持ち帰り

承前


アーティストの「コンセプト」に、遥かに先立って存在するアーティストの「気持ち」を書くとしていた。しかしアーティストとて一様ではないから、そういった「気持ち」を持たないアーティストの方が多いかもしれないという可能性は払拭出来ない。


その上で敢えて書き進めるならば、それでも例えば「世界の『美術史』に名を残したい」という「気持ち」を持つアーティストが複数存在すると言う事はやはり可能だと思われるし、実際にそうした「気持ち」を複数のアーティストから聞いた事もある。当然「気持ち」であるから、それは「コンセプト」の「以前」になる。「世界の『美術史』に名を残したい」事自体を、作品の「コンセプト」とするアーティストがいたら、それはそれで自己言及的なラディカリズムを感じると言えるかもしれないが、だから一体何なんだと改めて問われれば、そこから先の当の作品の射程圏内は極めて内輪受けで終わりそうな気もする。


閑話休題、「美術史」に於けるその時々の「その次」に「自分自身」を当て嵌めようとして、だからこそ「これまでの世界の『美術史』」を、現在(現在時《例:2012年》+現在地《例:日本》)からの視点で様々に分析し、その「傾向と対策」を探り、美術家としての自身を、「これからの『美術史』」の最前面に当て塡めて行こうとするのは、その時々の「美術家列伝」に「合格」するという意味で、極めて「正しい」スタンスだと言えるだろう。例えば「世界の『政治史』に名を残したい」が為に「政治」をしたり、「世界の『ビジネス史』に名を残したい」が為に「ビジネス」をしたり、「世界の『農業史』に名を残したい」が為に「農業」を営んだりする程度にそれは十分に「正しい」のである。


但し「世界の『政治史』に名を残したい」が為に「政治」をしたり、「世界の『ビジネス史』に名を残したい」が為に「ビジネス」をしたり、「世界の『農業史』に名を残したい」が為に「農業」を営んだりする存在というのは、それ自体結構珍しいのではないかという印象はある。それ以上に、仮にそれを思っていたとしても、それを心の奥底に密かに仕舞っておかず、堂々と「世界の(それら=政治、ビジネス、農業、etc...の)『歴史』に名を残したい」と公言しながらそれらの活動を行う存在は、より稀少だろうと想像される。加えて「世界の(それらの)『歴史』に名を残さなければ意味が無い」や「世界の(それらの)『歴史』を征する者が、その世界を征する」という構えもまた、同様に極めて例外的であると思われる。果たして、それらと同程度に「世界の『美術史』に名を残したい」が為に「美術」をしたり、「世界の『美術史』に名を残さなければ意味が無い」や「世界の『美術史』を征する者が『美術』を征する」と思っている存在が、例外的な稀少性の下にあるかどうかは判らないが、仮にその割合が他の世界に比べて多いのであれば、「歴史」と呼ばれるものを極めて重要視する「美術」という世界は、恐らくやはり極めて特殊(良い意味でも悪い意味でも)なのだろうと思われる。いずれにしても、果たして何故に「美術」が「歴史」に対して、斯様な迄に例外的であるのかという問題はいずれ別稿に委ねたい。


されど、この21世紀にあっても尚、「美術史」というものが未だに可能なものなのか、そもそも何をして「美術史」と言わしめるのか、「これまでの『美術史』」という構え自体が、既に「これまでのもの」かもしれないという数々の疑問は、しかしそうした信仰の前では十分に無視し得るだろう。普段「ラシーヌ」を連発する人でも、「最先端」というトポスが存在するとされる「美術史」という「ツリー」だけは疑わないという事もある。しかしそこまで大仰でなくても、「美術の『最新トレンド』」の「傾向と対策」を探り、「これからの『美術トレンド史』」の最前面に「自分」を当て嵌めたいという事でも良いのかもしれない。伝統的な「美術史」に取って代わるのが、「美術トレンド史(それを「史」と称して良いものかどうかは別にして)」であるならば、そういう「気持ち」をこそ最重要のものとする生き方もあるだろう。


しかしここで書きたかったのは、その「気持ち」ではない。

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They missed the point. There’s no such thing as silence. What they thought was silence, because they didn’t know how to listen, was full of accidental sounds. You could hear the wind stirring outside during the first movement. During the second, raindrops began pattering the roof, and during the third the people themselves made all kinds of interesting sounds as they talked or walked out.
John Cage speaking about the premiere of 4′33″.


彼等は、凡そ無音とされる様なものが、そこには存在していなかったというポイントを見逃している。彼等は「ものの聞き方」というものを知らないが為に、意想外の形で満ち溢れていた音を、無音であると思い込んだのだ。第一楽章の間中、外で風がそよいでいたのを、第二楽章では雨粒が屋根を叩くのを、第三楽章では喋り出したり、席を立ったりといった、聴衆自身が発するあらゆる興味深い音を聞く事が出来たのに。
— 4'33"の初演について語るジョン・ケージ。(拙訳)


例えば、或るアーティストが、ジョン・ケージ氏の 「4'33"」の様な作品を作ったとする。ジョン・ケージ氏その人と言わないのは、ジョン・ケージ氏自身がどう思っていたかは判らないからだ。従って、ここでは仮想的な或るアーティストを想定する事にする。


その「4'33"」の様な作品、即ち、凡そ世界に満ち溢れている「あるがまま」の意想外(accidental)な存在にこそ、観客の関心が向いて欲しいとアーティストが「期待」する様な作品に対し、「何も無かった」「空っぽだった」、即ち "as silence" であったという反応のみがレスポンスされ、思わず(半分は算盤ずくで) "they didn’t know how to see" と言いたくなってしまうそのアーティストが、その作品を提示する時に込めていた「気持ち」は何だっただろうか。それは「何も無い展覧会場で、何もかもを見て欲しい」(ジョン・ケージ氏のケースなら「何も聞こえない演奏会で、何もかもを聞いて欲しい」に相当する)であるには違いない。しかしそれで終わって良いとも思ってはいないだろう。展覧会場(演奏会)内に限定された「非日常」体験ではなく、恐らくそのアーティストは、観客に対して、観客がそこで得たものの、「日常」への一種の「持ち帰り」を期待しているのだと思われる。


例えば、そのアーティストの「意図」にそれなりに気付いた評論家が、その作品を見て「 "we didn't know how to see" であった事に気付かされた作品だった」という、それなりのレビューを書いたとする。それは作品の「意図」を正確に汲んだという意味で「正しい」レビューと言える。しかしそのアーティストの「気持ち」からすれば、それだけでは極めて不十分なのだ。そうしたものは、言わば「非日常」的な限定的な場所=「レジャー」施設としての「温泉」に対するレビューに等しく、「温泉の湯船に浸かっていたら、何もかも忘れる事が出来た」といった様なものでしかない。あちらこちらのそうした「レジャー」施設(アート・イベント)に足繁く出向き、あちらこちらの「レジャー」の「感想」を、「とても気持ち良かった」的に書く様な作品レビューは、「レジャー」に対するレビューとしては極めて「正しい」。しかしアーティストの「気持ち」としては、作品を「レジャー」的なものとして作っているのではない(「温泉」としての「作品」を作っているアーティストが、ゼロであると言っている訳ではない。念為)。観客に対して、何らかの形でそれを「持ち帰って」欲しい(≠「買って」欲しい)と、どこかで思っているのだ。どこぞの遠方に行き、そこに建てられた建物の何も無い部屋に入り、光の状態が刻々変化する様な「作品」に対して、「とても気持ち良かった」と「レジャー」的な感想を述べるのは、未だに中途より遥かに以前なのである。


作品を見て家に帰り、普段の生活に戻る。そこからが「見てきたもの」「感じてきたもの」の本当の始まりになる。現地で「見てきたもの」「感じてきたもの」に基いて、「日常」を生き始めて欲しいと考えるのが、多くのアーティストの(荒唐無稽かもしれないが)「気持ち」なのである。"we didn't know how to see" を「レジャー」の現地で感じたならば、「ものの見方」に於いて「一皮剥けた」状態で、「日常」の生活を日々送って欲しいと、どこかでアーティストは思うものである。「近代が終わった事を感じさせられた」のなら、そう感じさせられた観客自身が、「近代が終わった」様に生き始めて(実践し始めて)欲しいと思ったりもするものである。何もその夏の「レジャー」の「思い出」を語って、それでお仕舞いにして欲しいなどと思っている訳では無いのだ。


例えば何も無い、光だけが刻々変化する「非日常」的な部屋で「何か」を感じたとする。しかし同じ様な事を感じる事は、この「日常空間」では全く不可能なのだろうか。試しに照明を消してみる。試しにテレビを消してみる。試しにお気に入りの音楽を消してみる。試しに携帯やスマホ無線LANの電源を落としてみる。試しにお喋りを止めてみる。試しに考える事を止めてみる。試しに「日常」にも当然存在している筈の、光の変化といったものを感じ取ってみる。そしてその「試し」をこそ「日常」にして、そうした形で「日常」を日々生きて行く。「日常」に対して、「作品」に対するのと同じ位か、それ以上にセンシティブになってみる。それこそが「妙好人」というものであろう。何もそれは、狭義の「仏教」に限った話では無い。


ねるも仏
おきるも仏
さめるも仏
さめてうやまう なむあみだぶつ
むねに六字のこゑがする
おやのよびごえ
慈悲のさいそく
なむあみだぶつ


このさいちも、ごをんで、できました。
きものも、ごをんで、できました。
たべものも、ごをんで、できました。
あしにはく、はきものも、ごをんで、できました。
そのほか、せかいにあるもの、みなごをんで、できました。
ちゃわん、はしまでも、ごをんで、できました。
ひきばまでも、ごをんで、できました。
ことごとくみな、なむあみだぶつで、ござります。
ごをん、うれしや、なむあみだぶつ。


こんなさいちわ かくことわやめりゃゑゑだ 
いいや こがなたのしみわありません やめらりゃしません 
ほをたのしむかくもんであります まことにゆかいなたのしみであります 
明ごのなせることのたのしみ なもあみだぶつてあります


道理理屈を聞くじゃない 味にとられて味を聞くことなむあみだぶつ



浅原才市


鈴木大拙ジョン・ケージ

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ここで今一度、"dOCUMENTA(13)" のアーティスティック・ディレクター、キャロライン・クリストフ = バカルギエフ氏の言を引く。


わたしたちみなが想像力を共有しているという事実に基づいたデモクラシーを再構築するための想像力の跳躍を実現する必要があるのです。


http://www.art-it.asia/u/admin_ed_survey/PnLUNIHMGywaBV76g8zC


そういう事なのだ。「わたしたちみなが想像力を共有している」は全ての前提であり、そこから始まる「想像力の跳躍」とは、「作品」を前にした「想像力」によって各々が得たものの、それぞれの「日常」への「持ち帰り」によってしか実現しない。それは「日常」を「その様に生きて行く」という事であり、何も展覧会やアートイベントに「レジャー」的に出向いて、「とても気持ち良かったでした、マル」とか、「近代の終わりを感じました、マル」とか、「みんなも見た方が良いと思いました、マル」などと、小学生の書く遠足の作文の様な「感想文」を書く事で終わりといった話なのでは無い。即ち「デモクラシーの再構築」の全ては、観客自身にこそ付きつけられている課題なのである。それは「その事によって、あなた自身の生活を、今までとは全く違うものとして変える事が出来ますか?」といった覚悟を迫る「私を越えられるか?」なのであり、「私を越えている」存在としての「珍獣(=「アーティスト」。例:草間彌生)」を見に「動物園(レジャー施設)」に行くのでは無い。観客自身が「珍獣」になって帰ってくる事なのだ。展覧会レビューを書くのであれば、そこで「認識が改まった」と言うのであれば、そのレビューにはそれを見た評者自身の生活が、以後どう変わったかという事をこそ、それだけを書けば良いのである。仮に何も評者が変わっていないのであれば、その作品は評者に於いては些かも肉体化されていないという証であろう。況してや、アーティストは「音が一切聞こえないクラシック音楽が存在する」といった様な、暇潰しの為の「トリビア」を提供している訳では無い。

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最後に「4'33"」ついでに、その「生かされ方」の一例として、この「Yahoo!知恵袋」の「質問」と「回答」を上げておく。


ジョン・ケージの『4分33秒(4'33")』に取り掛かろうと思うのですが、どう練習したらよいですか?」 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1040466635


「質問者」も「回答者」も、「4'33"」を十分に知った上での「遊び」であり、同時に非常に優れた音楽論(演奏論)にもなっている。これもまた「持ち帰り」の形の一つだろう。


【了】