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東京都現代美術館三題「ワンダフル ワールド」

休日に子供と遊びに出掛ける場所の一つに公園がある。市内には大きな公園が幾つか存在している。観光名所がそこに併設されていたり、或いは観光名所の周囲を公園化したりと様々だ。


法的瑕疵を排除する事を目的の一つとして綿密に整備された公園(例:代々木公園、新宿御苑日比谷公園浜離宮恩賜公園)の平板な「自然」は、「自然」を好む大人を納得させるのには成功するものの、その一方で自然を探検や冒険の対象にしたい子供にとって、例えば手付かずの山野と比べてそれは余りにも退屈過ぎる「自然」と言える。


そこで妥協案が図られる事になる。遊具の設置である。公園の「自然」は「公共」の「財産」でもある為に、探検心や冒険心を持つ子供に対しても、花を摘み取ったり、木の枝を折ったり、木登りをしたり、地面に穴を掘る等を強く禁ずる一方で、その代替手段として児童公園エリアを設定してそこに遊具を設置する。とは言えそれらも「公共」の「財産」であるから、子供がその毀損心や破壊心を遊具に対して遺憾無く発揮する事は決して許されてはいない。子供の「乱暴」な扱いで壊れる事は設計上まず無いものの、そこに「悪戯描き」をする事は禁じられている。


公園(児童公園)の遊具の例としてはこういうものがある。


プレイビルダー動物ランド フレンズ(株式会社中村製作所)
http://www.nakamura-mfg.com/products/item/detail.html?p=PBN-031


所謂「コンビネーション遊具」と呼ばれるものだ。総じて子供はこうした遊具で遊ぶのが好きである。一方こういうコンビネーション遊具もある。


城戸真亜子作品 アートを遊具に。


画家の城戸真亜子さんが「人と自然と宇宙の共生」を表現したオブジェが千葉県船橋市に登場しました。「木と水」「人」「宇宙」を象徴したオブジェはブリッジによってかかわり合いつながり、子供たちがよじ登ったり、滑り降りることもできる、隠れ家的要素を含んだ作品です。ニットは城戸さんの願いを忠実に再現し、コミュニケーションのシンボルとして、また遊具として楽しめる空間創出のお手伝いをしました。



アート遊具・城戸真亜子(日都産業株式会社)
http://www.nitto-sg.co.jp/toku/toku10.htm


「アートを遊具に」なのか、「遊具をアートに」なのか、或いはそのどちらでもないのかは判らないが、例えばイサムノグチ氏の「ブラック・スライド・マントラ」というのもそうしたものの例の一つとして上げても良いかもしれない。


「プレイビルダー動物ランド フレンズ」にしても、「城戸真亜子作品」にしても、「ブラック・スライド・マントラ」にしても、或いは「手付かずの山野」や「建物と建物の隙間」にしても、子供はそれぞれにそれぞれの形で遊ぶだろう。子供にとってはそれだけの話だ。「人と自然と宇宙の共生城戸真亜子氏)」も「子どもに遊ばれて(彫刻は)完成する(イサム・ノグチ氏)」も、そこで遊ぶ主体である子供には全く関係の無い話だ。自分達が遊んだ事を、自分達が全く与り知らぬ場所(即ち子供を排除したレイヤー)で、それらの大人が自らの仕事を正当化する事に利用したとしても、それは徹頭徹尾「大人の事情」なのである。


ワンダフル ワールド
こどものワクワク、いっしょにたのしもう みる・はなす、そして発見!の美術展


お子さんといっしょにお話ししながら作品を見てみませんか?
あたらしいことを見つけるおもしろさ、なぜと感じる心、発見を誰かと分かち合う喜び。新鮮な心を持つこどもたちには「ワクワクする心の揺れ動き」をたくさん経験してほしい。


「ワンダフル ワールド」は赤ちゃんから大人まで一緒に楽しめる展覧会です。こどもたちの身近にあって、興味の対象であるモチーフ―フルーツ、電車、鏡、動物、ブロックなど―をアート作品にした5人のアーティストによる空間全体を作り出すような体感型・参加型作品を展示します。


赤ちゃんや小さなこどもを持つ親にとって、こどもと一緒に美術館に行くのが難しいと感じたり、そもそもこどもに美術がわかるのだろうかという疑問を感じたりするかもしれません。この展覧会では、小さなこどもの視覚世界を表現した作品や、作品に触れて遊び体験的に美術を鑑賞する作品が展示されます。こどもの興味や理解に寄り添った作品を展示することで、小さなこどもが楽しめる展覧会を目指します。


美術館という非日常の世界で出会う作品たちを見て思ったことを語らうことで、いつもは気がつかない感覚や気持ちに出会って欲しいと思います。それは自分自身の新たな姿を見つけることであり、そして隣にいるこどもたちと経験を共有することでお互いの世界を発見することにつながっていくことでしょう。視点を変えることで見えてくる世界、それはすばらしい世界"ワンダフル ワールド"なのかもしれません。
絵本を読むように、こどもが興味を示したものに寄り添いながら、自由に語らい作品を見てみませんか。ひとりで見るよりみんなで見て気づくことがあるかもしれません。


みて・はなす、そして発見!の美術展です。



東京都現代美術館「ワンダフル ワールド」
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/wonderfulworld.html


「美術館に行く」事と「美術がわかる」事の間には途方も無い距離がある。「作品に触れて遊び」と「美術を鑑賞」の間にも途方も無い距離がある。「(フルーツ、電車、鏡、動物、ブロックなどの)こどもの興味や理解に寄り添った作品」と「こどもが楽しめる展覧会」の間にも途方も無い距離がある。それらの間は決して容易に埋まらないものだが、しかしここではいとも簡単にそれが繋がる様なものとされている。


例えば「プレイビルダー動物ランド フレンズ」に「触れて遊び」が、「美術を鑑賞」に繋がらないとされるのに対して、「城戸真亜子作品」や「ブラック・スライド・マントラ」に「触れて遊び」が、「美術を鑑賞」に繋がるとされるのは何故なのか、或いは場合によっては「城戸真亜子作品」に「触れて遊び」すらも、「美術を鑑賞」に繋がらないとされるのは何故なのかを、子供が理解出来る形で説明が可能なものだろうか。当然子供相手に「美術だから美術だ/美術でないから美術でない」という同語反復(有り勝ちな教育手法でもある)は禁じ手である。同語反復は「何で」を問い続ける子供相手には通じない。「子供騙し」よりもたちが悪いのは、同語反復が有効な方法論になる「大人騙し」なのである。


会場では作品を殆ど見なかった。そこで子供がどう振舞っているかばかりを見ていた。遊具的な「作品」では、当然の事ながら子供は遊具として関わっていた。即ち「(木場・深川の)記憶の中に広がる風景」であるとか、「楽園/境界」であるとか、「体験する絵画」といったそれぞれの作品コンセプト(付会)は、子供にとっては極めて遠いものだ。保護者が子供相手にそれらを説明するのはハードルが高かろうし、また子供の方も「 相手の立場や気持ちをくみとること」という意味を含めた「理解」を持たないだろう。一方、幾つかの「作品」の前には柵やグレーのテープによる結界が設けられていて、「美術作品」が「毀損」によってその「価値」が減じられてしまうフラジャイルな「財産」である事を、保護者や監視員に「注意」される形で子供に教え込まれていた。しかしそれでも一瞬でも目を離せば、「美術」が「特別」であるという文化的訓練を経ていない子供は、結界の中に入り込んでベタベタとそれを触りまくったりするのである。


クワクボリョウタ氏の「10番目の感傷(点・線・面)」は、この展覧会の中で唯一「得」をした作品だった様に思えた。即ち「子供」と関連付けられる事が些かもマイナスに働かなかった、寧ろプラスに作用したという点でである。



元々子供は鉛筆に宇宙一の尖塔を見る能力を備えている。洗濯挟みに鉄塔を見る子供もいるかもしれない。同作品は子供のそうした能力をほんの少しだけ後押しする。この「(持てる)能力をほんの少しだけ後押しする」というところが重要だ。インプットとアウトプットの間に、何処かのラボで作った様なブラックボックス(コンピュータプログラム等)が介在しないところも良い。全てが「ネタバレ」である事がこの作品を支えている。Nゲージのレールは動画のプログレスバーの様なものであり、その起点と終点と現時点の時間上の位置が空間的に明らかにされている。次に何が起きるのかも、床に置かれているもので大体想像は付く。そうした「ピタゴラスイッチ」的「透明性」が確保されたまま、しかし実際に起きる事はその想像を遥かに超えたものになる。


親子向けの展覧会という事で弁疏的に設定し直された「新作」が多い中、全くの「旧作」であるところも「成功」の鍵になっている。作者自身はこの作品に対して思うところがある様だが、しかし本展に於いて(或いは ICC の初出時から)親子がそこに見るのはそれとは全く別のものだ。恐らくこの「作品」のみが、本当の意味での「親子の対話(実際に話さなくても良い)」を引き出せるだろう。


「美術館という非日常の世界で出会う作品たちを見て思ったことを語らうことで、いつもは気がつかない感覚や気持ちに出会って欲しいと思います」。子供が「美術館で遊んだ」事を「美術が遊ばせた」とする「功績」への誘惑は、美術家や美術館にとって抗し難いものがあるに違いない。そうした「功績」を我がものとしたい美術家や美術館が、「美術館という非日常の世界」や「いつもは気がつかない感覚や気持ちに出会って欲しい」といった言説を弄しているのに接する度に、「抽象芸術」の「優位性」を主張した「クレメント・グリーンバーグ」の「芸術と文化」と同時代の米ライフ誌に掲載された、他ならぬその「クレメント・グリーンバーグ」とその「芸術と文化」に対して、隠し様も無く当て擦り的なキャプションが付けられた古い写真を思い出す。


"At the San Francisco Museum of Art. an abstract gets close scrutiny."


つまりはこういう事だ。確かにここには「非日常」がある。「いつもは気がつかない感覚や気持ちに出会って」もいる。そして子供というものは、例えば「通気口で楽しめる」という「生き方の形式」そのものなのである。そうした「生き方の形式」からすれば、「非日常」と「日常」を分かつものは「美術館」と「その外部」にそのまま置き換えられるものではない。何故ならば「通気口」という「非日常」は「美術館」の外部にも存在するからだ。そうした「生き方の形式」を最大限尊重すれば、「子供」と「美術」の関係性、そして他ならぬ「美術」そのものをもそこから再構築する事が可能ではある。


入場料(保護者一人に付き1,000円也)は紛れも無く「美術展」のそれだった。それが「美術展」として納得の行く値段と言えるかどうか、或いは「子供を遊ばせる場所」として納得の行く値段と言えるかどうかについての言及はここでは省く事にする。


【続く】