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西畫


一 西畫は蝋油を以て膠に換、故に水に入りても損ぜず。世俗之を油畫と云ふ。畫法は我日本にても往々模製する者ありといへども、其眞を得ざる者多し


一 西洋の畫法は理を究めたれば、之を望み見る者、容易に見るべからず。望視るの法あり。故にや彼國皆額となして掛物とす。假に望むといへど、畫を正面に立置きて、畫中に天地の界あり。是望む處の中心とし、則ち五六尺を去りて看るべし。遠近前後を能分ちて、眞を失なはず。


司馬江漢「西洋畫談」[寛政十一年(1799)]
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954090 (コマ番号76以降)

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第二十一条  居室の天井の高さは、二・一メートル以上でなければならない。
2  前項の天井の高さは、室の床面から測り、一室で天井の高さの異なる部分がある場合においては、その平均の高さによるものとする。


建築基準法施行令(昭和二十五年十一月十六日政令第三百三十八号)



自分の記憶の中にある最初の「西洋画」体験は、自宅六畳間の長押の上に掛かっていた「ゴッホ」の「収穫(Harvest at La Crau)」だった。言うまでもなく、自宅の長押の上にあったものは印刷による「複製画」である。オランダ・アムステルダムゴッホ美術館に収められている「本物」は、73 X 92 cm(凡そ「30号」)という大きさだが、昭和30年代の自宅の六畳間の天井高は、平均的な日本家屋に於ける標準寸法の八尺(約2.4メートル)程度(それは21世紀の現在でもほぼ変わらない)であるが為に、結果的に長押の上には二尺(約60センチ)弱の空間しか存在しない。そこに額装された「ゴッホ」の「収穫」なのであるから、当然その画面サイズは「本物」と同じになる筈も無く、その結果、縦横それぞれ1/2程度の大きさ(凡そ「8号」)に仕立て直されていた。


弘化二年(1845)、及び安政二年(1855)年に、オランダ王国から江戸幕府に対して、二枚の油彩画が贈られている。いずれも縦九尺横六尺(約2.7メートル × 1.8メートル=「三畳間」の大きさ)という「大画面」のそれは、オランダ王室宮廷画家ファン・デル・フルストの筆になるウィレム二世=第2代オランダ国王と、同じく宮廷画家ニコラス・ピーネマンの筆になるウィレム三世=第3代オランダ国王の肖像画だった。



後年大隈重信は、この肖像画についてこう記している。「維新江戸城受取の際、城の櫓内に蔵しありし」。当時の「日本国王」である将軍の居城と云えども、その何処にもこの絵が収まる「環境」は存在しなかった。結局この「巨大」な油絵が、晴れて陳列の時を迎えるのは、工部美術学校の図学教師でもあった「お雇い外国人」のヴィンチェンツォ・カペレッティの設計になる、中世イタリア城郭建築風の外観を持ち、「西洋の壁」で構成された室内を持つ「遊就館」(旧)という「容れ物」の完成(明治14年=1881年)を待つしか無かったのである。



弘化二年の肖像画に描かれていたウィレム二世は、アヘン戦争集結(南京条約締結)二年後の弘化元年(1844)五月に、特使コープスを長崎に派遣し、「日本国王(将軍・徳川家慶)」に宛てて、「獨り國を鎖して、萬國と相親しまざるは、人の好みする處にあらず」(訳:渋川敬直)と、開国を勧告する内容の親書を送った人物としても広く知られている。このオランダ国王からの開国勧告の親書に対し、当時の主席老中阿部正弘は、「今之が布報を為さんと欲すれば、即ち祖法に違碍す」を根拠に、その翌年6月に開国拒否の旨を通告した。「ウィレム二世」の肖像画が長崎に到着したのはその年の事であったが、実際には日本の「開国」を前提としての制作でありオランダ出港であった事だろう。


ウィレム二世の親書の起草者でもあるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト等の口を通じて、日本の建築を含めた「諸事情」を知らない筈が無く、また多くの非ヨーロッパ圏に於ける自国の「植民地」に、その様な「西洋画」がそのまま導入可能な「環境」が存在しない事も十分に知っていた筈のオランダ国であるにも拘わらず、それでも「大画面」の「国王の肖像画」を日本に送り付けてきた事に、ヨーロッパ圏の考える「開国」の意味を見て取る事もまた可能だろう。



戦後昭和に至っても、一般的な日本家屋に「西洋画」を掛けられる様な場所は、精々のところ長押(鴨居)の上や、下駄箱の上の狭隘な壁面等に限られていたから、その複製を作成した最大手印刷会社(当時)もまた、その商品のサイズ決定に於いては、伝統的な「扁額」の縦寸法(横寸法は縦寸法から自動的に算出される)を参考にした事は想像に難くない。その「収まり」への「工夫」は、例えばあの高橋由一の「鮭図」の縦長画面や、小襖仕立の「貝図」や「扁額」サイズの「江之島図」の横長画面等に見られる、「日本家屋」という避け難い構造の現実への「即応」性と全く同様のものであると言えるだろう。


21世紀のマンションのモデルルーム等の画像を見れば、「絵画」が掛けられそうな「西洋の壁」が増えている。それは、「襖」や「障子」といった「可動壁(sliding wall)」によって実現していた「陰翳の謎(谷崎潤一郎)」を失う事で得られたものでもある。そして「自然光」の「陰翳の謎」を住環境から駆逐した後に、十分な明るさを持つ「人工光」の存在を前提とする「絵画」が、代わってそこに入る事になる。

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最大手印刷会社によれば、その「ゴッホ」の「複製画」は「画期的」なものであったらしい。1960年代当時の最大手印刷会社が持つ最高水準の平版印刷技術が、その「複製画」に惜しみ無く導入されているのは、印刷会社として当然の事であるにしても、それに加えて真に「画期的」とされていた理由は、その「複製画」に「運筆」を表現した「立体印刷(実際には「エンボス加工」)」が施してあるという点にあった。確かに「ゴッホ」は、「運筆」を見せる「インパスト」な「油彩画」である。そして日本人の多くが「油彩画」=「西洋画」に対して抱く一般的なイメージは、絵画サークルのアマチュア作品に顕著な様に、使い捨て絵具チューブの発明(1841年)後に一般化し、スタイル化され、そしてそれが事実上日本に於ける「油絵」の「標準」とまでされている、「『キャンバス』に『厚塗り(インパスト)』」という体裁への信仰にあり、例えばそれは以下の様な「複製画」の業者による文章にも表れている。


どれだけ実物に近付けることが出来るか。
どうしてそこまでキャンバスにこだわるのか。
今、この文を読んでくれている貴方はそう思うかもしれません。


それは”アーティスト・キャンバス”にプリントする方が遥かに美しく豪華で、より実物の絵画に近づくのです。
しかもその自然な素材感がオリジナル絵画とそっくりな手触りを感じさせてくれます。
また当店の提供する「複製画」ではこの後、キャンバスを専用の木枠に貼りこむ事でまるで実物のような仕上がりを実現しています。(お選びになるフレームによっては木枠に張り伸ばす方式になります)


(略)


立体加工!
そして次に、プリント面に一筆一筆手作業で立体加工用の溶液(通称メデューム)を付けた筆を使い絵画の描線をなぞりながら油絵の命とも言える”盛り上がり”を加え、「実物の絵画により近く・・・」ひたすらその思いだけを心に作り上げました。
下の画像を御覧になれば、どれ程の思いがこもっているかお分かり頂けると思います。


http://www.digiart.cc/free_9_47.html


「油絵の命とも言える”盛り上がり”」を「どれ程の思い」を込めて加えているかは判らないが、取り扱われている画家のラインナップには、「盛り上がり」を施す事が、「命」に成り得るとしても許容されるだろう範囲にある名前もあれば、「盛り上がり」を施す事が、その作品の「命」を瞬時に失わせるだろう名前もある。如何な元絵が「板絵」であろうが「テンペラ」であろうが、それでもこの「複製画」では一律「キャンバス」に「厚塗りの油絵」なのであり、それこそが「オリジナル絵画とそっくりな手触り」であるとされる。それは日本人の「西洋画」に対する「絵画」観が、避け難く「そこ」にあるという事を示しているのだろう。


この「立体加工」の「複製画」もまた、数十年前の日本の最大手印刷会社の「複製画」同様、その多くが元絵よりもかなり縮小されたサイズ、即ち長押・扁額的サイズに留まってしまう事に留意したい。司馬江漢から200年超、高橋由一から100数十年超を経ても、縦3メートル超の「ラス・メニーナス」が、その数分の一程度の大きさになってしまう。それは「複製画」であると言うよりも、寧ろ「模型」と言うに相応しい。「8号」の「ラス・メニーナス」と同縮尺にすれば、あの「ミロのビーナス」が高さ僅か30センチ程の小像になってしまう。従って、ここで製造されている「ラス・メニーナス」の「模型」は、謂わば数分の一スケールのフィギュアが登場するジオラマ中のそれであると言える。そして「油絵の命とも言える”盛り上がり”」を、その「西洋画」の「模型」に対して「『1/1』の心」を込めて施すのである。


プラモデルにおけるスケールモデルは、「正確な縮尺」というイメージで捉えられがちだが、実際のものをそのまま小さくしてもそのとおりに見えないことが多い。これには複数の理由がある。ひとつには、実物を至近で見る場合、車や列車、航空機など、人間よりもはるかに大きいものを視認する際に、手前が大きく奥が小さく見える遠近法の原理で歪んで見えている一方、模型はその縮尺に比して十分に離れて見るためである。また、実物は見上げる視線で見るものも多いのに対し模型は上方から見るためもある。そのため各メーカーは縮小の際にある程度のデフォルメを行なう。正確に縮小されていても、実物と似て見えなければ、商品としては失敗作となってしまうからである。


Wikipediaスケールモデル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB


その「8号」サイズの「模型」に施された「盛り上がり」を、「本物」のサイズに引き伸ばせば、単純計算で7倍の「盛り上がり」になるという計算になる。その「模型」上の「盛り上がり」が最大で1ミリであれば、それは「本物」的には7ミリ超の「盛り上がり」になる。7倍の「実物大」になった「キャンバス」の布目はまるで「土嚢袋」のそれだ。しかしその様な絵は、このラインナップの何処を引っ繰り返しても現実世界には存在しない。プラド美術館の「ラス・メニーナス」に7ミリの「盛り上がり」を期待したとしても、それは全くの徒労に終わるだろう。それは模型用語的に言えば「オーバースケール」になる。そして恐らくあらゆる意味での「誇張」表現としての「オーバースケール」を通して見たいものが、「日本」に於ける「西洋美術」の「命」とされているものなのだろう。それは受容的なものを含めた「デフォルメ」された「模型」を通して見る「西洋美術」だ。


今から40年程前の自宅の「ゴッホ」の「模型」にも、「油絵の命とも言える”盛り上がり”」がふんだんに施されていた。その「盛り上がり」を見た小学生は、直感的にそれに疑問を感じた。「絵面」は写真に撮れば「複製」が可能だ。しかし「絵肌」はどうだろう。「絵肌」の「複製」は、如何なる技術によって行われるものなのだろうか。果たしてそういうものを「写す機械」があるというのだろうか。結局それが「機械技術」に依らず、専ら「西洋画の命」を感じた「心」による「複製技術」であるのを知るのは、随分と後の事になる。

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長じて中学生の時分の某日、「美術クラブ」の顧問の美術教師が、「油絵を描いてみないか」と話を持ち掛けて来た。但し正直なところを言えば、その持ち掛けに対して余り高揚感というものは感じなかった。何故ならば、「油絵」を描く事を欲する何らの理由も、その時には自分の中に存在しなかったからである。


顧問教師が渡してくれたのは、当時日本で出回り始めた「キャンバスボード」だった。キャンバス地がエンボス加工された厚手のボール紙である。現在 Amazon では「おもちゃ」のカテゴリに分類されている、「油絵入門者」用とされる「擬似キャンバス」である。渡されたF3の大きさのその「ボール紙」を見て、即座に自宅の「ゴッホ」の「模型」を思い出した。この「ボール紙」に施された凹凸にも、あの時と同じ違和感を持った。しかもこの平滑ではない面に、普段使いの水彩絵具で描く事は、苦痛以外の何物でも無い。勿論顧問教師は、そこに乗せるのに最適な絵具の「作り方」も教えてくれた。「デトランプ」。確かに顧問はそう言った。


テンペラ tempera
今日では卵をおもな展色剤として顔料を練って作った絵具およびこの絵具で描いた絵画を指すことが多い。 テンペラは中世ラテン語テンペラレ temperare (〈粉体と液体をかきまぜる〉の意) から派生したイタリア語で, 中世には単に〈絵具〉の意味で使われていた。 しかし 15 世紀中期以後油絵が絵具の主流を形成するようになるとともに, 卵,膠 (にかわ),アラビアゴム,麦糊, カゼインなどを用いた水性絵具の総称に意味が転じた。 この用語法は 18 世紀中ごろまでごく一般的で, フランス語ではデトランプdétrempe,英語ではディステンパーdistemperの表記を用いた。 しかし,18 世紀にグアッシュ,水彩が技法として独立した評価を受けるようになると, 〈テンペラ〉は一時,死語あるいはイタリア語のみの地方的表現になった。 広い地域で通用する技術用語としては, わずかにフランス語表記の〈デトランプ〉が, もっぱら舞台美術・装飾用の膠やデンプン糊を用いた泥絵具類の意味で生き残った。 テンペラが新しい意味をもつ技術用語として再興するのは 19 世紀中期以降である。 15 世紀初めに書かれたC.チェンニーニの技法書《芸術の書 Libro dell'arte 》をもとに, ロンドン大学にいたトンプソン Doerner Thompson を中心とした学者や画家グループが, 13,14 世紀イタリアで行われていた古い彩色技術を復興する研究を行った。 この結果,卵黄をおもな展色剤とする古典技法を発見しこれをあらためてテンペラと命名し普及した。 以後単にテンペラといえば卵をおもな展色剤とする〈卵テンペラ〉を指すことが多くなった。


森田恒之 平凡社「世界大百科事典」【テンペラ】から


「作り方」は簡単だった。普段使いの「サクラマット水彩絵具」に「ヤマトのり」を混ぜて絵具の粘性を「油絵具」並に高める。その「デトランプ」はそれだけだった。顧問教師からペインティング・ナイフが貸与された。「油絵」用の筆は貸与されなかった。「キャンバスボード」に「ヤマトのりデトランプ」。「紛い物」に「紛い物」。顧問教師は「『油絵』なのだから、もっと絵具を盛り上げる様に描いてみよう」とサジェストしてくれた。しかし中学生は「紛い物」を様々に工夫してまでも、「しなければならない」とされる「油絵の命とも言える”盛り上がり”」の意味を掴み兼ねていた。「紛い物」の「キャンバス」の上に、「紛い物」の「油絵具」を「盛り上げ」るだけ「盛り上げ」て、そして最終的に「長押の上の『ゴッホ』」になってしまうのだろうかと思うと、澱粉糊で増量される事で透明度が増してしまった扱い辛い「元サクラマット水彩絵具」を、柔らかい毛質の水彩画用の筆を使って描くという事も相俟って、「油絵の命とも言える”盛り上がり”」を通して「西洋画」の「心」をひたすら描くという「作業」に対して、すっかり鬱然たる気持ちになっていた。

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アクリル絵具の歴史


メキシコの大壁画運動などをきっかけに、1940年代には屋外や大画面に使用できる安価で堅牢な絵具を求める声が大きくなりました。やがて第二次世界大戦が終了すると各種の合成樹脂を原料とした絵具の開発が本格化しました。初期の合成樹脂絵具は、専門家用の絵具としての開発ではコスト的に難しかったため家庭用の塗料として開発されて行きました。
 家庭用塗料を原料別に分けるとニトロセルロースを使用したもの、アルキド樹脂を使用したもの、PVA(ポリビニルアセテート)を使用したもの等が市販されました。ニトロセルロース系の塗料はジャクスン・ポロックが初期に使用しています。流動性が高く強い艶を持っており、有機溶剤で希釈します。アルキド樹脂を用いたものはパトリック・コールフィールド、ピーター・ブレイク、フランク・ステラ等によって使用され、筆跡が残りにくく強い艶を持っています。フランク・ステラは当時の専門家用絵具にはなかったメタリックカラーをこのアルキド樹脂塗料で使用しています。PVAはマットでフラットな画面が得られ筆跡を完全に消すことができる特長を持っており、ブリジット・ライリーやリチャード・ハミルトン等に好んで使われました。
 1940年代の後半になって米国のレナードブクー氏によって最初の合成絵具 「MAGNA」が開発されました。「MAGNA」は溶剤型のアクリル絵具で、溶剤の揮発によって乾燥するため乾燥が非常に早いのが特長です。希釈にはテレピン油を使用し、乾燥後もテレピン油によって溶解します。速乾性、塗面がフラット、薄めても色が弱まらないなどの特長を生かしてロイ・リキテンスタインやモリス・ルイス等によって使用されました。
 1955年に溶剤系アクリル絵具の欠点を克服すべく、水性エマルジョンタイプのアクリル絵具が開発され、「liquid」と「texture」という言葉を合わせて「liquitex・リキテックス」と名付けられました。この絵具は水分が蒸発して乾燥するため乾燥時間が適度であり、塗面は堅牢で何よりも水で希釈できる手軽さが非常に大きな特長となっています。また乾燥後は重ね塗りをしても下の色が溶け出さないので技法の可能性を飛躍的に広げました。デビット・ホックニーやアンディー・ウォーホル、ジョン・ホイランドなど多数のアーチストが使用しています。
 このように家庭用塗料から次第に専門家用の絵具としての地位を確立していった合成樹脂絵具は、1960年代には油絵具に代わる新しい絵具として画家達の間に浸透していきました。これらの合成樹脂絵具、とりわけ水性エマルジョン系アクリル絵具は作家の技法上の制約を取り除き、その可能性を飛躍的に広げました。第二次世界大戦後の現代絵画の歴史は、これらの合成樹脂絵具の歴史そのものと言っても過言ではないでしょう。

http://www.bonnycolart.co.jp/item/cat14/


「アクリル絵具」というものを初めて使ったのは、高校三年の時分であった。それは「油絵具」を初めて使用した頃と相前後している。「油絵具」の使用開始は主に「受験対策」上のものであったが、「アクリル絵具」は、或る技法書にそれが掲載されていた為に、自分から積極的に使ってみる気になっていた。近年「アクリル絵具」の代名詞ともなっている "Liquitex(リキテックス)" の「日本上陸(1968年)」から僅か数年後の事ではあるが、しかし武蔵野美術大学の学生が利用する「バスターミナル」近くの画材屋(実家近く)では、当時 "Liquitex" はまだ扱い商品では無く、そこで扱っていた「アクリル絵具」は、"Grumbacher" 社の "HYPLAR" だった。



ここに当時の "HYPLAR" のカタログがある。 "CONTENTS" の冒頭には、"PAINTING TECHNIQUES" として "Oil Color and Water Color Styles" とある。日本に出回った頃の "Liqutex" のカタログにも同種の記述が見られる。「油絵」の様に描ける。「水彩画」の様に描ける。"ACRYLIC POLYMER PLASTIC COLOR" であるにも拘わらず、 "FOR ARTISTS" に「最適化」された、使い捨てチューブ入りの "Oil Color" や "Water Color" の「紛い物」の「絵具」。


ニトロセルロース系の「塗料」を使用した「ジャクスン・ポロック」が、アルキド樹脂「塗料」を使用した「パトリック・コールフィールド、ピーター・ブレイク、フランク・ステラ」が、PVA「塗料」を使用した「ブリジット・ライリーやリチャード・ハミルトン」が、それぞれのエポックな仕事の開始時期に於いて、完成された「チューブ入りアクリル絵具」を手に入れられる状況にあったなら、果たして彼等はそれを選択し、 "Oil Color and Water Color Styles" という「罠」に易々と引っ掛かってしまっただろうか。

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「クリーニング屋でディスコ」という企画があったらしいアートイベントを避ける様に、その前の週と、その後の週に、東京地方の幾つかの展覧会を見て回った。そしてその幾つかは、「絵具」と「キャンバス」による「絵画」展であった。


【続く】