アーティストは何から作品をつくっているのか

東京で二番目に古いとされている、1929年創業の中華そば屋から築地方向に2ブロック目の角にナチュラルローソンがある。そのナチュラルローソン脇の階段を降りた地下一階は現代美術ギャラリーだ。ラーメン屋繋がりで言えば、嘗て東京都練馬区に存在した会員制のラーメン屋を思わせもする鉄扉が、そのギャラリー入口にも設えられている。両者の違いは、ダイヤル錠と下げられた豚骨の有無と言えるだろう。凡そラーメン屋店主たるもの、カメラを向けられれば、条件反射的に腕組みポーズ(+黒服+タオル鉢巻)で収まるべきであるというのがラーメン屋界の常識とされているところがあるが、果たして現代美術ギャラリーのオーナーに決めポーズというものはあるのだろうか。因みにIT業界人の場合はこういう事らしい。


このギャラリーの "ABOUT US" にはこうある。


伝統的技法や素材をつかいながら作品の仕上がりにこだわりをもつ作家の作品を中心に国内外で発表しながら、国内ではまだ知られていない優れた海外の作家を日本に紹介しています。


素材や技法へのこだわりは本来、日本人の作品作りの原点が「ものづくり」であると考えるからです。近代以前、美術という概念のなかったころから優れた芸術家はいましたが、その作品はこだわりから生まれた結果と考えます。近代以降日本に西洋から美術の考え方は入ってきましたが、当時の日本人作家の姿勢もまた「ものづくり」がその根本だったように思われます。日本の仏像づくりもこだわりから独自の豊な表現へと変化したように、西洋絵画もまた静かな変化の中で日本独特の作品へと転換されてきました。世界の美術史の中ではほとんど評価されることのない日本の近代美術の作家たちもこの観点に立つことでしっかりとした位置づけができ評価されると考えます。


現代の日本人作家や海外の作家にも共通のものを感じさせる作家を扱うことで「ものづくり」のこだわりから生まれる新しい表現を広めたいと思っています。


http://www.megumiogita.com/pg72.html


素材と技法へのこだわり。成程その様なケースがあるかもしれないし、それに当て嵌まる事例が多数存在するという事もあるだろう。多くのラーメン屋店主が、黒服+タオル鉢巻+腕組みをする様に。しかし「日本人の作品作り」にしても「ラーメン屋店主」にしても、そうした「典型」とされたりもするケースに当て嵌まらないものも当然多数存在する。従って、その一事を以って「日本人の作品作り」論として一括りの形で使用する際には、細心の注意というものを常に心掛けなければならないだろう。加えて「素材と技法へのこだわり」は、決して日本の「専売特許」という訳でも無さそうなのだ。


ギャラリーの鉄扉を開けると、実に多くの作品が出迎えてくれた。この展覧会を含め、今週は首都圏の展覧会を幾つか見て回った。その総作品数は300点を越えているだろうが、その多くはこの展覧会が占めていると思われる。この展覧会に関する幾つかの「趣旨」があるらしい。展覧会の当事者による「趣旨」は、以下のリンク先を参照して欲しい。


http://xyz-artists.jugem.jp/


その一つに、「アーティストは何から作品をつくっているのか」というシンポジウム(2013年1月12日)に絡めたものがあった。


XYZ」展では、<彫刻・陶芸・立体作品セクション>出品作家9人に、作品制作に対するスタンスを明らかにするべくアンケートを行いました。アンケートに基づいて、素材、技法とその歴史に対する態度と、表現の源となる対象をチャート表にまとめて、作品と一緒に掲示しています。チャート表とそれぞれの作品を見比べてみてください。 素材、技法とその歴史や、伝統から近代、同時代にわたる作家たちの歴史に対する眼差しなど、さまざまな問題とそれに対する各作家の実践が見えてくるのではないでしょうか。


このシンポジウムではこの展示と基点として、作家たちの創造の源がどこにあるのか、また何によって規定されているのかを考察しつつ、この時代にアーティストと言われる人たちが何から作品をつくろうとしているのかを探ります。


http://xyz-artists.jugem.jp/?eid=7


リンク先のヘッダ画像が、鉄扉から見て左側の壁の<彫刻・陶芸・立体作品セクション>展示風景である。そしてその傍らに「アンケート」のチャート表が掲示されていた。



http://www.megumiogita.com/xyz/XYZ_Sympo_A4.pdf


自分自身、22歳の頃の作品は、ただ土を丸めて泥団子を作るというものであったから、仮にこうしたアンケートが当時の自分のところに来たとしても、特に「作品の制作技法」であるとか「その技法の成立時期/地域」であるとか「対象となるモチーフ、参照されるもの」といった質問事項に対しては答えようが無い(泥団子の「制作技法」に「モデリング」と答えたりするのは極めて無意味だろう。それはまた、この「XYZ」展以外に見た展覧会の、例えば C型クランプとポスターと靴下で構成された作品の「製作方法」を「アッサンブラージュ」とする無意味に似ている)し、人類史上初めて泥団子を作ったのは何時頃の何処の誰かという「歴史的事実」を調査する根性も能力も無い。但し「泥団子づくり」は「ものづくり」に含まれないとされるのであれば、そうされる事にやぶさかでは無いのである。

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XYZ」展の個々の作品に対する興味のポテンシャルは、作品毎に大きな振幅の間を揺れ動いたものの、それぞれの「ものづくり」とその「何から」への関心に深く感じ入った。しかし、やがてそれらの作品が直接発していないシグナル、作家が答えない/答え得ない「何から」に、徐々に心を奪われ始めた。それぞれの作家の制作環境=「これらの作品を作っているのは、どの様な場所であろうか」への興味である。


一つの仮説として、作家の制作場所の「人生ゲーム」的な意味での「上がり」が、「カイカイキキ三芳スタジオ的なるもの(以下「三芳スタジオ」)」だったとする。そしてこれもまた仮説として、全ての作家がそうした制作場所を欲しているとする。しかし、であるにも拘わらず、現在は「貧弱」な制作場所に甘んじている。自宅アパートやマンションの一室かもしれないし、出身校や勤務先の工房を間借りしての制作かもしれない。独立した制作場所を構えていても、勿論「三芳スタジオ」に比べるまでも無い。ああ、もっと充実した制作環境があれば、もっと充実した作品が作れるのに。などと、この作家の人達は考えているのであろうか。


早速、作品からそれぞれの制作環境を想像してみる。<彫刻・陶芸・立体作品セクション>の人達は、自宅アパートやマンションの一室という事は無さそうだし、大作絡みの制作ともなれば、それは<絵画・平面/壁面展示セクション>の人達にも妥当しそうだ。陶芸の人は陶芸に適した場所を確保しているだろうし、木彫の人は木彫に適した場所を確保しているだろうし、平面の人は平面に適した場所を確保しているだろう。そして尚も妄想は続く。仮にここの誰かが、いきなり「三芳スタジオ」が与えられてしまったら、一体その作品はどうなるだろうかと。勿論全く変わらない人はいるだろうが、その一方で「三芳スタジオ」に合わせた形で、作品が変化してしまう人がいるかもしれない。その最も想像可能な変化の一つは「三芳スタジオ」サイズに、作品が巨大化する事だろう。しかしそれ以上に「作品の制作技法」そのものが変わってしまう人もいるかもしれない。勿論「ここでは自分の制作は出来ない」として、「三芳スタジオ」的な「恵まれた環境」を敢えて放棄する選択肢もあるだろう。


これは「三芳スタジオ」の逆を考えてみても良いかもしれない。現在の制作場所が維持不可能になり、ダウンサイジングを余儀無くされた時、果たして現在の「作品の制作技法」は維持可能なものであろうか。確かに自分の「作品の制作技法」をこそ動かし難い軸にして、何が何でもそれを実現させる為に「努力」するというのは、「作家倫理」の一つの現れではある。しかしそうでない選択もあり得るだろう。いずれにしても、それぞれの「作品の制作技法」は、環境的な条件が満たされた時にこそ、可能になるものだとも言えるのではないだろうか。「作家たちの創造の源」や「何によって規定されているのか」には、こうした言わば「下部構造」的なものも影響している。「環境に依存しない作品」というものがある一方で、そうでない作品というものもある。それは「何処でも作れる作品」と、そうでない作品の違いでもありそうだ。「XYZ」展以外にも、「空似」展や、「Gardens」展等を回ってみて、それぞれの場所でこの妄想を繰り返してみた。やはり「環境に依存しない作品」もあれば、一見その様に見えながら、しかし実際にはそうでない作品もある。


そして300点も作品を見て思ったのは、「『美術』作品は『余っている』のではないか」という事だった。巷間「『美術』作品は『不足している』のではないか」という声は良く聞かれるし、特に「美術」の「生産」側にいる人間は、常にそう思っているところがある。だからこそ慢性的な「不足」を解消しようと、日夜「美術」作品の「生産」に勤しむのである。


「不足」が事実であれば、「生産」された作品の全ては一つ残らず「売れる」筈であるが、しかし実際にはそうはならない。この展覧会の作品が全て売れれば、それは喜ばしい事であるに違いないが、しかし一般的には「美術」作品の「在庫」は必ず発生する。ギャラリーがそうした「在庫」を抱える事もあれば、作家がそれを抱える事もある。そして現実的な数字としては、「売れた」分よりも「在庫」の方が圧倒的に多かったりする。「在庫」の作品というのは、極めて微妙な存在であるとも言える。それはやはり変わらず「美術」作品なのだろうか。それとも「美術」作品になり損ねているのだろうか。


先のギャラリーのサイトにある「美術を取り巻く状況は、リーマンショック、東日本大震災を越えて、マーケットのあり方や作品の捉えられ方も大きく変わりつつあります」とあるのは、そうした状況を示していると言えるのだろう。「在庫」にも場所が必要だ。もしかしたら多くの作家にとって、「三芳スタジオ」の最適な使い方は、そうした「在庫」の保管場所としてなのかもしれない。しかしそれでも、作品の構造上「在庫」にならざるを得ない作品と、仮に売れなくてもそうはならない作品というものもある。


そして、何でこうした妄想を抱くに至ったのかと言えば、一連の展覧会巡りの最初に見た展覧会が、その後ずっと尾を引いていたからなのである。


【続く】