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MOBILIS IN MOBILI -交錯する現在- 東京巡回展

承前


〈序〉



 しかしここで問題としたいのは、あの直線的な手法の担っている様式的な意義なのである。百済観音は確かにこの鋼の線条のような直線と、鋼の薄板を彎曲させたような、硬く鋭い曲線とによって貫かれている。そこには簡素と明晰とがある。同時に縹渺とした含蓄がある。大ざっぱでありながら、微細な感覚を欠いているわけでもない。形の整合をひどく気にしながらも、形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示せられる何か抽象的なものを目ざしている。従って「観音」という主題も、肉体の美しさを通して表現せられるのではなく肉体の姿によって暗示せられる何か神秘的なものをとおして表現せられるのである。


 抽象的な「天」が、具象的な「仏」に変化する。その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、――しかもそれを嬰児(えいじ)のごとく新鮮な感動によって迎えた過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。神秘的なものをかくおのれに近いものとして感ずることは、――しかもそれを目でもって見得るということは、――彼らにとって、世界の光景が一変するほどの出来事であった。彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。そこに測り難い深さが見いだされた。そこに浄土の象徴があった。そうしてその感動の結晶として、漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。


(略)百済観音の奇妙に神秘的な清浄な感じは、右のごとき素朴な感激を物語っている。あの円い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは、人体の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人体に底知れぬ美しさを見いだした驚きの心の所産である。あのかすかに微笑を帯びた、なつかしく優しい、けれども憧憬の結晶のようにほのかな、どことなく気味悪さをさえ伴った顔の表情は、慈悲ということのほかに何事も考えられなくなったういういしい心の、病理的と言っていいほどに烈しい偏執を度外しては考えられない。このことは特に横からながめた時に強く感ぜられる。面長(おもなが)な柔らかい横顔にも、薄い体の奇妙なうねり方にも。


和辻哲郎「古寺巡礼」 (傍点略)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49891_41902.html


奈良・法隆寺所蔵の通称「百済観音」の「作者」は、その制作国や製作年も含めて不明である。従ってこの像に対して「作者(或いは複数の「作者」)」がどの様な思いを込めて作り上げたかを、何人たりとも知る術は無い。この像の存在を一般に知らしめる役割を担った「和辻哲郎」氏は、大正8(1919)年にこの些かも「説明」がされていない眼前の像に対し、自らの感覚のアンテナ感度を上げて「形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示せられる何か抽象的なもの」「肉体の姿によって暗示せられる何か神秘的なもの」「病理的と言っていいほどに烈しい偏執」を感じ取る。昭和12(1937)年に初めて奈良を訪れた「亀井勝一郎」氏は、その書「大和古寺風物誌」の中で、「彼岸の体躯、人間の最も美しい夢」をその像に見たと記している。それらは確かに「百済観音」から「見出されたもの」であろう。


今、「和辻哲郎」氏や「亀井勝一郎」氏によって一体の「飛鳥彫刻」から「見出されたもの」の幾つかを唯一の「折線」として、同じく腰の位置が高い八頭身の「薄い体」が「奇妙なうねり方」をしているもう一つの像=「アスカ彫刻」を対置してみる。



当然「折線」を「共有」するが故に、この「アスカ彫刻」からもまた、「形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示せられる何か抽象的なもの」「肉体の姿によって暗示せられる何か神秘的なもの」「病理的と言っていいほどに烈しい偏執」「彼岸の体躯、人間の最も美しい夢」が「見出され」もするだろう。「和辻哲郎」氏や「亀井勝一郎」氏によって、7世紀の「飛鳥彫刻」から「見出されたもの」の幾つかは、彼等が見られる筈も無かった21世紀の「アスカ彫刻」に重なり合う。二つの像を「交錯」させる事で、その時「飛鳥彫刻」単体からも「アスカ彫刻」単体からも「感取」され得なかった、1400年の時を越えた「共有の場」が生起する。そうした「共有の場」に於いては、「飛鳥彫刻」は自らをして「アスカ彫刻」に「言及」し、その一方で「アスカ彫刻」は自らをして「飛鳥彫刻」に「言及」する。



「交錯」の場で「多様」を見るのは容易い。「多様」を「各々が単独的であるものの集合」とする様な見方からすれば、「飛鳥彫刻」は何処までも「飛鳥彫刻」でしかなく、「アスカ彫刻」は何処までも「アスカ彫刻」でしかない。「多様」の目は、二つの像を前にして、二つの像の形象に留まる、二つの像の一つ一つをしか見る事が出来ない。しかし「交錯」の目は、「飛鳥彫刻」を通して「アスカ彫刻」を見る一方で、「アスカ彫刻」を通して「飛鳥彫刻」を見る事が出来る。それが「交錯」の醍醐味というものであろう。「共有の場」を発生させる「交錯」に於ける「様式」は、常に「相互言及」的に「見出されるもの」としてその都度生起する。

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会期延長となった「北加賀屋クロッシング2013 "MOBILIS IN MOBILI -交錯する現在-"」(以下、同展関係者間の通称である「もびもび」展とする)の東京巡回二会場の内、折しも「六本木クロッシング」開催中の「森美術館」の「隣」に立地している "GALLERY MoMo Projects" のサイトでは「北加賀屋クロッシング」の語が省略されていた("CASHI" のサイトには記載されている)。「北加賀屋」は、「MOBILIS IN MOBILI -交錯する現在-」の最初の展覧会が行われた大阪府大阪市住之江区北加賀屋に立地する「コーポ北加賀屋」に由来している。


北加賀屋」という地名は「東京巡回展」が行われる東京の人間には馴染みが薄い。「六本木クロッシング」の「六本木」程には「全国的」な知名度が高いとは言えない。東京の地名で同程度の Google 検索ヒット数を持つ場所は無いものかと検索していたら、東京都江東区枝川がそれに相当した。図らずも「北加賀屋」の「風景/記憶」と「枝川」の「風景/記憶」は、何処かで通じるものがある。何よりもその「土地」が、両者共に歴史が極めて浅い「埋立地」という事実がある。仮に「埋立地」である「北加賀屋」や「枝川」で「大地の芸術祭」なるイベントが行われたとしたら、そのタイトルは「大地」というロマンティックな「信頼」や「信用」や「信条」に対する批判的な意味にしかならない。それは恰も "God created the earth, but the Dutch created the Netherlands(神は大地を作ったが、オランダの土地はオランダ人が作った)" と称される「干拓地」で行われる「大地の芸術祭」の様なものだろう。徹頭徹尾人為的な「計画」の産物である「埋立地(或いは干拓地)」は、決して「(神が作った)大地」ではなく、紛れも無く「(人が作った)土地」である。従って正確にはそれは「土地の芸術祭」とされるべきものであろう。


「大地」に住む者と、「土地」に住む者との間に、幾つものスラッシュ(断絶)が存在させられてしまう事は、「北加賀屋」と「枝川」のそれぞれの「風土」的な「記憶」が証明するところだ。「土地」として生まれた「北加賀屋」と「枝川」の近代以降の「風土」的な「記憶」には近いものがある。しかし「北加賀屋クロッシング」の「北加賀屋」は、「北加賀屋」という「土地」が抱え持たされているこうした「風土」的な「記憶」を殊更に表象するものでは無い。「馬喰町(沖積層の「大地」=湿地帯=嘗ての海)」や「六本木(洪積層の「大地」=嘗ての海)」に展覧会場を変えても、新たにそれらの場所の「風土」的な「記憶」を取り込まなければならない理由も無い。但し「コーポ北加賀屋」が「元家具工場」であり、その「家具工場」が「元」にならざるを得なかった「記憶」は、「北加賀屋」という「土地」の持つ現在進行形の「記憶」とも相関しつつ、「コーポ北加賀屋」の展示空間に否応無く現れていたのは事実だ。


例えば「コーポ北加賀屋」に於ける「北加賀屋北加賀屋クロッシング」展の「川村元紀」氏の「インスタレーション」がベースとしたのは、正にその「記憶」の部分であっただろう。他方、所謂「ホワイトキューブ」である事を含めて幾重にも「漂白」された "CASHI" での「馬喰町/北加賀屋クロッシング」の展示では、その部分は削ぎ落とされざるを得ない。「コーポ北加賀屋」に於ける氏の「インスタレーション」の、「インスタレーションの内部」と「インスタレーションの外部」(「パレルゴン」とは異なる)との境界は、この作家が「金沢美術工芸大学油絵専攻」という「絵画」の出であるからなのか、何処かで「スフマート」的であり、その「ぼかし」の「技法」によって「輪郭」を「アトモスフィア」的なものに変換する事で、「インスタレーション」という「作品」が「同一性」を帯びてしまう事を「破綻/回避」させている様にも思えた。一方で "CASHI" の作品に於ける「スフマート」は、典型的なギャラリー空間が備える白く塗られた壁面上に、青くも白くも見えるもの(ネイルシール)等を点在させる事で「ぼかし」を実現させようとしているかに思えたりもするが、当然それは "CASHI" の「漂白」空間に存在する筈も無い「記憶」や「風土」と繋がるものでは無く、より絵画的なものである。しかしその相違自体は良いとも悪いとも言えない。そこにあるのは「見出されたもの」の相違でしかない。

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ヴェネチア・ビエンナーレ」の「ヴェネチア」が、「ハブ(ノード)」名である事は間違い無い。仮に「ヴェネチア・ビエンナーレ」に巡回展があるとして、その「ヴェネチア」が外される事は無いかもしれないが、しかしその「ヴェネチア」が指し示すものは、例えば「魅惑の芸術 ‐ 千年の都 世界遺産 ヴェネツィア展」の「ヴェネチア」とは大いに異なる。「北加賀屋クロッシング」の「北加賀屋」は、「魅惑の芸術 ‐ 千年の都 世界遺産 ヴェネツィア展」の「ヴェネチア」と同列には無く、「ヴェネチア・ビエンナーレ」の「ヴェネチア」の側にある。


「展覧会」のキュレーションが、一定の性格を持った「ハブ(ノード)」を作る事であり、そこに幾つかの作品を「ピックアップ(集荷)」し、それぞれの作品を差し込む順番も考えながら「プラグイン」させ、「共有の場」を作り上げて行く事であるとすれば、その「ハブ」に与えた性格故に、それ自体が「限界」を有してしまう事は避けられない。但しそれぞれのローカルな「ハブ」は、他のローカルな「ハブ」と接続する事で初めてネットワーク的に機能する。即ち「展覧会」という「ハブ(ノード)」とは、「作品」や「作家」が相互に「交錯」する事で「光点」として見える「交錯点」の一つ一つである。その時「天に無数に散らばる星々を紡ぎながら、星図に新たな筆を入れる事がもし可能ならば、それを手に海に出る事も可能になる」という展覧会趣旨がイメージとして見えて来るだろう。即ちこの場合の「星図」に於ける、ドゥーベ、メラク、フェクダ、アリオト、メグレズ、ミザール、ベネトナシュ(「北斗七星」の例。「もびもび」展は「十星」)は、実体的な「星」ではなく「凝縮エネルギーの場」である。


「交錯」のイメージ


http://www.dailymail.co.uk/news/article-2161488/Secret-corpse-flights-pizza-boy-delivery-routes-daily-commute-Stunning-aerial-images-reveal-seen-America.html


「もびもび」東京巡回展会場の一つ "GALLERY MoMo Projects" で展示していた「高橋大輔」氏の作品は、「もびもび」展と同時期にその近傍の「山本現代」と「アラタニウラノ」(白金アートコンプレックス)で開催されていた、「椹木野衣」氏企画の「未来の体温 after AZUMAYA」展と「もびもび」展とを「交錯」させる媒介ともなっていた。「高橋大輔」氏を「ハブ(ノード)」として、「梅沢和木」氏、「河西遼」氏、「三輪彩子」氏、「吉田晋之介」氏(「長谷川新」氏)といった諸氏が、「赤城修司」氏、「竹内公太」氏、「吉村大星」氏、「東谷隆司」氏(「椹木野衣」氏)といった諸氏と「交錯」していた事態もまた、或いはその事こそが「交錯する現在」と言えるものであるだろう。また例えば「梅沢和木」氏を通して、近隣の "DIESEL ART GALLERY" で開催されていた、氏の個展である「エクストリームAR画像コア」展や、「もびもび」東京巡回展の直前まで行われていた「森美術館」の「LOVE」展が繋がりもするだろうし、「LOVE」展に参加していた「やくしまるえつこ」氏を「ハブ(ノード)」として「反重力」展に繋がりもし、その「反重力」展は「奥村雄樹」氏を「ハブ(ノード)」として「六本木クロッシング」にも繋がっている。その意味で、"GALLERY MoMo Projects" と "CASHI" の二会場に「分割」され、事実上その紐帯(共有の場)が「MOBILIS IN MOBILI - 交錯する現在 - 」というタイトルと「長谷川新」氏になった「もびもび」東京巡回展は、大阪展よりも「外部」との「交錯」が見え易いものであったと言えるだろう。「もびもび」東京巡回展に於ける "GALLERY MoMo Projects" と "CASHI" の関係は、「羽田空港」から「成田空港」へ「空路」で向かうが如くにあったのかもしれない。近い様で、遠い様で、しかし確実に「繋がっている」といった様に。

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「もびもび」東京巡回展の展示は、「コーポ北加賀屋」の展示以上に、意識的に「共有の場」が設定され、各作品の「相互言及」を見え易いものにしている様に思えた。その一例として "CASHI" に於いて「百頭たけし」氏を挟んで「武田雄介」氏と「川村元紀」氏を展示していた事が上げられる。それは以前書いた様に、「世界」を「インスタレーション」的に捉えるかの様な「百頭たけし」氏の写真と、「世界」の中にある「インスタレーション」そのものの「武田雄介」氏と「川村元紀」氏の作品を並べているという所に、或る意味での「周到」さを感じた。


例えば、「百頭たけし」氏の作品を挟んで「展示」されている「武田雄介」氏の作品と「川村元紀」氏の作品を、他ならぬその「百頭たけし」氏が撮影(「世界」からの切り取り)し、そのまま現在の氏の展示に紛れ込ませたと仮定する。その時「武田雄介」氏の作品を構成する「組み上げられた椅子とその写真」「パイナップル」「扇風機の羽根やガード」「ライトスタンド」「ミラーバルーン」「足拭きマット」「風景画」等といった諸「エレメント」、そして「川村元紀」氏の作品を構成する「ニコニコ動画クッション」「ブリングネイル」「ワンカップ大関」「ホルベインパステルフィキサチフ」「花王マジックリン」「龍角散ののどすっきり飴」等といった諸「エレメント」は、「百頭たけし」の一葉のプリントアウト中に「画像」としてフィックスされた「大黒天の置物」「徐行の交通標識」「微妙にデザインされた『一般業者』の看板」「微妙にデザインされた『計量受付』の看板」「アルミホイール」「『松本引越センター』のダンボール」「『クレス装』と表示された電光掲示板」「サクソフォン」「『ファイティングロード』のサンドバック」「『武蔵野実践学園』の受付看板」「スーパーハウス」「カラーコーン」「コマツフォークリフト」等といった諸「エレメント」と同様の「もの」として見えるだろう。この時「百頭たけし」氏の写真は、「武田雄介」氏と「川村元紀」氏を「言及」する位置に立つ。「百頭たけし」氏の写真は、我々に「この世に不思議なものは無いが、この世は不思議なものである」を見せてくれるが、翻ってその「折線」を「共有」する形で、「武田雄介」氏の作品と「川村元紀」氏の作品にもそれは妥当する。


それは一方で「武田雄介」氏の作品と「川村元紀」氏の作品を起点として、「組み上げられた椅子とその写真」「パイナップル」「扇風機の羽根やガード」「ライトスタンド」「ミラーバルーン」「足拭きマット」「風景画」等や、「ニコニコ動画クッション」「ブリングネイル」「ワンカップ大関」「ホルベインパステルフィキサチフ」「花王マジックリン」「龍角散ののどすっきり飴」等が、「インスタレーション」という「世界」内で「同居」する事の「意味不明」を、そのまま「百頭たけし」氏が切り取る「世界」の中に見える「大黒天の置物」「徐行の交通標識」「微妙にデザインされた『一般業者』の看板」「微妙にデザインされた『計量受付』の看板」「アルミホイール」「『松本引越センター』のダンボール」「『クレス装』と表示された電光掲示板」「サクソフォン」「『ファイティングロード』のサンドバック」「『武蔵野実践学園』の受付看板」「スーパーハウス」「カラーコーン」「コマツフォークリフト」等(列挙すればする程「意味不明」が際立って来る)が「同居」してしまっている、他ならぬ我々が住む「世界」の「意味不明」を示しもする。しかしその「意味不明」は、例えば「百頭たけし」氏の写真中の「産廃業者」的には、或る面で多重的に「意味明白」でもあるのだ。


大阪会場だった「コーポ北加賀屋」の近傍には「ホームセンターコーナン南津守店」があり、「川村元紀」氏は或る「意味明白」な「法則性」を以って、そのホームセンターで作品を構成する幾つかの「エレメント」を購入している(他にも貸トラックで搬入の移動中に、同じ「法則性」を以って各地で「エレメント」を購入している)。しかしそもそも「ホームセンター」の売場自体を虚心坦懐に眺めれば、そこは「意味明白/意味不明」の「世界」であろう。この世に不思議なものなど無い(意味明白)と同時に、この世は不思議なものばかり(意味不明)である。「過剰性」は「意味明白」から溢れる「余剰」としての「意味不明」である。しかし「意味明白/意味不明」のスラッシュは常に恣意的だ。


同会場の「二艘木洋行」氏にしても「百瀬文」氏にしても、或いは "GALLERY MoMo Projects" の「河西遼」氏、「三輪彩子」氏、「高橋大輔」氏、「吉田晋之介」氏、「梅沢和木」氏(以上「会場入口」から時計回り順)にしても、その「過剰性」を以って「意味明白/意味不明」の間を「往還」、又はその「重層」を見せてくれる。ビットマップの「線」は「線」として、果たして「明白」なものか「不明」なものか(「二艘木洋行」氏)。別れた恋人に電話を掛けながら玉葱を微塵に切る女性の「涙」の「意味」は、果たして「明白」なものか「不明」なものか(「百瀬文」氏)。鼠の目が見ているものは、果たして「明白」なものか「不明」なものか(「河西遼」氏)。それが粉石鹸である「理由」は、果たして「明白」なものか「不明」なものか(「三輪彩子」氏)。指で摘めそうな「油絵具」が表すものは、果たして「明白」なものか「不明」なものか(「高橋大輔」氏)。その絵に描かれた「対象」は、果たして「明白」なものか「不明」なものか(「吉田晋之介」氏)。それ自体が「意味明白/意味不明」である「世界」の切片が向かう先は、果たして「明白」なものか「不明」なものか(「梅沢和木」氏)。当然他の「意味明白/意味不明」をそれらに見る事も可能である。「交錯」されたそれぞれの作品間の「相互言及」が、その「意味明白/意味不明」をより多層的なものとして行くだろう。



「天に無数に散らばる星々を紡ぎながら、星図に新たな筆を入れる事がもし可能ならば、それを手に海に出る事も可能になる」。西洋の「星図」と東洋の「星官」が重なりつつも異なる様に、その「交錯」はそれらの「相互言及」を可能にする。そしてその「共有の場」に於ける「相互言及」こそが「天に無数に散らばる星々」という「外部」の存在を照射するのである。