対西洋

テレビ朝日系列に「ミュージックステーション(以下Mステ)」という歌番組がある。長寿番組請負人の趣さえあるタモリ氏が司会(二代目)を務める。1985年の秋期から開始された「ニュースステーション」に遅れる事1年、1986年の秋期から始まった「ステーション」の「分家」は、現在「ステーション本家」の二代目「報道ステーション」と共に、テレビ朝日「ステーション」一族を形成する。


Mステの出演アーティストの「パドック」の後ろのディスプレイパネルには、以下の文章が誇らしげにスクロールしている。


MUSIC STATION


Staying with music !


The most reputable and esteemed prime time live music performances in Japan. 5 to 6 top artists bring you the latest songs every week. Also enjoy the studio talks of your favorite artists and the magnificent sets specially designed for each song. Encouragement, bond, healing, pleasure, bravery, love, hope ...


since 1986


一般企業や一般商品に、四半世紀程度の歴史を誇らしげに告げる "since 1986" などと書かれていれば、或いは滋味深くも見えたりするが、ことスクラップ・アンド・ビルドが常態であるテレビ番組に関しては、Mステの四半世紀は立派な「伝統」ではある。


先週金曜日、25日のMステのゲストは、GLAY平井堅家入レオAKB48に加えて、元オアシスのノエル・ギャラガーという布陣だった。そのノエル・ギャラガーだが、番組の最後に「ノエル・ギャラガーさん。今日のミュージックステーションいかがでしたか?」というテレビ朝日竹内由恵アナ嬢の問いに対し、一言「Crazy !」と返した一件が一部で話題になっている。この発言を巡ってもまた、いつもの様に「西洋人」による「日本評」に関しての侃々諤々があり、裏も表も無く「Crazy !」を字義通りに「狂っている!」の意味であると、舌禍アーティスト・ノエル・ギャラガーの面目躍如を期待しつつ、「だから日本は駄目なんだ」という結論に持って行きたい向きから、「Crazy !」は「Fantastic !」や「Cool !」と同義の、日本に対する最高の褒め言葉、日本の文化に対する最大級の評価であるとする「Cool Japan」な向きまで様々である。


そのノエル・ギャラガーは、自身の公式サイトに、この日のMステ出演の感想を書いている。


http://www.noelgallagher.com/#inbox/noel/lord-only-knows-why-i-was-on-there


"Lord only knows why I was on there.(俺は何でこんなところにいるんだ)" と題されたエントリーには、「最高の褒め言葉」陣営の顔色を失わせもする様な事が書かれている。のっけからMステに対して "fucking insane(ファッキンでクルクルパー)" である。"It’s quite difficult to know what these Japanese shows are actually supposed to be about(今でも日本でこうした番組が支持されているという事が全く理解し難い)" 日本の "fucking" な番組を、「Fantastic !」や「Cool !」という、他賛の形を借りた自賛の解釈にまで持って行こうとすれば、かなりのむりくりな力技が必要であろう。


プレゼンター(タモリ氏)は「すかしたジジイで、ジェームス・ボンドの敵役がお似合い(some old dude who looked at best like a James Bond villain)」だし、共演者は「工場で大量生産されたAKB48という少女グループ(manufactured girl group called AKB48)」だしで、だからもう "Lord only knows why I was on there.(俺は何でこんなところにいるんだ)" なのである。


ノエル・ギャラガーは、3年前にも「日本」のインタビューに答えている。ソースは AOL らしいのだが、現在それは失われている。取り敢えず情報の信頼性の「懸念」を抱えつつ、ネットにコピペされたそれを、ここでもコピペしてみる。


日本人記者


日本でもOASISのファンがたくさんいます。
日本のファンについての印象・感想を教えて下さい。


ノエル


こんなことを聞いて来るのは、日本人だけなんだよね!
世界中で日本人だけが、日本人について相手がどういう
印象を持っているかを聞いてくる。

アメリカ人もドイツ人もベルギー人も そんなこと気にもしないし、
フランス人も、アイルランド人も、 スペイン人も全く気にしない。

なぜか日本人だけが
「私たち、日本人についてどう思いますか?」 って聞いてくる!

なんでそんな質問をするんだろう!?
どうしてそんなに自分達に自信が持てないの?
大体、僕が日本人に対して どんな印象を持っていたとしても、
そんなこと、たいしたことじゃないし、 気にする必要はないんだよ!

もしも僕が「日本人はみんな間抜けだ!」と
仮に言ったとしたらどうするの?

もちろん僕はそう思っていたとしても、
正直にそれを口にするわけないし!

「日本人? 大嫌いだ!」と思っていても、口には出さないよ!

だからそんな質問、意味ないよ!
でも、正直な印象は、日本人は とても優しくて親切だと思っている。


「とても優しくて親切」であっても、それでも「間抜け」で「大嫌い」という事もあり得る話であるし、「とても優しくて親切で、そして狂っている!」という事もあるだろう。いずれにしても、このノエル・ギャラガー言うところの、「こんなことを聞いて来るのは、日本人だけなんだよね!世界中で日本人だけが、日本人について相手がどういう印象を持っているかを聞いてくる」というのは、恐らく安政の五ヶ国条約締結、鎖国が事実上終結した「安政5年(1858年)」から、広く日本列島に住む者の間で共有され始めた、概念的存在と化した「日本人」の宿業である。そこでは常に「日本」は「対西洋」的存在として日本人自身から認識される。「西洋」の中での日本の位置付けに、以降の「日本」は常に腐心する様になる。


ノエル・ギャラガーは上げてはいないが、果たして他の東アジア人である中国人や韓国人は、「私たち、◯◯人についてどう思いますか?」と事ある毎に「西洋人」に対して聞いたりするのだろうか。しかし仮に、日本人が中国人から「私たち、中国人についてどう思いますか?」と問われたとしても、何をして「中国人」という括りとするのかは、やはり判断に迷うところもあるだろう。アメリカ人が日本人相手にそれを聞いてくる事はほぼ有り得ないと思うものの、例えば「私たち、アメリカ人についてどう思いますか?」というのは質問自体が変だ。心ある者なら「どちら方面の『アメリカ人』の事でしょうか?」程度の事は聞き返す事だろう。しかしその一方で、「私たち、日本人についてどう思いますか?」は、例外的に常に疑いが無いと見做されている質問なのである。

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日本の近代を招来した「西洋」は、直接的には「アメリカ」の「黒船」であった。しかし勿論それ以前から、オランダやポルトガルといった「西洋」の存在が知られてはいたし、安土桃山時代の「日本列島」の一部、主に「本州」地方の中央部に於ける部族間抗争で実戦使用された「鉄砲」は「ヨーロッパ大陸」の技術によるものであり、また江戸末期に公費で若者を向かわせるべきは「遣欧」であって「遣米」ではなく、幕末に火を吹いた大砲もまた「ヨーロッパ大陸」製だった。20世紀前半までの日本に於いて、「西洋文化」はそのまま「ヨーロッパ大陸文化」を意味していたと言っても良いだろう。


「日本」に於ける「美術」の形成に多大な「貢献」をしたアーネスト・フランシスコ・フェノロサその人自身は「アメリカ人」であったものの、しかし彼が日本にもたらした「西洋」の概念は、「ヨーロッパ大陸」のそれであり、一方でスペイン系アメリカ移民二世であるフェノロサが所属している当時のアメリカ自体が、文化的には「ヨーロッパ大陸」の下位概念としての地位にあり、従って未だ20世紀的な「アメリカ文化」の形成には至ってはいなかった。


或る時期までは、「日本」で「西洋(美術)」を志す者が学ぶべき「本場」は「ヨーロッパ大陸」であり、とりわけ当時「フランス」と呼ばれた国が留学先に選ばれる事が多かった。従って「フランス」経由のそれが、「西洋(美術)」の全体を「代表」すると、永年「日本人」の間で信憑される事にもなった。しかし実際の「西洋」はそれ程単純ではない。


ここに「ヨーロッパ大陸」1,000年の歴史を、3分に纏めた動画がある。



Timelapse historia de las fronteras de Europa


こうして見てみると、「ヨーロッパ文化」と一括りにする事が困難に思えたりもする。こうした「ヨーロッパ大陸」に於ける絶えざる国境線の引き直しには、1,000年超を費やしても「ヨーロッパ」が「一つ」に成り得ない様々なファクターが存在し、従って未だに「ヨーロッパ大陸」に於ける「国境線」が変化する可能性は十分にあり、現時点での国境線が「最終決定」であるとは言えない。


一方で「日本」で同じ様な動画を作ってみても、やはり似た様な感興は得られるだろう。「日本の歴史」は、現在の日本国を形成する日本国民に等しく共有されている訳では無い。例えば、嘗て「蝦夷地」と呼ばれたり、「琉球」であったところの人間と、それらと対称的な位置にあるとされた地の人間とでは、同じ「日本人」であっても、多少なりとも「日本」観というものが異なるのではないだろうか。ここに、想像の中の「西洋」と、想像の中の「日本」の問題がある。

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美術手帖」誌を久方振りに購入した。探索する事、4軒目にしてようやく扱い書店を発見する。「美術手帖」2012年6月号もまた、Mステ同様、日本のアーティストから、外国のアーティストから、本物のAKB48までが一緒の誌面で共演している。「頂上バトル! 日本近代美術史の傑作150」という文字が踊る表紙。その踊りに釣られて2,000円也を払う買い手もあれば、釣られまいとそれをピックアップする事無く書店を出る買い手もいるだろう。販売上のプラスを狙った踊りの結果は、しかし販売上のプラスとマイナスが微妙に釣り合ってしまっているのかもしれない。


特集の「頂上バトル! 日本近代美術史の傑作150」は、カード形式の「日本近代美術」の「カタログ」。この「日本近代美術」の「日本近代」を仮に「対西洋」とするならば、それは「日本近代美術」=「対西洋美術」という事になるかもしれない。


「対西洋」は、「親西洋」にも「拝西洋」にも、そして「反西洋」にも「脱西洋」にもなる。「ノエル・ギャラガーの認識こそ正しい」から、「ノエル・ギャラガーの認識は遅れている」まで。「『日本』の先に『西洋』がある」から、「『西洋』の先に『日本』がある」まで。いずれも「西洋」に対する「日本人」自らの位置付けこそが常に問題とされ、またややもすれば「日本人」アーティストが自らの仕事に対して掛けるエネルギーの多くが、その「対西洋」に於ける自分自身の位置付けに費やされる。


この「美術手帖」の150個(実際は130個)のケースは、「対西洋」的「日本」の様々な位置付けを巡るものとしても読める。仮にこれらのそれぞれのケースから、「対西洋」というファクターを取り除いて見えてくるものは何だろうか。


随分昔の話だが、ヨーロッパの某有名美術イベントに参加した日本人アーティストが、出品作品と「禅」との関係性を繰り返し聞かれたという。日本人アーティストは、常に「そうした位置」に落とし込められ勝ちであるとも言える。ここで相手が知る範囲内の「禅」の用語で、作品を見事に解説出来れば、或いはタフな「対西洋」の戦略家と言う事も出来るのだろう。


中国人アーティストや韓国人アーティストもまた、それぞれの「そうした位置」に落とし込められ勝ちなのかどうかは、それもまた判らないが、少なからぬ日本人アーティストの場合、「対西洋」としての「日本人」である事は、どこまでも付いて回ったりもする。世界の何処にいても、「日本」の「問題」を語る必然が存在すると思わされる。広義の「悪所」は、「悪所」であるところの出発地から国境を超えるのかもしれない。


だからこそ、「私たち、日本人についてどう思いますか?」などというまだるっこしい聞き方をして、ノエル・ギャラガーの様に意地悪な皮肉を言われて傷付いたりするよりも、聞かれる前から自分から率先して「私たち、日本人についてこう思って欲しいんです」と言いさえすれば良いのである。事実、そういう解決方法こそが、最も「合理的」とされるのであろう。