読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

これからの写真

【枕】


應長のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに京白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に參りたりし、今日は院へまゐるべし。たゞ今はそこ〳〵に。」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言といふ人もなし。上下たゞ鬼の事のみいひやまず。その頃東山より、安居院の邊へまかり侍りしに、四條より上ざまの人、みな北をさして走る。「一條室町に鬼あり。」とのゝしりあへり、今出川の邊より見やれば、院の御棧敷のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。はやく跡なき事にはあらざんめりとて、人をやりて見するに、大方あへるものなし。暮るゝまでかく立ちさわぎて、はては鬪諍おこりて、あさましきことどもありけり。そのころおしなべて、二日三日人のわづらふこと侍りしをぞ、「かの鬼の虚言は、この兆を示すなりけり。」といふ人も侍りし。(吉田兼好徒然草」第五十段)


京都市上京区一条通に「大将軍商店街」という商店街がある。最近では「妖怪ストリート」を自称している商店街だ。上掲「徒然草」の他にも「今昔物語集(巻十六・三十二「隠形男依六角堂観音助顕身語」、巻第二十七・四十一「高陽川狐變女乗馬尻語」)」「宇治拾遺物語(巻十二・百六十「一条桟敷屋 鬼ノ事」)」「付喪神記」等に、平安京の「一条大路(≠一条通)」にこの世ならぬものが出没するという記述が多く見られ、また「百鬼夜行」の舞台でもあるところから、「中立売通(「皇嘉門大路」近辺)」と「西大路通(「野寺小路」近辺)」に挟まれた「一条通」沿いの「大将軍商店街」(「一条戻橋」以西の「右京」側に位置する)振興策として「妖怪ストリート」と銘打たれたものだ。同商店街では「百鬼夜行」や「妖怪」に纏わるイベントを行ったり商品も売っていたりするらしい。


現在の京都の道路は、開発が進まなかった右京の「未開」(「平安京」造営から20数年後の820年=弘仁11年に早くも本来宅地であるべき右京の農地転換が認められる――「類聚三代格」)及び「衰微」、応仁の乱豊臣秀吉による都市改造(天正地割)と御土居建設、第二次世界大戦中の建物強制疎開等によって、所謂「碁盤の目」とも称される平安京条坊制とはほぼ関わりの無いものになっている。現「一条通」は平安京の「一条大路」の位置と一部は重なるもののその殆どがずれていて、しかも東西方向に「真っ直ぐ」ではない。嘗ての「一条大路」は――「延喜式」によれば――十丈(注1)程の道幅を持っていたとされているが、現在の「一条通」は道幅6メートル程の一方通行の生活道路であり、それは道幅四丈(12メートル)だった平安京の「小路」の約半分の広さですらある。加えて平安京造営当初に「一条大路」と呼ばれていたのは二丁(200メートル)南の別の大路(後に「土御門大路」≒現「仁和寺街道」)だった。一方9世紀中頃以降に「一条大路」と呼ばれる様になった大路は、元々は「北極大路」という名称だった(「延喜式」による)。


(注1)約30メートル=片側3車線の東名高速道路の約25メートルより広い。「百鬼夜行」という付喪神の「デモ行進」は現在の基幹高速道路や東京ディズニーランドのハロウィン・パレードよりも遥かに広い見晴らしの良い通りで行われていた。


今日「日本文学」とされてはいるものの、実際には「平安京内に住むアッパークラスの文学」とすら言って過言ではない王朝文学の「今は昔」が何時の頃を指すなのかは多く判明しない。しかし「怪異譚」が成立する条件として、「洛中」(「平安京内に住む者」にとっての日常領域内=「朝廷」の影響力が最大限に発揮される領域内)と「洛外」(「平安京内に住む者」にとっての未知領域)を分かつ北辺の境界線に位置していた「二代目」の「一条大路」がその「舞台」であると考えるのが「筋」ではあるだろう。同じく南辺で「洛中」と「洛外」を分かつ「羅生門(羅城門=西暦980年7月9日の大暴風雨による倒壊を最後に再建されず=「日本紀略」による)」が「怪異譚」の「舞台」である様に。


但し南北5.2km、東西4.5km(現実的にはその約半分=左京側)の小さな長方形(手本とした中国「長安城(=人口100万人)」の1/3以下)の「平安京(=人口10万人)」以外の地が全て「異界」であるというのも、「洛外」に住む当時の大多数の「日本人」(600万人〜700万人)にとっては溜まったものではないだろう――或いはどうでも良いだろう(「征伐」等をされなければ)。



「予二十余年以来、東西の二京を歴く見るに、西京は人家漸に稀らにして、殆に幽墟に幾し。人は去ること有りて来ること無く、屋は壊るること有りて造ること無し。その移徙する処無く、賤貧に憚ること無き者是れ居り。或は幽隠亡命を楽しび、当に山に入り田に帰るべき者は去らず。自ら財貨を蓄え、奔営に心有るがごとき者は、一日と雖も住むことを得ず」(「池亭記」)。「朱雀大路(≒「千本通」)」を挟んで「平安京」の西半分は、殆ど「原野」であるところにやたらに計画的な道だけを付けた、需要を見誤った故に建物が一向に建たないペンペン草ばかりの新興建売住宅地の様なものであり、また「平安京」の南西部は桂川氾濫上の湿地帯であったが為に道すら付けられていない。この狭い盆地に半ば政略的に「みやこ」を移した「朝廷」を始めとする「デベロッパー」の目からすれば、それはさぞ寒々しい風景であった事だろう。ジブリアニメ「かぐや姫の物語高畑勲監督)」で、かぐや姫が「みやこ」の小路(スケールから見て小路)を月に向かって走るシーンがあるが、右手奥に五重塔を見て「家屋敷」が立ち並ぶ「みやこ」というシーンは「平安京」では到底不可能である(実際「竹取物語」は「平城京」が舞台だ)。寧ろ実際の「平安京」は、下掲画像の様な「郊外」の風景ばかりが続くところだったのではないだろうか。この写真の奥方向へ進めば畑と塀一枚で隔てられた「内裏」がポツンと建ち、右の道を進めば新興建売住宅の様な厚みを欠いた、何処か「外国」風(「アーリー・アメリカン調」ならぬ「アーリー・チャイニーズ調」)にも見える「みやこ」が陽炎的に存在し、やがて奥に見える山で「大文字」が焼かれるのである。リアルな「平安京」は(例えば)「ホンマタカシ」氏好きのする風景であっただろう。



Stephen Shore:California 177, Desert Center, California, December 8, 1976


実質的な「みやこ」だった「平安京」の東側=「洛陽(=左京=東京)」の広さは、現在「皇居」と「三権」の中心機能が存在している「東京都千代田区」と同じ位の面積(或いは「羽田空港」と同程度)であり、「平安京」全体でも「東京都千代田区」+「東京都港区」程の面積である(「平安京」約27個分が「東京都23区」になる)。現在の東京都に「内裏」と「皇居」を合わせる形で「平安京」を重ねてみた。参考に現在の「京都の観光名所」の位置も幾つか記す。



上掲画像の平安京復元模型で明らかな様に、現実的に「みやこ」として機能していたのは、北西が「北の丸公園」近辺、北東が「神田」駅近辺、南東が「晴海埠頭」近辺、南西が「田町」駅近辺(=「羅生門」)を結ぶエリアだった。更に「池亭記」の記述に寄れば、その左京側の北半分(東京四条以北)が、実質「高き家は門を並べ堂を連ね,小さき家は壁を隔て軒をつらぬ」という「多く群集する所」となる。「妖怪ストリート」である「大将軍商店街」は「北の丸公園」から「大妻女子大学千代田キャンパス」を結ぶ線の位置(「右京」側)になるから、実質的には「みやこ」の外になる(豊臣秀吉の時代には、御土居の内側にギリギリのところで組み入れられた為に「洛中」となる)。城壁に囲まれた大陸的な「羅城」では無かった「平安京」は、その「内」と「外」が極めて曖昧だ。


王朝文学に於ける「異界」の設定は、「東京都千代田区」以外の日本の全てを「東京都千代田区民」が「異界」とする様な「乱暴」ではある。王朝文学に於ける「怪異譚」は、そのほぼ全てが「洛中」に住む者(=「東京都千代田区民」)から見てのそれであり、決して「洛外」からのものではないという無視し得ない「限界」に注意すべきだろう。勿論「東京都千代田区」のみが「日本」であり、「東京都千代田区文化」こそが「日本文化」であると解釈する「立場」もあり得る。その時「東京都千代田区」以外に住む者は「野性獣心(「日本紀略」に於ける「蝦夷」に対する記述)」であるとも言われるのである。全く以って「地域アート」の問題は坂上田村麻呂(「アート」)/阿弖流為(「地域」)の頃から始まっているのだ。

      • -


【序】


「妖怪」という「異界」の存在(人ならぬもの)は、「日常」(人の世界)とされるものと「未知」(人ならぬ者の世界)とされるものが接するところで姿を現す。但し「姿を現す」と書いたものの、実際には「妖怪」は姿は現さない。元々それは「見えないもの」だ。


「妖怪」の本来的な種はアンコントローラブルな未知なものや不可解なものに対する「恐れ=畏れ」だった。そうした「見えないもの」としての「恐れ=畏れ」に「命名」する事で、相対的合理性に基づく説明の対象とした(注2)のが「妖怪」名であり、「対象とされたもの」を「見えるもの」として固定化したのが「絵師」というヴィジュアルの専門家だった。


(注2)記憶に新しい「広島土砂災害」に於ける「八木蛇落地悪谷」という「地名」もそうした「命名」によるものだろう。「その昔大蛇が暴れて頻繁にこの町を滅ぼしていった」という「言伝」もまた「相対的合理性に基づく説明」である。そしてそこに「気の利いた」絵師が居れば、山谷を暴れ回る「大蛇」を「大蛇妖怪」としてイラストレイテッドもしただろう。しかしその合理性(土砂災害を大蛇の仕業として説明する)そのものの効力が失われた時、その実効性は失われ、「地名」に込められた説明は風化する。そして後に残るのは「大蛇妖怪」の「フィギュア」や「妖怪ウォッチ」だけだったりするのである。


「見えるもの」としての「妖怪」のヴィジュアルが何時から描き表されたのかについては置くとして、その早い時期のものとしては所謂「百鬼夜行」や「酒呑童子」等の「妖怪」表現が上げられるだろう。ここでは既に「怪異」の特性としての「見えないもの」がすっかり捨て去られ、いずれも記号的な「見えるもの=キャラクター」として抜き描かれている。


【枕】で引用した「徒然草」に登場する14世紀(應長のころ)の京都や白川の野次馬(「出で惑ふ」者)は、伊勢から来たという「鬼」を「目撃」しようとして「一条室町」辺りに繰り出して大騒ぎ(立ちさわぎ)し、挙句に殴り合い(鬪諍)までしている。当然「絵巻物」に描かれたその様な「記号」が、現実空間に於いて「鬼コスプレ」的に「見えるもの」として現れる筈も無く、従って誰もそれを「目撃」する事は出来ない(あへるものなし)のは当然である。14世紀の平均的「都会人」は既に「見えるもの」としての「妖怪」の「記号」的ヴィジュアルばかりに関心を寄せ、誰一人として「女の鬼に成りたる」という「見えないもの」に対する想像力を持たない。正に「見えるもの」をのみ追い求めるのは「あさましきことども」なのである。


凡庸な絵師は「百鬼夜行」図の様に「見えるもの」をしか描けないし、また「見えないもの」を描こうという想像力もアイディアも技術も意欲も無い。凡庸な写真家が「見えるもの」をしか撮影出来ず、「見えないもの」を撮影しようという想像力もアイディアも技術も意欲も無いのと同じだ。21世紀の平均的「都会人」が喜ぶ、2014年の「ゴジラ」の「凡庸」がそうである様に。「凡庸」な怪獣映画は「報道カメラ」以外のカメラを持つ事が出来ない。その一方で「報道カメラ」的な映像に慣れてしまった目は、14世紀の「都会人」の様にそこから「見えないもの」を見る能力を失っている。


あの水木しげる氏が、当代切っての最も優れた妖怪絵師である事に異論は無いが、それは当代だけに限らず凡そ「妖怪画」の全史を通じても群を抜いて非凡である。その理由は「妖怪(見えるもの)」の描画が優れているという点にあるのではない。水木しげる氏の「妖怪画」の非凡はその「背景」にある。



水木しげる氏程に「背景」に力を入れている妖怪絵師を寡聞にして他に知らない。水木氏の描く「妖怪」そのものは「百鬼夜行」図に端を発する「記号」表現である。「記号」表現であるから、それをフィギュアやぬいぐるみにする事も当然可能だが、水木氏の非凡はその「記号」表現の後ろに「記号」世界とは全く別の世界を強引に併存的に描画するところにある。前面に「怪異」の「記号」、そして背面に「怪異」の「環境」という二つの世界を水木氏は同時に描く。


「漫画は記号である」としたのは手塚治虫氏だが、世界が記号で記述可能とするこの発言は、「リアルな表現」を是とする「劇画」へのカウンタートークである。しかし「手塚治虫」と「劇画」の差は、「見えるもの」をどう表現するかという方法論的アプローチの違いでしかないとも言える。仮に手塚治虫氏による「ゲゲゲの鬼太郎」があるとすれば、その背景(草木礫石含む)をも記号化するか、或いは無背景で描くだろう。一方別の形で「演者」と「背景」を同質のものとする「劇画」による「ゲゲゲの鬼太郎」は、「鬼太郎」をより「リアル」に描こうとするだろう。「劇画」による「アトム」も同様な形で想像可能(浦沢直樹氏の「PLUTO」という例もある)だ。しかし「手塚治虫」でもなければ「劇画」でもない水木しげる氏が仮に「鉄腕アトム」を描くとすれば、「アトム」のキャラクターを手塚治虫氏が描いた「そのまま」にする(水木キャラ化するにしても)一方で、その「後ろ」に「アトム」を産んだ「科学技術環境(=「見えないもの」)」を「背景」という形で緻密に描き上げるかもしれない。そしてその時「手塚アトム」は「アンコントローラブルな未知なものや不可解なもの」を「背負ったもの」としての「水木妖怪」になるのである。水木しげる氏は「記号=日常」と「環境=未知」という二つの世界の中間にこそ「怪異」が現れる事を良く知っている。即ち実際の「妖怪」は、「妖怪」として描かれた「見えるもの」の「背後」に「スクリーン」として存在する。従って「妖怪」に対して目は永遠に焦点を合わせる事は出来ない。


「妖怪」という「無意識」は視覚領域に外在化はされる事は無い。もしもそれが実証的な形で外在化してしまったら、それは凡庸且つ極めて制度的な「無意識」である「心霊写真」にしかならない。


カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは当然異なる。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである。


ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」


そうしたものもまた確かに「視覚的無意識」ではあるだろう。このベンヤミンの一文は「心霊写真」(=カメラに語りかける自然=無意識が織りこまれた空間)の人が「我が意を得たり」と心強く思うものにもなり得たりもする。


しかし水木しげる氏の妖怪画に於いて、前景の「妖怪」として描かれている「記号」化された「見えるもの」はもとより、「背景」に幾ら目を凝らしたところで「妖怪」という「見えないもの(=潜在性)」は見えない。寧ろ「妖怪」というものは、「見えるもの」として現実化する事の無い想像的な指示作用の事を言う。それ(「妖怪」)を取り敢えず「形ではない何か(= formless - informe ≠「無形なもの」)」と言っても良いかもしれない。当然それは「見えるもの」を捉える機械=カメラ的な「高速」でも「低速」でも「拡大」でも「縮小」でも「見えて」来ないものだ。


水木しげる氏の妖怪画の前に立つ「眼球」は、鬼太郎の父親から落ちて生き延びた目玉の様に、眼前の現実世界を光学的に「見る」という機能性の軛から離れ、二つの「見えるもの」の体系とは異なる「聖なるもの(sacré)」に想像的に接続する事で「見えるもの」の二つの体系を連絡する。



アヒルの体系とウサギの体系の間に「妖怪」はある。しかしその「中間にあるもの」は、決して「アヒルウサギ」といった「妖怪キャラ」の形では無い。従ってそれ故にまた何をも「表象」する事も無い。


それにしても「目」が「頭」に、視神経が首以下の「身体」に変化(へんげ)してしまった「目玉おやじ」の「目」は何処にあるのだろうか。そもそも「目玉おやじ」には「視覚」があるのだろうか。仮に「視覚」を持たないとしたら、「目玉おやじ」が「見て」いるものは何だろうか。

      • -


「芸術とされる写真(≠「芸術写真――Art Photography」)」と「一般の写真」という区別が存在すると仮定する。果たして「芸術とされる写真」と「一般の写真」の差異は如何なる違いから来るものだろうか。「これからの写真」展カタログの冒頭論文、同展の担当学芸員である中村史子氏の「光源はいくつもある―――写真の多義性をめぐって―――」の中には、そうした「特性」に関してこの様な記述がある。


すなわち、写真が作品として美術館やギャラリーに展示され、評価される際、その芸術としての価値は、芸術写真の言説(注3)あるいはポストモダニズムにおける写真の言説(注4)に依拠していた。(略)。芸術写真であれば、印画紙上に刻まれたイメージの妙や、それを生み出す写真家の才能、そして、その両方によって写真というメディウムの独自性を発揮する作品、という風にひとまず定義づけられよう。反対に、コンテンポラリー・アートの中の写真であれば、それら芸術写真が見逃してきた写真の社会的機能や他律的なメディウムの状態に注目したものと言える。


(注3)ここでは主にジョン・シャーカフスキー(John Szarkowski)
(注4)ここでは主にアビゲイル・ソロモン=ゴドー(Abigail Solomon-Godeau)


旧来的な「芸術観」に於いて、永く「芸術」に至らないものとされていた「写真」を「芸術」とする為に、上述ジョン・シャーカフスキーも属していたところの MoMA(=正式な形で写真部門を設置した世界初の美術館)は、初代館長のアルフレッド・バー・Jr 時代から「写真」を「美術館」に収めるのに相応しい対象である事を広く認知させようとしていた。ボーモント・ニューホール(Beaumont Newhall)が企画した1937年の「写真展 1839ー1937(EXHIBIT OF PHOTOGRAPHY 1839-1937)」は、「絵画」の語法を真似る事で「芸術性」を獲得しようとした「ピクトリアリズム」 から、「写真」の固有性を全面化した「ストレート・フォトグラフィ」に転向したアルフレッド・スティーグリッツ(例)を「正当化」する事を軸にした極めて戦略的なものだった。


旧来的な「芸術」が「手」で仕上げられて行く事が不可避的であったのに対し、「写真」は極めて即物的に「目」でしかない。旧来的な「芸術観」が、「芸術作品」を生み出した「手=身体=主体の命令を受けるもの」の持つ「能力」に多く拘るのに対し、「写真」が「目=単眼=表象の基準点=主体」である事を前面に出した事で、「手」の役割がシャッターを押すしかないところまで「後退」した「写真」は、それ故に視覚純化の形式たる地位を獲得する。そしてそこでは、「写真」の前に立つ者は「写真」の中の「見えるもの」を「見る者」(「観手」)になる。


その意味で「写真」は「視覚・文化論」の対象であり続けていた。ジョン・シャーカフスキーによる「写真」に於ける "The Thing Itself(事物自体)" "The Detail(ディテール)" "The Frame(フレーム)" "Time(時間)" "Vantage Point(ヴァンテージ・ポイント)" の「五原則」にしても、それを発展させたスティーブン・ショア(Stephen Shore)の "Phisycal level(物理的レベル)" "Depictive level(描写レベル)" "Mental level(心的レベル)" 及び "Mental modeling(心的モデリング)" の「三原則(+一原則)」にしても、畢竟それらは「見えるもの=写っているもの」をその分析の出発点とするものだ。


「写真」の「芸術」としての価値付けの根拠が「見えるもの」にしか無いとすれば、当然その様な記述は求められて然るべきだろう。しかしその一方で、少なからぬ「写真クリエーター」は、「写真」をして「見えないもの」こそを印画紙(投影スクリーンでもモニタでも良いが)の上に「表す」という「不可能事」に挑んで来たのではないだろうか。そして最も重要なものとして見られるべきそうした「アプローチ」は、アナログであろうがデジタルであろうが基本的に変わる事は無い。同展カタログの二つの論考に、何処かしら隔靴掻痒的な違和感を感じるのはそうした理由による。


「芸術とされる写真」と「一般の写真」の間を分かつのは、スティーブン・ショアの「写真の性質(The Nature of Photographs)」を引けば 「写真は一つの物として世界の中に存在している。靴箱に収める事も美術館に収める事も出来る。売買する事も出来る。実用品として捉える事も芸術作品として捉える事も出来る。写真が見られるコンテキストは、鑑賞者がそれから引き出す意味に影響を与える(As an object, a photograph has its own life in the world. It can be saved in a shoebox or in a museum. It can be bought and sold. It may be regarded as a utilitarian object or as a work of art. The context in which a photograph is seen effects the meaning a viewer draws from it)」という「作用」から全ては始まる。「美術館」に「写真」があれば――例えそれが同じ「写真」であっても――「靴箱」に放り投げ入れられているそれとは違った意味が生まれる。「美術館展示室」と「美術館化粧室」の「便器」の意味が異なる様に。但しそれは現実的な美術館で無くても構わない。「ビュアー(viewer)」が「芸術とされる写真」に美術館で見る様に他の場所でも「アプローチ」出来るのであれば、「芸術とされる写真」が見られる場所は何処でも良い(だからこそ「写真集」が存在可能になる)。


「美術館」の中では「写真」に「見えるもの」として「現れ」、「靴箱」の中では「写真」に「見えるもの」として「現れ」ないものとは一体何か。「靴箱」ではしばしば人は「写っているものとして見えているもの(被写体)」を語ろうとする。「写真」を事物の記録として見る「プラグマティズム」からすれば、それが「写真」である事は重要な事では無い。一方「美術館」であっても、例えば「あー、このピーターはよく撮れてるね」「あ、ハインツだね」で終わる様な「プラグマティック」な「ビュアー」が一定数(相当数)存在するのは確かだ。


トーマス・ルフJPEGシリーズと過去の重要な作品について」
https://www.youtube.com/watch?v=AQpLRMTJGT8


それは水木しげる氏の妖怪画を見て「あー、この百目はよく描けてるね」「あ、子泣きじじいだね」で終わる「リーダー(reader)」が一定数(相当数)存在するのと同じである。当然「これからの写真」展の会場でも、「あ、発破現場だね」「あ、スポンジだね」「あ、第五福竜丸だね」「あ、色んな東北の人達だね」「あ、どこかの古臭い部屋だね」「あ、ちんぽだね」「あ、セットみたいな部屋だね」「あ、ベニヤ板だね」「あ、日蝕だね」で終わる「ビュアー」もまた間違い無く一定数(相当数)存在する。しかしそれらを作り上げる「写真クリエーター」は、多かれ少なかれそうした反応で「終わって欲しくない」と思っているからこそ、「見えないもの」をより「見せよう」とそれぞれにそれぞれの形で「工夫」する。その「工夫」の巧拙や、「見えないもの」に対するセンス(何を「見えないもの」とするかのセンスを含む)の差というものはあるにしても。


「芸術とされる写真」と「一般の写真」の差は、直ちに「特性」として「内在」はしない。それは寧ろ「写真」の「見方」の差異なのであり、「見方」によっては「一飯の写真」とされているものも「芸術とされる写真」になり得る(その逆もあり得る)。但し現実的には「芸術とされる写真」として生産された「写真」には、「単なる再現表象として終わらない」事への「クリエーター」側からの「工夫」が相対的により見られるという事はある。しかしいずれにしても、「芸術とされる写真」の定義とは、「ビュアー」が「写真」の中に「見えないもの」を「見る」事が出来るかどうかの「能力」にこそ関わって来るものなのかもしれない。

      • -


この展覧会に集まった「写真クリエーター」の一人一人に「『妖怪』の『写真』を制作して下さい」と聞いてみたくなった。「妖怪」の「写真」。それは「光源」が関係する世界とは別のところにある「写真」である。しかしこの展覧会にある幾つかの「写真」は、既に「妖怪」の「写真」であった。