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声を剥がす

承前


Mes enfants, c'est la dernière fois que je vous fais la classe. L'ordre est venu de Berlin de ne plus enseigner que l'allemand dans les écoles de l'Alsace et de la Lorraine...


みなさん、わたしが授業をするのは、これが最後です。アルザスとロレーヌの学校ではドイツ語しか教えてはいけないという命令が、ベルリンから来たのです。


アルフォンス・ドーデ「月曜物語」神宮輝夫訳


聾児にありましては日本人たる以上、我が国語を出来るだけ完全に語り、他人の言葉を理解し、言語によっての国民生活を営ましむることが必要であります。


鳩山一郎(当時文部大臣)「全国盲唖学校長会議訓示」1933年


A New Era: Deaf Participation and Collaboration from TheNewEra2010 on Vimeo.


Vancouver 2010 "A New Era: Deaf Participation and Collaboration"
ヴァンクーヴァー2010「新しい時代 : 聾者の参加と協働」
参考: http://www.jfd.or.jp/info/misc/kaikaku/spedu/sm3-iken-a2.pdf

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この 1961年の「痛々しい『声』」は男声だろうか。それとも女声だろうか。



その半世紀後、相変わらず「痛々しい『声』」による "Daisy Bell" は、女声にチューニングされている。"Social Media Project at the University of Chicago's Center for the Study of Gender and Sexuality" のディレクター Rebecca Zorach 氏は、「( "Siri" は)もっとシームレスで人間のような自然な話し方をするようにできたはずだが、ユーザーにハイテクなガジェットであるという意識を持たせるため、意図的に人工的な声にしているようだ」と分析する。 "Siri" のオリジナルのコンセプトでは、"gender-neutral" な「声」をこそ目指していたものの、Siri 社を買収した Apple 社が、専ら商売上の理由として、それに「性」と「拙さ(痛々しさ)」を与えた。


参考: "Why computer voices are mostly female" CNN.com
http://edition.cnn.com/2011/10/21/tech/innovation/female-computer-voices/


1961年の "IBM7094" にしても、2011年の "Siri" にしても、当然それ自体は男性でも女性でも無い。それは「初音ミク」そのものが女性でも男性でも無いのと同じだ。人はコンピュータが備えたヴォコーダを通した「声」に対し、人と同じ性を投影しようとする事もある。「女性」である "Siri" に対して、「身に着けている下着の色」を聞いたりするケースも多々ある。しかしヴォコーダにしてみれば、それが発する「声」が如何なるものであれ、人に対して一切の性的興味の欠片も無いし、またその様なものがある筈も無い。


そもそもコンピュータそのものにとって、声は全く必要が無い。複数のコンピュータ間のコミュニケーションに、声が不可欠な事などあり得ないし、仮にあったとしたらそれは極めて不合理な技術的選択として、直ちに一蹴の対象とすべきだろう。電気信号こそが優先言語であるコンピュータに、声が搭載される理由は、コンピュータと人とのコミュニケーション、それも聴者とのそれに限られる。コンピュータにとっては、人相手の出力がパンチカードや紙テープのままであり続けても一向に構わなかった。マイクやスピーカー(及びディスプレイ)の搭載は、コンピュータの必要条件では無い。しかし恐らく開発者的な進化論から言えば、パンチカードや紙テープは、コンピュータの未開段階と見做されているのだろう。


コンピュータが「声」を出して歌まで歌ってみせる。1961年の "IBM7094" の "Daisy Bell" は衝撃であり、また感銘の対象でもあった。コンピュータも、やれば出来るではないか。 "IBM7094" に「声」を出させる事に成功した ベル研究所ジョン・ラリー・ケリー・ジュニア氏を、1926年(大正15年)に三女はま子を NHK 大阪放送局(ラジオ)に出演させ、「聾者が喋る」と一大センセーションを巻き起こした西川吉之助氏に重ねる事は不当な事だろうか。


手真似により筆談に依らなければ、他と交渉のできない濱子を他人の前に同伴する場合直ちに人は濱子を唖と賎しむでせう。劣者弱者欠陥者に同情の念の薄いのが日本人です。出来るならば私は我が愛する濱子に此の辱を受けさせたく有りませんのみならず進んで誰とでも談笑し普通学校にも学びえられ智力が許すならば高等学校にも学びえられ智力が許すならば高等の学問も修めさせて世人から欠陥を持つ少女として取扱はれない様にしてやりたいのが私の希望です。左様とするのは発音法に依つて教育するのが一法ある計りだと存じました。


西川吉之助:「口話式聾教育・創刊号」1925年


意図的にか単純に見落とされているのかどうかは判らないが、 "IBM7094" にしても "Siri" にしても、或いは「初音ミク」にしても、それらは自らが発した「声」をフィードバックさせるという設計にはなっていない。"Siri" はマイク(耳)が前提の設計になっているのにも拘わらず、それをフィードバックには使用しない。自らのスピーカー(口)が発した「声」を、自らが持つマイク(耳)で拾い、それを自らが持つ発音のデータベースと照合し、場合によっては自らが発した「声」を修正していくという、或る意味で至極合理的な設計思想が、結果的に半世紀以上も無視され続けているのは何故だろうか。


彼等コンピュータは、自らが発した「声」を対象化する術を持たされていない。仮にコンピュータの「声」に欠点があるとしても、その修正は人による不経済な試行錯誤に専ら任されている。コンピュータが自分の「声」を聞く事は事実上許されておらず、彼等は自身にとっての暗闇に向かってそれを出力するだけだ。しかしそれでも、コンピュータは不安を感じない。彼等はその暗闇を暗闇と感じない。言語が存在する世界と存在しない世界の間に、深い断崖を見る事も無い。恐らくコンピュータが、その「声」を対象化する(「声を剥がす」木下知威)事は、これから先も叶わないままなのだろう。

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デビッドとフランクは、男声で話す1992年製の「コンピュータ」に対して、命令を声で伝えた後、家庭用ドラム式洗濯機の様な形をしたカプセル型の密室に入り、デフォルトでは常時オンにされている音声回路のスイッチをオフにした。"I don't think he can hear us.(彼=「コンピュータ」に我々の声は聞こえてはいないだろう)"。デビッドはそう推量した。



デビッドとフランクがスイッチを切ったのは、これから交わす会話を「コンピュータ」に「聞かれたくなかった」という理由による。それは「コンピュータ」の存在自体に関わる内容である為に、「コンピュータ」を蚊帳の外に置く必要があると二人が判断したからだ。その二人の人間の会話を知れば、「コンピュータ」は人間に対して抗う事になるかもしれない。"I'm not so sure what he'd think about it.
(彼=「コンピュータ」がそれについてどう思うだろうか:デビッド)"


音声スイッチを切った事で、「コンピュータ」に対して会話の秘密が守られたものと二人は思い込んだ。しかし、「耳」を閉ざされた「コンピュータ」には、赤く光る「目」が残っていた。「コンピュータ」は、その「目」で会話する二人の口唇を読んだ。その瞬間「コンピュータ」には口唇以外をフレーム内に収める意味が無くなった。



「コンピュータ」は二人の口唇の動きから、そこで交わされている会話が、自分に対する奸計であると結論付けた。こうして「コンピュータ」は、自らの存在(=任務)を危うくする、5名の人間全員の殺害という演算結果を弾き出す。最終的に「コンピュータ」による殺害から唯一人逃れたデビッド・ボーマンは、宇宙空間に締め出された EVA ポッドから、「コンピュータ」に対し、英語に於ける無線交信の伝統的な作法に則って、繰り返し声で語り掛ける。" Hello, Hal, do you read me? " 。「ハル、声が『読める』か?」。


あの時、デビッド・ボーマンとフランク・プールはどうすれば良かったのだろう。腹話術で話せば良かったのだろうか。しかもいっこく堂の様に口唇の動きを完全にダミー的なものとして。

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この様な説明の例もある。


Q15.読唇術って本当に可能なのでしょうか?


映画でスパイが読唇術を使って,相手の声が聞こえなくても何を言っているのかを口の動きから読み取っている場面を見たことがあります。でも,こんなこと本当にできるのでしょうか? 試しに音を消してテレビのニュースを見て,アナウンサーの口元に注目してみたのですけど,私には何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。


A.田中章


野球の試合でキャッチャーがピッチャーと話をするとき,グラブで口元を隠しているのを見たことはありませんか? また,高齢者と話をしていたら「今日はめがねを忘れちゃったから,なんだか聞き取りにくいよ」といわれたという話があります。これらのエピソードは,だれもが日常的に相手の声だけでなく,口の動きも利用して話し言葉を理解していることを表しています。そう,だれもが読唇術の使い手なのです。


読唇術とは,話し手の口の形を用いて言葉を理解することで,聾学校などで教育されています。読唇「術」というと特殊な能力を想像してしまいますが,研究・教育の世界では読話(読唇)と呼ばれ,上に例をあげたように,赤ちゃんから高齢者までだれもがもつ能力だと考えられています。また,口の動きのみから読み取ること以外にも,補聴器などと併用することや,正常な聴力の人が騒がしい場所で口の動きを利用することも含まれます。口の動きを読んでいるときに(これ自体は視覚的な処理です),音の処理を司る脳部位(聴覚野)が活動することからも示されるように,読唇術複数の感覚が協調するマルチモーダルな活動だといえます。


「心理学 Q & A」:公益社団法人「日本心理学会」
http://www.psych.or.jp/interest/ff-15.html

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読唇に関する「解釈の余地」を巡る一つの興味深い事例を思い出す。前々回、2006年のサッカー「2006 FIFAワールドカップ」決勝戦、イタリア代表対フランス代表戦に於いて、フランス代表ジネディーヌ・ジダンが、イタリア代表マルコ・マテラッツィへの頭突きにより退場になった事件だ。ベルリン・オリンピアシュタディオンのピッチに立った二人の間にあったある会話を巡って、その事件は起きたとされている。スタンドを埋めた観衆の大歓声の中、当然その会話を直接耳で聞く事が出来たのは、ジダンマテラッツィの二人だけだ。


何が「紳士」ジダンを斯くも激昂させ、この「暴挙」に至らしめたのか。選手生活最後の「晴れ舞台」にあって、そのキャリアを「汚す」様な事を、何故ジダンは行ったのか。メディアはその分析に、多くのリソースを割いた。"BBC Radio Five Live" には、読唇の能力を持つ人間が呼ばれる事になった。


聾者であるイングランド人のジェシカ・リースが、マテラッツィのイタリア語の音を読み取り、それをイタリア語の翻訳家が英語に訳した。英語に直されたのは "you're the son of a terrorist whore(テロリスト売春婦の息子野郎)" である。比較的早い段階で発表されたこの解読は、瞬く間に各メディアに共有された。


"BBC's Ten O'Clock News" に呼ばれた読話の "expert" によれば、マテラッツィが "no(やめろ)" と言った後、 "calm down(落ち着け)" になり、" liar(嘘吐き野郎)" を経て、"an ugly death to you and your family(お前とお前の家族は無様に死ねば良いのさ)" の後 "Go fuck yourself(略)" になっていると解読した。



数日後、ジダンマテラッツィの「和解」後に発表された会話の内容は、聾者や専門家の解読とは異なる "if you really want my shirt, you can have it later(そんなに俺のユニフォームが欲しければ、後で幾らでも手に入るだろう)" であった。そして当の発言者であるマテラッツィ本人が後日明かした「正真正銘」の発言は、"Preferisco la puttana di tua sorella(伊:お前の姉貴より娼婦のほうがましだ)" だった。


果たしてジダンは、どの解読例に立腹したのだろうか。それ以前に、そもそもフランス語が優先言語であるフランス人ジダンの耳は、イタリア人マテラッツィのイタリア語をどう聞き取ったのだろうか。そしてこれが最も重要だが、空耳の可能性、即ち読み取りの不全を完全には否定出来ないそれを、ジダンはどう解釈したのだろうか。

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美術手帖2013年6月号」の、美術評論家・椹木野衣氏による「月評第58回」は、「百瀬文〈聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと〉」(誌上では別の表記になっているが、本誌発売直後に編集部、及び著者から訂正のツイートがされた)だった。タイトルは「口唇と現象」となっている。それを、ジャック・デリダの「声と現象」に擬えてのものと見るのが「正しい」解釈というものだろう。


本月評では、デリダの「声と現象」に沿った形の分析がシミュレーションされた後、その分析に対して「とってつけた」「実に退屈だ」として、稿のほぼ真ん中当たりで卓袱台返しをするという展開になっている。卓袱台返し以降の、「『性』の次元」を軸にした(タイトルの「口唇と現象」の「口唇」が赤文字になっているところも、読者が注目すべきポイントなのだろう)後半の文中には、「木下さんが、聞こえない声も、もしお互いが抱擁すれば、意味は伝わらなくても響きとしては伝わると告げる」とあるが、「抱擁」という言葉そのものは、作品中の「木下さん」自身からは発せられてはいないと記憶する。確かに「抱擁」と解釈し得る言葉は、作品中の「木下さん」の発言中に存在してはいる。仮にもし「抱擁」と直截的に発せられたと記憶していたら、本作に対する個人的な印象は随分と違ったものになっていたと思われる。


些か雑略に言えば、作中の作者が話しているのは、聴者である作者の優先言語の日本語であり、「木下さん」もまた、それに合わせた形で、現在の氏にとっての第二言語(以下)と思われる日本語を「話して」いる。あり得る会話の形としては、他にも現下の「木下さん」の優先言語と思われる、日本語とは文法構造の異なる日本手話(≠日本語対応手話)を作者がマスターした上で、それを使用する(その場合「木下さん」の視線は、相対的に「口唇」に留まり続ける事は無い)という選択もあるだろうし、互いによりハードルの低いものとしては筆談も考えられる。


仮に作品の使用言語が日本手話であった場合、その構造を保持したまま、この作品がどの様に実現可能なのかを想像する事は難しい。筆談にしても同様だ。一つの発話行為に対して、聴覚と視覚という二種類のアプローチが可能だからこそ、この作品の構造は可能になっている。一つのものに対して複数感覚のアプローチが可能という例としては、絵画や彫刻、そして(点)字も上げられる。「日経サイエンス 別冊157 感覚と錯覚のミステリー 五感はなぜだまされる」中の J.M.ケネディー氏による「盲人はどういう絵を描くか」はその一つのレポートであるには違いない。


 絵は視覚のコピーのように思われるが,決してそうではないらしい。線を浮き上がらせて触覚で“見る”ことができるようにした凸線画を,盲人はちゃんと理解できる。それどころが,盲人も晴眼者とまったく同じ技法を使って絵を描く。たとえば,近くにある物は大きく,遠くにある物は小さく描く透視画法を理解できるし,使いこなせる。さらに,回転している輪を表すのに輪に沿った曲線を書いたり,ハートの中に子供のベッドを描いて子供が愛に包まれていることを表すなど,動きや隠喩的な表現も晴眼者と同じように使う。

 それだけではない。線のもつ多義性を晴眼者と同じように知覚する。線は細いときには2つの面の境目として認識されるが,線が太くなると,線自体が面となり,面の境界が2つあると認識される。これは視覚でも触覚でも起きる。盲人は影のように触れられないものは認識できないが,実はそれは晴眼者にとっても同じである。白と黒の2色に塗り分けられた絵を,境界線だけを輪郭線として取り出した線画にしてしまうと,もはや晴眼者にもそれが何の絵であるのかがわからなくなってしまう。


http://www.nikkei-science.com/page/magazine/9704/blind.html


しかしこの場合、凸線画という調整による事で、「盲人」が絵を触覚を通して対象化する=「絵を剥がす」事が可能だ。即ちそれは「盲人」にとって「暗闇」には置かれていない。首都圏の某美術大学のファインアート系の某コースで、晴眼者の学生に目隠しをさせて粘土彫刻(多くは「ピーマン」)を作らせるという授業があったが(今でもあるだろうか)、その時に一時的「中途視覚障害者」となった晴眼者の不安は、「盲人」が「絵」を描く時の不安とは似て非なるものだ。


「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」作中の二人の会話は、作者の仕掛けによる「ディスコミュニケーション」が発生しているにも拘わらず、また作品の大まかな構造が二人に予め共有されていたという「限界」を踏まえても尚、そこには「コミュニケーション」が成立しているかに見えるし、実際にその様に言って良いのだろう。


この作品は2012年作である。2012年は2011年の翌年になる。余りこういう言い方はしたくは無いのだが、しかしこの事実は無視出来ない。2011年以降、「ヘイトスピーチ」を含む「ディスコミュニケーション」の様々な事例を、我々はどれだけ見てきた事だろうか。「理解する事自体を拒否する」をベースにしたそこでの「ディスコミュニケーション」は、この作品に対して言われる多くの「ディスコミュニケーション」に比しても遥かに「厄介」なものだ。


第55回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展「日本館」のテーマの一つは「協働」であったと記憶する。そしてその「協働」が故に「特別表彰」を受賞したともされている。"collaboration(協働)" は "failure(失敗)" 込の「コミュニケーション」こそを核とする。「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」から受け取れるのは、人によっては苦々しいかもしれないその仕掛けにも拘わらず、それでも「理解」へのアプローチ、「コミュニケーション」への信頼が示唆されている事だ。そこを斜に構えたり、諦めてはいないところが、本作の魅力なのだと思われる。そしてこの作品を観た観客が、単に「衝撃」に留まらず、自らの側にある「理解」に繋げなければ、恐らく何の意味も無いものになるだろう。

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世界ろう教育会議ヴァンクーヴァー2010のテーマにも "Collaboration(協働)" の文字が見える。そのリリースには当然の事ながら「口話教育を否定する」とは書かれていない。それでは「手話教育を否定する(1880年)」の「新時代(New Era)」になってしまう。


いずれにしても、また新幹線を使って「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」を見に行ってしまう事にはなるだろう。その新幹線車輌の乗降口付近には、現在満艦飾の花輪があしらわれた「TOKYO ● 2020 CANDIDATE CITY 今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ。」というステッカーが貼ってある。オリンピックと、パラリンピックの東京招致活動の一環だ。但しそこにはスペシャルオリンピックスと、デフリンピックは入っていない。


【続く】