超インスタレーション

承前


泰山鳴動して不思議な人が一人という「米ハーバード大学の日本人研究者」与太話に掻き消されてしまった感がある、と言うか、元々そのニュースは、日本では殆ど話題になる事も無かった。ぐぐる先生のニュース検索でも、国内主要メディアでは、毎日のみしかヒットしない。国内主要メディアではないが、CNNの日本語版記事は、日本向けという事もあってか、省略版でトランスレートされている。Twitter で「ロスコ(カタカナ)」検索しても、美術クラスタですら言及は多くなかった。毎日の記事を引く。


英美術館:巨匠の作品にいたずら書き


 【ロンドン小倉孝保】ロンドンの近代美術館「テート・モダン」は7日、展示していた現代抽象表現美術の巨匠、マーク・ロスコ(1903〜70年)の代表作「ブラック・オン・マルーン」(58年)に来場者によるいたずら書きが見つかったと発表した。作品の右下部分に黒いインクで書き込まれたという。


 この絵画近くにいた男性によると、ペンを走らせるような音が聞こえ、その直後に男が立ち去った。AP通信などによると、警察は8日夜、英国南部ワージングで26歳の男を逮捕した。


 ロスコは、ロシア帝国下にあったラトビアに生まれたユダヤ人で、13年に家族と共に米国に移住した。いたずら書きされた作品は、ロスコの代表作である連作「シーグラム壁画」(約40点)のうち一つ。


 ロイター通信によると、いたずら書きをしたと主張する男が8日電話取材に応じ、「現代アートに残されている最も創造的なことは、芸術を捨てることだ」などと話したという。男は「Yellowism」と称する芸術運動を主宰しているとされる。警察は容疑者の名前を明らかにしておらず、同一人物かは不明。


毎日jp
http://mainichi.jp/select/news/20121009k0000e030120000c.html


毀損されたのはこの作品だ。


http://www.tate.org.uk/art/artworks/rothko-black-on-maroon-t01170


「いたずら書き」は、 "Vladimir Umanets, A Potential Piece of Yellowism.(ウラジミール・ウマネツ。イエローイズムの可能性を秘めた作品)" という文字列(「作者名」と「作品タイトル」)として解読出来る。御丁寧にも、作者名が書かれているところに香ばしさを感じる。"Yellowism" という名称から、それはどうやら「主義」に基づく行為という事らしく、ここに「イエローイズムは芸術でも反芸術でもない」から始まる「マニフェスト」がある。


http://www.thisisyellowism.com/


GIF 画像である為に、文字起こしが面倒臭い。テレグラフは、その一部と他にも彼等の主張を文字起こしして「イエローイズムとは何か」的な記事として載せている。御苦労な事である。面倒臭いので、そのままページを Goggle 翻訳に掛けてみた。


Yellowismの例としては、芸術作品のように見えることができますが、芸術作品はありません。我々は芸術作品のコンテキストがすでに芸術だと信じています。Yellowismための文脈がなくYellowism何物でもありません。Yellowismの小品はたった黄色とそれ以上何アール。Yellowismのすべての症状は同じ意味と意味を持っており、まったく同じ表現Yellowismでは、すべての可能な解釈が1に減少します - 。、等化技術として黄色の解釈Yellowismにフラット化され、ちょうど黄色以外の何かであることYellowismを奪っている。その唯一の目的の。


http://www.telegraph.co.uk/culture/art/art-news/9593690/Yellowism-Neither-art-nor-anti-art-.-.-.-it-is-about-yellow.html


毎日の記事で「この絵画近くにいた男性」とされた Tim Wright 氏のツイート。


Just saw this Rothko painting being defaced #tatemodern pic.twitter.com/5mOByJIH
今、このロスコの絵が汚されるのを目撃した。
https://twitter.com/WrightTG/status/254951911126605825


@mattlosvert this guy calmly walked up, took out a marker pen and tagged it. Surreal.
そいつは落ち着いた様子で絵に近付いて行くと、マーカーを取り出してそれをタギングした。シュールな光景だった。
https://twitter.com/WrightTG/status/254964064478973953


@riptari we gave a description to the gallery. Very bizarre, he sat there for a while then just went for it and made a quick exit.
僕らはギャラリーに状況説明(人相等)をした。とても奇妙だった。そいつはしばらく椅子に座っていたが、すっとその絵に近付いて行ってチャチャッとそれをした後に、そそくさと出ていった。
https://twitter.com/WrightTG/status/254971572534788097


ロンドンで起きた事件であるから、ロンドンのメディアに当たるのが筋というものであろう。BBC の記事は、この件に関する日本の扱いとは異なって長文なので、原文を引かずにリンクだけを貼る。そこには、ウラジミール・ウマネツ氏の言い分も複数掲載されはいる。


”Defacing Rothko painting 'not vandalism'”
http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-london-19866004


機械的日本語訳
http://time-az.com/main/detail/36803


平均的な日本の読者相手に「マーク・ロスコ」では全く通じないと判断したのだろうか。毎日新聞は「ロスコの作品にいたずら書き」ではなく「巨匠の作品にいたずら書き」という見出しを付けた。確かに日本では、そこまでが限界というのが現実ではあるだろう。「ロスコの作品にいたずら書き」では、毎日新聞読者のマジョリティは、記事の中身すら読まないと思われる。現実的に言って、日本では「巨匠」や「有名」等の語が見出しに無ければ読者は食い付いて来ない。「岡本太郎」ですら、恐らく「岡本画伯」であろう。従って日本で「米ハーバード大学の日本人研究者」という箔付きの表現をすれば、記者を含めて面白い様に入れ食い状態になる。「『著名』フリージャーナリスト」なら、編集部のチェックもフリーパスになる(としか思えない)。そういうものである。


毎日新聞が「巨匠」である一方で、 BBC のヘッドライン は "Rothko" である。毎日新聞の記事の書き出しは「現代抽象表現美術の巨匠、マーク・ロスコ」と説明が入り、一方の BBC は、いきなり "The painting, Black on Maroon, one of Rothko's Seagram murals" である。例えて言えば、NHK ニュースが「ロスコの『シーグラム絵画』の一枚である『ブラック・オン・マルーン』が…」でニュースを始める様なものだ。NHK が「ロスコ」や「シーグラム絵画」でニュースを読み始めれば余りに唐突過ぎるが、一方、 "Rothko" や "Seagram murals" でも、イギリスの多くのテレビ視聴者は、「誰それ?」とか「何それ?」とは言わないとされているのだろう。寧ろそれを言えば、一般常識(社会階層によって全く異なるだろうが)が無いと見做されるとすら思われる、そんないきなりさ加減である。しかし、そうしたイギリスと、そうした日本のどちらが「優れて」いるかという議論に与するものでは全く無い。


同時にここでは、このタギング行為の是非を問うものでも(非ではあるし、稚拙であるとも言えるが)、 "Yellowism" とやらの正否を問うものでも無い。"Yellowism" の「マニフェスト」を読んで、この vandalism が「考察するに値する」に変化するかどうかは判らないし、「考察するに値する」vandalism と「考察するに値しない」 vandalism の差が存在するかどうかも判らない。


取り敢えず、アーティストが吐く言葉に一々付き合わないというのは、自分の原則とするところでもある。従って、ここぞとばかりに「名言bot」が、「私の作品と、それを鑑賞する人の間には何も介入させない(マーク・ロスコ)」とか、「悲劇的体験こそは芸術の唯一の源(マーク・ロスコ)」とか、「絵を世に送り出すことは、危険と背中合わせで、不安を覚える行為なのだ。無能で残酷な人間や粗野な人間に見られることで、作品が回復不能になるまで傷つけられ、その災厄が世界中に広まることのなんと多いことか!(マーク・ロスコ)」とか、「もし自分が何かを信頼しなければならないとしたら、従来の思考パターンに縛られない発想を持てる、感受性豊かな鑑賞者の精神を信じよう(マーク・ロスコ)」などと「マーク・ロスコ」の「断片」を連投でツイートしても、そこから何らかの意味を、この「事件」と関連付けて言う気にもならない。


「名言」には、常にその外部としてのコンテクストが存在する。時に自律的なものとして示される「名言」は、しかしそれが登場するコンテクストによっては、その「現れ」が全く異なってくる。即ち、当然「名言」の「意味」は、それが位置しているところのコンテクストに準じている。「名言」は、 "Yellowism manifesto" からキャッチーな一節を選択し、後ろに「(ウラジミール・ウマネツ)」と付けて麗々しく切り出す様なものである。恐らく「名言」とは、光景の切り出しとしての「絵画」に似たものであろう。「名言」は「インスタレーション」的では無い。

      • -


今から3年前の2009年に行われた、川村記念美術館の「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」展には、今回被害に遭った作品は来ていなかったものの、テートのアーカイブからは、ロスコが当時テートの館長を務めていたノーマン・リードに宛てた16通の手紙や、テートでの展示検討の為にロスコが作った「テート・ギャラリーのシーグラム壁画展示のための模型(Maquette for installation of Seagram murals at Tate Gallery)」等の資料が大量に公開されていた。


そうした「アーカイブ」の公開は、映画に於ける「メイキング」の公開に似ていると言っても良いだろう。或る作品やその作家の「理解」を深めるのには良いかもしれないが、しかしその「理解」の中には、「『理解』したくも無かった『理解』」というものもある。自分にとっては「テート・ギャラリーのシーグラム壁画展示のための模型」がそれに当たった。


作家が何処かしらで展示をしようとする際に、こうした1/20位の会場のマケットを作り、そこに展示を予定している自作のミニチュア等を入れて、展示の検討をするというのは極めて普通の事である。そこまでしなくても、方眼紙やスケッチブックに、壁面の縮尺何分の一かの矩形を描いて、そこに同縮尺の自作を嵌め込んでみたり、野外展の場合は、風景写真や簡単な風景のスケッチの上に、自作を描き加えたり写真を貼り込んでみたりというのも極めて普通に行われる。特に、ロスコのこの立体モデルの様な場合は、カードボードに開けられた出入口から作家自身が覗いてみたりして、観客の目線をシミュレートしてみたりもする。小さなマルーンのカードボードにブラックの絵の具で描いた自作のミニチュアをセッティングした会場模型の出入口から中を覗き、「うーん、もう少しこれは下げた方が良いかな」とか「これとこれを入れ替えてみたらどうかな」などと言って、その内カードボードの表面がグルーだらけになっていって、「ああっ、グルーが手に付いたっ」などと叫んでいるロスコの姿を想像するだに、ロスコもまた人の子(当然)などと思ってしまう訳である。


こうした事(マケット作成による展示の検討)を一度でもやった事がある人間ならば、そこで作家や展示担当者が何を考えてそれらの「調整」をしているかは大体想像可能だろう。多くの場合、そこでは展示室そのものがキャンバス化する。キャンバスとなった展示空間内に於ける「余白(隣り合わせた作品との距離を含む)」であるとか「緊張感」であるとかを考え勝ちになってしまうのである。「ここにあれを置いて、その対面にこれを置いたら会場が締まる」とか、「観客は最初に正面を見て、それから目線を横に移すと、次にこれが現れて…」とか、そんなおままごとな事を考えながら、マケットを覗いては時間を費やす。そして、いざ現場に行ったら行ったで、マケットと現場の余りの違いに「だめだこりゃ」になったりして、現場で検討し直す(それは概ね予想される事だったりもするから、ならば最初からマケットなど作らなければ良いのだとも言える)作家がいる一方で、マケットで検討した通りを淡々とこなして作業する(他人任せ含む)作家もいたりして、全く人生は色々なのである。果たしてロスコがどちらのタイプだったのかは判らない。

      • -


絵画の「頸木」が「額縁」だとされ、彫刻の「頚木」が「台座」だとされ、それらの「頚木(パレルゴン)」を取り払った時に、「インスタレーション」という可能性が視野に入る場合もある。ロスコ・チャペルや、オランジュリーのモネの「睡蓮」の連作の様な包摂的な構造を持つ部屋を、「インスタレーション」として捉える事は可能だ。ロスコはロスコで、モネはモネで、それぞれに絵画「以上」を実現しようとした。しかし字義通りのキャンバスを出て、展示空間という新たなキャンバス(パレルゴン)内に絡められたり、字義通りの台座から下りて、展示空間という新たな台座(パレルゴン)上に絡められたりするに留まる「インスタレーション」というものもある。「インスタレーション」と言うよりは、単に「空間的に拡張された絵画」や「空間的に拡張された彫刻」という呼称が相応しいケースも多々ある。X軸とY軸で構想されていたものに、Z軸を足しただけというものも多い。「インスタレーション」を作ろうとして、マケット作成をする人は、往々にしてこういうところに落ち着き易いという印象が無いでは無い。


ここで些か雑な図式を提示する。「絵画/彫刻」という制約的なジャンルがあるとして、その外部にそうした制約を解かれた「インスタレーション」があるとするものだ。しかしそうした「インスタレーション」は、同時に「インスタレーションの外部」に包囲される事になる。「インスタレーションの外部」。即ちそれは「インスタレーションではないもの」である。そして実際、「インスタレーション」の定義とされているほぼ全てのものが、「インスタレーションではないもの」にも適用可能であったりする。「インスタレーションの外部」に存在する「インスタレーションではないもの」とは一体何か。


畢竟「インスタレーション」の定義の最初に来るのは何かと言えば、何よりも先に「それが『美術』である事」に集約される。全ての「インスタレーション」の定義の最初の部分には、「美術に於いては」という語が省略されていると考えるべきだろう。「インスタレーション」は、何よりも常に自律的と見做されている「美術」を構成するものに対する、註釈的な自己言及の形を取って存在するのであり、それが如何に「エンターテイメント」や、「アトラクション」や、「エンヴァイロメント」や、「イベント」や、「ケース(事件)」に見えるものであっても、それが「美術」への問い掛けを志向するものであれば、それは「インスタレーション」になり、翻って「インスタレーション」から「美術」への問い掛けを全て外してしまえば、それは単純に「エンターテイメント」や、「アトラクション」や、「エンヴァイロメント」や、「イベント」や、「ケース」にもなる。「インスタレーション」の臨界は、そのまま「美術」の臨界に重なるだろう。


空間的拡張としての「インスタレーション」は、その註釈的言及の一つの形である。但しそれのみが「インスタレーション」ではない。例えば作品に使用される事物(その多くはそのコンテクストを問われない。誰が例えば絵や彫刻に使用されている材料と、世界の労働搾取の関係を問うというのだろうか)のコンテクスト(例:社会的コンテクスト)を明らかにするというタイプの註釈的言及はあり得る。作者と観客の関係に関する註釈的言及をする作品は数多い。そうした数多くの「インスタレーション」が、現象的に見て空間的な広がりを持つが故に、「インスタレーション」は「空間設置芸術」とされるのだが、しかしその「インスタレーション」表現に於ける実際の広がりは、寧ろ構成する事物のコンテクスト的広がりなのであって、空間はその条件の一つでしか無い。「インスタレーション」とは「言及」の形式なのであり、決して「形態」や「構造」の形式に留まるものでは無い。


だからという訳でもなく、またその行為を顕彰したり擁護したりする訳でも何でも全く無いが、それでも今般のロスコ・タギング事件は、「インスタレーション」の一つの形と見る事も可能ではある。それは空間的には絵画の中に収まるものであるが、一方でそれは「シーグラム絵画」をコンテクスト化したものであるとも言えなくはない。何よりもそれが、ウラジミール・ウマネツ氏によって「『美術』への問い掛け」としての行為であるとされているところに、質(たち)の悪さを見る事が出来る。「『美術』への問い掛け」を外してしまえば、単に「ケース」である様な行為も、そこに「『美術』への問い掛け」がありさえすれば、「インスタレーション」になり得てしまう。畢竟「インスタレーション」は、「『美術』からの解放」の形を採った「『美術』への回収」なのであろう。「インスタレーション」が、「インスタレーション」と呼び得ないところまで行ってしまえば、それは最早「超インスタレーション」となる訳だが、しかしそれを「インスタレーション」と呼ぶ必要性は皆無なのである。


あの「山手線事件」から50年だそうだが、それを「『美術』への問い掛け」だと知っている者(多くは日本人)は、「伝説」の「『美術』への問い掛け」50周年と感慨深げであり、一方「『美術』への問い掛け」である事を知らない者は、リアルタイムには、それを「『美術』への問い掛け」として納めんとする多数のスチルカメラや、ムービーカメラの存在に、「きっとテレピか映画のSFもののロケじゃないか(今泉省彦氏)」となるのが極めて心優しき対応(最も心優しくない対応は無視である)というものであろう。そうした反応は「変なことに出逢うと、そんな風にして理解できるものに還元して、日常に戻す力というものを、吾々は持っている(今泉省彦)」故なのではあるが、だからと言って、それが「『美術』への問い掛け」であると知っている様な「美術クラスタ」が、「きっと美術のハプニングじゃないか」と、「美術」という「理解できるものに還元して、日常に戻す」という点では、何も変わりが無いと言えば言えなくも無い。「ああテレビか」と、「ああ美術か」の差は、如何程であろうか。そして「インスタレーション」の前では、「ああテレビか」とはならないが、「ああ美術か」という形では回収されるのである。


ロスコの事件に関しては、想定内とも言えるこういう反応もあった。


Can that woman that repaired the fresco repair the Rothko?
フレスコ画を修復した御婦人(注:Cecilia Gimenez)は、ロスコを修復できるかな?
https://twitter.com/krislane/status/255112860735266816


素人女性によるフレスコ画の修復。全く「『美術』への問い掛け」とは別のところで行われた「ケース」。「超インスタレーション」とはこういうものかもしれない。そして「超インスタレーション」は、どこかで別名「普通」と呼ばれるのだろう。


【一旦了】