読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

代表選出

18歳のカシアス・クレイは、1960年のローマオリンピックで、ボクシング・ライトヘビー級金メダリストになる。センターポールに「星条旗(The Star-Spangled Banner)」を揚げ、「星条旗(The Star-Spangled Banner)」を斉唱し、名実共に「アメリカの英雄」となったと思った彼は、故郷ケンタッキーに戻ると、意気揚々と「白人限定」のレストランに入ろうとする。黒人ではあっても、アメリカを代表し、金メダルまで取った自分ならば、尊敬され歓迎される事はあっても、拒絶される事は最早無い筈だと思っての行動だ。しかしやはり「アメリカ社会(≠アメリカ国家)」は、オリンピックの金メダル一つ程度では簡単に覆される様なものでは無かった。結果的にオリンピックの金メダルが、「白人限定」の扉を有色人種に対して1ミリたりとも開かせる事は叶わなかった。その肌の色故に、敢え無く入店を拒否されたクレイは、「金メダルはレストランで食事をする価値すらないものだ」と憤り、その金メダルをオハイオ川に投げ捨ててしまう。モハメド・アリの自伝中、極めて良く知られた「伝説」であり、オリンピックに関連したアメリカの黒人差別問題への抗議行動としては、その8年後のメキシコシティ・オリンピック、男子200メートル競走の表彰台に於ける「ブラックパワー・サリュート」と共に重要なエピソードと言える。後年、1996年アトランタ・オリンピックに於いて、最終聖火ランナーとなったパーキンソン病を患うアリに、オリンピック委員会は二度目の金メダルを与えている。思ってもみれば、このカシアス・クレイモハメド・アリの時代(それは「ヴェトナム」の時代でもある)こそ、アメリカに住む人間にとって「アメリカ」が「自明」の存在で無くなり、それ故に「アメリカ」という概念の「共有」が困難になり、であるからこそ「アメリカ」の「ぼくら」に疑いが生じた時だったと言えるだろう。


国家と社会と個人。"I" と "You" と、そして "We" 。ここには連続性もあれば非連続性もある。オリンピックというのは、そうした諸項間に於ける連続性と非連続性のせめぎ合いの場所でもある。オリンピックが近付き、代表(国家代表)選手が選出される度に、そうした連続性と非連続性の問題が常に噴出するのを、「我々」は繰り返し繰り返し嫌になる程見ている。


例えば、今回のロンドンオリンピック、マラソン競技の「幻」のカンボジア代表となった「猫ひろし」問題などはその一つであろう。国際試合で好成績を残し始めた「日本人・猫ひろし」ではあるものの、オリンピックに出場するには、彼の嘗ての国籍である「日本(即ち「日本国家」)」の「代表」にならなければならない。しかし猫ひろし氏の自己ベスト「2時間30分26秒」では、層がそれなりに厚い五輪マラソン日本代表の内定基準タイムに大きく届かず、従って現実的に五輪出場は極めて困難である。その一方で、カンボジアの五輪代表内定基準タイムは「2時間31分台」という事になっていて、猫ひろし氏の自己ベストタイムは十分にそれをクリアする。自身の五輪出場を妨げる日本国籍を捨て、カンボジア国籍を取得する事で、「不可能」を「可能」なものとした猫ひろし氏は、晴れて「五輪マラソン代表」となる。しかしその「努力」も虚しく、その出場資格に疑問を持った国際陸上競技連盟が、国籍取得後1年が経過していない場合、連続した1年の居住実績、国際陸連理事会による特例承認のいずれかが必要になるという新たな規定を導入し、その結果として、猫ひろし氏はカンボジア代表の資格を失ってしまう事になる。猫ひろし氏という「個人」の問題。猫ひろし氏の国籍という「国家」の問題。そして猫ひろし氏に弾き出された形の「本来」の「カンボジア代表」となるべき「リアル」な「カンボジア人」選手の問題。それらが入り混じった末に、この問題は複雑/単純に「国際」レベルでの解決が図られてしまう。


ここまでに至らずとも、日本国内に限っても、こうした五輪代表選出に纏わる問題は、2年〜4年毎(夏季と冬季)に繰り返され、あの選手が選出されたのは納得がいかない、いや十分に納得出来る、何故実績で選ばないのか、いや上り調子の選手が選ばれるべきだ、これでは世界に勝てない、いや参加する事に意義がある、オリンピックは国家間の戦争だ、いや国家による賞取りでしかないオリンピック自体が過去の遺物である、世間知らずの日本人よ世界の現実を見ろ、いや先進国に於いては既にオリンピックに対して過剰な意味を見出してはいない等々の「議論」が、常にスポーツ評論家(「街の評論家」含む)の間で、メダルが期待出来る/メダルが期待出来ない(「期待しない」含む)と侃々諤々なのである。


その上で、代表になったらなったで、例えばバンクーバー五輪國母和宏氏の様に、「服装が乱れている」とか「態度が悪い」とまで言われたり、或いはトリノ五輪荒川静香氏の様に、メダルを取る為のポイントに殆どメリットの無い「イナバウアー」を演技に入れている事を批判されてしまったりする訳である。しかしその結果が金メダル獲得だったりした暁には手の平は簡単に返され、「世界が認めたイナバウアー」などとなってしまい、またセンターポールに「日の丸」が上がり、「君が代」が流れたりすると、ややもすると人は政治信条の壁すら崩壊して、その涙腺が緩んでしまったりするのである。他方で、実績のある選手が大コケしたりすると、その選手や関係者が、成田に降り立つのが恐ろしい程にバッシングしたり、或いは採点競技などに於いては、その採点の「不透明性」を政治問題にまで広げて論じられたりもするのが、オリンピックや国際スポーツ大会を巡っての相も変わらぬ風景なのである。


という訳で、「第 55 回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本代表作家及び日本館キュレータ―決定のお知らせ」である。


http://www.jpf.go.jp/j/about/press/dl/0738.pdf


「美術のオリンピック」と称されたりもし、また共に「省庁」が絡む事業であるから、本物のオリンピックと同じ様な侃々諤々がある。「税金」の使途問題故に、「納税者」的には「黙ってはいられない」というところも少なからずあるのかもしれない。


「第55回ヴェネチア・ビエンナーレ美術展日本館についてのtweet
http://togetter.com/li/303380


極めて単純化すれば、「『日の丸』を揚げろ」みたいな御意見もあったりする。ここで金メダル(金獅子賞)を取れば、美術界でも「ぼくら」の「日本」は「世界」のトップに立てるみたいな御意見もありそうに思えたりする。それは、金メダルを取れば、「ぼくら」の「日本」は、それを言っている「ぼく」を含めてどうにかなる的な御意見にも見えたりもする。ここでの「ぼくら」という「共有」の形は「自明」ですらある。ならばこそ、そうしたスタンスと、例えばカシアス・クレイの時代のアメリカを比べてみたくもなったりはするのだ。


そもそもそこで使われている「ぼくら」や、あるいは「日本」という言葉こそが、あの日以降、暗黙のうちにこの国において同じ認識を「共有」できなくなってしまった最たるものではないだろうか。「日本」からこのテーマを発するのならば、問うべきはまずはそこからだろう。


https://twitter.com/#!/drawinghell/status/202360052919713793


ヴェネチア・ビエンナーレでも、「日本人」作家が金獅子賞なんか取った暁には、それっぽい表彰台を儲け、それっぽい国旗を掲揚し、それっぽい国歌を流し、それに合わせて作家とキュレーターが口を揃えて「君が代」を斉唱し、それを「日本国民」向けに生中継したらどうだろう。恐らく「それ(そうした「形」で無くても良い)」をこそ望んでいる向きも多かろう。それが「オリンピック」の、そして「美術のオリンピック」の、「ぼくら」の願いであり、「日本」の願いという事になってはいないだろうか。そこでは金獅子賞は、「個人」のものではなく、「同胞(はらから)」としてそこに連なりたい「日本国民」のものなのである。確かにそれも「共有」であると言えなくも無い。


しかしまた、残念ながらヴェネチア・オリンピック、もといヴェネチア・ビエンナーレというのは、オリンピック的意味からすれば、徹底して不透明な「採点競技」なのである。即ち、事前の「論理的」な「予想」など、いとも簡単に覆される可能性が大である。そうした「不合理性」「非合理性」もまた「世界の実情」と言えるのだろう。そして悪い/良い事に、そうした「世界」の「不合理性」「非合理性」が、次代の「世界」の「合理性」を作り上げるのである。


そうした「非合理」「不合理」的「世界」にあっては、「体験」の「非=共有」こそが、「認識」の「共有」を形作る事もまた大いにあり得る。階段を昇り降りするという「非合理」「不合理」だけで、「合理」の政治デモよりも力を持ち得る場合もあるかもしれない。「そこ」に行かないで、「そこ」に行く「だけ」以上のものを想起させる事も可能かもしれない。芸術は、悪い/良い事に、それ自体が大いなる「他者」との関係でのみ決定されるところの「不合理」「非合理」な営為だ。そして「行った」と「行かない」の間に生起するとされる「体験の数値化」によるグラデーションは、「体験」の外部に存在する「他人」を、「当事者性の欠如」などとして捨象する、観念的「合理」でしかないかもしれない。斯く言われるところの「当事者性」と、その外部を分かつ対称軸は、一体何処に引かれるというのであろうか。それは気分的なものだろうか。しかし考えてもみれば、ヴェネチアくんだりまでビエンナーレを見に来る観客の殆どは、「当事者」でありたい人間の考えるそうした「当事者性」など、端から持ち得ていないのである。


それにしても、猫ひろし氏の様に、日本人が何処かの国の国籍を取得し、何処かの国の人になって、何処かの国代表のアーティストとして、ヴェネチア・ビエンナーレに参加する。そうした事は今後あり得るだろうか。仮にそれが許されないとしたら、それは一体何故だろうか。