読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

不意打ち


行くべき!21時までなので先に行くべし!@kachifu: 六本木のアートナイトに来る人はTIME & STYLE ミッドタウンで開催中の高柳恵里展にも行くべき行くべき。"


https://twitter.com/mtomii/status/315418929268944896

      • -


この度、TIME & STYLE MIDTOWN では、高柳恵里氏を迎え 展覧会「不意打ち」 を開催致します。
インテリアショップの空間であることも意識された展示が展開されます。
TIME & STYLEの家具の在る空間に寄り添うようにたたずむ高柳氏の作品を是非ご高覧ください。


http://www.timeandstyle.com/plus/news/news_contents/20130308news.html


日本語の「不意打ち」というのは「藪から棒」が条件となる言葉だろうか。「寝耳に水」が条件となる言葉だろうか。或いは「青天の霹靂」が条件となる言葉だろうか。確かに藪に紛れた形で棒を突き出されれば驚く。確かに就寝中に洪水を知らせる警報が聞こえて来れば驚く。確かに病床に伏していた詩人が突然起き上がって筆を走らせれば驚く。であるならば、この〈不意打ち〉はそれらとは違う気がする。この〈不意打ち〉にそうした「意想外」や「想定外」な「驚き」は、ほぼ皆無であると言っても過言ではない。


寧ろこの〈不意打ち〉にあるのは、一種の「気配」的な「違和感」に近いものだが、それは物事に感じる能力としての感受性によっては全く感じられないものだ。例えば、携帯電話による緊急地震速報は、「非日常」な上にも「非日常」な、凡そ「万人」が「突拍子も無い音」と認める音でなければならない。洪水を知らせる警報(「寝耳に水」)が、感受性によっては全く「驚き」が感じられないものに成り得てしまうものならば、それは警報としての意味を成さない。しかしこの〈不意打ち〉は、そうした「非日常」的なものとは異なる。その幾つかが「エラー」的な意味で「稀有」な事柄に見えたとしても、それでもそれらは「エラー」と名状する様なものではない。そこでは「特別な事」は何も起きていないとすら言える。そして「特別」な事が何も起きていないが故に、極めて普通の何かが〈特別〉に起きている。


「六本木のアートナイトに来る人」が、一夜限りという極めて時限的な「六本木のアートナイト」に何を期待して来るのかには勿論様々なものがあるだろうが、それが「藪から棒」や「寝耳に水」や「青天の霹靂」的な「驚き」を誘発する「非日常」性を期待してのものであるならば、この〈不意打ち〉は〈不意打ち〉として見えないかもしれない。そこにあるのは「藪から棒」ではなく「藪に棒」であり、「寝耳に水」ではなく「寝耳と水」であり、「青天の霹靂」ではなく「青天と霹靂」だ。従って「藪に棒」から「藪から棒」を、「寝耳と水」から「寝耳に水」を、「青天と霹靂」から「青天の霹靂」を導き出すのは、飽くまで観者の側にその任がある。


少なくとも「コンテンツ」としての「クリーニング・ディスコ」に対するチューニングとは全く別の調整が、〈不意打ち〉を前にした者の「センサー」には求められる。〈不意打ち〉では、「気配」を「違和感」として「察知」する観者の「能力」こそが求められ、そして「冷酷」にも、そうした「能力」を有する者であるか有しない者であるかを「試され」たりもする。その意味で、この〈不意打ち〉は、何処かで観者の持つ「センサー」の「能力(性能)」を計る「試験装置」でもある。


中綴じのカタログの最初のページには、制作年が2011年の「自由な紙管」が掲載されている。写真は「藍画廊での展示風景」という事らしい。今回もこの作品が出ているとされてはいるが、しかしこの「旧作」は「出ている」にも拘わらず「出ていない」とも言える。敢えて言えば、今回の「自由な紙管」は「藪に棒」であり、図版として掲載された、相対的「ホワイトキューブ」である「藍画廊」の「自由な紙管」は、「藪」の要素が殆ど無い「棒」に近い。それは〈不意打ち〉展にある全ての「旧作」に言える事であり、「旧作」と今回の〈不意打ち〉展に出されているものは、限り無く「同じ」であると同時に、全く「違った」ものである。


この〈不意打ち〉展で、「藪」に当たるものは、「TIME & STYLEの家具の在る」「インテリアショップの空間」になる。「犬も歩けば棒に当たる」の「棒」が、「必然性」ではなく「蓋然性」に留まるものであるならば、この「藪に棒」の「棒」に「当たる」確率もまた「蓋然性」の領域にある。寧ろこちらから「棒」に当たりに行かないと、それは当たらないかもしれない。


そうした「インテリアショップの空間であることも意識された展示が展開」された「TIME & STYLEの家具の在る空間に寄り添うようにたたずむ高柳氏の作品」であるが故なのか、会場では「作品」の在り処、及び在り様を詳細に記した「ガイド」が配布されていた。



まるで地雷が埋められている場所を詳細に記した地図の様なこの「ガイド」の「配慮」によって、「インテリアショップ」という「藪」の中で、「作品」という「棒」を「見落とす危険性」からは「逃れられ」たりはする。そして、その「配慮」がもたらしてくれる「安心」と引き換えに、「センサー」の感度を幾分か下げる事も出来たりはする。それが「小さな親切、大きなお世話」になるかと言えば必ずしもそうでは無く、この「ガイド」があっても尚「センサー」は作動させ続けなければならない。例えば、「ただ寄っている」事だけのものが、何故にか「特別」な事に見えてしまうといった様な。そしてその「センサー」からすれば、この〈不意打ち〉という「郄柳恵里」による展覧会自体が「相対化」の対象になる。


実際「インテリアショップ」の中、そしてその外には、「郄柳恵里」という一個人の「手」になるものでないもので、幾つも〈不意打ち〉を感じられるものがあった。恐らくそれらの〈不意打ち〉の「作者」は、その事を「自覚」していないかもしれないだろうし、実際してはいないだろう。況してや「作者」が「不在」であれば尚更だ。それは例えば、「他者の参加」によって「作者」や「作品」が「相対化」されるといった様なアプローチに見られる、極めてありきたりで手垢が付いた、最早前世紀(20世紀)的な伝統芸能とすら言える「問題」化とは全く別のところにある。だからこそ「郄柳恵里」展は、こうした「藪」の中で開催される事に意味があり、そこでこそ「面白く」見えるのだと敢えて愚考をする。


だからこそ、同展に寄せた作家「郄柳恵里」のコメント、「私自身に不意打ちをする。それの居場所をどこかに落とし込む間を与えないように。するべきこと、と言えば、そのような状態でものを目の前にする、ということ。興味深いことは、どうやら不意打ちも質を持つ、ということ。」の冒頭が、他でも無く「私自身」で始まっている事が極めて重要なのだと思われる。それはそれぞれの「私自身」の「問題」とも読める。「ミッドタウン」や「六本木のアートナイト」からそれぞれの「自宅」に帰り、そこから始まって行くものこそが、「私自身」の「不意打ち」なのだろう。写真に写った皿の上のトマトやフォークといったものの配置に対して、それを〈不意打ち〉として敏感に反応するセンサーの持ち主であるならば、当然「私自身」の食卓に毎日の様に載る皿の上のトマトやフォークといったものの配置にも〈不意打ち〉反応する筈なのだ。