妄想「パシフィック・リム」

承前


ネットで "Pacific Rim"(movie)を調べた。カタカナの「パシフィック・リム」ではなく英語のそれだ。"Cool Japan" が本当であれば、英語圏のサイトには "cool" の言葉が乱れ飛んでいても良い筈だが、実際には "silly" "stupid" "ridiculous" "unwise" "childish" 等といった悪罵も多く見掛けた。


同映画にも登場する「有人巨大人型兵器」は、「マジンガーZ」以来の日本特有の「妄想の様式」である。従って英語を話す人達は、その様な「異文化」の「妄想の様式」に対して、彼等の現実的なものに対する単語である "robot" とは呼ばず、"mecha(mech)"=「メカ」というエキゾチックな「日本語」を当てたりもする。


メカは "mechanism"(機械装置)または "mechanical"(機械の)を略した日本で生まれた用語。日本では機械とほぼ同義に使われることもあるが、海外では人間が搭乗して操縦するロボットなど「空想的機械装置」の総称として認識されている。

(略)


メカはアニメやSFなど、空想的または未来的要素のあるジャンルの作品でよく登場する。二足歩行で腕と手があるものが多く、指もあって物をつかめるようになっているのが一般的である。


(略)


メカは日本の漫画やアニメで発展する。人間がコックピットに搭乗して操縦する大型のメカという形態の起源は永井豪の『マジンガーZ』で、1972年に登場した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AB
日本語版の元になっている英語版解説 http://en.wikipedia.org/wiki/Mecha


Wikipedia 日本語版の記事では割愛されている "mecha" という「妄想の様式」誕生の重要なエピソードとして、「マジンガーZ」を生み出した永井豪氏の以下の言葉がある。


それまでのロボットと同じではいけない。新しいコンセプトをもった作品にならなければ、全く描く意味がない。第一、自分の好きな“アトム”(人格をもったロボット)と“鉄人”(操縦機によってラジオ・コントロールされる)に対して失礼ではないか。だから、違うロボットが見つかったときに描こう。漠然と、そう考えていた。


 その“ロボット物の新しいコンセプト”が見つかったのは、喫茶店で仕事をした帰り道だった。青信号になったのに、横断歩道が車の渋滞でふさがり、渡れないでいた時だ。車で一杯になった道路を、ボンヤリと眺めていたその時だ。


 「車の底から足が出て、いきなり立ち上がり、前の車を跨いで行ったら面白いのになあ〜」。この思いつきが、キッカケとなった。


 「できる!アトムとも、鉄人とも違うロボットが、できる!」。私の頭の中で、車のように運転できるロボットのイメージが、かけめぐり始めた。


「中公愛蔵版 マジンガーZ」まえがき


英語版 Wikipedia の "Mecha" の説明として "a large manned-robotic/human-piloted humanoid construct or vehicle(巨大な有人ロボット/人間によって操縦されるヒューマノイド構造物、或いは輸送機関)" とある様に、それは "vehicle(輸送機関)" であるが故に、車と同程度かそれ以上に「巨大」である。そして大多数の車が「無人」運転に至らず「有人」運転である限りに於いて、それが「有人」である事の説明もすんなりと付きはする。


日本語で表されるところの「ロボット」を "mecha" と呼ぶ人達の頭の中にある "robot" は恐らくこういうものだ。



日本の家電量販店でも売られているロボット掃除機 "Roomba(ルンバ)" を製造する米 iRobot 社(売上の中心は「軍事用ロボット」)のモデル "710 Warrior" のプロモーションビデオである。iRobot 社の日本総代理店のページにはこうある。


わたしたちが作るロボットは、日本のみなさんが思い描いたロボットではありません。
二足歩行をすることも、会話をすることもできません。
しかし、たとえば紛争地帯での地雷除去や、広く深い海洋の調査など、多くの危険を伴う作業を、人間の代わりに引き受けることができます。


http://www.irobot-jp.com/irobot/index.html


ここで俎上に上げられている「二足歩行」ロボットは「Honda ASIMO」、「会話」ロボットは「アクトロイド」を想起するべきなのだろう。確かにそれらは地雷除去どころか部屋の掃除すら出来ない。敢えて言えば、それらもまた「日本のみなさん」が思い描く「妄想の様式」の圏内に存在しているが故に、他の誰もその必要性を手を付ける気が起きないという意味でも、それらの技術は「喋る自動販売機」や「温水洗浄便座」同様、「クール」な日本の「独壇場」である。従って「妄想の様式」それ自体を共有しない「海外」のマジョリティや、「妄想の様式」が発動し得ない現実空間では、それらが存在する意味自体が問われる。3時間フル充電して1時間ばかり動作する「ASIMO」の最新モデルが発表された2011年、「ASIMO原発事故処理をしてもらえませんか」という当然過ぎる疑問に、ホンダはこう答えている。


HondaのASIMOは、将来人の役に立つべく開発をして参りましたが、残念ながら現状では、ご要望をいただいた様なことができる技術には至っておりません。何卒ご理解を賜りますよう、お願い申し上げます。


お客様相談センター地震に伴うQ&A
http://www.honda.co.jp/customer/disaster/asimo/index.html


現在ホンダのロボットもまた "710 Warrior" と共に福島第一原子力発電所に入っている。但しそれは日本的な「妄想の様式」上にある「ASIMO」ではなく、iRobot の "Robots for Defense and Security" と同じ「クローラー(無限軌道)」で走行する "robot" としての「High-Access Survey Robot(高所調査用ロボット)」である。仮に「高所調査用ロボット」が担っている同じ仕事を、人間と同サイズのヒューマノイドにさせるとするなら、彼等に梯子か脚立を持たせて行かせるべきだろう。そしてその前提条件になるのは、梯子や脚立が上手く登れる技術の開発である。


パシフィック・リム」に登場する「メカ」、「イェーガー(Jaeger)」 に搭乗すると、モデルによっては至近距離に存在する動力源から漏れる放射線被曝をするのだそうだ。それが「パシフィック・リム」の物語の核心部分の一つであったりもする。それでもそれが「有人」を前提とした "vehicle" としての "mecha" である限り、人間は乗り込まなければならない。"mecha" は「車のように運転できる」という「妄想の様式」を崩さない事こそが大前提なのであり、従って "Teletank" や "Goliath" や "Predator" や "710 Warrior" の様な無人兵器技術の延長上に位置する訳には行かない。


凡そ構造計算を始めとする工学理論(工学倫理含む)に対する顧慮が一切されていない、されなくても一向に構わない「妄想の様式」がスクリーンを動き回るというのは、アナロジカルなメディアとしての「アニメ」が最適なのだろう。一切の工学理論を無視する事が可能なのは VFX も同じだが、しかし VFX の最大の利点であると同時に最大の欠点であるところは、それが身も蓋も無くアナロジーの部分を飛ばして「本当らしく」見えてしまう事だ。「本当らしく」見えるという事は、「本当の本当」という信仰と渡り合わなくてはならない。即ち「本当の本当」から逃れる「妄想の様式」を描画するのに、全てを見たままの即物的な形にする VFX は必ずしも適していない。


http://www.technewsdaily.com/18529-giant-robots-possible-pacific-rim.html


上掲リンク先の記事の画像にある "VOLTRON(GOLION=百獣王ゴライオン)"、"EVA UNIT 001"、"ZGMF-X20A STRIKE FREEDOM" といった、平板な色を注ぎ入れた線画としての「アニメ」だからこそ成立可能な「妄想の形式」に対して、「空想科学読本」的なツッコミは「野暮」でしかないし、一方それを "childish" と考えている立場があるとすれば、そうしたツッコミは「無駄」でしかない。しかし VFX となるとそうは行かない。VFX が「本当らしさ」を最大の武器とするなら、その「本当らしさ」こそが VFX の手を噛む。


これは身も蓋も無い言い方になるが、現在に至っても VFX は物語の進行を直接司る存在を描くのには向いていないし、将来はより向いていないものになって行くだろう。それが「本当らしさ」を追求する方向に向かい続ける限りに於いて、観客は想像の余地をより奪われ、スクリーンに映し出されたもので完結させられる。同映画で VFX が辛うじて成功していたのは、"Jaeger" でもなければ "Kaiju" でもなく、それらが暴れ回る「背景」の部分にあった様に思われる。VFX による背景の前の "Jaeger" と "Kaiju" は「セルアニメ」で良かったのかもしれない。

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何もそれを敢えて "Kaiju" と言わなくても良かったのではないか。"Monster" では何故駄目だったのだろう。「怪獣」にはあって、"Kaiju" には欠けているものがある。あの「超巨大トカゲ」だった所謂ハリウッド版ゴジラ("GODZILLA" 1998年)は、それでも "Kaiju" と言わないだけの節度は持っていた。


「怪獣」という存在もまた「妄想の様式」である。従ってそれは、生物学的に説明し切れないものだ。少なくとも「クローン技術」を使って「軍事」目的で次々と「生産」される「巨大生物兵器」を「怪獣」とは呼ばない気がする。形象の記述でしかない "AXEHEAD" "BLADEHEAD" "KNIFEHEAD" "OTACHI" "LEATHERBACK" 等といった "Kaiju" 名は、"iPhone" や "iPad" 等と同様のモデル名であり、即ちその命名法で行けば「月に10万個のゴジラが生産された」という表現も可能だ。恐らくギレルモ・デル・トロ監督の「怪獣」理解には、多かれ少なかれそうしたものがあるのだろう。であるならば、"Kaiju" の足の裏に "BULLMARK(MARUSAN)"と刻印されていても良い(そしてそれを見て「ツボを心得ている」というハッピーな感想もあり得るかもしれない)。例外的に存在するプロダクト的な「怪獣」に「ガラモン」があり、その設定の基本線も「パシフィック・リム」の "Kaiju" と大きく変わるところは無いが、しかし実際にはあれは「ロボット」なのであり、であれば同様に "Kaiju" も「ロボット」なのだろう。即ち「パシフィック・リム」は、「ロボット」対「怪獣」ではなく、「ロボット」対「ロボット」を描いたものだと言える。


「怪獣」が「夢の様式」である事を良く表しているプロットがある。「ウルトラQ」第15話「カネゴンの繭」(昭和41年=1966年)から起こす。


父  「待ちなさい!金男!」
金男 「何だよ父ちゃん。お小遣いくれんの?」
父  「父ちゃんはな、金を集めちゃいかんとは言わんが、お前のは少し行き過ぎだ!」
金男 「そんな事言ったって今みたいな世の中、親よりお金の方が大事だもんな」
母  「そんな罰当たりな事を言ってるとお前、お金亡者のカネゴンになっちゃうよ」
金男 「カネゴンカネゴンって何さ」
母  「ほら、食べてすぐ寝ると牛になるってぇだろ」
金男 「ああお金持ちの牛になんの」
父  「バカを言うな!人の落としたお金を黙って拾ったりするとなるもんだ」
金男 「ぼくそんな事知らないよぉ」
父  「聞いて驚くなよ。カネゴンっつうのはお前、頭は金入れ、体は火星人、目はお金の方へ向いてピョコーンと二本飛び出し、口は財布のジッパーなら、体は銅貨の銅みたいに赤光りする怪物で、ゴジラみたいな尻尾にはギザまで付いてんだぞぉ」
金男 「そいつは頼りになりそうな動物だね、父ちゃん」
父  「笑い事ではありませんっ!カネゴンはな、ご飯の代わりにお金をボリボリ食べるんだから」


「怪獣」とは「因」を受けて「果」となった「形象」の謂である。その誕生や形象に些かの生物学的必然性も無い事は、加根田金男の母が言う「そんな罰当たりな事を言ってるとお前、お金亡者のカネゴンになっちゃうよ」や、父が言う「頭は金入れ、体は火星人、目はお金の方へ向いてピョコーンと二本飛び出し、口は財布のジッパーなら、体は銅貨の銅みたいに赤光りする怪物で、ゴジラみたいな尻尾にはギザまで付いてんだぞぉ」でも明らかだ。「怪獣」は「観念」的なものが「化けた」ものとしての「化け物」である。だからこそ、「怪獣」は常に「シュール・レアリズム」との関連性が問われる事になる。ギレルモ・デル・トロ氏は「怪獣モノに関しては、どれも好きなんだけど、特に『ウルトラマン』のクレイジーなものが好きだった」と語るものの、自作の "Kaiju" の造形は極めてオーソドックスである。その「ウルトラマン」の「怪獣」造形の多くは、「カネゴン」をもデザインした成田亨氏の手になる。


ウルトラ怪獣のデザインをするに当たって、三つの規範を定めました。
 1.怪獣は怪獣であって妖怪(お化け)ではない。だから首が二つとか、手足が何本にもなるお化けは作らない。
 2.地球上のある動物が、ただ巨大化したという発想はやめる。
 3.身体がこわれたようなデザインをしない。脳がはみ出たり、内蔵むき出しだったり、ダラダラ血を流すことをしない。


成田亨「特撮美術」


「怪獣」は生物かと問われたら、純粋にそれではないと言えるだろう。一体どの世界に「光線」や「太刀」を浴びて「爆発」する生物がいるだろうか。その「爆発」の後「怪獣」は綺麗さっぱり無くなって「炎上」すらしない。「怪獣」の「死体」は存在しない。「怪獣」は「妄想の様式」が産んだ「形象」である為に、それが物語から退場するには、苦痛に悶えたり血を流したりして「死ぬ」のではなく、「爆発」による「消去」という形で向こう側に行くしか無いものである。


【了】