読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

存在を超えて

承前


いつもの様に、思ったところだけを書く。どの作品が優れ、どの作品が劣っているというジャジメントに興味は無い。「こうすれば良いのに」的な事も書かない。それぞれの作品や展示を見て、それぞれに思うところがある。それだけの事だったりする。


あれから1年が経った。今年も青梅に行った。東京都青梅市である。普通に都心への通勤圏内である。ではあるものの、駅に山が迫り来る青梅の風景は、東京都ならぬ印象を感じさせる。吊るしの言葉を使えば「自然豊か」である。一方で地域経済がすこぶる良いとは決して言えない。幸せだったあの頃の再現、栄光回帰としての昭和レトロの街を標榜する青梅。NPO法人「ぶらり青梅宿」のサイトには「定款に記載された目的」として「賑わいを呼び戻す」とある。そして「賑わいを呼び戻す」その活動の中に「アート」も含まれていたりする。この場合の「賑わい」とは、恐らく内需喚起と外需喚起の両方が存在するのだろう。


有料の展示である。展示の一部は、「入場料徴収も不可」という展示室の使用約款があるが故に「無料」と考えて良いのかもしれないが、しかし全てを見ようと思えば、一般成人で最低 800 円の「観覧料」にはなる(パンフレットを持参していないと 900 円)。勿論当然、無料で見られるエリアに展示された作家は、有料エリアの作家と質的な優劣があるという訳では無い。


昨年のメンバーと今年のメンバーの異同は「異」の方が多い様だ。昨年の展示で印象深かった「吉川英治記念館」にまずは向かった。「吉川英治記念館」の「吉川英治記念館学芸員日誌」ブログ、2006年11月13日の記事にはこうある。


昨日、これについて、来館者の方からお叱りを受けました。


自分は吉川英治の大ファンで、母屋を見るのを楽しみにしていたのに、
あんな作品が置かれていては邪魔で、じっくり見ることが出来ない。
どうして日本家屋にそぐわない現代美術など展示しているのか。
吉川英治にまったく似合っていない。
入館料を返して欲しいくらいだ


http://yoshikawa.cocolog-nifty.com/soushido/2006/11/post_5055.html


「芸術に接する機会や関心がない人々に対し,芸術への興味と関心をもたせるために芸術家・企画者側から働きかけるさまざまな活動。音楽家が学校や病院などの音楽ホール以外の場所に出張して行う演奏活動や、美術館・博物館の館外活動など」が「アウトリーチ(そっちへ行く)」という事になる。しかし「こっち」からすれば「そっちへ行く」のつもりであったのに、「そっち」からすれば「こっちへ来い」に見えてしまうケースも多い。


アウトリーチ」そのものが、単純な「お届け」や「出張」では済まない困難がある事に加えて、この施設そのものが難しい場所という事もある。当館の駐車場には「バス」専用のエリア(即ち「バス」で運ばれる規模でここを訪れるケースもあるという事だろう)もあり、また記念館内にも吉川英治グッズを揃えた売店があったりして、現実的に言って「吉川英治の大ファン」がほぼ全ての場所ではある。加えてこの時期には菊花展があり、吉川英治記念館写真コンテストがある。青梅市立美術館や、青梅織物工業協同組合施設は、まだしもホームと言えるが、ここでは現代美術はアウェーだ。アウェーならアウェーなりの戦い方があるとも言えるが、そのアウェーでも敢えてホームと同じ戦い方をしていた作家と、アウェー戦を念頭に置いた作家が混在していた。


昨年2011年の「高柳恵里」氏は、そうした難しいアウェーな場所を逆手に取って、言わば迷彩的に存在していたが為に、こういう「事件」が起きたりもした。吉川英治記念館の学芸員氏は、昨年のブログで「今年は、どうも、アクシデントが多いようで」と書かれていたが、しかし2012年はその手の「アクシデント」が起こる事は無いと思われる。


アウェーである事を意識的に展示に取り入れていた、吉川英治記念館内企画展示室の資料に自作を紛れ込ませる「内田あぐり」氏の作品は、少なからぬ吉川英治目当ての訪問者に、コンフューズを引き起こす可能性を感じさせるものであった。元々記念館の資料には、「誰がどの様に吉川英治と関わったのか」というものも多数存在する。ならば、この「内田あぐり」氏のアプローチは、その意味で記念館的に正攻法のものであると言えるだろう。他の二作家は、どちらかと言えばホームのスタイルで戦っていたが、しかしこれはこれで立派なものである。アウェーのオーディエンスの反応がどうであろうと、政策的な調整作業を廃した「現代美術の作品ここにあり」的な真っ直ぐなスタンスは、或る意味で清々しいと言える。


アウェーの吉川英治記念館を後にして、美術にとってホームである筈の青梅市立美術館に行く。入口を入ると左手奥に入っていく通路があり、「美術館喫茶室」へと続いている。この経路上にある展示が「無料」である。「無料」で見られるものは、青梅市立美術館のサイトに一部掲載されている。


http://www.ome-tky.ed.jp/bijutsu/news_20121025.html


そこには、チケット売り場兼チェックポイントから見えるホールや階段に設置された作品と、三名の参加作家による「アーティスト交流授業のワークショップ」で制作された、小学生の作品の画像がアップされている。仮に、「アートプログラム青梅」が、単なる「青梅に出向いた現代美術の展覧会」を越えて、「芽吹かせ」や「根付かせ」をも志向するのであれば、寧ろ「ワークショップ」こそを、このイベント全体の中心としても良い様な気もする。


良く「入門書を書くのは難しい」と言われたりする。「入門書」は、その書き手が、書く対象に対してどの様にアプローチし、どの様にそれを包括的に理解し、書き手自身の仕事をどの様に構築しているのかが如実に現れてしまう。


「ワークショップ」にも似たところがある。仮に作家の仕事を「理解」しようとするのであれば、その作家による「ワークショップ」が、その「理解」の補助線になる場合が無いでは無い。「ワークショップ」は、制作に於いて自身の信じるところをベースに行われる事が多い為に、「ワークショップ」の方法論が、作家自身の仕事の方法論にそのまま重なる事も間々ある。


青梅市立今井小学校4年生、青梅市立第五小学校5年生による「自分の思いを色彩で表わそう―鑑賞と表現」担当作家の作品は、何処かで「自分の思いを色彩で表わそう」なのかもしれないし、青梅市立友田小学校5年生による「パズルで絵を描く いろいろなかたち」担当作家の作品は、何処かで「パズルで絵を描く いろいろなかたち」なのかもしれないし、青梅市立吹上小学校6年生による「風の庭」担当作家の作品は、何処かで「風の庭」なのかもしれない。そう思いつつ、塗ったり、切ったり、組み合わせたりの、一見七面倒とも思える小学生の作業プロセスを通して改めて作家の出品作を見てみると、結構腑に落ちてしまうところがあったりする訳である。こうした見方は「危険」とされるかもしれないが、しかしその場合の「危険」とは一体何であろうか。


「ワークショップ」の面白いところは、こうした「ワークショップ参加者の仕事」の先に「作家の仕事」があるのか、「作家の仕事」の先に「ワークショップ参加者の仕事」があるのかを一瞬迷う事である。単純な進化論なら当然前者だろうが、しかし事はそう単純でもない。その意味で、「ワークショップ」は面白いと同時に、作家にとっては怖いものでもあるだろう。


「ワークショップ」は、「アウトリーチ」では定番と言って良い活動だが、しかしそれは人体で言えば「胃」や「腸」の様なものなのだと思われる。人は「胃」や「腸」を「体内」と思いたがるが、しかし人体を一本の穴が貫いている「竹輪」や「ドーナツ」と考えれば、そこはまさしく「竹輪の穴」や「ドーナツの穴」の部分であり、外の世界の延長上にある。即ち「胃」や「腸」は「体外」であり、だからこそ、何もわざわざトポロジーに頼らずとも「体外」のものである「菌」が生息している訳である。


「ワークショップ」は「こっち」の「体内」にある様に見えて、「そっち」の領域としての「体外」だったりするかもしれない。「消化」の側面から言えば「吸収」の為の器官である「胃」や「腸」だが、一方で「菌」等が生成するものの「侵入」を許す器官でもある。「吸収」と「侵入」という両義性。「ワークショップ」、そして「アウトリーチ」は恐らく粘膜的だ。そして、「ワークショップ」の小学生の仕事に、一室プラスアルファ(「風の庭」は、恐らくこの美術館の最高のロケーション、絶景ポイントに存在している)を提供した、この青梅市立美術館の展示全体が粘膜的である。ここに小学生の仕事がある事で、館内全ての作品に、その「成り立ち」を含めて「見えてくる」ものがある。小学生の作品は「吸収」されず、寧ろ「侵入」的ですらある。勿論それが「勝ち負け」の問題なのでは無いのは言うまでも無い。


「ワークショップ」一般論として、「芽吹き」や「根付き」は、「芽吹かせてさしあげましょう」や「根付かせてさしあげましょう」的なアプローチでは得難いものではあるだろう。「ワークショップ」は、相手を専らの「芽吹かせられ手」や「根付かせられ手」にする事無く、「芽吹き手」や「根付き手」にする事が肝要なのだと思われる。例えば、「この展覧会には、あなた達の力が絶対に必要だ。あなた達が展覧会の主役の一人一人になるのだ」と言いつつ、実際にもそう扱ったりすれば、「ワークショップ」参加者の「やる気」というものも違っては来るだろうし、自らそれに能動的に関わろうとする者も現れたりはするだろう。だからこそ、こうした展示は欠かせない。その結果、「目覚めた」小学生に議論を吹っ掛けられたり、批判をされたりする現代美術作家というのも有りだとは思う。それこそが「ワークショップ」に於いての成功の証の一つなのかもしれないし、それこそがひょっとしたら現代美術作家の役割なのかもしれない。作品が存在する事で世界の磁場が変わったとするにしても、それだけで世界は変わらない。そこから、「世界」を変えようという人間が現れないと、現実的に世界は変わらない。「世界が変わる」とは、畢竟「人の世界」の話だろう。タイトルの「存在を超えて」は、そういう意味かと思ってみたりした。


青梅織物工業協同組合施設へ向かう。フライングをして、奥の Sakura Factory から見てしまった。均衡的接続による建物一杯の構造物。縁起物だろうか。悪い癖で、また「もしもシリーズ」が出てしまった。もしもここに、何処にも「繋がって」いないタライやバケツが一つあったとしたら、作品はどう違って来るのだろうと想像した。蛇足である。


傍らの「座敷」の展示を見て、それから外に出て、暗い階段を登って降りて、最後に BOX-KIOKU の 4作家の展示を見る。そして向かいのコイン駐車場から車をピックアップして、青梅を後にした。


【一旦了】