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墓は語るか【序】

【序】


展覧会の周囲をグルグルと巡る。

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国木田独歩の「武蔵野」の冒頭はこう始まっている。


「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間(いるま)郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡小手指原(こてさしはら)久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。(括弧内ルビ)


http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html


新田義貞鎌倉幕府を滅亡に導くまでの戦いについては「太平記」に詳しい。「太平記」に従う形で(「梅松論」では異なる)時系列的に書けば、新田軍と北条軍の戦闘は、入間川(現埼玉県狭山市広瀬東・柏原〜同市入間川付近)渡河(1333年5月10日)→ 小手指原(現埼玉県所沢市北野新町付近)合戦(同年5月11日)→ 久米河(現東京都東村山市諏訪町付近)合戦(同年5月12日)→ 分陪(現東京都府中市分梅町付近)合戦(同年5月15日)→ 堀金(現埼玉県狭山市堀兼付近)退却(同日)→ 分陪(現東京都府中市分梅町付近)合戦(同年5月16日)→ 玉河渡河→ 関戸(現東京都多摩市関戸付近)合戦(同年5月17日)→鎌倉幕府滅亡(同年5月22日)となる。これらは全て「鎌倉街道上道(=上路=かみつみち。「吾妻鏡」では「下道」)」沿いに展開されている。要するに「いざ鎌倉」に表されるところの鎌倉幕府守護の為の諸国武士の招集路が、当の鎌倉幕府自体を滅亡させるルートになったのである。鎌倉街道上道の宿場は、「太平記」に関係するものに限れば、「入間川」から南下方向に「入曽」「所沢」「東村山」「小平」「恋ヶ窪」「府中」「関戸」となっている。


一回目の分陪合戦に大敗した新田軍の堀金退却の際、新田軍は多摩川の「河原(沖積層)」であった分陪から、「立川崖線(府中崖線)」の崖を登り、途中、武蔵国府(現大国魂神社付近)と同じ「立川崖線」と「国分寺崖線」に挟まれた「立川段丘」上にあった、奈良東大寺(総国分寺)に匹敵する規模の日本最大級の国分寺であり、鎌倉幕府の保護下にあった「武蔵国分寺」に火を放ち、それを焼失させる。


自分が小学生の頃には、時々父親に連れられて、東京都国分寺市東元町に今でもある補聴器メーカー「(株)リオン」の脇から「国分寺崖線」のハケを下り、現在「お鷹の道・真姿の池湧水群」と名指されている小道を通って、「武蔵国分寺跡」まで散歩をしに行った。当時の「武蔵国分寺跡」は、大規模な発掘調査の手も余り入っておらず、現在の様には整備されていない只の「荒野」であり、それは殆ど新田義貞の時代と変わらないものであった。下掲の「武蔵名勝図会(文政6年=1823年刊 植田猛縉著)」の風景に若干の民家を足せば、それが昭和30年代から40年代に掛けての「武蔵国分寺跡」周辺の風景である。これは強調してもし過ぎる事は無いが、昭和30年代の日本に於ける「三丁目の夕日」的な風景は、極めて地域的に限定されたものだ。昭和30年代の日本の大部分の地の風景は、実際にはこの様なものだった。




その周囲の道端には、焼け落ちた「武蔵国分寺」の「古瓦」の破片が、極めて普通に石ころの様にゴロゴロと落ちていた。流石に「単弁八葉蓮花文鐙瓦」の様な目を引くものはそうそう落ちてはいなかった(時々その破片が見つかる事もあり、幸運な担任はそれをお宝にしていた)が、それでもそれらは新羅から来た人達によって8世紀中頃に焼かれたものだ。下掲の「江戸名所図会(天保7年=1836年)」の風景の中にいる、長谷川雪旦描くところの童は自分である。その童(自分)の足元右側に、「古瓦」が素っ気なく落ちている様子も、昭和時代と全く変わらない。しばしばその1200年前の「古瓦」を、散歩の土産として拾って帰ったものだった。上掲「武蔵名勝図会」は、まるで自分が描いたものの様であり、拾った「古瓦」の形状も、拾った場所(図の中央に「古カハラ」と書かれている)も全く同じである。



但し瓦は落ちてはいたが、具足までは落ちてはいない。折れた刀も矢も落ちてはいない。焼け爛れた仏具も落ちてはいない。それでもそこに夥しい数の死体(「斬死体」や「焼死体」等)が転がっていた事は子供の頭にも想像出来た。自分が踏みしめているその土が、その夥しい血を吸っているであろう事もまた。横溝八郎や安保入道クラスの将ともなれば、後年「塚」を建てられもするだろうが、多くの兵はそのままの場所で放置されるがままにあったか、纏められて埋められたかされただろう。この足の下には死体が埋まっている。その想像が可能になったのは、そこが「礎石」のみが残る「荒野」のままであったからだろう。


「武蔵名勝図会」には以下の記述がある。


その地(注:現「武蔵国分寺」)より南の一段低き地に大石の礎、これもあまた列居し、今は陸田となり、或いは茅生いたるところもあり。大石動かし難く、ここは上古の国分寺伽藍跡なりと云う。田圃の傍らに古瓦幾ところも積みて塚をなす。


拾った「古瓦」は、戦死した両軍兵士や国分寺僧侶を弔った「塚(墓)」を形成していたものだったのかもしれない。しかしそれもまた不知(しらず)である。

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アイドルって「偶像」だっけ? シンボルとかね。 アキは アイドルだったの。 小さい田舎の しょうもない町だけど そこでは間違いなく アイドルだったんですよ。ねえ 種市くん! みんなの期待を 一身に背負って 出てきたの。 だから みんな 私に 声かけるの 今でも! 「アキちゃん元気? どうしてる?」。 もう とっくに いないのによ。 それってアイドルでしょ? そこに いないのに みんなの心に アキがいるって事でしょ?


天野春子「あまちゃん」第18週103話 2013年7月29日オンエア


「とっくにいないのに」「そこにいないのに」いる。「みんな私に声かけるの今でも」。「それってアイドル」だと、「なんてったってアイドル」の人の演じる天野春子は言った。

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少しだけ巡る半径を狭めよう。


【続く】