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「本の梯子」「慈雨 百合 粒子」「秘密の湖」


休憩ヲ為サシムルニハ左ノ號令を下ス
「休メ」
此號令ニテ生徒ハ姿勢ト動カザルトニ意ヲ留ムルコト無ク片足ヲ舊位二置キ其場二立チテ休息ス
「休メ」ノ號令アルトキノ外随意二動クヲ得ズ又休憩中ト雖談話シ或ハ猥リニ位置ヲ離ルルコトヲ禁ズ
注意 休憩は遊戯二アラズ故二隣生ト戯レ或ハ見苦シキ容姿ヲナスコトナク兩手ハ成ルベク腰二取ルヲ可トス



「小學實驗兵式體操書」櫻井第惠 編(同文館 1898年)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860085


画像:「圖入 兵式體操繁範 巻一」生田清範 編(金港堂 1886年)より
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843791


初代文部大臣である森有礼(有禮)氏が、学校教育に「兵式体操(體操)」を導入したのは1886年(明治19年)である。森有礼氏は学校を「道具責メノ方法」であるとした。「號令」を合図として行われる「休メ」は、「遊戯二アラズ」なものとして、「不動ノ姿勢」である「氣ヲ着ケ」とセットになった別形態の「氣ヲ着ケ」であり、記号としての「休憩」である。


身体は政治的領域に投じられる。権力の網目が身体の上でじかに作用する。権力の網目が身体にかたちを与え、刻印を押し、訓育し、責めさいなみ、労働を強い、儀式への参加を義務付け、そして、記号を持つことを要請するのである。


「監獄の誕生」ミシェル・フーコー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A3%E7%8D%84%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F


森有礼氏の言う「道具責メノ方法」というのは、人格(主体)の改造としての教育を「精神」面から行うのではなく、「身体」を強迫的にコントロールする事によって行う事を意味している。森氏自身の「郷中」時代や "Brotherhood of the New Life(新生社)" 時代の体験を通して、それが主体の改造に最も効率的な方法である事を氏は良く知っていた。"Compulsory Education" の日本語訳は、今日では「義務教育」となっているが、当時の訳は「強迫教育(近代中国同)」であり、その意味で森有礼氏は「兵式体操」を「強迫体操」であるとしていた。


政治的領域に投じられた「休憩」、記号としての「休憩」の形には、所謂「体育座り」というものもある。


古くからの日本語の用法でいえば、これは子どもを「手も足も出せない」有様に縛り付けている、ということになる。子ども自身の手で自分を文字通り縛らせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢を取ってみればすぐ気付く。息をたっぷり吸うことができない。つまりこれは「息を殺している」姿勢である。手も足も出せず息を殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。


「思想する『からだ』」竹内敏晴


少なからぬ者が「安楽な座法」であると認識するまでに「身体」に「刻印」された「自己強迫装置」である「体育座り」が一般化したのは、一説には1958年(昭和33年)の文部省による通達からとも言われている。以降、女子生徒の「体育座り」がしばしば性的興味の対象とされるのは、「手も足も出せない」ところにあるからかもしれない。現在の教育現場の「体育座り」に対する声には、こういうものがある。


(略)
・体育座りをすると、背筋が伸び姿勢がよい。視線が上を向く。
・体育座りでは、手を組むので、手悪戯しない。
・体育座りは、狭い範囲に子どもを集めることができる。
・あぐらでは、視線が下に行く。背筋が曲がってしまう。
(略)
・体育座りは、だらだらしない。だらだらした雰囲気を起こしにくい。


「体育座りについて考える」
http://homepage1.nifty.com/moritake/taiiku/suwari.htm


「休メ」では、「談話」や「猥リニ位置ヲ離ルルコト」や「隣生ト戯レ」や「見苦シキ容姿ヲナスコト」が「精神」的に禁じられ、「体育座り」では、「手悪戯」や「視線が下に行く」や「背筋が曲がってしまう」や「だらだらした雰囲気」が「身体」的に封じられている。換言すれば、「監獄の誕生」で被監視者である囚人に自身の行動監視を内発的に行わせる「一望監視装置(パノプティコン)」を例出したミシェル・フーコー氏が言うところの「権力の網目」が恐れているのは、それら「禁じられたもの」や「封じられたもの」の諸行為であるという事になる。そしてその「反 = 権力の網目」的な「身体」の在り方の中に「手悪戯」が入っている事に注目したい。


「手悪戯(手いたずら)」をオンライン辞書で調べると、Weblio 類語辞典に行き当たった。


意義素・用例
 小物・危険物などを弄ぶ
類語・縁語
 手いたずら(する) ・ (手先で)遊ぶ ・ (〜に)さわる ・ (面白半分に)いじる ・ いじくる ・ (指で)ひねくる ・ (切符を)もみくちゃにする ・ 手なぐさみとして〜 ・ (風が髪を)なぶる ・ 火遊びする


Weblio 類語辞典
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E6%89%8B%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%9A%E3%82%89


「コトノハ○×」の「手いたずら」には、「常習犯」や「情緒不安定」の記述を見る事が出来る。授業中の「消しゴムカス集め」や「ペン回し」等は、森有礼氏の「学校令」以後の日本の教育現場では「学習障害」の代表的なものともされ、またそれらは「発達障害」とすら強迫的に思わせられる事もあって、近代的「医療」機関による「診断/矯正」の対象とされたりもする。しかしそれらが「学習障害」や「発達障害」とされるのは、当然の事ながら「学習」や「発達」という概念が「発明」されたここ最近の話に限られる。


「てあそび」「てすさび」「ていじり」「てわるさ」「てまぜ」「てもずら」「てずくな」「てわすら」「てわさ」「てわっさ」「てわっしゃ」「ててんご」「てちんご」「てまんご」「いんごまんご」(地方名略、順不同)等々、「方言」による「手悪戯」はバリエーションに富んでいる。それらの「手悪戯」を表す言葉の中には、「手仕事」の意味をも持つケースが少なくない。「手悪戯」という語の両義性を残している「地方」では、「悪戯」もまた「仕事」だ。そこでは「悪戯」の「悪」は「悪」では無い。


「手悪戯」は、「遊び」の4つの分類であったりもする「アゴン(競争)」、「アレア(偶然)」、「ミミクリ(模倣)」、「イリンクス(眩暈)」のいずれにも該当しない。「手悪戯」は「遊び」を分類したロジェ・カイヨワ氏が認める「正式」なそれからも疎外されているという事なのだろう。


しかし幾らか【枕】が長くなってしまった。この辺りで【本題】に入る事にする。

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昨年の「横浜市民ギャラリーあざみ野」での「あなたの船の往くところに」に続き、今年に入ってからも「福田尚代」氏の作品を幾つか拝見した。3月に京都の二条城近くにあるボイラ関係の会社の敷地内にある「ギャラリー・モーネンスコンピス」で、かなもりゆうこ氏との二人展「本の梯子 -Book Ladder」展を見たのを皮切りに、先月6月7日に終了した東京・神田の「小出由紀子事務所」での「慈雨 百合 粒子」展。そして同日に回った水天宮の「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」の四人展「秘密の湖」でのものだ。


それら四つの展覧会の、「福田尚代」氏の仕事を紹介した箇所を、それぞれのサイトから引く。


福田は、書物のページを丹念に折り込むことによって、最後に残された言葉から立ち現われる世界を変容させる《翼あるもの》シリーズで、言葉への探求を試みています。(横浜市民ギャラリーあざみ野)
http://artazamino.jp/event/scg20121125/


言葉とかかわりながら制作を続ける福田尚代(ギャラリー・モーネンスコンピス)
http://kompis.exblog.jp/19615676/


書物や郵便物などを材に用い、「読むこと」と「書くこと」をめぐって点滅する思索を、刺繍や穿孔など強迫的ともいえる手仕事によって表現する稀有な作家です。(小出由紀子事務所)
http://www.yukikokoide.com/exhibition/2013/2013_0507.html


言葉、書物、文房具を素材に、既成の文学にはない、はるかな物語を紡ぎだす福田尚代。(ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション)
http://www.yamasa.com/musee/exhibitions/20130518-0811/


いずれの紹介文にも「言葉」に関する、或いは「言葉」という語そのものの記述が見られる。月刊誌「すばる」2013年8月号の、保坂健二朗氏による「秘密の湖」展の展評も、最終的には「言葉」へと着地させる形になっている。確かにこの作家の重要な仕事として、本人によるサイトのタイトルにもある「回文」が存在しているのは紛れも無い事実であるし、これらの展覧会に出品されたオブジェクティヴな仕事にも、「書物(含「文庫本」)」「原稿用紙」「けしごむ」「栞紐」(以上「秘密の湖」カタログ表記に基づく)等といった、何らかの形で「言葉」に「接して」いるが故に、「言葉」を「連想」させてしまうものが多く使用されている。従って「言葉」を軸に、この作家の仕事の多くに言及していく事が、「『福田尚代』論」の「常道」である事は否定出来ない。敢えてそうした「常道」に乗って行くというのも、あり得る選択ではある。


但しそうなると、例えば「本の梯子 -Book Ladder」展、「慈雨 百合 粒子」展、「秘密の湖」展に出品されていた、自身の「素描」とそれに「刺繍」を施した作品(「言葉の粒子」)、「少女漫画」に「刺繍」を施した作品(「残像/日光写真」)、或いは「色鉛筆(≠鉛筆)」を素材とした作品(「煙の骨」)等が、その分析の網の目からどうしても零れ落ちてしまう。「言葉」という方法論的前提を崩さず、それらの「言葉」とは縁遠そうな作品を、「見なかった事」または「言及しない事」にすれば、話は極めて簡単になるし、そこまで雑な方法を取らないまでも、それらを「派生作品」や「関連作品」という位置に落とし込めば、「言葉」を分析の軸とした方法論的整合性は保たれるかもしれない。


しかし正直なところ、「回文」を含む「福田尚代」氏の作品に対して、個人的には「言葉」という語が一向に浮かんで来ない。寧ろそれらを表出させるに至った「『身体』の在り方」の方が見えて来てしまうのだ。だからこそ、この作家に不似合いに見えるだろう内容の「枕」を長々と書いた。そしてその「『身体』の在り方」は、自分には「手悪戯」のそれと重なり合って見える。「静謐」と形容される事の多い「福田尚代」氏の作品だが、自分の目には寧ろ限りなく「苛烈」なものに思えるのだ。


「福田尚代」氏の作品が作られるのに主に使用されている「身体」部分は、手の親指と人差指と中指といったところだろう。薬指と小指の使用率は限り無くゼロの様な気がする。当然、肩から先の上腕全体の動きも少なく思える。その三本の指は、それぞれの先端が全て重ね合わされている事が多いだろう。即ちそれは「摘む(つまむ)」という形だ。針を「摘んで」刺繍や穿孔をする。栞紐を「摘んで」それを解す。彫刻刀を「摘んで」けしごむや原稿用紙や色鉛筆の芯に彫刻を施す。けしごむを「摘んで」文字を消す等々。


親指と人差指と中指の交差箇所を注視する「視線」。それが「福田尚代」氏の「目」だろう。その「目」が、特徴線だけになった「けしごむ」に「ちぎれたりいろいろなことが起きている」ことを見たり、切り抜かれた「原稿用紙」に「ゆがんでいる」ことを見たり、「色鉛筆の芯」に「砂浜に散らばっているちっちゃい貝殻」を見たり、解された「しおり」に「ちっちゃい貝殻が散らばっている」のを見たりする。


参考:対談「福田尚代と福永信の小さな一時間」

http://www.yamasa.com/musee/events/20130601/


「福田尚代」氏のサイトの「略歴」を見ても、そこは「摘む『身体』」で充満している。ここでの「福田尚代」氏の「身体」のほぼ全ては、親指と人差指と中指を表している。そしてここで重要だと思われるのは(現在の「回文」はどうなのだか判らないのだが〈注〉)、「言葉」の仕事が「鉛筆」や「万年筆」等の「筆記具」で書かれているというところだ。当然物体としての「筆記具」は、「キーボード(流石にこのサイトを「作る」に当っては使用すると思われるが)とは異なり「摘む」ものである。即ち「福田尚代」氏と「言葉」との接点もまた、常に「身体」的な「摘む」を接点としてのものになっている。


「福田尚代」氏の言葉に頻繁に登場する「粒子(粒)」という言葉。「粒子」を「粒子」として手に取ろうとすれば、それは必然的に「摘む」形になる。「一握の砂」は「粒子」的ではない。寧ろ「粒子」的なスケールからすれば、「一撮(ひとつまみ)の砂」ならぬ「一握(ひとにぎり)の砂」は、まだまだ「大きい」ものである。そしてこれは飽くまでも想像だが、「福田尚代」氏の「目」には、「言葉」は物理的な「粒子」として見えているのではないだろうか。「パングラム作家」にとっての「仮名葉」の様に。そしてその「言葉」の「粒子」の一つ一つを「摘み」、それを頭の中に算盤を置く暗算者の如くにイメージして並べ替えて行く。それが「福田尚代」氏の「回文」と呼ばれているものなのではないだろうか。それは丁寧な上にも丁寧に並び直された「粒子」なのだ。


「『摘む』身体」や「『摘む』視線」は、誰もが共有するところのものだが、時にそれは禁じられる対象になったりもする。「言葉」を読む事が「文意」を読む事とされるところでは、「言葉」を「粒子」と見る「視線」は排除されもする。「言葉」を専ら「伝達」機能に還元するところでは、そうした「視線」は「情報」的な「生産性」の足枷にもなる。「近代文学」を始めとする「言葉」に於ける「体育座り」は其処此処にある。そして「近代美術」を始めとする「美術」に於ける「体育座り」もまた、其処此処に存在する。


真っ直ぐ前を見ろ。視線を落とすな。こちらに注意を向けろ。うろうろと歩き回るな。勝手な言葉を発するな。手悪戯などというつまらないものよりモ、正面に見えていル素晴ラシキモノの内容ノ方が遥かに重要ダ。そして表ハサレテイル意味を最大限ニ受け入レテ自分のモノトセヨ。コレハ遊戯二アラズ。


だからこそ「福田尚代」と名指されている「身体」は、金輪際「静謐」なのではなく、徹頭徹尾「苛烈」なものなのだ。

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〈注〉その後作家御本人からツイートがされた。


@omuraji 今でも回文は紙にペンで書きます。ちなみにPCも指三本で操作する者なので、サイト作成にも近いことが言えます(笑)


https://twitter.com/fukudanaoyo/status/357095098451890176