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ヤンキー人類学(後)

承前


阿部渉アナウンサー
「さあ続いて、今注目されているキーワードについて、郄木アナウンサーです。」


郄木康博アナウンサー(リポーター)
「おはようございます。そのキーワードが、こちら。『ヤンキー』です。
1970年代、暴走族や不良といわれるような人たちを、ヤンキーと呼んでいました。」


阿部アナウンサー
「でもこういう格好の人は、最近、見かけなくなったような気もしますね。」


高木アナウンサー
「そうですね、その姿は少なくなりました。
でもですね、今、再びヤンキーの存在が、ちょっと形を変えて話題になっています。
ヤンキー消費、ヤンキー経済、ヤンキー化する日本。
見た目はヤンキーでなくても、内面のいわゆるヤンキー的な部分が新たに注目されているんです。」


(略)


「かつてのヤンキーはこういう格好をした人たちでしたね。
でも今、注目されているのは全く別のヤンキーなんです。
今、出てきましたね、こちら、見た目もほとんど普通と変わらないですよね。」


(略)


「おとなしいヤンキー、マイルドヤンキーとも呼ばれます。」


鈴木奈穂子アナウンサー
「そういう名前があるんですか。」


高木アナウンサー
「このマイルドヤンキーを提唱しているのがこちらの方です。
博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダーの原田曜平さんです。
原田さんによりますと、そのマイルドヤンキーの特徴が、こちらなんですが、
特徴、絆、仲間、家族ということばが大好き、大事にしてます。
そして地元大好き。地元(注:画面には「家から半径5km」)から出たくありません。
車が好きです、特にミニバン。
ショッピングモールが好き。
そしてEXILEが好きという特徴は、原田さんが調査をした結果、こういう傾向が見えてきました。」


阿部アナウンサー
「えっ?若者の3分の1ぐらいはマイルドヤンキー?可能性がある?」


高木アナウンサー
「そう結構いるんじゃないかと。
原田さんによりますと、特に都市部の近郊ですとか、地方に多いということなんですね。」


NHKニュース おはよう日本」5月12日放送の「特集」(7:20〜)は「ヤンキー」だった。「NHKニュース おはよう日本」という「国民的番組」の「全国放送枠」で「ヤンキー」が取り上げられたのは、コーナーの後半で上げられている様に、「ヤンキー」が「団塊老人」と並ぶ、21世紀日本に於ける国内需要のマスボリュームとして「発見」されたからだろう。コーナーに登場した「博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダー」の原田曜平氏は、その著書「ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体」(2014年1月30日初版発行)の「あとがき」を、「この本を手掛かりに、消費をしなくなったと言われる若者たちの消費のツボが、より多くの企業の皆様にいくばくかでも届いてくれることを願っています。」の一文で締めている。「博報堂」の人が、「企業人」向けの「ビジネス書」を出した事で、石橋を叩いても渡る事を先送りする「NHKニュース おはよう日本」の腰が上がったのだろうか。Amazon でのカテゴリーでは「本 > ビジネス・経済 > 経済学・経済事情 > 経済学」である「ヤンキー経済」の読者ターゲットの「企業人」は、新幹線や空港の待合室、ビジネスホテルのロビーで流される「NHKニュース おはよう日本」視聴者のマスボリュームを形成する。「国民的番組」の10分間の「特集」は、第4章のタイトルが「これからの消費の主役に何を売るのか」というこの「ビジネス書」の内容をほぼ全面的になぞったものであり、番組中で使用されているイラストも同書のそれを下敷きにするという「まるごと」ぶりであった。


同書が「国民的番組」である「NHKニュース おはよう日本」で「まるごと」されるまでに「成功」したのは、「マイルドヤンキー」というネーミングが受けたという事もあるだろうが、それ以上に「ヤンキー」を「優良な若年消費者」とする事で、売れなくなった物を売り付ける相手としてしか見ていないにしても、取り敢えず「ヤンキー」を殊更な「否定的存在」として扱っていない様に見えるところにあるのだろう。「ビジネス書」というのは、「商品」に於ける「命懸けの跳躍」というギャンブルの「予想紙」や「攻略本」の様なものであるから、「売る」相手を商売上「分析」する事はしても、必要以上に「評論」や「批判」をする事はしない。その意味で同書もまた「予想紙」であり「攻略本」であり、それ以上でもそれ以下でも無い。


その一方で、「ヤンキー考察本」のもう一方の「雄」である「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」や「ヤンキー化する日本」(共に Amazon カテゴリ「 本 > 社会・政治 > 社会学 > 社会学概論」)の著者の斎藤環氏は、2012年暮れの第二次安倍政権誕生の際に、朝日新聞のインタビュー(元記事削除)に答え、「自民党は右傾化しているというより、ヤンキー化しているのではないでしょうか。自民党はもはや保守政党ではなくヤンキー政党だと考えた方が、いろいろなことがクリアに見えてきます。(略)もはや知性や理屈で対抗できる状況にはありません。ある種の諦観(ていかん)をもって、ヤンキーの中の知性派を『ほめて伸ばす』というスタンスで臨むしかないというのが私の結論です」と語っている。ここでの「ヤンキー」は紛れも無く「否定すべき存在」として認識され、また「ほめて伸ばす」という「指導」や「治療」の対象でもある。そうした「否定すべき存在」としてのそれは、しかし電子掲示板辺りで「在日確定!」と言うのと殆ど変わらない「ヤンキー確定!」の様にも思える。「この国は”気合い“だけで動いてる」を言う為に、「あれもこれもヤンキーの仕業」や「ここにも隠れヤンキー」などと言えば、確かに「クリアに見える=腑に落ちる=しっくり来る」気になれる事もあるだろうが、しかしそれは「あれもこれも◯◯人の仕業」や「ここにも隠れ◯◯人」などと言って、「クリアに見える=腑に落ちる=しっくり来る」気になれるのと同じなのかもしれない。「世界が土曜の夜なら」の帯には「たくさんの人が、腑に落ちています!」とあるが、寧ろ「腑に落ちる」事こそ警戒するに強くは無いのである。


著者は精神医学の人であり、その所為もあってか「世界が土曜の夜の夢なら」には「ヤンキーと精神分析」という副題が付けられている。しかし注意すべきは、それが「ヤンキーと精神分析」であり「ヤンキーの精神分析」では無いところにある。同書にはヤンキーが母性的なものに惹かれるといった様な精神医学風の事が書かれていたりもする。しかし「ヤンキー」がそうなるに至る「分析」は少しも書かれていない。それは例えば世の中の事象を「あれも◯◯症、これも◯◯症」と「指摘」するに留める様なものだろう。繰り返して言えば、「ヤンキー」という心性の在り方が何処からやってきたのかという事をこそ「分析」するのが、精神医学の人の本来的な役目だと思われてならない。但し「ヤンキー」と呼ばれる社会的事象=社会的精神は、凡そ精神医学の手だけでは余るものがあるだろうとも思われる。


所謂「ヤンキー論」は、ハーバート・スペンサーパーシヴァル・ローウェルといった「社会進化論」の系譜にあるのかもしれない。1889年から1893年にかけて日本を訪れたローウェルは、日本人を「エリート」と「一般庶民」に分け、欧米化した「エリート」達を殆ど欧米人であると見做して共感の対象とする一方で、「一般大衆」は進化論的に劣勢にあるとして違和の対象とする事を隠さない。ローウェルが言うところの「一般大衆」は、やがて柳田国男の「魚の群れ」を経て、宮台真司氏/大塚英志氏の「田吾作/土人/愚民」、與那覇潤氏の「江戸」、そして斎藤環氏の「ヤンキー」等々に形を変えている様にも思える。19世紀のパーシヴァル・ローウェルから、21世紀の斎藤環氏まで、その言わんとするところは、百数十年間を隔ててほぼ同じだ。しかし仮にやがて日本が「近代」にならなければならないとして、そうした「近代」化が百数十年も「失敗」し続けている日本をどう捉えれば良いのだろうか。


「ヤンキー」が単純な「下層民/従属民(「サバルタン」)」と見られている内は、例えば "Can the ヤンキー speak?" という、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクの "Can the Subaltern Speak?" の援用も可能だった。しかし現実的に「インテリ」の声は、現実的な何ものにも反映される事が無くなりつつある。選挙は「インテリ」が「おかしい」と思う結果にしかならず、「インテリ」が「欲望」するものは次々と世界から失われて行く。「インテリ」は「ヤンキー」に対し、例えば「かれらはひとつの階級をなしている。……(しかし)かれらの利害の同一性が共同感情を……生み出すことができないでいるかぎりにおいて、かれらは階級をなしていない(マルクス「ルイ・ポナパルトのブリュメール18日」)」的なものを見出し、そこに「虚偽意識」(欺かれていること)の介入を見るかもしれない。しかし「ヤンキー」は自らを「変革的階級」に「昇格」させる、ルイ・ナポレオンの様な「代弁/代表」者を欲してはいない。「ヤンキー」は目立ちたくはあっても蜂起する事はしない。何よりも快適な「日常」が壊乱される事を「ヤンキー」は望まない。「インテリ」好みの「スト」が、「インテリ」好みの形で「すき家」に起きる事は無い。


従って最早こう言わねばならないのかもしれない。"Can the intellectual speak?(知識人は語ることができるか)"、或いは "Can the modernism speak?(近代は語ることができるか)" と。 "Can the Subaltern Speak?" (サバルタンは語ることができるか)という「問い」は、「サバルタン」に「関心」を寄せ「理解」しようというアプローチの存在が前提になる。一方「ヤンキー」は「インテリ」の声に「関心」を寄せ「理解」しようとするだろうか。しかし「ヤンキー」にとって、「インテリ」は「関心」の対象である以前に「透明な存在」だろう。スピヴァクに "the intellectuals represent themselves as transparent" (知識人たちはみずからを透明な存在として表象しているのである)と批判された「インテリ」が、まさかこういう形での「透明な存在」になってしまうとは想像も出来なかったのである。


「ヤンキー」という「かたち」は、日本のベースに厳然として存在し続ける「前近代」が、未だに輸入概念以上の物にならない「近代」と摩擦を起こすところに発生した一つの形なのだろう。従ってその「かたち」は融通無碍であるし、「ヤンキー」という形で顕現しないものも多数存在する。例えば「マイルドヤンキー」の存在に今更ながらに驚いてみせる広告代理店の飲み会は、紛れも無く日本的な「前近代」の典型そのものと思われる。

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NHKニュース おはよう日本」の同「特集」は、「鞆の津ミュージアム」で開かれている「ヤンキー人類学」展にも触れていた。同番組によれば「博物館ではこの展示が始まって以来、通常1日15人ほどの来場者が、10倍に跳ね上がる日もある」という事だ。


同展について、5月11日に「鞆こども園」で上野友行氏とトークを行った都築響一氏は、宇川直宏氏の「DOMMUNE」での「鞆の津ミュージアム」キュレーターの櫛野展正氏との対談でこう語っている。


こんなさ、ブチアゲ単車も出れば、こんなデコトラも出ると。それをさ、まあすごい展覧会だと思うけど、僕はさ、やっぱり鞆の津ミュージアムみたいなところだからもちろんできるんだけど、本当はそういうところにやらせちゃいけないっていうとあれだけど。本当はさ、東京都現代美術館とかやれよ!っていう話なわけよね。だってさ、思うけどたとえば暴走単車が僕はすごい好きで。本も作ったぐらいですけど。暴走族の単車の展覧会なんかないわけじゃん。いままで。


(櫛野展正)そうですね。


都築響一)だけど、アメリカではニューヨークのグッケンハイム(美術館)とかでイージーライダーの改造ハーレーの展覧会とかやってるわけよね。非常にアメリカ的なアイコンじゃない?でも、日本的なアイコンはこれなわけよ。都現美の無駄な中庭みたいなところにこれ、20台ぐらい並べたらめちゃくちゃかっこいいと思うわけよね。


(櫛野展正)素晴らしいですね。


都築響一)なにもさ、外国で見れる作品をさ、日本に見に来る外人、いないわけじゃない。それよりか、日本でしか見れないものを見せるのが筋だと思うし。これこそが日本が作ってきたもので。アート業界からは1回もアートとして認められてないものばっかりだよね。


http://miyearnzzlabo.com/archives/18267


東京都立現代美術館で行われる「ヤンキー人類学」展。それは即ち東京都江東区で行われる「ヤンキー人類学」という事になる。例えば「ブチアゲ単車」や「デコトラ」等を、東京都江東区とは関係の無い他所から持ってきて、その「造形」を「アフリカの仮面」の様に「鑑賞」するという展覧会でも一向に構いはしないし、それすら無い状況でそれを開催する事には一定の意味はあるものの、しかし折角東京都江東区で開催するのである。東京都江東区がその歴史を含めてどういった環境にあり、そしてそうした環境に対してそこに住まう者がどの様な「適応」の「かたち」を見せているのかを探るというのが本来の「人類学」のアプローチというものだろう。それは美術館の中よりも外の方が圧倒的に豊穣な展覧会であり、美術館が美術館の外を見る為のフレーム、美術館の外へと繋がるゲートになるという事である。東京都立現代美術館のすぐ外には、実際「あれ」もあれば「これ」もあるではないか。後は社会的タブーを含めたそれらを取り上げる胆力と、美術館の周囲を取り囲む「前近代」に向き合う気概と想像力があるかどうかだろう。例えば清澄白河の駅から東京都立現代美術館に向かう「深川資料館商店街」を見て何も感じないのであれば、それはそれまでの想像力という事だ。

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「鞆の津ミュージアム」に入ると、「BIRTH JAPAN」が出迎えてくれた。「ヤクザ、ゴロツキ、ドチンピラの専門店」である。一歩外に出たら目を背けてしまうもの、或いは何処かで目を背けさせる為に存在するもの=見てはならないものを、積極的な鑑賞の対象としてしまうのが美術館である。


斜向かいには大きな「相田みつを」があった。傍らの解説プレートには「人生に対する肯定的なメッセージに満ちあふれたそのあるがままの『ポエム』は、多くの若者の心を魅了。彼を源流とする『ポエム』は、ラーメン店の壁面やトイレ、デコトラの装飾から路上詩人に至るまで浸透するなど、日本全国を覆い尽くしている」とある。個人的には寧ろそうした「日本全国を覆い尽くし」ている「相田みつをエピゴーネン」こそを大量に見たかった気がする。


チケット売り場には「小悪魔 ageha」(2014年4月休刊)の特集から生まれた「盛り髪」の「昇天ペガサス MIX 盛り」と「東京タワー盛り」がマネキンヘッドに装着され、フワフワの白いフェイクファーの上に置かれていた。これもまたコンテクストが見えないと「面白さ」は半減する。


チケット売り場正面の通路にはパチンコ台が二台。「CR 牙狼 FINAL」と「CR BE-BAP〜壇蜜与太郎仙歌〜」という「いかにも」な台が置かれている。「海物語」では駄目だったのだろうか。


パチンコ台の向かいは「MEN'S KNUCKLE」だ。「いつだって何かに逆らい生きてきた」「ガイアが俺にもっと輝けと囁いている」「エレガントに舞い、クレイジーに酔う」「限界なんぞはいつでもオム’S OVER 突破済!」「俺のフェザーから鳥人拳を繰り出す!」「千の言葉より残酷な俺という説得力」…。ご丁寧にもその横に「相田みつを」が再び展示されている。「しあわせは いつも じぶんの こころが きめる」。悔しいが、まあ「そういう事」なのである。


そこから小部屋に入ると、北九州のレンタル衣裳店「みやび小倉本店」の成人祭衣装とそれを着用した新成人のスナップ写真が壁面に貼られている。北九州では「成人式」ではなく「成人祭」と言うらしい。多くが中学校単位でチームを組み、地元意識が強い為に他地域に負けたくないとの思いで派手になると言われている。「地域対抗」というのは、学校教育で是とされる「クラス対抗」から始まっているものかもしれず、またそれは「甲子園」にも繋がるものだろう。Chim↑Pom のエリイ氏がリポーターになったBSスカパーの「BAZOOKA!!!」によれば、「成人祭」を「人生で最後の行事」「最後の大人にあがる前に子供でいられる式」と捉える者もいると言う。「それから(注:成人祭から先)は何もなくない?」「何もない」。番組中の「新成人」はそう言っていた。


部屋から出ると再び「BIRTH JAPAN」。そして隣の部屋に行くと壁面の梶正顕氏の「暴走族コレクション」。その「暴走族」コレクションは、当時の「善男善女」のコレクションと被るところが無いでは無いところが興味深い。


「暴走族コレクション」に囲まれて丸尾龍一氏のデコチャリ「龍一丸」が、そして次の部屋には伊藤輝政氏による「ミニチュアデコトラ」がある。これらの「ミメーシス」は、自身が「ヤンキー」であるというよりは、「ヤンキー」的美学に魅了された人のものであろう。とは言えそれらが「半端」では無いのは、「デコチャリ」に迷うこと無く「ディズニー」が搭載されているところにある。「電飾」の解釈も正確であるに違いない。デコチャリの丸尾龍一氏は、ボランティアで市民パトロール隊をしているという。一方「ミニチュアデコトラ」には「街宣車」や「建機」や「消防車」等も含まれている。「建機」や「消防車」といった「はたらくくるま」は、子供の玩具の定番アイテムであり、また「変形メカ」の原形でもある。或る意味で「デコトラ」というのは現実化した「トランスフォーマー」なのかもしれない。


「ミニチュアデコトラ」と同じ部屋に、YOSAKOIソーラン「夢想漣えさし」。これもまた「チーム対抗」の「群舞」であり、何処かで「成人祭」という「晴れ舞台」での「地域対抗」とも似ている。その横は「漢塾」の前田島純氏。氏の Twitter に引用される「ONEPIECE」の台詞は、「MEN'S KNUCKLE/あいだみつを」的である。


部屋の真ん中には BEET のエンジンカバーを奢られた「ちっご共道組合」のブチアゲホンダCBR400F。傍らのモニタから「コール」が流れる。火炎様の造形とポスカによるその色、そして要素間をモールで繋ぐその方法論は、何処かで日本の80年代のインスタレーションの語法を思い起こさせる。勿論「ちっご共道組合」がそれを模したという事では無く、ブチアゲ単車の造形性と日本の現代美術の造形性が、何処かで「同じもの」を共有していると考えた方が良いだろう。


磯野健一氏の「小阪城天守閣」は、1時間程前に見た「昭和福山城」にも何処かで通じるものがある。寧ろファンタジー度から言えば「大阪城」に近い。


隣のガレージには「常勝丸船団」の「常勝姫」。サンリオの「キティ」が召喚されている。因みに「常勝姫」は「ジュニア」の為にキャラ弁も作る。確かにこの展覧会に欠けているものの一つはキャラ弁だろう。「身体に良い」といった「本物志向」を捨て去らないとキャラ弁は作れない。「見掛」をこそ重要視し「本物」を志向しない事。それは「龍一丸」のアルミホイル、「CBR400F」のポスカ、「常勝姫」のメッキ、「成人祭」のフェイクファー、「小阪城天守閣」の折り紙、「デコ電」のラインストーン、「ラジカセ」のシール、その生き様で評価される「坂本龍馬」、そしてここにある多くに見られる「日本」にも通じ、翻ってそれは「フェイク」の無限参照である「日本」そのものなのかもしれない。

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1972年6月17日〜18日未明の富山市城址大通りの所謂「富山事件」から端を発し、北陸、中国、四国の各地方都市(高岡、小松、金沢、岡山、福山、高知、今治、高松等)へと飛び火した「暴走族事件」の「主要都市」でもあった「福山」の町を、再びトモテツバスに乗って福山駅に向かう。


車内で斎藤環氏の「ヤンキー化する日本」を読む。與那覇潤氏との対談で、「反原発」と「ヤンキー」の関係について語っている行に行き着いた。目が疲れたのでそこまで読んで本を閉じ、目を窓外に向けて、本の内容とは全く別の事を考えていた。


彼等は何故に「完成」された「近代」を「否定」する形で「デコ」るのであろうか。想像するに、あの「過剰」は「否定(バツ)」の「過剰」なのだろう。殆ど強迫的に「否定(バツ)」で埋め続ける精神性。「バッドテイスト」は「バツテイスト」だ。「怨念」という言葉が頭を過った。その対象は広く「近代」であろう。誰にも等しく「近代」は訪れる事は無いと、彼らはその人生を通じて思っているのではないか。恐らく彼等にとっての「近代」は、それを得るのに「資格」の有無が問われるものなのである。


つまづいたらだめじゃないか きんだいだもの

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次回の同ミュージアムの企画展は「花咲く爺さん」だと言う。「花咲く爺さん」から「婆さん」が締め出されているのかどうかは判らないが、いずれにしても老人の展覧会という事だ。誰もがそうなり得るという点で、「老人」は「ヤンキー」よりも間口が広く、また隠し様も無く「老人」は「ジェンダー」の一つである。ダダカン氏、蛭子能収氏、ドクター中松氏等が出るらしい。「元気な老人」でも「狂った老人」でも良いが、しかし観客に「元気だなぁ」や「狂ってるなぁ」と「他人事」としてしか思わせない展覧会では、「老人」をテーマにする意味が無いだろうと思われる。