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それ、それをそれと呼ぶことにしよう

2才になったばかりの幼児と展覧会に行った。会場は「博物館法」的にも真正の「博物館」である。


会場入口の受付で、2歳児は同展のフライヤーを欲しがった。暫く片手にフライヤーを持ちながら作品を見ていた2歳児は、やがて繋いでいたもう片方の手を離して壁面に向かい、或る行動に出た。


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展覧会は「◯◯市保育園 園児絵画展」というものだった。「◯◯市保育所・保育園や昼間里親に通う子どもたちがいきいきと楽しく、心を込めて描いた千六百点の作品」(同展フライヤーから)が展示されていた。「現代美術」の展覧会ばかりといった、或る意味でテイストの似通った刺激を求めての偏食を常態的にしていると、当然の事ながらその報いとして栄養が偏ってしまい、視野狭窄(*)を始めとする疾病が起こるとも限らないので、機会があればこういうものも見る様にして、脳のバランスというものを取る事にしている。


大辞泉」によれば、「視野狭窄」は「視野が縁のほうから、あるいは不規則に欠けて狭くなる状態」と説明されている。「大辞林」の説明では、「視野が周辺や中心から狭くなる状態」とされているが、両辞典とも「周縁」が見えなくなるという点は共通している。


勿論こうした「周縁」的な展示を、「美術」の基準で「評価」する事は出来ない。しばしば「美術」の「クラスタ」がする様に、「残念ながら〜」であるとか、「〜に過ぎない」であるとか、言わばそうした「批評」的な「評価」を弄すればする程、ここではそれに反比例して「そうした見方しか出来ない」というその発言者自身の限界性や脆弱性が無残に晒される事になるだろう。それは例えば、ホームパーティーに呼ばれて、そこで料理評論家宜しく「残念ながら火から降ろすタイミングが決定的に誤っている。所詮は聞き齧りの浅薄なものに過ぎない」と、ホストの作る料理に対して「批評」する様なものだろうか(>海原雄山)。他方プロの料理店であっても、「美術」の如くに店内やメニューに料理のコンセプトが大書され、また客の全てが料理(のみ)に対する「批評」的な言葉をしか発せず、加えてシェフが引っ切り無しに五月蝿どころの客に伺いを立てに来たり、逆にその「評価」に対して矢鱈に反駁したりという店があったとしたら、余りそこには行きたいという気が起きないのが正直なところだ。そうした「しち面倒臭え」ものは「美術」だけで十分に満腹なのである。「料理」と「美術」は異なるという、卓見だか憶見だか僻見だかに従うにしても、いずれにせよそうしたスタンスを取る限りは、こうした「周縁」的な展覧会では「言ったもん負け」に陥る恐れ無きにしも非ずであり、そこが「美術」という特殊なフォーマットとは大いに異なっている。


同展タイトルは「絵画展」であり、また同展フライヤーには「(心を込めて)描いた」とも書かれているものの、実際の出品作品は所謂「絵画(平面)」作品に留まらない。「美術」の用語に無理無理トランスレートしてみれば、そこには「ドローイング」もあれば、「彫刻(立体)」(大抵は着彩されている)もあれば、「インスタレーション」もあれば、「パフォーマンス(の記録)」もある。それでも「くみひも」や「あやとり」等を「立体」作品や「パフォーマンス」作品とする事は、「園児絵画展」的にはかなりの違和感があると言わねばならないだろう。所謂「アーティスト」が、それら(「くみひも」「あやとり」)を自作品としてギャラリーや美術館に展示したりすれば、「立体」作品や「パフォーマンス」作品として「回収」、或いは「回収不可能性」=「『永遠』に遅延される『決定』」としてどのみち「回収」されるのであるが、「園児」を始めとする「アウトサイダー」のそれらはその限りでは無い。


園によっては、2歳児から5歳児までの「共同制作」もあったりするが、勿論それは、20世紀から21世紀に掛けての「現代美術」で飽きる程に「定番」化し、そればかりかそれを「問題」化する事が、半ば「義務」化、「ネタ」化すらされている感もある「反・主体」や「脱・主体」とやらとは全く関係が無い。何故ならば、「現代美術」が好むところの「問題」としてのその手の「主体」の形成に、未だに「至っていない」のが「園児」という存在であるからだ。


「博物館」の会場は、◯◯市の全ての保育園児の作品がここに集められる程には広くない。当然「キュレーター(指導者)」による「足切り」は行われる。選考基準は不透明と言える。エントリーは、それぞれの園から数名といったところだろうか。加えて年齢的なエントリー制限を設けている様にも見受けられた。1歳から2歳に掛けての「ストローク絵画(なぐりがき)」は、この展覧会には多く含まれていない。幼児の絵の「発達」の常識が教えるところでは、やがて成長するに従って、( Adobe Illustrator 的に言えば) Open Path から Close Path に至る、認識論的「発達」による円環の形成期に至ったりもするのだが(参考:http://www.yoshino-hoikuen.com/sakura-sakuranbo/e)、しかしそうした円環のみという「作品」もまたこの会場には少ない。「現代美術」的な用語で言えば、「リプリゼンテーション(再現表象)」的な段階に「移行」してからのものが、この「園児絵画展」には多い様に見受けられる。就学前に至っても「アブストラクト」では、やはりその児童の「発達」に「問題あり」と見られるのであろうか。

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同展にエントリーされていない2歳児は、壁面に向かって行くと、持っていたフライヤーを「展示」しようとした。或る時には壁面の「空き」部分に。また或る時には「おともだち」の絵の上に重ねる形で。やがて、手を放せば落ちてしまうフライヤーに業を煮やし、その一隅をプッシュピンに押し付けて、壁面に固定化しようとした。その時フライヤーは、確かに「自分も」という「参加」の意志を表わしたものになった。


結局そのフライヤーを持続的な形で「展示」する事が叶わなかった2歳児は、帰りの車のチャイルドシートの中で、そのフライヤーの端を齧り始めた。それは勿論「失望」故の行動ではなく、その時には「齧るもの」としてフライヤーが認識されたからだ。そもそも、初めからそれは「絵画」でも何でも無かったのである。その一方で、それは「愛」の対象ですら無い。それは2歳児にとっては「何にでも成り得るもの」であり「何とでも呼ばれ得る」ものなのだ。


2歳児の行動は、見方によっては「バンクシー」を連想させるかもしれない。しかし勿論、それは連想以上のものではなく、そこには何の接点も無いのである。

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その事があってから数日後に、東京・馬喰町のαMで展覧会を見た。シリーズを通じたグランドタイトルは『絵画、それを愛と呼ぶことにしよう』であり、その vol.8 の「作品名」は、通し番号付きで「絵を持って来てもらう/ペインティング・トゥー・ザ・パブリック」と言うらしい。


その概要を、αMのサイトから再構成して引用する。


1、1/19(土)午後3時から 絵を持って歩く/ペインティング・トゥー・ザ・パブリック2
東京国立近代美術館の外からαMまで絵を持って歩きます。だれでも参加出来ます。1/19午後3時に好きな絵(自分の絵でもだれかの絵でもかまいません)を持って美術館ゲートの外に集まってください。ちなみに美術館は休館日なのでゲートは閉まっています。αMまで歩いたらそのまま絵を展示してもらっても、そのまま持ち帰ってもかまいません。みなさんのご参加をお待ちしています!


2、会期中随時 絵を持って来てもらう/ペインティング・トゥー・ザ・パブリック3
会期中は、ほとんどの絵を会場で展示できます。だいたいぼくが自由に構成/展示してしまいますが、それでもよければ会期中はいつでももってきて展示してください。また会期中の好きなときに持って帰ってください。2/2(2/1から変更)に展示された絵を見ながらみんなで話しましょう。


「絵画、それを愛と呼ぶことにしよう vol.8 田中功起」展の会期中、展示会場で持参していただいた絵画作品を展示することが可能です。持参して下さった方は、まず受付で「同意書」にサインをして頂きます。
同意書の内容は以下の通りです。


・公序良俗に反するとαMプロジェクトが判断した作品は展示できません。
・展示期間は本日より展覧会最終日(平成25年2月2日)までとします。
・作品は原則として一人一作品とします。
・作品の展示はαMプロジェクト側で行い、要望は一切受け付けません。
・展覧会を広く周知するため、一般来場者、メディア関係者を問わず、撮影を許可するものとします。
・活動記録等のためにαMプロジェクトで撮影した写真の版権は当プロジェクトに帰属するものとします。
・搬入出時、また展示中の作品損傷、事故等についてαMプロジェクトは一切責任を負いませんのであらかじめご了承ください。
・返却は着払いによる返送か、直接引き取りに来て頂きます。着払いの場合は簡易梱包での発送になりますのでご了承下さい。引き取り期間は一ヶ月とします。(時間帯はギャラリーの開廊時間内にお願いします)一ヶ月を過ぎても引き取りがない場合は作品を廃棄します。
・その他、本企画において武蔵野美術大学側及びαMプロジェクトより要請があった場合には速やかに対応します。

以上です。


絵画持参を検討されている方がいらっしゃいましたら、上記内容をご確認いただきご理解いただいた上でご参加いただければ幸いです。
絵画は会期中に田中さんかαMで展示場所を変える可能性があります。また、会期中に持ち替えることも可能です。
その他、ご質問等ございましたら、事前にαMまでお問いあわせください。
みなさんのご参加お待ちしています。


ギャラリーαM


http://www.musabi.ac.jp/gallery/2012-8.html
http://www.musabi.ac.jp/gallery/2012-8-p3.html


会場に入った日は、まだ展覧会が始まってから日が経っていない頃でもあり、従って焦燥が生じたのかどうかは判らないものの、企画者側がそれ以降も随時「みなさんのご参加」を呼び掛けてはいた。しかしその点(点数不足)はそれ程には気にはならなかった。またこの展覧会に対しては、展覧会としての印象の統一感を期待するべくも無いものであるから、そこもまた難点として見えるものでは無かった。寧ろそれにも拘わらず、この展覧会は或る種の統一感が感じられるものだったと言える。その統一感を可能にしているのは、共有されている「絵画」や「展示」の「概念」なのだろう。


「絵画」や「展示」の「概念」。それは2歳児が決して持ち合わせていないものだ。仮に2歳児がαMにやってきて、「同意書」にサインする事無く(保護者がする事になるのだろうし、そもそも2歳児には「同意書」の趣意そのものが無意味だ)、いきなりタッタッタッと壁に向かって歩き、そして壁に掛かっているものに似た「何か(エトヴァス)」を「展示」したとしても、そのエトヴァスに「絵画」の「展示」を見てしまうのは、専ら「大人」の「事情」によるものなのだろう。


「絵画、それを愛と呼ぶことにしよう」展には、2歳児がした様な、「おともだち」の絵の上に重ねる形で、自分が持ってきたもの(≠「絵画」)を「展示」するという事は行われていなかった。また「おともだち」の絵の端に、自分が持ってきたもの(≠「絵画」)を突っ込むという事もされていなかった。本展の参加者は、ちゃんとした「大人」であった。そして同展を見ての感想は、「大人って、ほんっとにしち面倒臭えなぁ」であった。


果たして何時になったら、2歳児は「絵画」や「展示」の「概念」、そして「概念」としての「愛」を知る事が出来るだろうか。それ以前に、それらを知る事は「良い」事だろうか。