』が同時に語られていた」時代であると「人(L'homme)」から「見える」としても、しかし寧ろ多くの実作者の関心は「営み」にこそあったのではないか。そしてその「営み」が結果として「空間」に展開される形になってしまう事で、「人(L'homme)」には「彫刻/立体/インスタレーション」という「空間的表象」に「見えて」しまうという事ではないだろうか。しかしやはり、「アリの巣穴」や「ウサギの巣穴」といった「営み」を「彫刻/立体/インスタレーション」として「見る」というのは「転倒」であるには違いない。


「無人島にて」展に集められた作品を見て改めて思ったのは、この人達もまた「先験的」なものとしての「空間」を信じていない人達だという事だった。従って「彫刻/立体/インスタレーション」という(「形式」に先立つ「形式」を成立させる)「観点」も信じてはいない。彼等にもまた最初に「営み」がある。当然それぞれの「営み」のかたちは異なるが、しかしいずれも「空間」からそれらが「始まって」いない事は明らかだ。


例えば本展で最も「空間的表象」としての「インスタレーション」に「見える」のは、椎原保氏による「営み」だと思われる。ここで10月11日のトークイベントでも改めて披露された「エピソード」を、その前後を含めて「資料」から引用する。


80年代に精力的に展開された鋼鉄線と石によるインスタレーションを語る上で、椎原は次のような興味深いエピソードを記している。インスタレーションの制作で多忙を極めた椎原は頻繁に東京大阪間を車で行き来していた。深夜、ひとりで車を走らせていると、「運転席から見える目前〔ママ〕の道が、それだけの風景にとどまらず自宅までの具体的な連続したリアルな道として感じられた」という。連続した時間の流れによって一連の空間が繋ぎとめられていくという行為はしかし、確固たる主体という係留点なしには不可能でもある。錯綜し、結びついては霧散する時空間を再構成していく行為は、自分が空間と不可分でありながら、決して同一ではないという事実を自覚する営為である。


確かに「主体」を持たないフナクイムシは、木材の中で「運転席から見える目前〔ママ〕の道が、それだけの風景にとどまらず自宅までの具体的な連続したリアルな道として感じられた」といった様な認識を持ち得ないだろう。フナクイムシに「前後」の次元はあっても、それを「延長」的なものとしては把握出来ない。しかしその一方で、この「具体的な連続したリアルな道」もまた、単に「空間」に於ける「延長」的なものとしては無い。


「具体的な連続したリアルな道」とは、例えば「無人島にて」展の「椎原保作品」へと至る「道」を、「JR「京都駅」より 市バス5系統/岩倉行 『上終町京都造形芸大前』下車」の後、「59段の大階段を登り、『人間館』を入ったところで『左』に曲がり、そのまま『奥』へと進み、突き当たって『右』に曲がり、再び『右』に曲がり、それから『左』へ曲がり、突き当りを『右』方向に見ると『椎原保作品』」という、一種の「道順」として捉える様なものだろう。そうした「道順」は、駅構内に立つ者の頭の中にもあるものだ。「椎原保」の署名がされた「作品」を、「道順の記述」―――太い鉄筋線を真っ直ぐ進み、突き当りを「左」に曲がって細い鉄筋線の路地に入って暫く行き、再び「左」に曲がってより細い鉄筋線の路地の坂道を登って行くとそこに「石」の一角がある的な―――と見る事も可能だ。「道順」を含む「順序」の英訳は "order" であり、それはまた「秩序」を表す。


「空間」や「時間」ではない別の "order" の内に、この「無人島にて」展の作家はいる様だ。「道順」というのがそれであるし、「手順」もまた見受けられる。「順接」というものもあるかもしれないし、それ以外の "order" もあるだろう。それらは狭義の「彫刻/立体/インスタレーション」の様に「眺める」対象としては無い。「アリ」や「ウサギ」の巣穴に入り込んで行く様にアプローチしないとならないものだ。


否、既に観客はアプローチしているのかもしれない。観客は「椎原保作品」を「見る」為に、「椎原保」を「通って」やって来た。そして「八木正作品」「笹岡敬作品」「宮粼豊治作品」「福岡道雄作品」「殿敷侃作品」「上前智祐作品」を「見る」為に、「八木正」「笹岡敬」「宮粼豊治」「福岡道雄」「殿敷侃」「上前智祐」を「通って」やって来たのだ。


再びドゥルーズの「無人島の原因と理由」から引く。


よくよく思い巡らせば、そこで人はありとあらゆる島が、理論上無人であること、あり続けることの新たな理由を見出すだろう。(前田英樹訳)


A bien réfléchir, on trouvera là une nouvelle raison pour laquelle toute île est et reste théoriquement déserte.


そう、「ありとあらゆる島」は無人島だった。それは「彫刻/立体/インスタレーション」や「80年代」という「鳥瞰」的「処理」を拒むものである。従って同展は、これまで「彫刻/立体/インスタレーション」や「オールオーバーで装飾的なインスタレーションレリーフ的な絵画、あるいは絵画/彫刻の復権」として「処理」されて来たものをも、「営み」の「無人島」として見直してみる「始まり」となる展覧会でもあるのだろう。