妄想「風立ちぬ」

承前


プラモデル雑誌「月刊 Model Graphix」2009年4月号から2010年1月号に掲載(2009年10月号休載)された「原作」の漫画のタイトルに「妄想カムバック」とある様に、劇場アニメ化された「風立ちぬ」もまた紛れも無く「妄想」であり、従って広く共有される事を始めから放棄している。劇場では「映画をご覧になったあとにお読みください」と書かれた二つ折りのカードが渡される。それを開くと鈴木敏夫プロデューサーの自筆メッセージと、QRコード、検索ワード、URLが載っている。そのメッセージは観客に対する「試験問題」になっている。


その「試験問題」に対する「回答」を、カードに記されたリンク先にアップロードするのだが、実際には鈴木敏夫氏が提示した「試験問題」に対する「回答」の形になり得ているものは極めて少ない。「試験問題」は「記述問題」であり、この映画のテーマの一つでもあるだろう「資質」を観客に問うものなので、それを積極的に隠す必要も無いと思われる。URLだけ記しておく。鈴木敏夫氏の当該自筆メッセージも、そのリンク先のその先の何処かに掲載されている。


http://www.aulovesghibli.com/ (恐らく時限)


その「試験問題」を「美術」のそれに翻訳してみるとこうなる。


作品を見てくれた皆さんへ


作品を見て、どういう内容だったのか教えて下さい。どう見てもらえたのか、知りたいのです。よろしくお願いします。


この質問を観客に対して発してしまう「美術」の「アーティスト」がいるとしたら、それはかなり微妙な存在であるには違いない。「美術」の「プロデューサー」であってもそうだろう。そういう意味では単純に困った文章であるとは言えるが、それでもこれは「試験問題」ではある。「作品を見てくれた( ≠ 見て頂いた)皆さん( ≠ 皆様)」は試されているのである。


多くの「美術」作品同様、この映画にも「内容」などというものは存在しないと言って良い。であるにも拘わらず、多くはそこに作者が込めた「内容」が存在していると錯覚する。そして何処にも無い「内容」を想定して侃々諤々をする。この文章は「あなたはこの『妄想』からどういった『内容』を導き出す事が出来ますか?」という「試験問題」であるから、当然「皆さんの回答を次回作に反映させます」といった類の文章は一切書かれてはいない。そんな事は鈴木敏夫氏の頭の中には毛頭無いだろうし、当然の事ながらそのカードに「アーティスト」宮崎駿氏の名前は連なっていない。そして結果として「回答」を求める「試験問題」であるにも拘わらず、案の定寄せられたその殆どが「感想」であったりする。仮にそれらが彼等の参考になるとすれば、「感想」を書いてくる人間が多いという「確認」の意味でだろう。


http://www.aulovesghibli.com/pc_afterarchive/ (PC)
http://www.aulovesghibli.com/sp_afterarchive/ (SP)


これらの「感想」の文面を、鈴木敏夫氏も宮崎駿氏も、読むかもしれないし読まないかもしれない。しかし読んだとしても、そこに書かれている「内容」に対して一定以上の関心は無いだろう。「美術」の「アーティスト」は、「感動しました!」と熱を込めて語って来る観客に対して、果たしてどう接するものであろうか。「ああそうですか。それは良かったですね」程度の事は言うかもしれないが、それが精々のところだろう。そうした「感想」に対する冷淡な「無関心」こそが、因業な「アーティスト」の「アーティスト」としての「誠実」さの証なのである。


 夢の飛行機をつくる人生もいいですが、戦闘機の美しさは戦場の現実と裏表の関係にある。宮崎駿が戦争を賛美しているとは思いませんが、戦争の現実を切り離して飛行機の美しさだけに惑溺(わくでき)する姿には、還暦を迎えてもプラ模型を手放せない男のように子どもっぽい印象が残ります。


藤原帰一の映画愛」毎日新聞
http://mainichi.jp/opinion/news/20130722org00m200999000c2.html


映画に対して「解釈」ではなく「解読」のアプローチで望むこの手の感性に対して出来る事は極めて簡単である。登場人物の誰か(「二郎」が良いのだろう)に「戦争はいけないと思いますマル」という台詞を一言だけ言わせておけば良い。「良い子はこういう自分勝手な恋愛を真似してはいけませんマル」と、子供にも判る平易な文章で何処かに一筆書いておけば良い。心理的な葛藤が描けていないから不満だというのであれば、それらしく見える典型的なものを一つ二つ見繕っておけば良い。説明不足だから駄目だというのであれば、「賢明な観客諸兄はおわかりだろうが…」と慇懃に前置きをしつつ、解説のナレーションやテロップをしつこく入れれば良い。表面上描かれている「内容」こそを「解読」しようとする感性に対しては、それで全てが済む話だ。その手の感性は、誰もが読める様に出来ているサービス精神旺盛(大きなお世話)な作品を見たいのだ。そういう事であるならば、例えば東京国立近代美術館の常設「戦争画」の回りにも、そうした感性への対策上「戦争はいけないと思いますマル」という貼り紙をベタベタと貼り出しておくべきなのかもしれない。恐らく先の「試験問題」はこうした「解読」する感性にこそ向けられているものであり、「回答」者が寄せた「内容」の幾つかが「戦争賛美」や「男尊女卑」等とされる事もまた想定内であっただろう。念為だが、ここで書いているのはこの映画を良いと思っているとか悪いと思っているとか、好きであるとか嫌いであるとか、許すとか許さないといった話とは関係が無い。

      • -


背景画が印象的だった。同映画の企画書に宮崎駿氏はこう書いている。


■映像についての覚書
 大正から昭和前期にかけて、みどりの多い日本の風土を最大限美しく描きたい。空はまだ濁らず白雲生じ、水は澄み、田園にはゴミひとつ落ちていなかった。一方、町はまずしかった。建築物についてセピアにくすませたくない、モダニズムの東アジア的色彩の氾濫をあえてする。道はでこぼこ、看板は無秩序に立ちならび、木の電柱が乱立している。


それが描けるのは背景画であり、だからこそのアニメ化なのであろう。不透明絵具で描かれた不透明な背景画は、前景のセル画で描かれているドラマの様には判り易い「内容」を語らない。しかしそれもまた「解釈」の対象として饒舌である。創業当時の三菱内燃機名古屋航空機製作所の佇まいは、それだけで美しい田園風景とは違った近代日本の断面の幾つかを見せてもくれる。普通に家並みが描かれているだけでもそれは大いに語る。そしてそれを語らせるのは作者ではなく(作者もその全ては判らない)それぞれの観客の持つ「資質」である。想像してみれば良い。真っ白なバックの前のセル画だけの「風立ちぬ」を。純粋に「内容」だけの「風立ちぬ」を。背景画が存在しようが存在しまいが、両者とも「内容」は全く同じだ。果たしてそうなのか。


【続く】