東京都現代美術館三題「ミッション[宇宙×芸術]」「クロニクル1995−」

承前


【ミッション[宇宙×芸術]−コスモロジーを超えて】


中学1年だった1969年8月14日に静岡県袋井市で見た星空が忘れられない。後にも先にもこの時の星空が、未だに自分にとって最高のものだ。


その日親戚の家がある袋井に、母親と弟と共に到着した時には既に日がすっかり落ちていた。恐らく8月の日の入り時刻から言って、袋井到着は20時前後だっただろう。袋井に幾つもある手掘り隧道の一つを歩いて潜った記憶がある。殆ど獣道と言って良い道に街灯は一つも無かった。鼻を摘まれても判らない道をひたすら歩いた。


小高い丘の上に出た。頭上はそれまでに見た事の無い満天の星空だった。空がこれ程までに「重い」ものだとはその時まで思わなかった。「星降る夜」という言い回しがあるが、星が「降る」事を星と自分達との距離が縮まって行く事だとするなら、寧ろそれは自分達が星に向かって「降る」事によるものなのではないか。即ち自分達は空に向かって「落ちる」のである。


「落ちる」事を妨げる「足場」は無い。その「足場」ごと自分達は空へ「落ちる」。そして悪い事に「地球が丸い」事を、映像と共に知識として知らされてしまっている20世紀少年だった為に、自分の足のその「下」にも、地球を挟んで自分の「上」に見えている星空がそのまま広がっている事を知っている。「上」も星空で「下」も星空。「行き場=逃げ場」は無い。どちらにしても地球と一緒に星空に「落ちて」行くしか無い。



その居たたまれ無さから何とか逃れようと、自分にとって初対面の認識しかなかった親戚に対して間抜けな質問をした。「ヤマハのテストコースは何処ですか」。袋井に関する自分の有りっ丈の知識は、その半年前の2月12日に福澤幸雄が事故死した地という以外のものは無かった。



1969年というのはアポロ11号月面着陸の年でもあった。袋井での星空体験の約1ヶ月前に、そのテレビ中継を東京都下の駅近くにあった郵趣の店の白黒テレビでちら見した。放送時間を埋めるお喋りばかりが飛び交う退屈なプログラムだった。



奥の間の金魚鉢の様なブラウン管の中に映し出されていたのは、放送規格上の理由で従来型のテレビカメラによって撮影された極めて低画質の「影絵」だった。その「影絵」に対しては、相対的に遠方から送信されているという以外に宇宙は全く感じられなかった。



そして画面の中で星条旗が立った。続いてリチャード・ニクソンが登場した。



歴史の可能性としては、鎌と槌と五芒星の赤旗が月面に立ち、レオニード・ブレジネフがテレビ画面に登場し、その22年後にその赤旗の国が消滅するという展開もあり得た訳だが(星条旗の国は、2014年現在まだ消滅していない)、いずれにしてもその画面は、20世紀少年に「『日常』となる私たちの『宇宙』」を印象付けた。即ち「月面の上の星条旗」こそは「地球」という名の「私たち」の「拡張」であり、「宇宙」の「日常」への「集束」である。その「拡張/集束」の形は、「開発」と呼ばれたり、「旅行」と呼ばれたり、「移住」と呼ばれたりするものになる。「宇宙」を「生産活動の先端の場」にしたい「私たち」も存在する一方で、「創作活動の発表の場」にしたいという「私たち」すら存在するかもしれないものの、それらのベクトルの起点は飽くまでも「私たち」にある。それは決して「星空に落ちて行く」というベクトルでは無い。「私たちの『宇宙』」は「私たち」が「宇宙」に於いても温存される事を前提にしている。それは「テレビショッピング」される様な「拡張/集束」された退屈な「私たち」の「日常」であり「異世界」であり「理想郷」なのである。


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21世紀最初の10年が過ぎ、私たちをとりまく「宇宙」はますます身近なものになりました。研究開発の進むリアルな宇宙と、アーティストの表現としての内的宇宙は、パラレルワールド=並行世界として急速に拡張/集束しつつあります。本展では、2014年夏の宇宙ブームにあわせて、限りなく私たちの日常に近づく宇宙領域と、アーティストらによる内的宇宙を、個々のコスモロジー宇宙論を超える多元的宇宙として呈示します。 日本において戦後すぐに始まったアーティストらの試みは、現代作品(パーティクル=粒子や宇宙線による作品、人工衛星によるサテライトアートなど)として展開を続けています。約10年にわたりJAXAが実施した『人文・社会科学利用パイロットミッション』*)など、世界的にも先駆的かつ意欲的な活動が試みられてきました。また近年、小惑星探査機「はやぶさ」帰還と同2号機打ち上げ、大規模な博覧会や展示施設のオープン、種子島宇宙芸術祭プレイベントなど、宇宙領域は社会的ブームとして活況を見せています。本展は、アートインスタレーション人工衛星やロケットの部品(フェアリング)などの宇宙領域資料、宇宙にかかわる文学、マンガやアニメーションなどエンターテインメント領域、参加体験型作品の展示やトーク&イベントを通じて新たな可能性を探り、「拡張/集束する世界をとらえ、描写する」試みです。かつてのような異世界や理想郷としてだけでなく、本当の意味で「日常」となる私たちの「宇宙」について体験し、考えてみましょう。
*注)宇宙芸術プロジェクト=「きぼう」日本実験棟での芸術実験


「ミッション[宇宙×芸術]−コスモロジーを超えて」展覧会概要
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/cosmology.html


このステートメントを読む限り、2014年の夏は「宇宙ブーム」という事になっているらしい。勿論それは「日本」に限った話である。その「宇宙ブーム」の「日本」にしても、例えば関東地方の催事場の一つである「幕張メッセ」の「宇宙博2014 −NASAJAXAの挑戦」開催や、プロ野球セントラル・リーグ読売ジャイアンツのホームグラウンド脇の中央競馬地方競馬の場外馬券場の上階に開業した「宇宙ミュージアム TeNQ(テンキュー)」や、「アナと雪の女王」レベルまでは到底ヒットしないだろう映画「宇宙兄弟#0」公開等がその根拠になるというのであれば、「宇宙ブーム」なるもののスケールというのはそれに尽きるという事なのだろう。


東京都現代美術館の「ミッション[宇宙×芸術]−コスモロジーを超えて」。恐らくこの展覧会は「宇宙」を知る為のものではない。「宇宙」に仮託する形で、ついつい何かを語ってしまう「私たち」の「欲望」に向き合う為のものだ。


そうした「欲望」を良く表したアネクドート旧ソ連に多くあった政治風刺小話)がある。1961年、ボストーク1号で世界初の有人宇宙飛行を成功させたユーリイ・ガガーリンに関するものだ。因みに日本では「地球は青かった」が彼の「名言」として有名だが、海外のガガーリン関連のサイトにはその「名言」は掲載されてはいない。「地球は青かった」という言葉は、当時のイズベスチヤ紙記事の記者による聞き書き部分の一部を、日本人が推察的に改変して作り上げた、日本でのみ通じる日本オリジナルの「名言」だからである。


宇宙に行き地球に戻って来た最初の人間であるユーリイ・ガガーリンが、その栄誉を称える大パーティーに出席していた時の様子を、彼の親友であり宇宙飛行士の同僚でもあったアレクセイ・レオーノフが語っている。ソ連最高指導者ニキータ・フルシチョフが、部屋の隅にガガーリンを連れ出して質問した。「ユーリイ、正直に答えてくれ。『あそこ』では神を見たか?」。一瞬の間を置いてガガーリンは答えた。「はい同志、私は見ました」。フルシチョフは眉を顰めて言った。「神を見た事は誰にも言ってはならない」。数分後、今度はロシア正教会総主教(アレクシイ1世)が傍らに寄って来てガガーリンに質問した。「我が息子よ、正直に答えてくれ。『あそこ』では神を見たか?」。ガガーリンは(フルシチョフの警告を思い出して)躊躇しつつ答えた。「いいえ聖下、私は見ませんでした」。「神を見なかった事は誰にも言ってはならない」。(拙訳)


When Yuri Gagarin, the first man who went into space, returned to Earth, there was a huge reception in his honor. As his close friend and cosmonaut colleague Alexei Leonov tells it, then-premier Nikita Khrushchev cornered Gagarin "So tell me, Yuri," he asked, "did you see God up there?" After a moment's pause. Gagarin answered, "Yes sir, I did." Khrushchev frowned. "Don't tell any one," he said. A few minutes later the head of the Russian Orthodox Church took Gagarin aside. "So tell me, my child," he asked Gagarin, "did you see God up there?'" Gagarin hesitated and replied "No sir, I did not." "Don't tell anyone."


Anecdote in New Age Journal, Vol. 7 (1990), p. 176


ニキータ・フルシチョフの「欲望」の対象としての「宇宙」。アレクシイ1世の「欲望」の対象としての「宇宙」。穏当に言えば「宇宙」はそれだけ「欲望」にとって融通無碍である。宇宙に神がいる一方で、宇宙に神はいない。そして繰り返しになるが、この展覧会はこうした「私たち」の「欲望」にこそ向き合う展覧会なのである。


本展は「欲望」に数百億ドルを掛けたNASAの部屋から始まる。あの時の袋井の星空のメガ分の1位の「重さ」(実際に巨大な質量のものが散りばめられている訳ではなく、光学的な拡大投影であるからそれは仕方が無い)しかない「MEGASTAR」もまた「欲望」によるバージョンアップが重ねられていた。オーロラの登場、そして東京の登場。いたたまれなくなって「MEGASTAR」の部屋を出た。


なつのロケット団」や「りんごの天体観測」等には「欲望」を相対視する視座が認められた。「欲望」の形としては「ARTSAT:衛星芸術プロジェクト」も悪くはなかったが、「地上」にステイし続ける者(即ち実際に「宇宙」に行って構想してはいない者)の「欲望」の剥き出し度から言えば、JAXAが実施した「人文・社会科学利用パイロットミッション」(第1期第2期)が他を圧倒していた。その中でも「宇宙で抹茶を点てる」「『赤色』でつなぐ宇宙と伝統文化」等が個人的には「心に残った」が、寧ろ「人文・社会科学利用パイロットミッション」は全て合わせて一つの自己言及的な「作品」として見るべきものだろう。改めて「(芸術という)欲望とは何か」に思いを至らせる事の出来る好出展である。


「スペースダンス」は「スペース」から切り離して良いものだと思った。

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【クロニクル1995−】


薮前知子(東京都現代美術館学芸員)氏による「はじめに」と「おわりに」にサンドウィッチされた展覧会だった。その「はじめに」と「おわりに」を引く。


はじめに


 東京都現代美術館が開館した1995年は、バブル崩壊後の社会不安が蔓延するなか、阪神淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件が起き、さらには「戦後50年」や、「インターネット元年」といった呼称とあわせて、日本の社会的・文化的節目の年である、としばしば指摘されてきました。今、この時期を振り返ってみるならば、グローバリゼーションの浸透、経済や教育の分野での新自由主義的方針転換など、現在の日本社会のあり方へつながる数々の契機を見いだすことができます。現代美術の分野でも、こうした社会状況に呼応するような新しい表現が次々と生まれ、それを支えるインフラとして、当館や豊田市美術館といった専門館の開館のほかに、新進のギャラリーやスペースが活発な動きを見せ始めるなど、ひとつの転換期をここに見いだすことができます。(略)


おわりに


 現代美術の表現を通して1995年を考える本展は、コレクションを中心としています。それゆえ、紹介できなかった数々の動向もありますが、何が収集され、されなかったのかも含めて、「美術館にない1995年」を考えることにも意味があると言えるでしょう。これは同時に、「美術に表れた1995年」と、「そうでない1995年」を考えることでもあります。例えば、1995年と言えば、音楽やテレビの世界では、ミリオンセラー、大ヒットドラマが連発された年でもありました。コギャルブームが全国的に伝播した年でもあり、誰もが同じものを見聞きし、同じアイデンティティを纏おうとする欲望が確かに共有されていたと言えます。そのような時期に、「メガ」とは正反対の志向が表れていたことは、美術が社会に対して持ちうる力の一端を示していると言えるかもしれません。あるいは、この年大きな話題を集めたアニメ「新世代エヴァンゲリオン」など、サブカルチャーも含めた1995年の表現を広く俯瞰することも必要でしょう。本展のテーマを美術館の外へ広げていく一助として、最後に、1995年前後の社会・文化情勢をまとめた略年表を展示します。


当然の事ながら、1995年はこの様なものであったと同時に、この様なものでは無かったとも言える。ここに書かれている1995年の素描は、1974年東京生まれの学芸員氏が、21歳の時に見た1995年がベースになっている。それは例えば、1995年時に60歳だった人間や6歳だった人間が見た1995年、「東京」とは縁の薄い「地方」に住む者(例えば「新世代エヴァンゲリオン(本放送の平均視聴率7.1%)」がオンエアされなかった地方であるとか)が見た1995年、「表」とは別の世界に属している人が見る1995年、そして勿論「日本」以外の1995年とは大きくその景色が異なる。それはオウム真理教信者の間で共有していた1995年が、極めて強力に「『メガ』とは正反対の志向」であった事が明らかになった事で、「同時代」という括り方の有効性が失効した年でもあった。


一方でこの展覧会の解説に登場しなかった「重要」かもしれない「日本現代美術の1995年」は、椹木野衣氏の著作「シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術」(1991年)と、同じ著者による「日本・現代・美術」(1998年)の中間に位置しているという事だろう。極めて雑に言えば、「盗め!」と「悪い場所」の中間に日本現代美術の1995年はある。「コミュニズム」が現実的破綻をした1991年に、「シミュレーショニズム」という書名を持つ書籍が刊行された事に、当時感慨を極めて深くした記憶がある。取り敢えず「インプレッショニズム」が美術のモダニズムに於ける「イズム」の嚆矢だと仮定すれば(「細かい」事はここでは省く)、恐らく「シミュレーショニズム」は美術のモダニズムに於ける最後の「イズム」という事にはなるだろう。


同展はホンマタカシ氏と芦田昌憲氏という、それぞれの意味で「現代美術の外部」の人達による「1995年の風景 郊外」コーナーから始まる。1991年か92年に「日経イメージ気象観測」の「今注目している場所はどこですか」という質問に対して、自分は誌面で「都市と地方の界面としての郊外」と答えた。同展に出品されているホンマタカシ氏の「TOKYO SUBURBIA(東京郊外)」を見る度に、思い出されるのはこの1980年の藤原新也氏による「郊外」の「家」の写真だ。



この「郊外」の「家」に関して佐瀬稔氏が書いている文章を引く。


 その住宅街は、昭和四十年代末に、私鉄関連の不動産会社が高級分譲地として開発したところで、ほとんどの区画が二百平方メートル以上。郊外によくある、小さな家が軒を接して密集する住宅地ではない。その上に建つ建物も、一軒ごとに新しいデザインをこらし、家々の間には広くて清潔な道路がのびている。(中略)右側の丘陵地帯が静かな住宅地になっている。(中略)豪華ではないが、それなりに豊かな家が並んでいて、狭いマンションや公団住宅に住む人なら、思わず羨望の思いにかられそうな町の風景が広がる。
 惨劇のあった家は、この町並みのなかでは比較的平凡な和風の構えで、道路から一段高い敷地に木造モルタルの二階建。庭にはツゲの植え込みがある。道を通りかかる人はよく、楽しげに庭の手入れをする主婦の姿を見た。一階が六畳、八畳の和室に洋風の居間、キッチン、風呂場、納戸。二階に二人の息子のための六畳が二つ、という間取りだ。夫婦はともに四十六歳。兄弟が結婚するまではまだ間があるが、ようやく収穫期を迎えようとしている一家には過不足のない住まいだ。サラリーマンが営々として働いた末に、りっぱに自力で手に入れた「終の住処」である。


佐瀬稔「金属バット殺人事件


「思わず羨望の思いにかられそうな町の風景」。それはホンマタカシ氏の写真の中にあり、そして芦田昌憲氏の写真の中にもある。本展はそうした風景の中の一軒の「家」のドアを開けて、その「中」に入って行くという構造を持っている様な気もする。続く「あいまいな日本の私 バッドテイスト」コーナーの都築響一氏を最後に、「現代美術」ばかりに囲まれた空間が続く。そしてその階の終わりに上記の「終わりに」である。


「本展のテーマを美術館の外へ広げていく」と記された「終わりに」の後に、本展の「第2部」が続くのだが、観客のモチベーション的には、ここで「終わった」という感じも無いでは無かった。そして言われるところの「美術館の外」の現実は、「2014年の日本はこの様なものだった」という、近い将来の「総括」を拒絶するものが大いに存在している一方で、しかし確実にそうした総括的なものの一部に包括される何かがあるのだろうとも思われたのである。


【了】