早期警戒システム

アメリカ・インディアナ州に住む架線工事人ロイ・ニアリーは、ある晩突如起こった大停電の調査に発電所に向かう途中、極めて稀有な体験をする。その体験以降、ニアリーは自分にとって、極めて「重要な事」に関する「その形」が頭から離れなくなってしまう。洗面所で手に取ったシェービング・フォームを「その形」にしてしまったり、枕に「その形」を見たりする日々。気が付けば、夕飯に出たマッシュポテトをスプーンとフォークで「その形」にモールディングしてしまい、趣味の鉄道模型のジオラマ(レイアウト)のセンターに、粘土で「その形」を作り出してしまうものの、しかし自らの頭を占拠している「重要な事」に関する形とは何処かが違っている。翌朝、偶然にも「その形」の正確な方向性を掴んだニアリーは、矢庭に寝間着姿で自宅の庭木を引っこ抜き始め、隣家の鳥囲いの金網を無断で破壊し、土や煉瓦やゴミバケツと共に、それらをキッチンの窓から自宅の中に投げ入れてしまう。


それで無くても、大停電の日以来、夫ロイの行動が常軌を逸していると思った妻ロニー・ニアリーは、その前の晩にロイにセラピー行きを薦めたものの、脇目も振らずに窓から土や瓦礫を投げ入れるロイから返って来たのは、「今これを止めたら、それこそ俺には医者が必要になる」という言葉だった。「とても良い気分だ。全てが上手く行く」。その一部始終を窓から「監視」し、既にロイが「一線」を超えてしまっていると判断していた隣人ハリス夫人は、白昼堂々の自己資産(金網)の破壊行動に対し、それが違法行為である旨をロイに告げるものの、しかし金網代を弁償するというロイからの申し出を、「狂気」への恐怖故に固く拒絶する。「俺は正常だ」とハリス夫人に向かって宣言するロイ。最早「一線」を超えてしまったとしか見えない「架線工事人」の夫に、妻ロニーは恐怖を感じ、そのままロイをステーション・ワゴンのボンネットで弾き飛ばして、三人の子供と共に何処かへ去ってしまう。それでも「重要な事」が最優先になってしまっているロイは、妻子を追う事も無く、投げ込んだそれらの「材料」を使用して、リビングに天井まで届く巨大な「その形」の模型を作り上げて行く。傍らで点けっ放しになっていたテレビから流れるイブニング・ニュースの画面に何気無く目をやったロイは、一転その画面に釘付けになる。


アンカーマン「こんばんは!今夜のトップニュースは鉄道事故です。ワイオミングのデビルズ・タワーで起きたこの事故により積荷の有毒ガスが広範囲に流出する最悪の事故となりました。幸い同地域は国立公園の改修で3週間前から立入禁止でした。マクダネル記者が現地から状況をお伝えします」
>マクダネル記者「現在、約5万の被災者が軍隊の誘導で避難を始めていますが、科学技術部隊の出動で、72時間以内に危険は消滅する予定です。有害濃度が50ppmまで下がれば、危険は峠を越します」


ブラウン管に映し出されたアメリカ初の「national monument(国定記念物)」である「デビルズ・タワー」こそが、ロイの求めていた「その形」だった。その同時刻、インディアナ州マンシーでは、ロイが稀有な体験をしたその日に、ロイが作業車で轢きそうになった3歳児バリー・ガイラー(「誘拐」中)の母親、ジリアン・ガイラーも、そのテレビ画面に釘付けになっていた。彼女もまた、その正体が判らないまま、色鉛筆やコンテで「その形」の絵を描く毎日であり、バリーもまた、大停電の翌日に再訪した、稀有な体験をしたインディアナ州ハーパー渓谷で、土を盛り上げて「その形」を作っていた。ロイとジリアンの二人は、それぞれ導かれる様に、それぞれの "vision" の「意味」を知る為に、「有毒ガス流出事故」で周囲200平方マイルが立入禁止区域となっているデビルズ・タワーに向かう。


立ち寄ったワイオミング州クルック郡のムーアクロフト駅で、ロイはジリアンと再開する。駅は避難民(退去民)でパニック状態になっている。俄(にわか)な露天商が、駅構内で有毒ガス対策としての「早期警報システム("early warning system")」を売っている。ガスマスクと鳥籠に入った小鳥のセットで45ドル(1970年代)也。「センサー」部分に、 "canary in a coal mine"=「炭鉱のカナリア」を応用した「システム」だ。手に手にスーツケースと鳥籠を持つ群衆が、サンタフェ鉄道の貨車に鈴生りに殺到する駅を、ロイのステーションワゴンで離れた二人は、一路デビルズ・タワーに進路を取り、フェンスを破りながら道無き道(封鎖道含む)を行く。沿道には多くの家畜が倒れている。それを見た二人は、籠に入った「早期警報システム」を取り出し、各々ガスマスクを装着する。しかし籠の中の「早期警報システム」には一向に反応が無い。やがて彼等の行く手に、「防護服」に「ガスマスク」の完全防備の兵士達が現れ、二人は敢え無く囚われの身となる。「小鳥は元気だ。ガタガタ騒ぐのはよせ」と兵士に向かって言うロイに示されたのは、何かを噴射されて昏倒した「早期警報システム」だった。


取調室。防護服に身を包んだ完全武装の兵士が見守る中、ちぐはぐにも普段通りの服装で、ガスマスクも付けずに現れたUFO調査団団長クロード・ラコーム(フランス政府の科学者)は、型通りの質問をした後に不思議な質問をする。「君はアーティストか?絵を描いているか?」。その唐突な質問の真意を一瞬図り兼ねた後に「ノー」と返答するロイ。ロイは「安全な場所」に護送する軍用ヘリへと誘われる。その中に集められた、それぞれの "vision" に導かれる様に「デビルズ・タワー」に集まってきた人達。今にも飛び立とうとする軍用ヘリを「本部」の窓越しに見ながらラコームは呟く。「互いに面識のない彼らが、共通の幻影を持っている。不安な気持ちを抱いてここへ来た人の他にも、同じ幻影を持った何百人もの人々がいるはずだ」。


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I sometimes wondered what the use of any of the arts was. The best thing I could come up with was what I call the canary in the coal mine theory of the arts. This theory says that artists are useful to society because they are so sensitive. They are super-sensitive. They keel over like canaries in poison coal mines long before more robust types realize that there is any danger whatsoever.


私はあらゆる芸術の効用が何なのかという疑問をしばしば持っていました。その中で私が思い付く事が出来る最善のものは、私が「炭鉱のカナリア芸術理論」と名付けているものです。この理論は、アーティストが刺激に対して敏感であるが故に、アーティストが社会にとって有用であるというものです。彼等は超=敏感なのです。彼等(アーティスト)は、より頑健なタイプの人々が、何らかの危険がある事を感じ取るずっと前に、有毒ガスが充満した炭鉱坑内のカナリアの様に昏倒してしまうのです。


"Physicist, Purge Thyself" in the Chicago Tribune Magazine (22 June 1969)


And when a society is in great danger, we're likely to sound the alarms. I have the canary-bird-in-the-coal-mine theory of the arts. You know, coal miners used to take birds down into the mines with them to detect gas before men got sick. The artists certainly did that in the case of Vietnam. They chirped and keeled over. But it made no difference whatsoever. Nobody important cared. But I continue to think that artists - all artists - should be treasured as alarm systems.


そして社会が大きな危険に晒されている時、私達(作家)は、アラームが鳴りそうにもなります。私は「炭鉱のカナリア芸術理論」を主張しています。御存知の通り、炭鉱労働者が坑内に降りて行く際には、彼等の身体が不調に陥る前に有毒ガスを検知する小鳥を携えて行きます。実際ベトナムの時には、アーティストはそうなりました。彼等はチュンチュンと甲高く囀った後に昏倒もしましたが、しかしそれは(社会に)何らの影響も与えませんでした。誰もそれを重要な事であると気付かなかったのです。それでも私は、依然としてアーティスト----全てのアーティスト-----が警報システムとして重用されるべきだと思うのです。


Playboy (July 1973)


映画「未知との遭遇(Close Encounters of The Third Kind=第三種接近遭遇)」の、科学者ラコーム氏もまた、このヴォネガットによるシカゴ・トリビューンの「アメリカ物理学会」での講演の文字起こしや、プレイボーイ誌のインタビュー記事をどこかで読んでいたのだろう。そうでなければ「君はアーティストか?絵を描いているか?」という質問は、この映画の流れから言って余りに唐突なものであり過ぎる。カート・ヴォネガットのこうした「提言」が、シカゴ・トリビューンや、プレイボーイといった「大衆」的なメディア(所謂「文学」専門メディアではないという意味で)で広範に流されたからこそ、1960年代後半から70年代に掛けて、ヴォネガットの「アーティスト=炭鉱のカナリア」という一種の「信憑」は、フランス人の科学者であるラコーム氏ですら頭の片隅に置く程度には、一定の影響力を持っていたと言う事が出来るだろう。しかし、シカゴ・トリビューンやプレイボーイを読まないと思われるロイ・ニアリーにとっては、その質問は、単に意味不明なものにしか思えなかったのだ。


些か穿った見方であるかもしれないし、その「証拠」をネット上で掴む事は叶わなかったが、少なくともスティーブン・スピルバーグのこの映画「未知との遭遇」は、ヴォネガットの「炭鉱のカナリア芸術理論」に、真っ向とまでは行かなくても、対称的に位置する事を意図して作られていると言えるだろう。即ち「反(脱)=炭鉱のカナリア芸術理論」としての「未知との遭遇」である。


仮にカート・ヴォネガットの提唱する「炭鉱のカナリア芸術理論」に、極めて忠実にこの映画を作るとしたら、「デビルズ・タワー」に集まってきたのは、全て「アーティスト」でなければならない。プレイボーイ・インタービューヴォネガットが言っている様な、細胞(cell)レベルまでダーウィンも驚く様な特殊な進化を遂げた「アーティスト」だけが、ここに集まらなければならないというシナリオこそが「炭鉱のカナリア芸術理論」からは導き出されなければならないだろう。


しかしスピルバーグはそういう映画にはしなかった。「特殊な細胞(specialized cells)」を持っているのは、ヴォネガットの上げた作家(Writers)や芸術家(Artists)に限らない事を彼の映画は示している。「未知との遭遇」に於ける「特殊な細胞」、言わば「カナリア細胞」の持ち主は、一介の「架線工事人」のロイ・ニアリーであり、「シングルマザー」のジリアン・ガイラーであり、その息子の3歳児でしかないバリー・ガイラーなのである。加えて、軍用ヘリ内部のシーンを見る限り、デビルズ・タワーに集まってきた他の「カナリア」の全てが、「非=芸術家」としての「一般人」にしか見えないし、敢えてそうした「一般人」ばかりを、スピルバーグは「カナリア」として集めたのだとも思える。デビルズタワーに参集してきた「超=敏感」な「カナリア」達が、ヴォネガットの理論通り、揃いも揃って全員が「アーティスト」だったというシナリオは、エンターテイメント映画のそれとしては極めて退屈なものになるだろうし、それはまた現実社会に置き換えても、余り面白い話とは言えない。そもそもそれは「現実的」な話ではなく、そればかりか「芸術家」=「カナリア」という構図は、どこかで「お伽話」的ですらある。


いずれにしても、そうした「超=敏感」な「一般人」に混じる形で「芸術家」がいたとしても、それはこの映画に於いては、単に確率的で蓋然的なものとしてしか描かないだろうし描けないだろう。それは「炭坑のカナリア芸術理論」の前提である、「カナリア」と「芸術家」との間に存する必然性とは相容れない。「未知との遭遇」の中では、「超=敏感」さに於いて「一般人」と「芸術家」は、概念的に同列である。「芸術家」スティーブン・スピルバーグが、デビルズ・タワーに集まってきたのは、全員「アーティスト」であったという映画を作ったとしたら、スピルバーグ自身も属しているところの「芸術」業界の「宣伝臭」が、ただただプンプンとするばかりになってしまっただろう。


但し、ヴォネガットの「特殊炭坑のカナリア芸術理論」を反転する形で「一般炭鉱のカナリア芸術理論」を作るとして、「社会の危機」に対して「超=敏感」に「昏倒」する「カナリア」は、全て「芸術家」であるという「理論」を導き出す事は可能だ。されば、その「一般炭鉱のカナリア芸術理論」的には、ロイも、ジリアンも、3歳児バリーも、軍用ヘリ中の爺さん婆さんも、その「カナリア」性に於いて全てが「芸術家」であるという事にはなる。「芸術家」=「炭坑のカナリア(超=敏感)」という等式が成立するなら、それらの項の前後を入れ替えたとしても成立したりはする。


ヴォネガットが自嘲気味に我が身を振り返る様に、芸術家がチュンチュンと囀った後に「昏倒」をしたとしても、それでも社会に対して何らの影響も与えられないというのは、確かに多少の事では覆らない分厚い現実であるとは言える。「芸術家」に於いてすらそうなのであるから、況や「一般人」に於いてをやである。映画「未知との遭遇」中、ロイが隣家の網を破壊するシーンで、仮に隣人ハリス夫人が、「一般人」と呼ばれる市民カテゴリに属さず、時に「狂気」を自称する「芸術家(市民)」であっても、或いは「芸術家」の「狂気」に理解を示す事を旨とする「芸術評論家(市民)」であっても、又は「芸術家」の「狂気」を研究対象とする「美学者(市民)」であっても、それでもいきなり自分の敷地内に闖入して来て、無言のまま自己の所有財産を壊しまくる、目が飛んでいる「架線工事人(「一般人」)」がこうした「カナリア」的行動を取ったならば、幾ら「俺は正常だ」と主張されようが、単純に「狂っている」と見做す事だろうし、「芸術家(市民)」にしても、「芸術評論家(市民)」にしても、「美学者(市民)」にしても、こうした場合にほぼ彼等が100%起こすであろう市民的行動は、やはり関係箇所への「通報」か、その場から足早に逃走するという選択にはなるだろう。ロイは「狂気」である事が市民社会によって多少とも認められている「芸術家」ではなく、「狂気」であってはならないとされる「架線工事人」という「一般人」だ。「市民社会」に於いて、「一般人」の「狂気」は、単なる「狂気」としてしか見做されない。「一般人」の「カナリア」を「市民社会」は求めてはいない。だからこそ「認定済」の「専門的」な「カナリア」が「警報システムとして重用されるべき(ヴォネガット)」だとされるのである。


しかし「カナリア」という鳥自身は、自らが何故に「昏倒」したのかを理解する事が出来ない「動物」だ。「昏倒」と「周囲環境の危機」との間に因果関係が存在するという事を「カナリア」は知らない。「カナリア(芸術家)」という一種の「センサー」の発するシグナルに、「周囲環境の危機」という「意味」を対応させるのは、飽くまでも「カナリア(芸術家)」が入った籠を持つ「炭鉱夫(社会)」である。縁日の金魚掬いの金魚や、カラーひよこを、家に持って帰ったは良いものの、それが翌日死んでしまっても、その事と「周囲環境の危機」と結び付ける者はまずいない。ただただ「弱っちい金魚だなぁ」「弱っちいひよこだなぁ」で済まされてしまう話だ。しかし「炭坑のカナリア」は、ただただ「弱っちいカナリアだなぁ」で済まさないからこそ、「炭坑のカナリア」という「早期警戒システム」を構築する事が可能なのである。「カナリア(芸術家)」の「昏倒」と、「周囲環境の危機」を結び付ける「炭鉱夫(社会)」の想像力があってこそ、初めて「炭坑のカナリア」という「早期警戒システム」が成立する。


であるならば、「炭鉱夫(社会)」が「カナリア(芸術家)」という「特別種」を籠に入れて携え、その籠の中の「特別種」を「警報システムとして重用されるべき」とするよりも、その「炭鉱夫(社会)」自身が「カナリア(芸術家)」になってしまえば、話は簡単、且つ合理的ではないだろうか。「カナリア」の発するシグナルを解析し、それを危機と結び付けて解釈する(しかも殆どが「事後」)という方法論は、或る意味でまだるっこしい。寧ろ「弱っちいが敏感なカナリア(芸術家)」対「頑健だが鈍感な炭鉱夫(社会)」という対立的二者択一では無い、「敏感なカナリアの能力を持った頑健な炭鉱夫」という選択があっても良い。そこでは「敏感なカナリア(芸術家)の能力を持った頑健な炭鉱夫(社会)」と「頑健な炭鉱夫(社会)の能力を持った敏感なカナリア(芸術家)」が重なり合うだろう。


映画「未知との遭遇」が示す様に、恐らく誰もが「カナリア(超=敏感)」になる資格を有している。「架線工事人」も「シングルマザー」も「3歳児」も。恐らく「芸術の社会化」の肝要部は、そこにこそ存在するのかもしれない。「重用される」存在を囲う物としての鳥籠(エンクロージャー)の中の「芸術家(カナリア)」という「特別種」がチュンチュンと囀り、それを持つ「社会(炭鉱夫)」に「警鐘(canary in a coal mine)」を告げる事だけが、「芸術の社会化」では無いだろう。寧ろ「炭鉱夫(社会)」の「カナリア(超=敏感)」化を促進させる事もまた、「芸術の社会化(カナリアの炭鉱夫化=炭鉱夫のカナリア化)」と言えるのではないか。そこで「カナリア」のセンサーに引っ掛かるのは、何も「メディア」を賑わしている、所謂「事件」ばかりではない。寧ろ「事件」では無いものにこそ、「カナリア」のセンサーは働くべきだろう。


「事件」とは、常に「事後」からのパースペクティブの中にある。起きてしまった事を、起きてしまった様にしか語らない多くの「事後」省察は、自ら「事前」にそれを察知する「カナリア」の能力を欠いていると披露してしまっている様なものなのかもしれない。


関連:「カナリア的」の解釈 -批評的言説が詩的言語に転移する可能性-

http://togetter.com/li/315466