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インスタレーション

承前


その部屋からは、芝生の中庭が見えた。幸福そうに見える車椅子を含めた数人と、白衣の二人が日を浴びている。質問は続いていた。「ところであなたは大学生だという事ですが、大学では何を学んでいるのですか」。答える。「美術です」。「すると油絵か何かを…」。「いいえ」。「彫刻とか」。「いいえ」。そこで言葉に窮した。「空間芸術」と言えば良いのか。いや違う。「環境芸術」と言えば良いのか。それも違う。「総合芸術」と言えば良いのか。それでは阿呆丸出しだ。しかし考えてもみれば、ここから先を説明する事は、この場に於いては全く無意味なものに感じられた。この一連の質問は、あなたの個人的な好奇心から発せられているものではないのか。


言ったところで理解はされないだろう事について、極めていい加減な返答をした。それが正鵠を射ている表現であるかどうかを、以後検証するつもりも無い相手に対してはそれで良いと思った。何よりこの場では面倒臭かったし、場違いだとも思われた。自分のしている事の説明としては、不正確極まりないその語について、尚も相手は聞いてきた。「何ですかそれ」。面倒臭い。例えば、こんな風な事をして、あんな風な事をする様なものですよ。「前衛芸術ですか」。ああそれで良い。「そんな感じです」。自己嫌悪。「芸術は心にとても良いです」。やれやれ「この業界」は何時でもそうだ。しかしあなた達が考える程には、芸術に薬効的な「効き目」がある訳では無い。そして帰りには、パンパンに膨れた大きな白い紙袋を三つ程貰った。1970年代半ばの或る晴れた春の日の事だった。


今ならその回答として、大学生の自分は「インスタレーションです」と答えただろうか。それでも相手は聞いてくるだろう。「何ですかそれ」。そして「インスタレーション」に関する極めて面倒臭い定義付けが始まり、そして程無くその不可能性に気付く事で脱力するだろう。


確かにこの当時(1970年代半ば)には、「インスタレーション」というカタカナ語は、美大生の間でも全く一般的では無かった。であるにも拘わらず、現在から遡行的に辿り見る限りに於いてのみ、「インスタレーション」と呼び做し得る存在が無かった訳では無く、寧ろそれらは当時の「現代美術(※)」では、極めてメイン・ストリーム的な存在ですらあった。しかし、「美術手帖」1979年4月号の特集「現代美術の部屋」で、「インストレーション」と、たにあらた(現:谷新)氏によってカタカナで紹介される迄、そしてそれから数年間は、日本ではそうしたものは「前衛芸術」や「反芸術」と包括的に名指されるか、或いは拡張的な「絵画」(或いは「脱構築」された「絵画」)や、拡張的な「彫刻」(或いは「脱構築」された「彫刻」)として定義付けられる(例:峯村敏明氏の「遠巻きの彫刻」等)か、または「空間芸術」や「環境芸術」の延長線上に存在するものとして位置付けされるか、インテグレートな「総合芸術」とされるか、ただ「作品」と呼ばれるかであった。


※ 日本に於ける「現代美術」に先行する「戦後美術」という呼称は、「戦後」に対して批判的であろうと自覚するケース以外は、気分的なものとしては1970年代当時も既に使用される事が少なくなっていた。経済白書の「もはや戦後ではない」が社会一般の流行語になったのは1956年の事である。この頃の一般的な国民的気分としては、「戦後」は「過去」に押しやられようとされる存在であった。


しかし1979年の時点では、たにあらた氏が紹介した「インストレーション」というカタカナ語が、定着する事は無かったと言えるだろう。例えば、それから5年後の1984年当時の多くの若い表現者の言葉が詰まった冊子「現代美術の最前線」を読み返してみると、見事に「インスタレーション(インストレーション)」の語が登場しない事に改めて気付かされる。それは作家のみならず、言葉の人であった筈の藤井雅実氏にしたところで同様である。現在ならば、確実に「インスタレーション」と名指される(名指されてしまう)様な作品を作っている作家が多いにも拘わらずだ。


「現代美術の最前線」
http://genbaken.com/contents/pdf/saizensen/saizensen_text.pdf


それから1年後の1985年8月号の「美術手帖」の特集では、 "installation" の日本語表記は、「インストレーション」から「インスタレーション」に「変更」されている。日本の現代美術の「正史」を担わんと自負しているであろう「美術手帖」の目論見通り、以後 "installation" は、日本の国内的には「インスタレーション」というカタカナ語にほぼ固定化される事になる。


その「インスタレーション」という語だが、その登場に際しては、自分がそれまでやってきた仕事や、周囲の作家の仕事に対して、一定の「腑に落ちた」感を私的に全く感じなかった訳では無い。しかし、その語を自身の仕事に絡めて使用する事はしなかったし、また周囲の作家も同様だった様に思われる。一般名詞と化した「インスタレーション」という呼称は、表現者自身にとっては自らの仕事を矮小化するだけの避けるべき「括り」(即ち「設置する事」自体が、自分の作品の「目的」では無い)としてしか思われておらず、一方でそうした様々な作品現象を前にして、その現象面に於ける自らの理解の為の、手掛かりとしての「括り」を必要とする様な、表現者とは別の立場にいる者によって、この語は便利に使用されてきたという印象はある。


今でも「私の作品は絵画です」や「私の作品は彫刻です」と、胸を張って言える作家は数多い。しかし「私の作品はインスタレーションです」と、臆面も無く言ってしまえる作家は、今でも限りなく少ない印象があるし、仮にいたとしても余りポジティブには解釈され難く、場合によっては表現者としての知性すら疑われたりもする事もあるだろう。海外にしたところで、アーティストによる自作に対する言及に、 "my work" はあっても "my installation" は余り無いと思われる。その意味で、受容する者からは「インスタレーション」に見えてしまう作品を作っている作家は、「インスタレーション」に関する言及から逃避しているのではなく、そもそも「インスタレーション」という「括り」に関する言及をしなければならない義務を全員が負っている訳では無いと言えるだろう。


例えばこのインタビュー内で、工藤哲巳氏の未亡人が、当時の哲巳氏の仕事「インポ分布図とその飽和部分に於ける保護ドームの発生」を指して「今で言うとインスタレーションですか」という発言をされているものの、果たして同じ質問を作家自身が受けた際に、果たして同様に「今で言うとインスタレーションですか」と答えるものだろうか。自作品を「インスタレーション」と呼んで憚らない工藤哲巳というのは、自作品を「インスタレーション」と呼んで憚らないデュシャンと同じ位に考え難いという印象はある。仮にデュシャン自身が、例えば「帽子掛け」の様な作品に対して「今で言うとインスタレーションですか」とポロリと言ってしまった後に、それに対してインタビュアーが「インスタレーションですね」と相槌を打って来たら、自作がそれに留まらない存在である事を、「されど」と言った後に一くさり位はするだろう。そしてこう言い足すかもしれない。


「私のそれは、"quelque chose(何か、etwas、something)" としか言い様の無いものです」


"Hat Rack" Original version, 1917


作家は常に、 "quelque chose(何か、etwas、something)" を「提示」しようとするところがある。そしてそれを作家ならぬ他人は "installation" と呼び、「設置(インストール=セットアップ)」であると理解したりもする。「提示」と「設置」の間には、歩み寄れそうでいて、しかし歩み寄りが不可能な深淵があるかもしれない一方で、歩み寄りが不可能に見えて、どこかに互いに通ずる道があり得るかもしれない。


"install" とは、それ自体が厄介な言葉なのである。 "install" の及ぶ範囲というものを、常にその言葉は待ち受けている。我々が普段「インストール」と言う場合、その意味はコンピュータの「ローカルマシン」へのセットアップを指すだろう。Windows機にインストール、MacOS機にインストール、iOS端末にインストール、Android端末にインストール…。そこでは如何なネットワークに接続した機器であっても、「ネットワーク社会」全体に対してインストールしているとは普通は思わない。大抵それは、「ローカルマシン」単位で閉じていると思われているのである。サーバ・マシンへのインストールの場合は、ネットーワーク全体に対する気配りはあるが、しかしそれも「ネットワーク社会」全体迄のイメージは持たれない。クライアント・マシンのユーザ自身が与り知らない内にインストールされているもので、それが「ネットワーク社会全体」に影響を及ぼしている事が一般的に可視化出来るのは、唯一例外的に「コンピュータウィルス」だけである。


或る部屋に、或るものを「複数」置いたとする。どうやら「単数」のものを極めて普通に置いたのでは「インスタレーション」の要件を満たし難いと思われているが故にこう書くのだが、閑話休題、果たしてそれらは、何に対して「インストール」されたのかという問題は常に存在する。先の顰みの「ローカル・マシン」に相当するのが「部屋」だとして、果たして「インストール」はそこに留まるものであろうか。それが部屋の出入口を出て、美術館の外まで伸び、それから町の何処かで消えたとしても、それは残り続ける問題だと思われる。


インスタレーション」の限界。それは決して「コンピュータ・ウィルス」を作り得ないところにある。常にそれは、概念的なものを無視すれば、何らかの空間的な「ローカル」に留まらざるを得ない。「それ以上」を目論もうとすれば、空間的な限界性を何処かで超える様な「工夫」が必要とされるものの、しかしそれはまた「工夫」に留まってしまうのも確かだ。だからこそ「空間設置芸術(たにあらた氏)」という「括り」をもされて、作家もまたそう思い込む事が避けられなかったりもするのである。


【続く】