読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ビジョン

承前




1970年代中頃の、口さがない「硬派」な当時の多摩美大生の間で、「荒井呉服店のお嬢さん(「お嬢さん」に含意あり)」と呼ばれていた松任谷由実嬢(58歳)の23枚目のアルバム「DAWN PURPLE」のジャケ写である。21年前の1991年11月のリリースであり、別の言い方をすれば「バブル崩壊期」のリリースである。それでもこの頃の彼女はまだ、飛ぶ鳥を落とす勢いの「女王」であり、毎年「恒例」となったアルバム発売は、当時の芸能界の一大ニュースになっていた。アルバム「DAWN PURPLE」は、小池聰行時代のオリコン評価に基づけば、チャートの最高順位が1位であり、翌年度の年間順位は3位だった。現在 Amazon では、「中古品の出品」価格が、「¥1より」になっている。


このジャケ写は、20余年前の1990年代初頭の日本国内で結構な話題になった。「女王」自ら「装置」を装着して水に浸かる写真。「装置」の名前は「シンクロ・エナジャイザー(Synchro-Energizer)」。今から24年前、バブル当時の1988年に、東京・六本木ロアビル付近に、武村光裕氏がプロデュースしたとされている「ブレイン・マインドジム PSY」という名前の会員制リラクゼーション・ヒーリング・サロン、言わば店名通り、サイコロジックなフィットネス・ジムとでも言うべき施設が誕生した。月会費は1万円前後。延べ会員数は3500名で、男性7割で20代〜30代が中心。「ブレイン・マインドジム」は、その後大阪(店名は東京とは異なり "L" )や、沼津( 東京と同じ"PSY" )にも出来たりしたらしい。「本店」の六本木「PSY」は、「DAWN PURPLE」発売から間も無く、開店から4年未満の1992年に閉鎖された。「シンクロ・エナジャイザー」は、そんな「時代の徒花」六本木「PSY」の看板アイテムだった。「PSY」は「エムエムインターナショナル(パチンコ業)」の経営であった気がするが、果たして店舗解体後、あの「シンクロ・エナジャイザー」は、何処へ行ったのだろうか。


「シンクロ・エナジャイザー」は、ベトナム帰還兵のPTSD治療の為に開発されたとも、1970年代にインディアナ大学が開発したとも言われ、1980年に "Denis E Geoges("Synchro-Energizer" を扱う "Synchro Tech Corporation" の唯一の株主でもある)" によってパテント取得されている。ゴーグルを掛けた目の周囲で明滅する光を、瞳を閉じたまま見るというのがその「仕組み」だ。従ってジャケ写の「女王」の様に、目を開けていてはいけない。尤も、このジャケ写は「シンクロ・エナジャイザー、何するものぞ」という、「女王」の「反シンクロ・エナジャイザー」への「意志」の「表れ」なのかもしれない。


今少し「シンクロ・エナジャイザー」について、当時の通販広告(八幡書店)から引用する事にしよう。


http://www.flickr.com/photos/nerdcoreblog/6441423755/in/photostream/


11万8000円也(送料サービス)の品の広告には、「君の頭脳をアルタード・ステーツへ強制誘導!! このめくるめく体験はもう忘れられない!!」「これは多次元宇宙への入口だ!! 衝撃の電脳トリップマシーン!!」として、「体験者によるインナー・ビジョンのスケッチ」が背景に印刷されている。「トリップマシーン!!」の箇所を、水木一郎がシャウトすれば、何となくより効果的だろう。そうした戯言はさておき、傍らには「NASA、CIA等も注目の装置」というお決まりの惹句が入り、「覚悟をきめてご使用下さい」ともある。「アメリカではティナ・ターナーヴァン・ヘイレンなどのミュージシャンも愛用。クリエイティブな仕事に携わっている人人にはなくてはならない装置」だそうだ。同時発売のカセットテープは「ホロフォニクス録音したサウンド・セラピーの決定版」の「幻視のリズム」。4千3百円也。「このマシーンで体験した超越的ビジョンをイラストに書いて(原文ママ)送って下さい」ともある。因みに広告主の「八幡書店(1982年設立)」の会社沿革は、「88年、超立体録音ソフトの国内権利を取得してAV分野に進出、『ホロフォニクス・ライブ』がベストセラーとなりました。更に89年、米国製シンクロ・エナジャイザーの取扱を開始し、ブレイン・マインド・ブームを起こしました。翌年には次世代機開発の自社プロジェクトをスタートさせ、脳内VRマシン『メガ・ブレイン』『スターゲイザー』へと結実しました」というものらしい。「ユーミン」のジャケ写のものに比べると、11万8000円の八幡書店のものは、ゴーグルの形からしてもかなり「簡易版」の様な印象がある。当然、回路の基本は、電源部+制御部(アナログ)+ワンチップマイコンだろう。その利益率は、「この手の商品」としては、まあ「そこそこ」なのではないかと思われる。


六本木「PSY」のサービスは以下の様なものだったという。会員はボディソニック・チェア(REFRESH-1)に横になり、「シンクロ・エナジャイザー」を掛け、ヘッドフォンから流れる「ヒーリング・ミュージック」だか「パルス音」だかを聞いて「脳波」を「制御・誘導」する。これが30分ばかり続き、その後で「アルファ波」を計測したりして、リラクゼーションの「学習・訓練」をしつつ、「ハーブティー」なんか飲んだりするという、何と言うか、20数年前にして、現在見られる一般的な「癒し」アイテムが、既に「出揃った」感じがする。後は「ヘミシンク」とか「ホロフォニック」とかが導入されていれば、より完璧だっただろう。いずれにしても「PSY」が閉店してから僅か3年後に、頭に電極が装備されたヘッドギアを装着した「サティアン(Satyam)」の人達を、多くの日本人はテレビ越しに目撃する事になる。「PSY」時代の「シンクロ・エナジャイザー」は、「ユーミン」のジャケ写に採用される程度にはオシャレに見えない事も無かったが、「Satyam」時代の「ヘッドギア」は、余りオシャレには見えなかった。「脳」の「制御・誘導」の「学習・訓練」という点と、20代〜30代が中心であるという点では、全く一緒の筈なのだが。因みに20数年の技術の進歩は、「シンクロ・エナジャイザー」を、android アプリにする位までに至っていたりはする。

      • -


生産者と消費者の中間に存在する問屋や小売業者などの流通経路を省くという意味での「中抜き」は、中内㓛(1922〜2005)氏の「主婦の店 ダイエー」が代表的存在だ。それが「標準価格」から「希望小売価格」を経て「オープンプライス」にまで至る、近年の消費者主体型流通システムの礎となっている。


そうした「中抜き」は、今日あらゆる産業に浸透していると言えるだろう。例えば「出版」を考えてみる。「書き手(生産者)」と「読み手(消費者)」の間には、嘗ては膨大な職種や技術が存在した。しかし現在、そうした「生産者」と「消費者」間の、多くの「中間」は「抜かれて」いる。組版や写植が「抜かれた」。版下が「抜かれた」。DTP から CTP が当たり前になると、写真製版の全てが「抜かれる」。電子出版が当たり前になれば、製紙やインクや物流が「抜かれる」。現在の「書き手」は、事実上「植字」の作業も行う。現在の「写真家」は、事実上「印刷データ」の作成も行う。近い将来「出版社」や「取次」も「抜かれる」のは必定だろう。やがてそれらは、「書き手」や「写真家」が全てをやってしまうかもしれないからだ。斯くて「非効率」は省かれる。


「書き手」が「紙」に書いたものを「本」にし、「読み手」がその「本」を読んで「内容」を知るという理解がある。それが「紙」であろうと「電子」であろうと、その「中間」に「本」が存在する事では同じだと言える。ここで「本を読む」という行為を、専ら「書き手」が伝えたい「内容」を、「本」を読む事によって「知る」事であると仮定してみる。即ち「本」は、「書き手」が「表現(意欲としての)」したい「内容」を「載せるもの」であるという事になる。であるならば「本」という「中間」を省き、「ダイレクト」に「内容」を伝えられれば、「載せるもの」である「本」は必要が無くなるかもしれない。「表現(意欲)」を「表現(方法)」に変換する必要は無い。それが「情報」の「伝達」的には「効率的」というものであり、且つ「内容」の「理解」に「誤解」を含めた「猥雑」性が混じる「危険性」を避ける事が出来るというものだろう。それがどういう仕組みで可能なのかは判らないが、例えばそこに「ヘッドギア」というアイテムや、「薬物」というポーションといった、「ダイレクト」な方法論が浮上するかもしれない。


同様に「美術」の場合、「作り手」が「作ったもの(作品)」が、専ら「作り手」が伝えたい「内容」を「載せるもの」であるとし、その「内容」の「伝達」をこそ最重要であるとするならば、「作品」という存在の必要性は恣意的なものになる。それ以前に、「作り手」が「現実」から「何か(或いは「ビジョン」)」を「受け取り」、それを「作品」の形にわざわざ「物体」化し、その「物体」を見て、「受け手」が「何か(「ビジョン」)」をその「物体」から読み取るというのは、如何にも「非効率的」であろう。「現実」の「何か」を、その「現実」によって「ダイレクト」に見せられれば、その「中間」の全て、即ち「作品」から「アーティスト」に至るまでの全ての「中間」が不必要になるとも考えられる。「メスカリン」な「絵画」を、薄暗い照明の「美術館」の壁の前で見る位だったら、「メスカリン」そのものの方が余程良い。「メスカリン絵画」(要するに「八幡書店」のチラシにある「超越的ビジョンをイラスト」にした様なもの)ではなく、「メスカリン」。「効率」の立場からすれば、「何か(「ビジョン」)」と、「絵具」等という「物質」では、「クォリティ」的にも余りにも差があり過ぎる。時に「作家のコメント」というのは、そうした「何か(「ビジョン」)」が中々「伝えられない」「伝わらない」事に焦れているのかどうなのかは判らないが、そうした「効率」をこそ欲している感のあるものもあり、ならば眼の前の「作品」は必要無いではないかと、そうした「態度」に対して思われる事もある。こうした人の中からは、電極や、明滅光や、薬効を、「作品」と称して「発表」する粗忽者が現れるかもしれない。


現実は言語では語り得ない。確かにそれはそうだろう。そういう事を多くの人が言っている気もする。より洗練された「何か(「ビジョン」)」to「何か(「ビジョン」)」ダイレクトな「ショートカット中抜き技術」が開発され、頭に貼り付けられ、或いは埋め込まれた電極や、明滅光や、何らかの薬効が、確実に「内容(「ビジョン」)」を見せてくれるというのであれば、そちらの方が余程に「ピュア」ではあるだろう。巨大なものでしか見られないものが、巨大なものを必要とせずに見られるかもしれない。何処かに行かなければ見られないものが、「お茶の間」でも見られるかもしれない。「アーティスト」が作らなければ見られないそれが、「アーティスト」がいなくても見られるかもしれない。それこそが「テレ(遠隔)−ビジョン(何か)」である。何せ、そこでは「時間」や「空間」を測る「言語」が介在しない。そして「言語」活動を活発にさせる「視覚」を遮断すれば、尚の事、良いのかも知れない。だからこそ、あの「シンクロ・エナジャイザー」は「現実を見ない」事で「ビジョン」が得られる仕組みになっている。そういう意味で、その「原理」は至極単純なものだ。目を開けていれば、「その確かな証拠はバックミラーを見たまえ。隣村がどんどん遠くなっていくではないか」になるが、一旦目を閉じれば、「後ろへ走っているような気持ちになるでしょう。こう言う法則は小学校でちゃんと教えているではありませんか(つげ義春ねじ式」)」になる。その方が、この場合「現実」的なのだ。


以上は、飽くまでも、「『作品』は『何か(『ビジョン』)』を『伝える』ものである」という構図に則る限りのものである。しかし「『作品』は『何か(『ビジョン』)』を、時と場合によって『伝える』可能性を持つものである」という構図に切り替えれば、電極や、明滅光や、薬効の出番は些かも無い。何故に「作品」は、物理的な存在形態であり続けるのか。何故に電極や明滅光や薬効に、直ちに代置されないのか。その理由は、恐らく「作品」が、「作り手(作者)」の見た「何か(「ビジョン」)」を伝えるものではないからだろう。一旦「物質」化された「作品」は、「作者」の見た「何か(「ビジョン」)とは関係無く(或る部分で関係し)そこに存在する。或る意味で「誤解」される為にこそ「作品」はある。「誤解」の余地があればある程、その命脈は保たれる。「物質」であるが故の、「誤解」の可能性を多く持つ事こそが、作品の命である。


ならば「『作家』の『コンセプト』」もまた「誤解」であり、仮に「作品」を長らえさせたいのであれば、その「誤解」こそが、その作品の命脈の肝要部である。当然そうでなくても「誤解」でしかない「批評」や「評論」は、尚の事「誤解」の一つに留まり続ける。尚も、その「批評」や「評論」が、「『作家』の『コンセプト』」から専ら導き出されたものならば、既にそこでは「誤解」は累乗化されていると言える。即ちそれは「誤解」の二乗、三乗としての「誤解」である。しかしそれら「誤解」が、累乗されていようがいまいが、それらは本質的に「同じ」ものだ。


バックミラーに写る「隣村がどんどん遠くなっていく」方が「現実」なのだろうか。それは恐らく「言語」側に属する。それとも目を閉じる「後ろへ走っているような気持ち」の方が「現実」なのか。それは恐らく「非言語」側に属するとされる。しかしそれもまた「言語」の働きによるものだろう。そして「作品」とは、飽くまで「バックミラー」側に存在するものだ。だからこそ「バックミラー見落とし」という素晴らしき「エラー」が、そこにこそ存在するのである。一方の「ビジョン」の世界では、そうした「エラー」は許されず、場合によっては「ポア」の対象となったりするのだ。


【続く】