六本木クロッシング2013

一週間前に終了したばかりの「六本木クロッシング2013」の副タイトルは「OUT OF DOUBT! 来たるべき風景のために」だった。時に「OUT OF DOUBT!」は「疑うことからはじめよう」ともされている。「OUT OF DOUBT!(疑うことからはじめよう)」というのは、結構「思い切った」ものだと感じた。


多かれ少なかれ「現代美術」は「疑うこと」こそを思想的なエネルギー源としている。勿論「疑うこと」からはじめない、「信じること」からはじめる「現代美術」というものも存在するには違いないが、しかしそれは語義矛盾すら感じられるものであり、であるならわざわざ「現代美術」と名乗る必要性も無いと思われる。「現代美術」に於ける「疑うことからはじめよう」は、「現代美術」の「教科書」や「入門書」の副タイトルにしても良い位の「現代美術の定義」そのものであり、またその意味で、方法論的懐疑としての「現代美術」は、方法論的懐疑としての「科学」の兄弟と言える。


世の中には「疑うこと」からはじめない、「信じること」からはじまる「科学」というものもある。「科学的懐疑論」の「殿堂」とも言える "The Skeptics Society(懐疑派協会)" は、そうした「信じること」からはじまる「科学」を検証/批判する為に設立された。


懐疑主義は主張への暫定的なアプローチである。それはあらゆる全ての主張への理性、判断、分別の応用である。神聖不可侵なものなどない。言い換えると、懐疑主義は方法論であって立場ではない。


Skepticism is a provisional approach to claims. It is the application of reason to any and all ideas — no sacred cows allowed. In other words, skepticism is a method, not a position.


http://www.skeptic.com/about_us/


但し「科学的懐疑論」者の一人者とされているマーティン・ガードナー(Martin Gardner)自身、"I am a philosophical theist. I believe in a personal god, and I believe in an afterlife, and I believe in prayer, but I don't believe in any established religion(私は哲学的有神論者だ。私は私の個人的な神を信じ、来世を信じ、祈りを信じているが、しかしあらゆる既成の宗教は信じていない)" と語る様に、「科学的懐疑論」と「(ラディカルな)有神論」の同居が可能なケースは存在し得る。即ち現実的な「科学的懐疑論」は、必ずしも「無神論」を条件とはしない。


「現代美術」もまた「方法論であって立場ではない」と言えるだろう。「現代美術」が様々な形態を伴って現れ、時に「多様性」として見えるというのは、即ち「懐疑」という「主張への暫定的なアプローチ」が、様々な「多様性」を持つのと同じである。仮に「主張への暫定的なアプローチ」である「懐疑」という「方法論」に対して「立場」の「多様性」を見る事がナンセンスであるならば、「主張への暫定的なアプローチ」の一つである「現代美術」という「方法論」に対して「立場」の「多様性」を見る事もまたナンセンスと言える。


果たして「現代美術」もまた、エンスージアスト「カイレポン」の「軽挙妄動」が、その成立の切っ掛けとなった「問答法」の延長上に存在しているのだろうか。恐らくそうであるに違いない。上掲 "The Skeptics Society" サイトの "about us" に、 "Skepticism has a long historical tradition dating back to ancient Greece, when Socrates observed: “All I know is that I know nothing.”(懐疑主義は、ソクラテスが「私が知る全ては私が何も知らない事である」と述べた事に始まる古代ギリシャに遡る長い史的伝統である)" とある様に、「『古代ギリシャ』から始まる思考」の産物である全ての「現代美術」もまた「ソクラテス」に繋がるとも言える。


ソクラテス」は、自らが「無知者」であるという「自覚」と、「デルポイの巫女」によって託宣された「ソクラテスより知恵のある者は誰もいない」という「神託」の間に生じる「論理的難関」を抱える。「神」の「神託」が紛れも無く「真実」である一方で、「私」の「自覚」もまた紛れも無く「真実」である。「自覚」と「矛盾」する「神託」が真に意味するところを求める為に、彼はエスタブリッシュな「知者」に自分以上の「知恵」が備わっているかどうかを彼等自身に尋ね回り、それを検証する行動を取った結果、「裁判」に掛けられ「死刑」に処せられる事になる。


多くの「現代美術家」や「現代美術関係者」が、自身が「無知者」である「自覚」を「ソクラテス」の様に持っているかどうかは判らないし、時には「ソクラテス」が尋ね回ったエスタブリッシュな「知者」である「政治家」や「作家」や「手工者」の様な「知恵があるものと他の多くの人間に思われ、また、とりわけ本人がそう思いこんではいるものの、しかし実はそうではない」(プラトン「ソクラテスの弁明」)者であるかもしれない。今この瞬間に「ソクラテス」が「現代美術家」や「現代美術関係者」の前に現れて「対話」を仕掛けた結果、「知らないくせに何か知っていると思っている」「(自身は)知者であると思ってはいるけれども、実はそうではない」「多くの立派なことを口にしはするのですが、しかし、その口にすることの何一つとして知ってはいない」といった点で、「(「知者」として)最も評判の高い人々がいちばん知恵に欠けているも同然の状態にあるのに対して、かれらよりも取るに足らないと見える他の人たちのほうが、思慮深くあることに関してまさっている」と「ソクラテス」から断じられてしまわれない様に努めたいものである。


「疑うことからはじめよう」は、「誰」が「誰」に対して発しているのだろうか。「疑うことからはじめよう」の「疑う」は、何よりも最初に自らの「知」に対する「疑う」であり、当然「疑うことからはじめよう」展の当事者たる「現代美術」も「疑われる」対象である事から免れない。「疑う」という「方法論」に於いては、専ら「疑う」側に居続けられるという「神聖不可侵」な「立場」はあり得ない。従って「展覧会」という「対話」の場は、「現代美術」が持っているかもしれない「知らないくせに何か知っていると思っている」「(自身は)知者であると思ってはいるけれども、実はそうではない」「多くの立派なことを口にしはするのですが、しかし、その口にすることの何一つとして知ってはいない」という意味での「無知」を曝け出す場所になる可能性もあり得る。「疑うことからはじめよう」という副タイトルが「思い切ったタイトル」であると言うのはそういう事からだ。「疑うことからはじめよう」を掲げた「現代美術」自身に「疑われる」覚悟が備わっていないとは思わない。その「知」を「疑われる」覚悟の無い「疑う」は、「疑う」的に言って「矛盾」だからだ。「疑うこと」を良しとしない「現代美術」が無意味である一方で、「疑われること」を良しとしない「現代美術」もまた無意味である。

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日本のアートシーンを総覧する3年に一度の展覧会シリーズ「六本木クロッシング」。
4回目となる本展では、東日本大震災以降明らかに高まっている社会的な意識を反映しつつ、日本の現代アートの「いま」を、歴史やグローバルな視点も参照しながら問いかけます。
これまでのあらゆる社会通念や既存の制度に向けられた疑念(ダウト)から、アートを通じてどのような生産的な議論を生み出せるのでしょうか?
1970〜80年代生まれの若手を中心に、世代の異なるアーティストや在外/日系アーティストも含む29組の芸術的実践を通して、先の見えない日本の次のステージにどのような風景が見えてくるのか、観客のみなさんと一緒に考えたいと思います。


http://www.mori.art.museum/contents/roppongix2013/about/index.html


「問いかけます」は常に「問いかけられます」と対になる。「これまでのあらゆる社会通念や既存の制度に向けられた疑念」もまた「問いかけます」であると同時に「問いかけられます」である。本展に参集した作品による「問いかけ」は、そのまま観客からの「問いかけられ」に晒される。展覧会要旨に「例示」されてしまった「東日本大震災」一つ取っても、「例示」してしまった事を含めて「問いかけられ」る事を避けられない。そしてそれこそが「東日本大震災以降」と名指されている「懐疑」なのかもしれない。


「対話」としての「展覧会」として、個人的な白眉はあの「櫻画報」であった。2013年段階で43年前のものになるそれは、その時間の経過分だけ「懐疑」の対象となる事で、21世紀初頭の作品に対する「懐疑」たり得るものでもあった。この「展覧会」に集められた21世紀初頭の作品の幾つかは、43年後に再び「再展示」されるかもしれない。その時2050年代(普通に「50年代」と言われているのだろう)の作品に対し、それらはどの様な「懐疑」の対象となり、翻って43年後の作品に対して「懐疑」を突き付けるのだろうか。

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六本木クロッシング 2013」の最終日、別の場所で「福島県いわき市」の保育園理事長の話を聞く機会があった。「福島県いわき市」であるから当然「311」に絡む話になる。「311」以降の「福島県いわき市」での育児。それは「ベクレル」や「シーベルト」とはまた別次元の話だった。「年長になっても線に沿った丸を鋏で切る事が出来ない」。凡そ想像不可能な話だった。「知らないくせに何か知っていると思っている」の言葉が頭を過った。そして理事長の話を聞く内に、「311」は「原発」の有無に関わらず、日々日常的に発生しているものである事を「知った」のであった。