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ハルトシュラ

散らかったままに。

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大阪ミナミの西南端、阪神高速1号環状線と15号境線の分岐という巨大構造物で、心理的に繁華街がすっかり切断されてしまった位置にあるそのビルの前に行くと、白い筐体にシルバーの水玉が全面に施された自動販売機があった。上部には半球とミラーボールが据え付けられている。飲料サンプル窓の左下部のアド窓には、この様な「但書」が記されていた。「ART Vending machine Project ART 自動販売機プロジェクト この自動販売機はアート作品として企画されたものです」。身が引き締まった。それは「不許葷酒入山門」の様にも読めた。


黒門市場で仕入れを済ませてから、千日前の東京資本の大型家電量販店経由で歩いて目指してきた展覧会名は「ハルトシュラ」。宮沢賢治の「春と修羅」に由来するという事だが、「オリジナル」のそれを一旦頭に入れてしまうと、キュレーター氏の提唱するイントネーションではなかなか読めなくなる。ここは折角カタカナの形で「平板」化されているのだから、一旦頭から宮沢賢治は綺麗さっぱり落として、例えば「作品戦隊ハルトシュラ」とか、「仮面ライダーハルトシュラ」とか、「ハルトシュラプリキュア」などの様に読めば、「ハルトシュラ」の「正式」なイントネーションに近くなると思った。



既にビルの入口から「緑色のもの」と「青色のもの」が見えている。その「緑色のもの」の形から、反射的に「エクトプラズム」を思い出してしまった。勿論単なる形象上の連想でしかない。「エクトプラズム(ectoplasm)」で画像検索すると、それらは極めて古い白黒写真ばかりだ。カラー写真発明後は「エクトプラズム」を写真に収める事は流行っていないのだろうか。ウィキペディア英語版の解説には、ヴィクトリア朝時代の降霊会に絡めての記述があったりするから、最早時代遅れなのかもしれない。


かねてより不思議だったのは、多くの「エクトプラズム」は、何故に重力に負けて口や耳等の身体の穴から下方に向かって排出されているのかという事だった。検索を進めてみた。すると「エクトプラズム」は、「現実の物質と、霊的存在の構成要素の中間(Wikipedia日本語版)」という事らしい。「半物質」という中間的存在であるから重力に負ける。「成程」過ぎる程に「成程」過ぎる「属性」だ。まるで「属性」の側から「エクトプラズム」という「存在」が決定されているかの様にも思える。時間をも「超越」出来るとされる「純粋」な「霊的存在」ならば、「重力」という、この世に生きているものこそが縛られるべき物理法則など、易々と回避出来る筈だ。しかし「エクトプラズム」は所詮「半」な存在なのである。バーチャルなものとリアルなものの「半」。それって、もしかして。


「半死」で「半生」の「エクトプラズム」は、こうした理由で重力に負けてだらりと垂れ下がってしまうのだが、一方で熱力学の法則に抗う「生きている」存在である蔦(ツタ)は下方から上方に向かって伸びて行く。ある程度のところまでは、通常の植物の様に上方に伸びて行くものの、蔦の茎自体は重力に対する耐性が著しく乏しい。その際、例えば壁の様な何かに触れれば、巻鬚の先端の吸盤でそれに吸着して重力的な支えを得る事で、そこを基点に再び上方へ伸びて行く事が出来る。さしずめ甲子園球場の壁面などは、蔦によるフリークライミングの膨大な軌跡として見る事も出来る。


眼の前にある「緑色のもの」(「青色のもの」も)を構成している養生テープそれ自体は、結構蔦と同じ様な属性を持っていたりする。重力に耐えられるだけの物理的「根性」が無い事も、吸着(粘着)性を備えている事も。しかし「緑色のもの」は床から「生えて」いる訳では無い。「青色のもの」は床と接してもいない。階段の手摺から、仮壁の上からそれらはだらりと垂れ下がっている。その点でそれらは「エクトプラズム」タイプであると言える。


この作品が床から「生えて」行く「蔦」タイプの作品だったらどうだっただろうかと一瞬思ったりもした。実際の蔦と同じく、30センチ程に切った養生テープを壁際5センチ位の床上に、あたかも稲の苗を田植えする様に「インストール」し、それがクニャッとなって壁に付いたら、そこからまた次の歩を始めるみたいな。しかし時間が無いので勝手な妄想はその辺までにして、とっとと階上へ急ぐ事にする。

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重力に負けがちなお年頃としては、軽くない仕入れ品を手に下げて三階に階段で上がるのは「しんどい」業である。ようやく階段を登り切ると、複数の入口が見えた。目的とする入口は大体判っている。しかし折角この町までやってきて、ここまで上がって来たのだからと、敢えてそれを外して別の入口に入ってみる。そしてそこにも展覧会があった。会場内は、ほぼ全てが「糸」を使った作品だった。


「糸」や「紐」を使った作品に対して、特にそれが「関係」を示唆したり暗示したりするものであった場合、自分は身構える癖がある。例えば「クロマトフィロロギア(色彩言語学的方法)」なる「理論」に基いて、色とりどりの多数の紐で要素と要素を相互に結び付ける「彫刻作品」には、結局馴染む事が出来なかった。編まれた紐に、不釣り合いなまでに過大な意味を担わせようとする力業に対して一定の敬意は払うものの。


「糸」だらけの会場内で、一つの作品に注意が向かった。その洒脱な作品は微妙なバランスでその角度を留めている様に一瞬見えた。しかし近くに寄って見ると、それが壁から「テグス」でテンションを掛けられる事で、形を整えられている事が判明した。ここでの「テグス」は「糸」ではなく、正に「吊るしている」ものでしかないものを、「浮かんでいる」と主張する為の方便的ツールと考えて良い。「糸」や「紐」の作品以上に、こうした「テグス」使用の作品にはその場を立ち去りたい気にさせられる。


例えば「ピサの斜塔」の傾きは、徹頭徹尾重力的なバランスによって保たれていなければならないからこそ、その倒壊を食い止める徒労とも言える永年の工事に意味があるのであって、それを極細の高張力ワイヤーか何かで何処かから吊るしてしまえば、それは身も蓋も無く簡単な倒壊防止の解決策には違いない。そうした「合理的」な工夫は、歴史的な倒壊防止の試みの全てを一纏めにして嗤い飛ばす事が出来るかもしれない。しかしそれをした途端に、誰一人として「ピサの斜塔」を訪れなくなるだろう。


ワイヤーで「ピサの斜塔」を吊るが如くテグスで作品を吊った人は、「テグスは見ない事にして下さい。それはお約束です。大体テグスというのは普通では見えないものなんです」といった感じの事を言いたいのだろうか。しかしそれは、デパートやスーパーの店内ポップ看板とは異なり、寧ろ「見えないものをこそ見せる」ギャラリー空間やミュージアム空間では、「作品」を構成している「もの」と同レベルの属性を持つ「もの」として見えてしまう。「透明なもの」を使用しさえすれば、それだけで「不可視属性」を得られると思い込むのは単に方法論的誤謬でしかないのではないか。ギャラリーやミュージアムで「不可視属性」を名乗って良いのは、壁と、床と、彫刻台(展示台)と、棚と、コンセント口と、会場備品だけである。そう思っていた。その時までは。

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本丸突入。ドアを開けるとそこに大量の「糸(水糸と凧糸)」があった。息を呑んで身構えた。しかしよくよく見てみると、その「糸」は殆ど何ものをも担っていない事が判明した。正面向かって右のサービス精神旺盛な「N月トリートメント」には、著しい本数の色とりどりの「糸(水糸)」が、手作りの棚や壁から垂れ下がっている。仮にそれが「クロマトフィロロギア(色彩言語学的方法)」的なるものであるとしたら、一篇の詩程度の長さのものが余裕で実現されている事になるだろうが、しかしそんな事は全く無さそうだ。それぞれの「糸」の色の並びや、それを止めているプッシュピンの色との組み合わせに特別な法則性は見出だせなかったし、あるとすればそれは作者自身が本展に絡めてツイートした発言中に頻繁に登場する「なんとなく」や「適当」という事になるのだろうか。


世の中には「なんとなく」や「適当」を「芸」にする人がいて、例えば「平成の無責任男」「芸能界一いい加減な男」「元祖テキトー男」の異名を持つ高田純次氏などはその筆頭格だったりするが、勿論高田純次氏の「なんとなく」や「適当」、或いは「何も考えていない」は、相当に練られ研ぎ澄まされた末に「なんとなく」や「適当」や「何も考えていない」に見える様に瞬間的に表現されたものであって、だからこその「芸」であり、それで御立派に生計を立てていると言えるだろう。芸能生活42年、齢66歳にしてなし得る「至芸」であるとも言える。


正面向かって左の、これもまたサービス精神旺盛に見える「N月スクリーントーン」は、カード巻から解かれた凧糸が、カード巻きによって付いた巻き癖をそのままに、作品の構成要素となっている椅子や食品保存容器やクラフト紙等の間を伝っていて、所々でプチ・スペクタキュラーな「見せ場」すらも作っている。しかしそれは眉間に皺を寄せてまで「糸」に視線を誘導されるままにその軌跡を追って行ったり、諸要素の関係に思いを至らせる罠に嵌ったりする必要も無さそうに思えた。寧ろその「糸」は、細ノズルから噴射されたお好み焼きの上のマヨネーズの様なものにも、クラッカーを破裂させた後の様なものにも見えた。


同作品の構成要素に、アンバランスに大きなものがあると思っていたら、それは果たしてギャラリーの備品であろう「展示台」であった。その上に乗っているのはマヨネーズ、もとい「糸」だけである。「展示台」は「作品」が乗らなければ始まらないが、それはまた「不可視」なもの(=「作品の外」)として始まらないという事を意味する。「作品」があってこその「展示台」であり、「作品」が乗っていない「展示台」は、それだけで十分以上に「可視」的であり、人によっては時に邪魔な「箱」でしか無い。それは絵を取り外した額縁や、作品をすっかり搬出してしまったギャラリー空間や、電源を落としたモニタの筐体が、その瞬間に「可視」化される様なものだろう。


そもそもが、このギャラリーの「床」は余りに「ニュアンス」が「豊富」である。Pタイルが剥がされたままの「床」は、スプレダー(櫛状の糊ベラ)の後も生々しく、また所々に窪みや穴も開いていたりして、それ自体を「鑑賞」の対象にしようと思えばそれもまた「可」ではあるものの、しかし一旦「作品」が入れば、その瞬間から床は「不可視属性」を与えられて「見えないもの」とされる。これ程までに「床」が「作品」に「侵食」し、また「作品」が「床」に「侵食」しているというのにも拘わらず、「床」は一向に見えないものとして存在しない形で存在している。同じ様な「侵食」は、「備品」である「空調機械」にも及んでいるが、しかしこちらは「床」とは違い、「空調機械」が「可視」的なものに変換されている。この差は一体何処から来るのだろうか。


一方の「N月トリートメント」には、手作りの「棚」が設えられている。サイズの違う二枚の板で作られている理由は良く判らないが、それも「なんとなく」や「適当」故であると想像した。そう考えるに至った根拠は「なんとなく」や「適当」である。勿論そこから、何故に自分はここで同じサイズの板を使用した方が良いと思っているのだろうかというブーメラン的読みは可能ではある。但しその「棚」が苛つく高さに設えられているというところには、「なんとなく」や「適当」以上のものを感じた。


「棚」の上や、「床」の上にあるものについては、この作家の発言を引用しておく事に留めておく。


とりあえず、棚の上や下に転がっているものは、殆ど周辺のホームセンターや百円均一、ミカヅキモモコで買ってきたものです。ペットボトルとかもありますが、作業中に飲んだあとのものです


https://twitter.com/wamulamo/status/347320924917334016


そういう事だそうだ。他ならぬ「女の子」のファンシーショップ「ミカヅキモモコ三日月百子)」を選択し、それをのみ名指しているところに、Jimin Chun 嬢との二人展に対する戦略的な意図を感じたりもするが、それは穿ち過ぎというものだろう。


この「棚」もまた、「スクリーントーン」の「展示台」と同様、その設えもあって作品の内部に収められているかに見える。確かに棚板の上には様々なものが置かれ「棚」はその用を足す存在としてそこにあるものの、一方で棚板の下面にはプッシュピンが刺さり、そこから何十本もの「水糸」が垂らされていて、従ってエントリネームとしては「不可視属性」の「備品」ではなく、「可視属性」の「作品」の一部であると見るのが普通だ。


http://twitpic.com/cy113k


自分の眼の前にあるものはそんな感じのものに見えた。しかし展覧会終了直後に「場外戦」がまた始まった。一般観客と一線を画した場所で、その「棚」を作者は「作品ではない」と言ったという。その発言そのものは極めて興味深いものに思えた。明らかに「見えているもの」を「見えないもの」とする。「可視属性」の真っ只中にあって、それを如何なる形であれ「不可視属性」であると主張する。それは「道具」の話にも相即するのだろうが、しかしこの作品に限って「難しそうな事を言ったもん負け」の様な気もする。


いずれにしても、「棚は作品ではない」を、「テグスは見えないもの」とするトホホとどう区別化するのだろうという興味も無いでは無いものの、全てはそれをどう「見せてくれるか」に集約される。それ以外は無い。「読み」にも一定の「限界」というものがある。