「人間と物質」展再展示計画

2013年の12月も28日という押し詰まりも良いところの東京の街に、斯くも多くの人がいるとは結構意想外だった。この「シンポジウム」に参加して来た。4時起きの日の18時は眠たかった。


「『人間と物質』展再展示計画」
基礎芸術が進める「再展示ドットコム」(既発表の展覧会・作品の再展示を探るウェブサイト)プロジェクトの進行状況報告を行い、「再展示」計画の可能性を話し合います。中心となる議題には、現在同プロジェクトのアンケートで圧倒的1位を獲得している「第10回日本国際美術展 人間と物質」展(1970年)を取り上げます。前半では主に「人間と物質」展出品者の方々のお話を伺い、後半では同展の研究者を中心に、「人間と物質」展を再展示すると仮定した場合の可能性/不可能性をもとに、再展示という問題を考えます。


[募集]
「人間と物質」展に関わった方/見た方はこちら(基礎芸術:contact@kisogei.org)までご連絡ください。(@を半角にして、お使いください)


出演: 田中信太郎(美術家)、河口龍夫(美術家)、堀川紀夫(美術家)、大村益三(美術家)、渡部葉子(慶應義塾大学アート・センター教授、キュレーター)、上崎 千(慶應義塾大学アート・センター所員/アーカイヴ担当)、土屋誠一(美術批評家、沖縄県芸術大学講師)、西川美穂子(東京都現代美術館学芸員)、基礎芸術 Contemporary Art Think-tank(成相 肇、粟田大輔ほか)
日時: 2013年12月28日(土)18:00-22:00(開場17:30)
※前半18:00-19:50/後半20:10-22:00
会場:森美術館展示室内
定員:80名
料金:無料(要展覧会チケット)
お申し込み:予約不要、途中入退場可
企画:基礎芸術 Contemporary Art Think-tank


http://www.mori.art.museum/contents/roppongix2013/event.html#dp_12


「人間と物質」という展覧会自体に、実はそれ程には思い入れが無い。奇妙な形でリチャード・セラの作品 "To Encircle Base Plate Hexagram, Right Angles Inverted(以下「セラの環」)"に関わったという事以外に接点は無いと言って良い。1970年5月に中学2年生だった当時の自分の中で、「新しい表現」を意味するものは、依然として「少年マガジン」や「少年サンデー」であった。また長じて美大生となってからは、「人間と物質」は限られた「白黒網点写真」と、それよりも限られた「カラー網点写真」でしか知り得ない「教養」の対象でしか無かった。その一方で日本の美術界自体がそうした「地味」な傾向に批判的になり(或いは飽き/忘却し)始め、「人間と物質」展が「先行世代」の「昔語り」になり始めていた時代でもあり、従って1978年に於ける「人間と物質」という展覧会が持つ意味は、「心ある」美術関係者にとって「乗り越える(飽きる/忘却する)べき対象」として現れていた。現代美術に於ける「8年後」という歳月はそういう事でもある。


その「セラの環」にしても、「リチャード・セラ」の作品が自分に対して現れるその中で、取り分け特筆に値するものかと言えば、これもまた正直なところを言えば、個人的にはその位置には無いと言わねばならない。セラの移設に関わった同級生の一人はセラを私淑し、その使用素材を含めて「模写」的とも言える作品を作っていたが、それは "prop" や "bullet" や "House of Cards" といった初期作品のそれであって、彼もまた「環」のシリーズには興味が無かった。その理由の大きなものの一つは "To Encircle Base Plate Hexagram, Right Angles Inverted(反転し合う直角、ヘクサグラムの基礎板を取り囲むために)" というタイトルへの依存性の高さだ。「セラの環」に於ける「ヘクサグラム」は東洋の「インヤン(陰陽)」同様「世界の二つの原理の併存性」の象徴的表現の一つだと考えられるが、しかしそれもこれも "Right Angles(=Right Angle Steel アングル鋼・L字鋼)" という「情報」が与えられて初めて判明するものである。そうした一種の「秘儀性」と、その一方でセラの言う「彫刻は、芸術は、その置かれる場所と不可分に結びつくべきだ。俺の彫刻は地面の上でなく、地面と結合している(「美術手帖」1970年7月号 東野芳明訳)」という問題とは切り離して考えるべき、それ以前にそれを見る者には「地面と結合している」(世界で一番薄い彫刻!)事しか現象し得ない。


現在の多摩美術大学の八王子校舎の中庭舗装路に「セラの環」は「物体」的に「アセンブル」されている。今「アセンブル」と書いたのは、それが上野で作者自身が行った「埋めた」行為と同じものでは無く、当作品の移設者に対するセラの仕様書に書かれている設置の絶対条件 "flush to earth=「地面と面一で」=彫刻の垂直性の消去)" を、多摩美術大学の八王子移設者が爽やかなまでに無視し、セラが最も否定し見せたくなかったものをわざわざ目に見える様にして、事実上「作品未満」としてしまっている事から来ている。即ちそれは、木枠が見える様にマーク・ロスコを展示している様なものである。



現在の「セラの環」の脇にあるステンレス製の、「セラの環」よりも高額(「セラの環」は「購入」されたものでは無い)な「タイトルプレート」もまた、同様に「小さな親切、大きなお世話」の一例と言えるだろう。余程正門守衛所の前にでも簡単な案内図を貼り出した方が、あらゆる意味で「親切」だと言えるのだが、一方で若き日のセラ自身が前述の「秘儀性」をどうしても伝えたかったのであれば、逆説的にこの作品には「タイトルプレート」の存在が不可欠なのかもしれないと思えたりもする。それとは別に、最初の埋設地である上野公園の歩道に「タイトルプレート」を設置していれば、それが掘り起こされて「ゴミ処理場送り」という事態には至らなかったかもしれない。


そもそもがこの「人間と物質」に展示された作品の多くが、会期が終わったと同時ににべも無く「ゴミ」として打ち捨てられたと思われる。誰がカール・アンドレが拾ってきた錆びた鉄筋線を現在に至るも所持しているだろうか。誰がダニエル・ビュランの貼り紙を町中から剥がしてまで持っているだろうか。ルッテンベルクのコークス粉を未だに保存している人がいたら、それは錆びた鉄筋線やヨレヨレの縞模様の紙を後生大事に保存しているかもしれない感性同様、奇特なフェティシズムとしか言い様が無いだろう。「人間と物質」の「その後」を記した記録は当然の如く皆無だが、それでも同展の会期終了と同時に、まるで「憑物」が落ちる様に、それら全てが「ゴミ」へと変わったという事は想像に難くない。シンポジウムに参加していた堀川紀夫氏は、展示を終えた石が鴨川に投げ捨てられた旨の事を話されていたが、それは1960年にカシアス・クレイがオリンピック金メダルを「(whites-only)レストランで食事をする価値すらないもの」としてオハイオ川に「不要品」として投げ入れたのとは「不要」の意味が全く異なる。


先に引用した「美術手帖」1970年7月号「これがなぜ芸術か - 第10回東京ビエンナーレを機に」で、東野芳明氏のインタビューに応えてセラ(30歳)は「俺の最近の作品はほとんど美術館からはみ出た、外の世界で生まれる。美術館というやつは、平らな床と壁でとじこめられていて、作品が持ちこまれ、まるで貿易見本市みたいなことになる。これでは、とくにその美術館の中になければならない理由はないじゃないか。俺の関心はいつも場であり、状況そのものなんだ」と語っている。その一方で「この鉄の作品を最初に都の美術館の用地に埋めようとしたとき、美術館の連中は、用地の境界外でやってくれといった。美術館の連中は、芸術の問題には興味はなくて、観客数にしか興味をもたない。それに、本当は地球上の地面には境界なんてないのだ。境界は人間がつくったものなんだ」と答えている。確かに「地球上の地面には境界なんてない」とは言える。しかし同時に「地球上の地面には中心がある」とも言える。セラが「美術館の用地」に「環」を埋める事に拘り、「用地の境界外でやってくれ」と言って来た「美術館の連中」と一悶着しなければならなかったのは何故か。


同じ「人間と物質」参加作家であるクリストが、当初予定していた「公園の梱包」を「公園」から拒否され、次善のそのまた次善の選択として「美術館の彫刻室の梱包」に至ったのとは全く逆に、セラにとってはクリストの第一希望であった「公園」こそが、「美術館(の用地)」という第一希望を叶えられなかった次善の選択になった。セラにとって「サイトスペシフィック」な「地面の中心」が「芸術」である事は疑い無い。その「地面の中心」から「芸術」が「世界」全体に広がって行くというファンタズムは、美術関係者なら誰でも持つものだ。しかし現実的に「上野公園」には別の「地面の中心」が存在した。その「地面の中心」が「芸術」を「不要品」として扱い、カール・アンドレの鉄筋線やルッテンベルクのコークス粉等から遅れる事8年で、「セラの環」を「ゴミ」にした。果たしてそのまま「ゴミ」になり、何処かへ消え失せてしまったというあり得た未来はどの様なものであっただろうか。時に奇特なフェティシズムの対象となり、また「作品未満」の状態で晒され続けている「セラの環」が、今でも存在し展示され続けているという現実は、そもそも「正しい」事なのだろうか。



或いはまた、「地面の中心」が「芸術」である事を、この世界全てが快く受け入れ、セラの最初の計画通りに「美術館の用地」にその作品が設置され、しかも如何なる土木工事に於いてもその原状の保存が最優先されていたという「最善」の展開を想像してみる。下は当時の東京都美術館と現在の東京都美術館の地図を重ねたものだが、上掲画像で知られているその「美術館の用地」は、旧館正面玄関階段の向かってすぐ左側に当たる。



しかし現在は旧東京都美術館の建物そのものが無くなっていて、当初計画されたその場所は、恐らく奏楽堂に向かう歩道上の何処かになる。「人間と物質」でクリストが梱包した旧都美術館の彫刻室跡地付近は、21世紀の上野公園では都内最大級の炊き出しの場所として有名だ。美術の場でも何でも無くなった、その日の食べ物の確保が「地面の中心」である数百人が集まるその場所に、「セラの環」が未だにあり続けているのである。(画面中央の箱は、そうした方々への「募金箱」)


(注)合成画像


「再展示」という問題についての多くはこの続編で書くかもしれないにしても、「展示」を巡る「コンテクスト」が「再展示」に於いて変質してしまうという問題は、この様に「展示」がされ続けていても起こり得る話である。


例えば「人間と物質」展の会期が、1970年から2013年までの43年間だったら果たしてどうだっただろうか。「ここが違っている」とか「あそこが違っている」といった「議論」の一切が起こり得ない、1970年のまま何も「変質」していない「完全な形」であり続ける「人間と物質」展を、2013年に見る経験は如何なるものだろう。或いは永遠の会期を持つ "When Attitudes Become Form" はどうだろうか。恐らく「再展示」の方がまだマシという事もあり得る様な気がする。

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「再展示」が意味あるものであるならば、それは所謂「アクチュアル」な意味を持たねばならない事になるのだろう。1970年の展覧会が「美術手帖」をして「これがなぜ芸術か」という見出しを書かしめたとして、それは43年経った2013年でも、相変わらず一般の観客に対しては「これがなぜ芸術か」として現れるのだろうか。それが「変わりのないもの」であったとしたら、一体この43年は何だったのだろう。「再展示」を巡る議論よりも、余程その事の方が気に掛かるのである。