Quadrangle

「東京が変われば、日本が変わる」。恐らくそれは「西欧が変われば、世界が変わる」と同じ様な意味を持っている言葉だったに違いない。「東京が変われば、日本が変わる」が、「東京が変われば、東京以外は否応なく巻き込まれる」なのか「東京が変われば、東京以外の手本になる」なのかは判らない。いずれにしても、「東京」が示した現実としての「変わる」が、慨嘆の対象であるかもしれない「選挙の有名無実化」等々であるならば、「東京が変われば、日本が変わる」という題目を「日本」が受け入れる限り、「日本」もやがてそう「変わる」べきなのであろう。「東京が落ちる所まで行けば、日本も落ちる所まで行く」(=死なば諸共)。しかしそれは御免被りたい。


「東京」の展覧会巡りの続きを書く。

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日本国有鉄道がJRになった頃、駅のホームから駅員のマイクを通した声によるアナウンスが無くなり、「津田英治」氏と「向山佳比子」氏という「大阪テレビタレントビューロー」所属系(向山氏は「元」)の大阪府出身声優が読み上げる「ATOS」自動音声になった。


「まもなく、1番線に、池袋・新宿方面行きが参ります。危ないですから、黄色い線までお下がりください」。「向山佳比子」氏がそうアナウンスすると、西日暮里から自分を乗せてきた山手線内回り11両のE231系が高架駅の島式ホームに入線した。ホームドアが開き、車輌ドアが開くと同時に、「大塚」の駅名が「向山佳比子」氏の声で告げられる。向かい側では外回り線が入線し、「津田英治」氏の「大塚〜、大塚〜」が流れた。反射的に脳内に「大塚〜、角萬〜」のナレーションが被る。昭和40年代までに東京、或いはその周辺に在住していた多くの人間にとって、「大塚」と「角萬」は符丁の様なものであった。「大塚」は結婚式場「角萬(昭和25(1950)年〜昭和55(1980)年)」以外にイメージが浮かび難い町だった。山手線の車窓から見上げる形の大塚駅前「角萬」ビル屋上の「金閣寺」という「景色」は、同じく山手線の車窓から見えた「貴ノ花(初代)」と "Korova Milk Bar" ばりの「マリリン・モンロー」が回転しながら素裸で相撲を取る、高田馬場「スズヤ質店」の「ポルノ噴水」の「景色」同様に、古い東京都民の記憶に刷り込まれている。


自分の人生に於いて、「京都金閣」を見たのは「大塚金閣」よりかなり後の修学旅行生の頃になる。正直なところを言えば、修学旅行生の見た「京都金閣」の印象は、「大塚金閣」を知る目には相対的に薄いものだった。自分の「DNA」の中に「京都金閣」が皆無である事を、「京都金閣」を目の前にした東京の中学生はその時知った。敢えて言えば、「大塚金閣」も「京都金閣」も、それぞれに「俗悪の東京」と「俗悪の京都」であるものの、「俗悪」のインパクト的には「大塚金閣」に軍配が上がる。「京都金閣」という「俗悪」は「日本の『風景』」の「代表」として「日本の美」とされてしまったりもするものの一つだが、一方で駅前の結婚式場ビルの屋上に無理矢理接合された「大塚金閣」という「俗悪」もまた「日本の『風景』」の「現れ」と言うに相応しい。それは20世紀コンクリート建築に施された「金継/呼継」の様な「景色」だったのかもしれない。

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テレビ番組「開運!なんでも鑑定団」で、「鑑定士」中島誠之助氏が「鑑定品」を評する際の決め台詞として知られているものの一つに、氏の代名詞ですらある「いい仕事してますね」と並び、「いい景色だねぇ」というものがある。


オンライン辞典での解説によれば、「景色」という陶芸用語は、「茶道具観賞上の見所のひとつ。釉の溶け具合や焼成の加減によって器物の表面に思いもかけない予想外の変化が現れることをいう(陶芸用語大辞典)」、「陶磁器を観賞する際に、見どころとなる場所を指していう言葉で、釉薬の掛かり具合や熔け具合によるかいらぎ・釉なだれ、あるいは火加減によって生じる焦げ・火間などの変化が、景色として賞美されます(伝統的工芸品用語集)」とある。


この事から判るのは、その多くが「アクシデンタル」なものである陶芸に於ける「景色」は、作品に予め「内容」として「備わって」いるものではなく、何らかの「徴表」から「鑑賞」によって生じる「何か(エトヴァス)」であるという事になる。翻ってそうした「何か(エトヴァス)」を「景色」という言葉で表すという事は、日本人にとって広義の所謂「景色」もまた、何処かで眼前に広がるものに対する「鑑賞」の「態度」を表す言葉なのだろう。日本人にとっての「景色」は「関わり」の内にあり、「関わり」が無ければ始まらない。日本語の「景色を見る」という表現は、即ち「景色を見出す」という意味になる。中島誠之助氏が言うところの「いい仕事ですね」が「表現内容」に向けられる言葉であるのと対照的に、「いい景色だねぇ」は「表現内容」の外側にあるものに向けられる言葉だ。


京都市左京区で「やきものギャラリー」を開くロバート・イェリン氏外務省作成動画)は、日本語及び日本の美意識に親しくない者に向け、幾つかの例を上げながら "keshiki" をこの様に説明している。


Keshiki Landscapes


When looking at a pot there are many ways to describe it - by shape, color, function, or style. The Japanese have taken it one step further and view the landscape (keshiki) on a piece. Some will say that the keshiki is good or that a piece has a boring keshiki.


Keshiki involves how the glaze flows, stops and pools, or the color of the clay, the creating process, or how certain kiln occurrences play out on the surface. Describing keshiki has been a joy for chajin (tea people) for centuries. It even affects the value of pieces. Certain keshiki are found on certain styles more than others, for example hi-iro (fire color) on Shigaraki or Shino wares but hardly ever seen on Karatsu.


Being able to know the different keshiki will only deepen your appreciation of Japanese pottery. This page introduces you to some of the more common keshiki.


http://www.e-yakimono.net/html/keshiki-landscapes.html


「器を鑑賞する際、その形状、色彩、機能、及び様式で説明される事が一般的だが、日本人は更にその一歩先を行き、そこにランドスケープ(景色)を見る。人によっては器に対して『いい景色だ』とも『退屈な景色だ』とも言うだろう」。「人間国宝」という不思議な概念に魅せらて1984年に来日したイェリン氏のこの説明で、「景色」という不思議な概念が伝わるものかどうかは判らないし、果たして "landscape" が適訳であるかどうかも判らない(或いは "scene" だろうか、 "sight" だろうか、"view" だろうか)。「表現されたもの」として存在するとされる "art" に対し、「表現の外」にあるものこそを珍重するという「転倒」は、やはり "art" の世界では「独特」なものなのだろう。

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嘗ての「大塚金閣」の前(現在はフレンチレストラン「Bistro Juillet」)を通る事無く、昭和30年代までは高台の畑であったギャラリーに、大塚では最も古くから存在する「大通り」を登って行く。このギャラリーの構造は、道路から階段を数段上がり、ギャラリー内に入ってその分の段を再び降りるという、無用階段(四谷階段)の様な准トマソン物件と言える。


Quadrangle」と題された画家の個展だ。「Quadrangle」は「矩形」であり、確かにそれはキャンバスの形を表しもする。同時にそれは「(矩形の)中庭」をも意味するところに、このタイトルの「罠」が仕掛けられているとも言える。一般的に、壁に掛けられた絵画は、通常人間が立った状態で顔を大きく傾ける事無く眺める光景を表している。即ち絵画の画面は「上下(天地)」を有する「垂直面」を意味する。しかし壁に掛けられたりモニタに表示された地図がそうである様に、時に絵画は人間が立っているその「水平面」を表す事もある。そうした「垂直」に変換された「水平」の絵画には、恒常的な「上下」は存在せず、常にその「上下」及び「左右」は暫定的なものになる。


「Quadrangle=(矩形の)中庭」という、「水平面」を示唆するかにも思えるタイトルを持つ展覧会に展示された絵画は、それ故に「上下」を持つものに見える一方で、「上下」を持たないものにも見える。試しに手許の案内状の「上下」を逆にしたり横倒しにして見ても、それは絵画として十分に成立する。しかしそれも、それが「中庭」であると考えれば得心も行く。「中庭」の「植生分布」を表す「地図」。「地図」の上を辿る目は、「見る目」ではなく「歩く目」になる。「地図」と同じ「歩く目」で、「中庭」に植えられたものの「景色」を回遊する。


一旦画面上を「歩く」事を止め、それを遠目から眺めれば、具象的な「形」めいたものがそこに存在しているかに見えるものの、それは「働き」によって「見出される」ものだ。即ちそれは、日本の陶芸の「景色」同様、画面上の「徴表」から「鑑賞」によって生じる「何か(エトヴァス)」である。画面上の「何か」は「形象」化する一歩手前で注意深く止められている。その「形象」の手前にある「何か」から見える「景色」もまた、「関わり」の内にあり、「関わり」が無ければ始まらない。


「日本の絵画」を考える場合、その多くは「表現」が重視される。即ち「日本の何がどう表現されているか」が問題になる。絵巻物の様な画面構成、浮世絵やアニメの様な平面性や記号性、掛軸や屏風や巻物の様な物理的構造、そして多くは日本的とされる主題や題材や色彩や素材や技法等々が、単に「日本人によって描かれる絵画」でしかないものを、無理矢理にでも「日本の絵画」たらしめようとする「根性(≠心性)」に基いて「利用」される。即ちそうした「日本の絵画」には、多かれ少なかれ「日本」を「表現」する事で得られる「見返り」を期待した「根性」が常に透けて見える。そしてそうした「根性」を共有する観者が、そうした「根性」から生まれた「日本の絵画」を評価する。


その一方で、そうした「日本」に仮託しない、日本の陶芸の「景色」にも通じる日本の絵画の可能性を、この「中庭」の作品は見せてはくれる。そしてそれが些かも「日本の絵画」を想起させないからこそ、それは「根性」とは無縁の日本の絵画となり得ている様にも見えた。

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再び内回りE231系の車中の人になる。


"The next station is Shinjuku. The doors on the left side will open. Please change here for the Chuo Line, the Saikyo Line, the Shonan-Shinjuku Line, the Odakyu Line, and the Keio Line, the Marunouchi Subway Line, the Shinjuku Subway Line and the Oedo Subway Line. "


【続く】