付託

久しく留守にしていた東京の場所に行くと、そこに居合わせた美術家が「引退」という言葉を口にした様な気がする。聞けば、年明けに行われる次回の展覧会は「区切り」的なものになるという様な意味の事も聞いた。山口百恵はマイクをステージに置いて「区切り」とし、キャンディーズは「私達、普通の女の子に戻ります」と言って「区切り」を付けた。美術家はその展覧会で、何かしらの「区切り」のパフォーマンスを行うのだろうか。その時に、その美術家を知っている人達は、「これからという時にまだ早過ぎる」とか「あの時の様子が忘れられない」などと言いつつ、美術家の「それまで」を脊椎反射的に「回顧」するのだろうか。


身も蓋もなく言えば、「美術家」は「引退」や「廃業」の対象であるには違いない。「美術家」自身は、自分を信託的な存在にも、時には神託的な存在にも捉え勝ちではあるし、また周囲の一部もそう捉えているところはある。「美術家」が自身の仕事について語ったもの等を読むと、その行為がそうした付託的なものであるかの様に書かれているとしか読めないものも多い。しかし現実的には、「美術家」に対して、(神を含めた)誰も「美術家」になってくれ、「美術家」で居続けてくれと託している訳では無い(「契約」や「投資」や「投機」が絡むケースは別)。「モチベーション」を含めた「一身上の都合」によって、何時でも「美術家」は「美術家」を辞める事が出来る権利を有しているし、周囲はそれを止められるだけの権利を有していない。


「美術家」がその制作の方法に行き詰まる事は茶飯事だ。寧ろ、制作の方法に常に行き詰まりを感じ、或いは行き詰まりそのものを制作の方法とし、そこから始まるテンポラルな制作や思考のプロセスをこそ見せていく事に「責任」を感じるのが、近代以降の「美術家」という在り方なのかもしれない。最低限「他者」の存在が必要とされる筈の「責任」であるが、しかしこの場合に言われる「責任」は、現実的には些かも付託的なものでは無い。「美術家」は、誰に託された訳でも無いのに「責任」を感じ、誰に託された訳でも無いのに悩み、誰に託された訳でも無いのに試行錯誤をし、誰に託された訳でも無いのに作品を作り、そもそも誰に託された訳でも無いのに存在している。


「美術家」が「中断」する。そのもう一つの形が「死」ではあるだろう。その「美術家」の存在をすっかり忘れていたとしても、その「美術家」の表現者としてのリセントにすっかり興味を失っていたりしても、それでも「死」による「中断」だけは、特別であるかの様に思われている。そうした特別とされる時に、人は忘れてしまっていた筈のものを思い出し、黙ってはいられない機会を得た気になりもし、「美術家」の存命時には、表現者としての「これから」に全く期待していなかったり、「終わった」とすら思っていたりしても、それでも「死」の際には「これからという時にまだ早過ぎる」などと、恰も「これから」に期待していたかの様に聞こえよがし(誰に聞かせるというのだ)に言ったりする。そして再びその存在を忘れるかもしれないし、恐らく多くは忘れてしまうだろう。「死」のニュースの時にだけ思い出した様に歌われるものの、それを挟んだそれなりに長い歌い手の生前と、永遠に長い歌い手の死後に全く口ずさまれない歌の様に。


「死」程には特別な「美術家」の「中断」とは認識されないだろう「引退」を考えている美術家に、首都圏を2日間を掛けて、クルマで約100数十キロ駆け抜けて見て来た、ほんの少しの展覧会の話をした。

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神奈川県横浜市旭区の「森」で行われている野外展だった。三つ折のパンフレットには「10名のアーティストが、作品の制作・展示をすべて森の中で行います」とある。


正直なところを言うと、こういう「自然」の場所で行われる展覧会は「苦手」だったりする。そうでなくても少なからぬ「美術家」は、誰もが納得出来る様な、作品がそこに存在する事を正当化出来るとされる「主題」をこそ語りたがるものである。そして本来は「美術」という名の都市文明とは反りの悪い「自然」の場所、或いは脆弱な制作基盤をしか持たない「美術家」が途方に暮れるしか無い「自然」の場所で行われる野外展の場合は、判で押した様に「作品を通じて豊かな自然を感じて下さい」とか「人と自然の関係に思いを至らせて下さい」といった様な内容の「主題」が並ぶのは、火を見るよりも明らかだったりする。この野外展に関係する場所には、「森のアート(Arts)は自然とのつきあい方を、私たちに思いださせてくれるはず」とも書かれていた。或る意味で、「自然」の場所の展覧会に参加している「美術家」の、「主題」の方向性の大凡の予想は事前に付いてしまう。従って、こうした野外展の場合は、時にそうした「自然」観に基づいた「主題」から大いに外れた作品、例えば「文明は自然に勝利する」とか「文明と自然の妥協点は存在し得ない」といった位に「狂った」作品をこそ見たくなってしまうという事はある。それならば、それに反発する事やそこに逆説を読む愉楽は成立する。


現地に到着したのは夕刻近かった。仰角45度に太陽が位置する丘陵は既に薄暗い。動物園の駐車場に車を止めて、そこから徒歩でアクセスした為に、野外展的には「裏側」から入った形になった。最近のマクドナルドのレジ宜しく、「裏側」には手元メニューが用意されていない為に、不案内な「森」の中を矢鱈に歩き回らされる懸念があった。当て所無く「森」をさ迷う事は、「森」の愉しみ方の一つではあるだろうが、しかしここは近代人としての自分が勝った。この日の内に見なければならない展覧会がもう一つあるのである。従って合理的な時間配分が求められた。「自然」の中で、スマホを取り出して、送られて来た PDF を表示させながら移動するというのも面倒臭いので、案内板の「受付」の位置と経路だけ頭にインプットして、そのまま「受付」まで移動する事にした。


展覧会正面入口と思しき場所に着いた時、こういう「インストール」が目に入ってきた。



「自然と人の関わり」のシニカルな表現。「森」の中に「日用品」を持ってくる事による、それぞれの持つ文脈のずらし。今日の「彫刻の限界」。確かにこれもまた「森のアート(Arts)は自然とのつきあい方を、私たちに思いださせてくれるはず」であり、その上で「文明は自然に勝利する」や「文明と自然の妥協点は存在し得ない」の表現かと思ったものの、しかしそれは単なる「不法投棄」であった。しかしこの「インストール」は、結局この野外展会場を去るまで記憶に残り続けてしまう。実際、この後に見たどの作品を見ても、この「インストール」が思い出されてしまうのである。誰に託された訳でも無いのにそこに存在してしまっている不法投棄のミニバイクと、誰に託された訳でも無いのにそこに存在してしまっている美術作品。「作品」の前ですれ違った「森」を求めにやってきていた老夫婦が、「森」を撮影しようとカメラを構えたものの、そこには彼等にとっては「ミニバイク」と遜色無い「異物」がどうしても写り込んでしまう事に困惑していた。しかし「美術」の側からすれば、「異物」とされた美術作品を通して「森」を「体験する」事をせずに、カメラを通して「異物」を排除した「森」を、画像として「収集する」老夫婦の行為が前提とするものの方をこそ、解決されねばならない問題とするのかもしれない。


後で聞いた話だが、数年前のこの野外展で、この「森」に不法投棄されている「ゴミ」を集めて、作品化しようとした「美術家」がいたらしい。不法投棄を助長するという懸念からなのだろうか、見た目に宜しくないという事からなのだろうか、所有者の自治体はその作品の実現に難色を示したという。或る意味で、その時点で初めて「こういうものは如何なものか」→「もっとアート的なものを」という一種の「付託」が生じたとも言えるだろう。いずれにしても、その作品のアイディアには、「美術家」自身がそう「表現」したかったかどうかは別にして、極めて自己言及的なものがあるとも思えたりもする。


「自然とアートが寄添う」という記述も何処かにあった。しかし「寄添う」というのも凄まじい表現だ。「自然」の側には「アート」と「寄添う」必然性など全く無く、そもそも「寄添う」意識でも何でも無く、実際には「アート」の側の一方的な「寄り掛かる」や「言寄せる」ではないかとも思える。それでも百歩譲って「自然とアートが寄添う」事を是としても、しかし「自然」の中に入ってまで、「この作品は良く出来ている」とか、「この作品はそれ程でも無い」とか、「惜しい!」とか、「退場命令!」などという事を考えたくも無いのが正直なところだ。だからと言って、全てを等価なものとして扱うという事もしたくない。「自然」の中に「アート」と称するものを「インストール」しさえすれば、それで全ての条件が満たされる訳では無い。仮に、こうした場所での「作品評価」が非とされるのであれば、評価の対象となる市場的な「作家名」は全て消去すべきだろう。その意味で、この展覧会は「自然」に「市場」を持ち込んでいるのである。


そんな事を思いつつ「森」の中を歩いている間にも、日はどんどん傾いている。そもそも日が傾いているかどうかも判らない鬱蒼とした「森」の中だから、ただただ目の前が暗くなって行くとしか言い様が無い。急速に作品が見えなくなってくる。キャプションが見えなくなってくる。貼り出された「主題」を記したプリントが見えなくなってくる。「視覚」に依存した全ての「美術」の要素はフェイドアウトして行き、それと同時に「視覚」を前提にした「美術家」の「主題」は意味を無くし、やがて何も見えなくなった「森」は、寧ろ世界中の数々の民俗譚に見られる様に、恐怖の存在と化してくる。湿った匂い、ひんやりした空気、落ち葉や枯れ枝を踏み締める音、身体全体で感じる勾配や地面の硬さ…。そしてブラックアウト寸前の目の前。そうして感覚野から「美術」がすっかり退場した時、そこで始めて「森」を感じる事が出来たという逆説でこの展覧会場を後にしたのであった。


兎にも角にも一刻も早くここを出なければならない。ここから国分寺は遠いのだ。間に合うだろうか。


【続く】