素敵な場所

承前


飽くまでもフィクションである。


ある現代美術家がいたとする。都会を拠点にバリバリと精力的に発表を重ね、都会の美術界でそれなりに同時代的な話題になり、そして海外の展覧会も幾つかこなしたりする。やがて、現代美術家が中年から老年に差し掛かると、美術界でそれなりのポジションに落ち着く。最早、バリバリと自ら動き回ってあくせくと発表する必要も無くなる。現代美術家として、それは「成功」したと言って良いのだろう。


「田舎に仕事場を作ったんだ」


それなりに「成功」した現代美術家が、そう言ったりするのはそういう時期だ。都会から離れた風光明媚な場所に仕事場を構えるというのは、多かれ少なかれ文化人と呼ばれる者の「成功」の証の意味を持つ。


「一度遊びにおいでよ」


バリバリと仕事をしていた若い頃は、自分の仕事場に仕事の妨げにしかならない他人を招き入れる事など決してしなかった人間でも、今は仕事場とそのロケーションを他人に見せたくなる。仕事場に他人を招き入れるというのもまた、およそ文化人と呼ばれる者の「成功」の証だ。自分には他人を招き入れるだけの時間的、精神的な余裕がある。切羽詰まっていない。こうした満たされた場所では、制作で懊悩するという事も無い。そうした場所に招かれた人間は、口を揃えて言うだろう。


「素敵な場所ですね」


ホストは、地の物で作られた料理を振る舞ったりしてくれる。これは目の前の海で捕れた魚だとか、自分が釣った魚だとか何とか言いながら、これは裏の自家菜園で自分が作った野菜だとか何とか言いながら、都会ではまずこんなのは食べられないよとか何とか言いながら、体には人一倍気を使っているんだよとか何とか言いながら、最高の贅沢だよねとか何とか言いながら。ゲストは再び言うだろう。


「素敵な場所ですね」


ホストの内心がゲストにそう言わせたいのだから、それは幾らでも言っておいた方が良い。その場を凍り付かせる様な正直発言を敢えてする必要もない。そんな「素敵な場所ですね」の合間合間に、仕事場にある作品に少しだけ言及すれば良い。当然の事ながら褒めるに若くはない。批判はしないし、批評もしない。そして「何時か自分もこういう場所に仕事場が欲しいですねぇ」等と言えば、ホストも悪い気はしない。さすれば、ホストからは「君もそうした方が良いよ」といった様な助言が帰って来るだろう。


芸術院会員になったんだよ」


などとびっくりする様な事を言われても、それでも「先生、それは良かったですね」とか何とか言えば良い。若い頃の、都会のアパート暮らしの時に作った作品を超えるものを、最早当の美術家が作れなくなっていたとしても、また過去作品の自己摸倣に明け暮れ、一種のキャラクター商売になっていたりしたとしても、それでもここは「良かったですね」である。ここは人生の「上がり」の場所であり、そうした人生の「上がり」を取り巻くあれやこれや、即ち風景や空気や食べ物をこそ褒める場所なのだ。


帰り道、風光明媚な風景を見ながら、「こういう人生で終わりたい」と考えるも「こういう人生で終わりたくない」と考えるもそれは自由だ。それを考える切っ掛けになっただけでも、この「旅」には意味があるのではないか。それにここは確かに「素敵な場所」だ。「素敵な場所」に来たら「素敵な場所」をこそ堪能しよう。


しかし、あの現代美術家が、この「素敵な場所」生まれだったら、果たしてどうだっただろう。この「素敵な場所」に生まれ、この「素敵な場所」で育ち、この「素敵な場所」を一回も出る事無く、現在の年齢までこの「素敵な場所」に留まっていたとしたら、果たしてあの若い頃の作品は生まれただろうか。そして都会の美術界で、その存在を知られる様になっただろうか。

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直島に行った事がある。随分と前の話だ。フェリーにレンタカーを載せて島に渡った。直島まで行って、美術関係を全く無視するというのも不自然な話なので、「直島コンテンポラリーアートミュージアム」に行った。隣接のホテルの中も一部見た。型通りに家プロジェクトも見た。他に屋外設置の作品も幾つか見た。まだ地中美術館は無かった。


それらに対する印象は、上記の「現代美術家の田舎の仕事場」に似たものだった。多くの作品に既視感を感じた。「地の物」を使った形(コミッションワーク形式によるサイトスペシフィック・ワーク)になっているものもあるにはあるが、しかしその方法論は都会ですっかり見知っているものだ。それは「地元食材を使ったフランス料理」の様なものであり、方法論それ自体はここで生まれたものではない。


日本の近代史に於ける島の沿革がどうであれ、現在の直島は、多くの都会人にとっては「素敵な場所」だと言えるだろう。都会人にとっては、その風景や空気や食べ物を褒めたりする場所だ。その「素敵な場所」に、近代都市文明の所産である現代美術作品がある。ここは「現代美術家の田舎の仕事場」同様、現代美術作品にとっては「上がり」の場所なのだろうか。この風光明媚な「素敵な場所」こそが、現代美術作品にとって最適な場所なのだろうか。ならば、何故に近代都市を離れた「素敵な場所」こそが「美術の中心」にならないのだろう。


しかしそれもまた良い。それに「素敵な場所」に来たら「素敵な場所」をこそ堪能しよう。


「素敵な場所ですね」


心無く独言を言いつつ、その晩は直島に泊まった。


【続く】