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この菜 夏飲も 児

承前




英語圏で最も親しまれている「文章」の一つに、19世紀生まれの "The quick brown fox jumps over the lazy dog" がある。「敏捷な褐色の狐は、怠惰な犬を飛び越える」という「内容」に、広く人口に膾炙(共有)されるに足る程の諺言的な「意味」は存在しない。それにも拘わらず、数々の創作物に引用される迄に、この「文章」がシェアされ続けているのは、それが「アナグラム」の一種である「パングラム」の優れた一例になっているからだ。


パングラム


パングラム (pangram) は、アルファベットを使用する言葉遊びである。ギリシア語で「すべての文字」という意味がある通り、すべての文字(26個のアルファベット)を使い文章を作るのが目的である。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0


ラテン文字に代表されるアルファベットを使用する言語の場合、原則的には、一つの文字に一つの子音、或いは母音が対応している為に、総ての文字を重複せずに一度しか使用しない「完全パングラム」を作るのは極めて困難である。使用頻度が極端に低い文字、例えば "Q" 等の扱いにも制約が多い。それでも仮に持てる創意をフルに働かせてそれを完成させたとしても、結局 "Cwm fjord veg balks nth pyx quiz" (フィヨルドの圏谷に住む愚か者は、聖杯に関するn個目の質問を妨害する)の様に、そのナンセンス振りに注目したり、「アクロスティック(折句)」の形で「隠された」コードが存在するのではないかと疑う以外に、その「内容」自体を問うところ迄には至らないというところに、ラテン文字文化に於ける「パングラム」の不可避的な「限界」が存在しているとは言える。


日本語の仮名文字は、その全てが母音を含む為に、ラテン文字に比べて「完全パングラム」を作り易い。最も良く知られた日本語の「完全パングラム」は、1952年に国が各省庁に対し、公用文に於いて事実上の使用制限を通達する(「公用文作成の要領」)まで、中世から20世紀中葉に至る日本社会の基準的な配列法にも採用された、あの「いろは(以呂波・伊呂波・色葉)歌」である。


いろはにほへと ちりぬるを(色は匂へど 散りぬるを)
わかよたれそ  つねならむ(我が世誰ぞ 常ならむ)
うゐのおくやま けふこえて(有為の奥山 今日越えて)
あさきゆめみし ゑひもせす(浅き夢見じ 酔ひもせず)


その成立時期や作者は明らかでは無い。この「パングラム」が、「大般涅槃経(マハ−パリニルヴァ−ナ ス−トラ)」の「無常」偈、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」を表してのものであると広く信じられ、またその作成に当たっては、極めて高度な知的能力が必要と思われているところから、凡そ実証的な考証を全て無視してまでも、「天才」空海の手になるものと伝説化したい者は、卜部兼方を始めとして多い。その上で「沓冠(くつかぶり)」的に「隠され」た「いちよらやあゑ(ish El YHWH=神ヤハウェの人)」、「とかなくてしす(咎無くて死す)」、また「いゑす(Yeshua=イエス)」といった「暗号」の存在から、極めて大股な一足飛びに「空海はクリスチャンだった」という、「ダ・ヴィンチ・コード」ならぬ「(伝)空海コード」から導き出される、「日ユ同祖論」の「気宇壮大」にも比肩し得る仮説(お話)を開陳する向きも無いでは無い。


ろはにほへ
りぬるをわ
たれそつね
むうゐのお
まけふこえ
さきゆめみ
ひもせ


但し、或る「パングラム作家」によれば、「暗号」を含めての「いろは歌」の作成には、「根気」や「経験」が必要とはされるものの、「人智を超える」必要までは無いと言う。「作家」の「職業」的な目からすれば、「いろは歌」は些かも神秘的なものでは無く、それはまた「回文」や「アナグラム」等といった「言葉遊び」の殆どにも言える事だろう。「回文」や「アナグラム」に対して必要以上に「神秘」性を見てしまうのは、全ての「芸術」に於いてそうである様に、それらを制作した経験が無いか、乏しい者に限られる。「パングラム」制作の生産性を上げるには、仮名が書かれたものを一文字ずつ切り離した「仮名葉(かなは)」と呼ばれるカードが必需との事であるが、「一文字」単位で物理的に切り離されているという条件を満たしてさえいれば、勿論こういうものでも一向に構わない。


ミッフィー キューブもじあそび


「パングラム」には「自己言及型パングラム(Self-enumerating pangrams)」というのもあり、その一例としては、 "This Pangram contains four as, one b, two cs, one d, thirty es, six fs, five gs, seven hs, eleven is, one j, one k, two ls, two ms, eighteen ns, fifteen os, two ps, one q, five rs, twenty-seven ss, eighteen ts, two us, seven vs, eight ws, two xs, three ys, & one z.(このパングラムには、4つの "a" 、1つの "b" 、2つの "c" 、1つの "d" 、30個の "e" 、6つの "f" 、5つの "g" 、7つの "h" 、11個の "i" 、1つの "j" 、1つの "k" 、2つの "l" 、2つの "m" 、18個の "n" 、15個の "o" 、2つの "p" 、一つの "q" 、5つの "r" 、27個の "s" 、18個の "t" 、2つの "u" 、7つの "v" 、8つの "w" 、2つの "x" 、3つの "y" 、そして1つの "z" が含まれている。)" というものが知られている。


多くの「言葉遊び」は、「文字」を「もの」の様に扱う事で可能になる。ここでの「文字」は、ナイフやハサミやノコギリ等々で、「一文字ずつ」切り離す事が可能な「もの」である。この場合の「一文字ずつ」というのは、「文字」と「文字」の「間(空白部分)」で切り分けるという事を意味する。通常、「文字」の「真ん中」で切り離そうとは誰も思わない。


「音節文字」である仮名の場合は、その「一文字」が「一音節」に対応していると信じられている。バラバラにされた「音節」のブロックを再度組み上げれば、可逆的に元の文章が復元されると思われている。しかし例えば、話中での「が行」の音は、語頭にある時と語尾にある時では、その「音素」的性格が異なる。語尾の「が行」音は、日本語では鼻音(鼻濁音)に変化する傾向があるからこそ、アナウンス技術的な「美しい日本語」としては、意識的にそれを変化させる事こそが職業的に求められる。「ミッフィーキューブもじあそび」を、「せ」「っ」「け」「ん」「が」「あ」「り」「ま」「す」と積み重ね、それを「文章」としてプロのアナウンサーが音読すれば、「っ」は促音として機能し、「ん」は撥音として機能し、「が」は鼻濁音になり、「す」からは「u」成分が抜けて無声化する(「俚言」によっては無声化しない:例「関西弁」)。


その一方で、その「ミッフィーキューブもじあそび」の一文字一文字「それ自体」が、どの様な「音素」を有しているのかを子供に噛んで含める様に教えようとする時、「が」は鼻濁音としては発音されず、「す」は無声化せず、況してや話中にあってこそ、促音や撥音といった「音韻」として存在し得る「っ」や「ん」に至っては、それを個別的な音として具体化するのに、どう発音したら良いものかを決めあぐねる事だろう。「ん?」「[n]?」「[m]?」、「[ŋ]?」「[ɲ]?」「[ɴ]?」と自問は永遠に続く。そして永遠に何処にも着地しない。


積み重ねた「ミッフィーキューブもじあそび」の「通し」(「と」「お」「し」)と、「投資(「と」「う」「し」)」の単語は、職業アナウンサーなら同じ発音で読むだろうが、そのビルディング・キューブをバラバラにした途端、それぞれの「お」と「う」は、「o」と「u」の「音素」を持つものに別れる。「音韻」は、関係性の内にある。そして「音韻」は、関係性から「切り離された」瞬間にその「音素」的特性が変わる。



ここに一連なりの音のスペクトログラムがある。これは或る「表音文字(「音素文字」)」で「記述可能」な複数の「単語」であり、またそれぞれ幾つかの「音節」に別れる。一見して数個のブロックに分かれる事は想像出来る。「正解」は英語の "nineteenth century" との事だ。果たして何処で「ナ・イ・ン・テ・ィ・ー・ン・ス・セ・ン・チ・ュ・リ・ー」と分ければ良いかと、日本人的に間抜けな当惑を戯れにしてみたりもするが、しかしこれが英語の「ネイティブ・スピーカー」であっても、その切り分けは音声分析の「専門家」以外には難しいだろう。況してや、何処までが "n" で、何処から "i" は始まるのだろうかと、アルファベット文字単位で切り分ける事の意味は見出だせないし、そもそもそれは「厳密」には不可能だ。


では日本語ならどうだろうか。Android アプリの "Spectral Audio Analyzer" に、自分の声を掛けてみた。



これは幾つの「音韻」に分かれるだろうか。1個以上、20個未満である事は大体想像が付く。但しこれに関しては、その「音韻」の「正確」な「数」こそが最も重要なものとされる。これを「音韻」を可視化する「ミッフィーキューブもじあそび」を使用して「文字」に直すとこういう事になる。



日本の現代美術クラスターの間では、極めて有名な「自己言及文(autogram)」であり、「オリジナル」は、「明朝/アンチック」系統の活字を元に、複製作業を重ねて「味わい(妙味)」を加えたものとなっている。下掲の5つの内のいずれかが「オリジナル」だ。他のものは、「MS明朝」「ヒラギノ明朝」「小塚明朝」「五號アンチック」――順不同――を使用した「偽物」である。しかしこの「偽物」は、どの様な意味で「偽物」なのだろうか。



因みに「味わい(妙味)」を排除するとこうなる。(「メイリオ」使用)



先人に倣い、「ミッフィーキューブもじあそび」の方にも、少しだけ「味わい(妙味)」を付けてみた。



この「この七つの文字」を音声で発した場合、日本語に於ける「音韻論」上の概念である「モーラ(拍)」に依拠する限り、「こ・の・や・っ・つ・の・お・と」としなければならないかもしれないものの、いずれにしても「文字」で示される程には「自己言及」的なものにはならない。この美術作品の様に、紙の上に(或いはモニタ上でも良いが)「文字」の形で印刷された「この七つの文字」であれば、見た瞬間に「自己言及」性の「深淵」に引きずり込まれそうにもなる。「指し示すものと指し示されるものが同一であることによって生じる循環が、人に、合わせ鏡の無限廊下に立ったときのような目眩を覚えさせる(三浦雅士)」的な事を言いたくもなるだろう。


しかし音声の「こ・の・や・っ・つ・の・お・と」では、聞いた瞬間はもとより、頭の中で反省に反省を重ねても、それでも「深淵に落ちる」どころか「腑に落ちる」までにも行かないのは、これが「音韻」的には「八つ」に分割されるものの、「音節」的には「こ・の・やっ・つ・の・お・と」と「七つ」に分割され、「音素」的には「十数個」に分割されるという事もある。この様に、音声上での分割は、その分割位置をも含めて常に恣意的である事を免れない。


「文字」による「この七つの文字」が、「循環」を意図して作られるのであれば、「指し示すもの」と「指し示されるもの」が「一致」する事を保証する前提として、「指し示すもの」のエレメント数が「七つ」である事に、疑う余地が無い必要性がある。通常それは「文字」が担保を担うのであるが、しかし世の中には、敢えて「文字」の「真ん中」で切ろうとする者もいるから厄介だ。例えば「神」とせずに「ネ申」とする「横倍角表現」のケースがそれに当たる。この場合、「ネ申」は、「一文字」として考えるべきだろうか、それとも「二文字」として考えるべきだろうか。「メイリオ」使用の「この七つの文字」に、「宀」+「子」の「縦倍角表現」を使用してみた。「七つ」という数字が恣意性を帯びた。



純粋に音声上の、即ち「記号」としての「文字」に変換する事に依存しない「回文」や「アナグラム(含「パングラム」)」や「自己言及文(autogram)」というものを想像するのは極めて困難だが、一方この「空耳」をも味方に付けた、音声上の「倒語」の例はどうだろうか。



参考「元歌」


「このきなんのき」のリバースは、「きのんなきのこ」にはならず、「きほんはにこどう(基本はニコ動)」に聞こえてしまう。子音と母音の時系列に於ける順序が逆になるだけに、そこでの「音節」の分割位置もまた、この「倒語」では「原文」のそれとは「半音節」分だけずれる事になる。従って「明確」な「空白」部を基準とした「文字」の分割/再構築の場合と異なり、音声の「倒語」は「音節」の「真ん中」で多くが切れる。実際に「基本はニコ動」は、「このきなんのき」のアルファベット表記「konokinannoki」のリバースである「ikonnanikonok(いこんなにこの)」により近い。


「この七つの文字(或いは「このやっつのおと」)」をリバース再生した時、果たしてそれはどの様に聞こえ、また幾つの「エレメント」に分かれるだろうか。いずれにしても、それは「じものつななのこ」にはならない。寧ろそれは「kononanatunomoji」のリバース、「ijomonutananonok(いじょもぬたなのの)」に近い。「医女のの」。しかし他言語の話者は、この音に別の「空耳」を当てるだろう。「順再生」の「この木なんの木」は、確かに「ヒデ夕樹」の声である。では「逆再生」の「この木なんの木」の声、「周波数特性」的には「ヒデ夕樹」のそれと寸分違わないその声は、しかし一体「誰」の声だろうか。


「スペクトログラム」や「逆再生」は、言語外の世界の「深淵」を垣間見せてくれる。そして同時に「言葉」の「誕生」の「瞬間」をも想像させてくれる。その言語外のカオスから、何とか「言葉」を拾い集めようとして「空耳」は行われる。しかし「空耳」とて、その言語の文字体系、音韻構造、音節の影響は免れない。そして自身の持つ語彙の何にも当て嵌まらない音列が「余剰」の形で現れた時、「ギナタ」や「コンダラ」や「ゾケサ(*)」が現れる。上掲動画の「イラムッザ」や「プラムッザ」も同様のものだ。或いは「くぁwせdrftgyふじこlp」の「ふじこ」もその一種だろう。動画中の「平野桃」は、取り敢えず「空耳」によって生まれた「架空」の人物名であるにも拘わらず、それでも実在する可能性は多いにある。


(*)「ゾケサ」の報告例は幾つか存在するが、以下はその最も有名なものの一つである。”このミシブチンの少年の頭脳は、ゾケサなるもののイメージをもありありと思い描くことができる。「明けてぞけさは/別れ行く」という『蛍の光』の最後の一行に含まれる強意の助詞「ぞ」の用法を理解しえなかった少年は、なぜか佐渡のような島の顔をした「ゾケサ」という植物めいた動物が、何頭も何頭も、朝日に向かってぞろぞろと二手に別れて遠ざかってゆく光景を、卒業式の妙に湿った雰囲気の中で想像せずにはいられないのだ。ゾケサたちは、たぶん彼ら自身も知らない深い理由に衝き動かされて、黙々と親しい仲間を捨てて別の世界へと旅立ってゆくのだろう。生きてゆくということは、ことによると、こうした理不尽な別れを寡黙に耐えることなのだろうか、可哀そうなゾケサたちよ。”蓮實重彦「反=日本語論」


そして「この菜 夏飲も 児」。「この菜っ葉を、夏に野菜ジュースにして飲もう、私」。「この菜 夏飲も 児」を仮名で書き下せば、「こ・の・な・な・つ・の・も・じ」になる。そして「この菜 夏飲も 児」からすれば、その音列は「この七つの文字」とも聞こえる可能性を持つ。


「意味内容」のみが交感する「純粋テレパシー(純粋精神感応)」などという「お話」を仮構しない限り、「言葉」は何らかの形で「空間」を占める「質量」を持つ「痕跡」の形で現れる。「文字」も「痕跡」ならば、「声」も「痕跡」である。「痕跡」であればこそ、それは「誤読(読みの多数性)」や「誤配(配りの多数性)」という「余剰」を常に持つ。頼るものは「痕跡」であり、「痕跡」でしか無い。「〈私、ここ、今〉!」と、発言者が幾ら肩を怒らせて頑張ったところで、「痕跡」の形でしかそれを表せないのであれば、「読み」や「配り」に於ける「天使の取り分」は避けられない。我々は常に「天使」と寄り添って生きている。

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その作品を作る上で、構造上のリファレンスとしたのが、この「この七つの文字」であると作者は言う。


KABEGIWAポッドキャスト
http://www.voiceblog.jp/kabegiwa/1871805.html(14'45""〜)


その様な内容であると、自分は MacBook Pro 搭載の貧相なスピーカーから聞いて判断した。但し正確に聞き取れているかどうかについて、絶対の自信は無い。何処かで「空耳」が紛れ込んでいるかもしれないし、実際に紛れ込んでいるだろう。14分57秒からの「ど忘れしちゃった(と聞こえた)」に続く「無音」の後に発せられた「たかまつじろう(と聞こえた)」は、恐らく「高松次郎」で合っている。「高松」にある「二郎」系のラーメン屋を称して、「高松二郎」とするという可能性がゼロであるとは言わない。このポッドキャストに出演しているのが「ラーメン王・石神秀幸」氏であれば、寧ろ「高松次郎」という可能性は極めて低く、「高松二郎」と解するのが妥当だ。但しここで喋っているのは「美大生(当時)」なのである。従って「高松二郎」という選択肢は、ここでは捨てるべきだろう。


それに続く「このななつのもじ(と聞こえた)」は、「高松次郎」という選択肢を採ったのであれば、その作品「この七つの文字」を指すというというのが、このパズルに於ける道理だ。自分で書いておきながら何だが、「この菜 夏飲も 児」という可能性はほぼあり得ない。「しかし「このななつのもじ」を「この七つの文字」と解読したとしても、あの美術作品を知らない人間には「七つの文字が何だって言うんだ」で終わる。勿論あの作品の「絵面」が、頭に浮かぶ筈も無い。


ここまででも、これ程の「空耳」や「誤読」を含めた「ディスコミュニケーション」の「罠」が潜んでいる。更に見落としているだろう「罠」の存在は数知れない。このポッドキャストは「聾者」の為に「文字起こし」をされるらしいが、それが時に「労力」的なものとして認識されたりもするのは、潜んでいる「罠」の多さにこそある。そこで「正確性」を求めれば求める程、それは「労力」と見做される。即ち「ディスコミュニケーション」は、「コミュニケーション」に於ける不可避的な「天使の取り分」であるだけに、「ディスコミュニケーション」が当たり前だと思われているところでそれを「完璧」な形で廃するとなると、途端に「労働」の対象となるのである。


些か【序】の部分が長くなった。まずは都合5回見たこの「この七つの文字」と「同じ」構造を持つとされている作品について書く事にしよう。その後で「回文」をもものす作家の作品についても書く事になるだろう。


【続く】