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ホームビデオ

承前


自分が生まれた家でこれを書き始めた。この家には自分以外誰もいない。


家からそのギャラリーまでは歩いて15分。随分とあの辺りも変わった。そこに至るまでの町並みも変わった。自分の記憶の古いレイヤーですら、大部分が直近の風景で塗り潰されて見えなくなってしまったものの、それでも所々にある塗り残しから、不意に「古い」風景が覗く事もある。


http://chspmedia.com/mukasimachi.html


ここに掲載されている【大学通り東栄会】の写真(2013年7月)にしても【本町2丁目交差点】の写真(2013年7月)にしても、その画面の要素の一つ一つに記憶がある。この家で共に過ごした、今はいない父にしても母にしても、この2枚のモノクロ写真を見れば、それぞれにそれぞれ異なった記憶が引き出された事だろう。


家族が始まった町。そして家族が終わった町。家族の記憶の拠り所であった町並みの風景は、現在大規模な再フォーマットの作業が進行している。2枚の写真に写る、画面を左右に分断するそれぞれの道路の右側にあるもの全てが、やがて何事も無かったかの如くごっそりと消え去る。それでも「道」が残ってさえいれば、曲がりなりにも記憶の補助線にはなるものの、地権ごと消し去るこの再フォーマットは、地権のグリッドでもあったその「道」すらも残さない。目の前に広がるバスロータリーを見て、嘗てそこに数え切れない家族の生活が存在していたとは誰も思わない。程無く、太古からそこがバスロータリーであり続けて来たかの様に思われるだろう。そしてこれを書いているこの「家」もまた、幹線道路に変わる予定になっている。やはりここもやがて、太古からそこが幹線道路であり続けて来たかの様に思われるのだろう。


母が度々利用していた輪島功一氏の団子店の前を通る。オリンピックswitch point に隣接するコイン駐車場が忽然と消えていた。この道にまた新たな「セットバック」が増えた。Google マップもまだ対応出来ていない。

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国分寺駅北口再開発事業」に隣接する、やがて「区画道路1号線(北口回遊軸)」沿いになる switch point の展覧会は、「ホームビデオ」と題されていた。案内状やギャラリーのサイトには、後ろ姿の男性が、比較的築年数が新しく見える部屋の、ブラインドの下がった窓の前で、手にしたバインダークリップ止めの書類に目を落としている姿を写した写真が掲載されている。



その写真の床の上に置かれた筆記具は、窓に対して極めて厳密な角度を保って「インストール」されている様に見える。その真横に座っている男性との位置関係も、不自然であると言えば言えなくも無い。事件現場の読み取り能力が高い刑事や探偵なら、この筆記具の位置や向き(先端がこちら側を向いている)から、これが男性の意志によって置かれたものではなく、誰か別の者によって「インストール」されたものだと、その推理力を働かせるかもしれない。そして筆記具と同様、その男性もまた、二つの壁面に対して極めて厳密に見える角度と距離を保って、誰か別の者によって「インストール」されているかの様に見える。これら「表れているもの」としての「インストール」に、「箍(たが)」という言葉を想起させられた。


たが【箍】



桶(おけ)や樽(たる)などの周囲にはめ,その胴が分解しないように押さえつけてある,金属や竹で作った輪。「風呂桶の―」


スーパー大辞林


「箍」は桶板や樽板に対する「拘束具」として働く。


拘束具(こうそくぐ)とは、身体の自由を奪うための道具、衣類などの総称。


拘束具は現在では主に次のような場合に使用される。


犯罪者の逮捕
囚人の護送・逃亡防止
自傷・自殺行為の防止
介護
犯罪行為
SM・BDSM


Wikipedia「拘束具」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%98%E6%9D%9F%E5%85%B7


「拘束具」である「箍」は、転じて「箍が緩む」「箍を外す」「箍を締める」等の「規律」「規定」「規則」「規範」といった「秩序」の意味を成す。


いずれにしても、疑わない目には全く「自然」なものとして見えるものが、実際には「不自然」極まりないものであるというこの筆記具や男性の置かれ方は、そのままこの作家の一連の作品を特徴付けるものの一つでもあるだろう。

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6月24日に行われた「日比谷図書文化館《小ホール》」での「百瀬文 旧作品上映会」で、「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」を含めたこの作家の「旧作」を纏めて見た。どの作品にも「仕掛け」という「箍」が嵌められていた。何はともあれ、作者が多くの心を砕き、力を込めたところの一つは、その「仕掛け」の部分だと思って良いだろう。それらの作品が言及される際に「仕掛け」の詳述が躊躇われているのは、作品という容器=桶や樽(或いは作者自身の言葉を借りればコップ)を容器たらしめる「仕掛け」が明かされる事で、作品が「骨抜き」になってしまう恐れがあると考えて良いだろうか。


「作品に関する核心部分」や「物語の核心に触れる内容」とされる「仕掛け」を明かす事は躊躇われているが、一方で「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」にしても、本展の "The Interview about grandmothers" や「定点観測[父の場合]」にしても、「登場人物」に関する作品の「設定」については「タイトル」で明らかにされている。「聞こえない木下さん」は「聾者」の、"grandmothers" は「(複数の)祖母」の、「父の場合」は「父」に関係する作品である事が、共有されるものとしてアナウンスされている。加えて「定点観測[父の場合]」は、この作者のこれまでの仕事に詳しい者ならば、そこで何が行われているかの察しを付けるかもしれない。但し同様の「箍」を持つ旧作と新作との大きな違いは、曲がりなりにも新作に登場するのが「他人」ではなく「父」であるところにあり、結果的にその差は無視し得ないものとなっている。


いずれにしても、本展出品作のタイトルは、例えば「星気体」であるとか「コントローラ」であるとかではなく、 "The Interview about grandmothers" や「定点観測[父の場合]」であり、特に「定点観測[父の場合]」に出演している男性が、何はともあれ「父」である事が観者に判明するのは、事実上このタイトルがほぼ唯一の手掛かりになる。そして本展の場合は、その人物が「父」という「家族」の「一員」である事が重要であったりもする。

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間口が狭く奥行きが深い "switch point" の会場に、画面サイズの異なった三点の映像作品がある。その「三点」は「家族」の「三代」を表してもいる。展覧会名の「ホームビデオ」の「ホーム」は、「家族」という「箍」を表している様に見えるものの、しかしそのカタカナ語の「ホーム」という言葉は多義的である。それは作品中の人物の「言葉」にも何回か登場する「家(いえ)」や「家(うち)」といった日本語の訳語としての「横文字」であって、従って「家族」を指す事もあれば、「家屋」を意味する事もあれば、「家系(かけい)」を表す事もある。それらの「箍」が、ミサワホーム積水ハウスの CM に描かれる、一つの「家屋」に、一つの「家系」の、一つの「家族」が住まうといった様なものに一時的に完全に一致する事もあれば、何処かがずれていて一致しない事もある。そしてその多義性は「ホーム」という言葉に留まらない。一人の女性の出産を巡る娯楽的な騒動に見られる様に、そうした「ホーム」の多義性を全く許さない人もいる。それもまた「言葉」に於ける「分かり合えなさ」であるとしても。


三点の作品には、仮に会場奥の作品に「出演」している作者を「基点」にするという前提で言えば、そこから辿った形で「父」と「(複数の)祖母」が「出演」しているが、一方で「母」と「(複数の)祖父」と「(一人の)高祖母」や「その他の存在」もまた、「言及」や「示唆」的な形で作品中に「登場」している。他方、例えば一人の「祖母」を「基点」とすれば、そこに「出演」しているのは、「孫」「婿」「本人」、そして作品中の聞き手の言葉を借りれば「本人と『双子』の関係にある者」という事になる。但し、これもまた本展の作品中の人物の言葉を借りて言えば、その「双子」の関係は些かも「生物学的」なものではなく、寧ろそれは「概念的」なものである事が、「双子」という関係に対する双方の発言の差異から伺われる。


「家族」を扱う作品は、観者がどの様な「箍」に嵌められているかによって、作品を見る「基点」が変わる事がある。「子」や「孫」である者が見る「ホームビデオ」展というものがある一方で、「父」である者が見る「ホームビデオ」展や、「祖母」である者が見る「ホームビデオ」展というものもある。当然「母」である者が見る「ホームビデオ」展や、「祖父」である者が見る「ホームビデオ」展というものもある。それは例えば「聴者」が見る「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」とは別の、「聾者」が見る「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」がある様なものだ。加えて「母」も、「父」も、「祖母」も、「祖父」も、「子」も、「孫」も、それぞれがそれぞれに様々な様態を持っていて、それらはまた一人の人間の中で重なり合っていたりもする。例えば作品中の「祖母」は、「祖母」であり、「母」であり、「子」であり、「孫」の記憶を持つ人であるといった様に。


個人的には心理的な「カチンコ」の前後を含めて「父」の作品に最も「共振」した。同じ様に「祖母」の作品にも同等に「共振」した。それは作品自体に「共振」したというよりは、「父」や「祖母」その人に「共振」したところが大きい。本展はコップから溢れる水の量の方が、コップの容量よりも遥かに大量だったという印象がある。恐らくそれは「ホームビデオ」だったからだろう。「ホームビデオ」は「ホームドラマ」や「ファミリーフォト」同様に難しい。即ちどの様なコップを以ってしても掬い切れない事が既に明らかなものである。「こう思っている」と「こう思われている」の絶望的なまでの落差といったものが、概念的には共有可能と思われている「ホーム」という「箍」には、それぞれにそれぞれの形で顕著に現れる。だからこそ「ホームドラマ」の種は尽きまじなのだろう。無印の「定点観測」と「定点観測[父の場合]」が、コップは似たものでも印象は大きく異なってしまった様に。いずれにしても、こうして作者は「ホーム」を踏んでしまった。

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子のいる家で、あの時の母と同様、子に食べさせる料理を作る為に玉葱を刻んでいるキッチンでこれを書き終えようとしている。涙が少しも出ないのは、すっかり耐性というものが付いてしまったからなのだろう。「家族」の核は、玉葱を刻む様な他愛の無さにあるかもしれない。


【了】