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雑記

【枕】


一ヶ月以上忙殺されていた。今でも忙しい事は忙しい。


この一ヶ月間、「美術」では様々な事があった様だ。殊更に情報を遮断していた訳では無いから、ネットにランダムアクセスすれば、入ってくる情報は入ってくる。


多くの「美術」のネット上の情報の「旬」は、その対象がロングランでない限り、その日限りか、長くて2〜3日といったところだが、その中では、中東カタール国ドーハの "Al-Riwaq Exhibition Centre" で、2月9日から6月24日まで開催されている、村上隆氏の "EGO" 展のオープンに関しては、比較的長くネット上に留まっていたから、ランダムアクセスでもその報に接する事が出来た。英語の "murakami takashi ego" でサーチしても、そのヒット数は少なくはない。しかしそれはまた、ネット(特に Twitter )に接続していないと知り得ない、又は知る機会が極端に少なかった情報であった事も同時に意味してはいるだろう。企業アンケート等で、「この商品の存在を何で知りましたか?」という設問を多く見掛けるが、それに倣って言えば、「"EGO" 展の存在を何で知りましたか?」という設問には、「Twitterで」という回答が大多数だと思われる。


日本で話題になっている作品(通称「五百羅漢」)を実見していない、また恐らく近々に実見する事も無いだろう身としては、ネットに上がっている「断片的」な画像や映像からしかそれを判断する事が出来ないという「限界」はある。毎年暮れに清水寺境内で発表会が大々的に行われる「今年の漢字」という、先般その存在自体が問題視された「財団法人 日本漢字能力検定協会」による企画がある。昨年「2011年」の世相を表す漢字は「絆」という事だったらしい。「2011年」は「絆」。そしてドーハのこの作品も、恐らく漢字一字で表せば「絆」の様な気がする。また、この展覧会を漢字二字で表せば、それとは別に「達成」という語が浮かんで来たりする。


それ以上の事は材料不足で言えないが、兎に角それは「やった」という事なのであろう。奈良美智氏は「純美大生としての村上さんの精魂込めた卒業制作」という感想を述べている。それはまた、この作品の制作に動員された美大生のそれでもあるだろう。保育園から始まり、幼稚園、小学校、中学校…、そしてやがて美術大学に至るまで行われる「卒業制作」。但し最後の美術大学での「卒業制作」のみ「個人」による「制作」になる。それが「『個人』の確立」(村上氏は安直なそれを問題視している様だ)という「巣立ち」の形だとして、しかしこの「五百羅漢」は、再びそれ以前の「集団」による「卒業制作」の形を取っていると言えるかもしれない。但しそれは「保育園並」という事を意味しない事だけは念を押しておきたい。その一方「保育園」の方は方で、「現代美術」に比されても、また迷惑千万な話だろう。


「やった」作品を目の当たりにした日本人の「評者」によるネット上での「感想」は、「やった」に対する「気圧され」が共通している様に思える。「気圧され」は「崇高」に対する反応に顕著だ。頭上から「気圧し」が圧力を掛けて来る、ミケランジェロの「システィーナ礼拝堂」の天井画は、「気圧され」を構造が倍加している。フィレンツェのヴェッキオ宮殿・大会議室(五百人大広間)に描かれていた(ヴァザーリの背後、二重壁の後ろに隠されているという事になっている)レオナルドの「アンギアーリの戦い」(+ミケランジェロの「カスチーナの戦い」)もまた、それを目の当たりに出来るのであれば、その「気圧し」に「圧倒」されるだろう。言葉を失わせる「気圧し」の「崇高」を前にして、「言葉の人」は「凄かった」のバリアントを言うしかなくなるかの印象がある。或いは、そうした「凄かった」をも、「言葉の人」の「言葉」として扱って良いものだろうか。翻って、「言葉の人」がそうした「言葉の向こう(無効)」に陥るのは、果たして「崇高」であるものに対してのみなのであろうか。また、「言葉」に出来ない、或いは「言葉少な」になる作品を「最上のもの」であるとするならば、日頃彼等が饒舌に言葉を紡いでいる作品は、そのまま「最上のものでは無い」という事を示していると解して良いのだろうか。であるならば、そうした「言葉の人」に、言葉多く語られた暁には、語られてしまった作家は、「ああ、自分の作品は駄目なんだ」と落胆するべきだろうか。


崇高(すうこう)とは美的範疇であり、巨大なもの、勇壮なものに対したとき対象に対して抱く感情また心的イメージをいう美学上の概念である。計算、測定、模倣の不可能な、何にも比較できない偉大さを指し、自然やその広大さについていわれることが多い。


Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E9%AB%98


「崇高」の必要条件としての「巨大」。その「巨大」を「達成」した、「才能」の「巨大」。「巨大」の「匠」が「巨匠」という事だろうか。いずれにしても、「システィーナ礼拝堂天井画」や「アンギアーリの戦い(+「カスチーナの戦い」)、或いはまた例の大壁画「明日の神話」にしたところで、それは「注文主」の下に「納められる」為のものであったが、今回のこれは、 "Al-Riwaq Exhibition Centre" が、このままの形でこの場に収蔵しない限り、6月末までの時限の姿であるだろう。しかしそうした時限性もまた「奉納」の一つの形ではある。果たして「やった」は伝説化するだろうか。


その村上氏であるが、アメリカのライフスタイル雑誌 "Complex(コンプレックス)" が「独自調査」による「存命する芸術家の長者番付TOP15(The 15 Richest Living Artists)」を発表したというニュースにも登場していた。飽くまで「アメリカのライフスタイル雑誌」の「独自調査」に於いては、「世界第6位」に相当するそうだ。これがコンプリート・リストである。


1. Damien Hirst – 1 Billion USD
2. Jeff Koons – 500 Million USD
3. Jasper Johns – 300 Million USD
4. David Choe – 200 Million USD
5. Andre Vicari – 142 Million USD
6. Takashi Murakami – 100 Million USD
7. Anish Kapoor – 85 Million USD
8. Antony Gormley – 50 Million USD
9. Gerhard Richter – 40 Million USD
10. David Hockney – 40 Million USD
11. Cindy Sherman – 35 Million USD
12. Richard Prince – 30 Million USD
13. Andreas Gursky – 30 Million USD
14. Chuck Close – 25 Million USD
15. Georg Baselitz – 25 Million USD


しかし「アメリカのライフスタイル誌」であるから、「それなり」の調査と見るのが正しいだろう。"Rich" や "Takashi Murakami" が何を意味するのか一つを取っても、この見え方が全く違って来る。そもそも、元記事を読めば、これが単なる「売上高」や「所得」のランキングではない事が判る。このランキングは、所有する「土地」「財産」「芸術(作品)」「株式」等を含めた「資産」から「推測」された「長者番付」である。従ってここに示されているのは、「当て推量(guestimate)」に基づく極めて「雑」な数字であり、また仮に、その年に全く作品が売れていなくても、財テクに明け暮れていても、十分に成立する結果であると言える。また、この "Takashi Murakami" が、「法人」を表すのか「個人」を表すのかによっても、事情は異なるだろう。そして加えて、この調査は「アメリカのライフスタイル誌」の、その調査能力の限界を超えるものではない。例えば「日本画家」の中には、この中にランクインしてしまう者がいるかもしれない。或いは世界は極めて広いから、凡そこうした「世界的美術」とは全く関係の無いところで、「ダミアン・ハースト」等よりも、遙かに「リッチ」な、存命「地元」アーティストがいるかもしれないのだ。それを「アーティスト」とは呼ばないと言うのであるなら、話はまた別なのだが。


「美術」寄りの国内メディアによる二次情報では、トップの "Damien Hirst" に続いて "Takashi Murakami" を書き、そこに「歴史的存在」としての "Jasper Johns" や "Cindy Sherman" 等を絡めたりして、その「系譜」にある事を印象付けようとする。しかし同時に、そこでは "David Choe" もまた、村上氏の2倍の「リッチ」さであり、5位の "Andre Vicari" に至っては、Google検索にも掛からない。恐らくそれは "Andrew Vicari" の間違いなのであろうが、しかし名前が間違っていようがいまいが、ここではどうでも良いとされる様な存在なのかもしれない。それが「世界第5位」の「リッチ」なアーティストなのである。仮に "Andre Vicari" が "Andrew Vicari" であったとして、自らのサイトに "'king of painters , painter of kings'" と載せる "Andre(w) Vicari"が、 "Takashi Murakami" の1.4倍の「リッチ」さである事にも留意するべきだろう。勿論 "Takashi Murakami" が、 "Damien Hirst" や 2位の "Jeff Koons" の「系譜」に繋がっていると見るのが「自然」であり「妥当」ではある。しかし一方で、"David Choe" や "Andrew Vicari" の持つポジションの意味に、全く関係していないという事も言えなさそうではあるのだ。


こうした「想定外」が起きるのもまた「世界」という事であろう。例えばこういうニュースがあった。


TOP 3 Artprice 2011

Having emerged as the world's strongest art marketplace last year, it comes as no surprise to find China's two leading artists now holding the top two places in Artprice's global ranking of artists by auction revenue.
So we say farewell to Pablo PICASSO who since 1989 had occupied first place on the podium 17 times, of which 13 in the last 14 years. Indeed the dethroning of the Spanish artist has been particularly spectacular since not only has he been overtaken by QI Baishi and ZHANG Daqian , he is also now behind Andy WARHOL . This is the first time in 21 years that Pablo Picasso has not been among the top 3.
2011 definitively confirmed Chinese domination of the art market: with a more than 40% share of the global art market and 6 out of the world’s top 10 best-selling artists, China is now incontrovertibly the world’s leader of the art market.


http://www.artmarketinsight.com/wallet/amidetails/showweb/1648


中国人画家の張大千(ZHANG Daqian 1899 - 1983)が、2011年の全世界に於けるオークション落札総額で「世界一」になり、長年ポディウムの真ん中にいたパブロ・ピカソを表彰台から蹴落としたというものだ。2位にはやはり中国人画家の斉白石(QI Baishi 1864 - 1957)が入り、「唯一の西洋人芸術家」であるアンディ・ウォーホルは3位となっている。アートプライスは、それを「驚くに値しない」としている。世界の美術市場の40%以上のシェアを中国が持ち、世界のベスト−セーリング・アーティストのトップ10の内、6人が中国人作家というのがその理由だ。


こうした事態に対しての反応には幾つかあるだろうが、その大きなものの一つとしては、「この結果は異常だ」とする事だろう。これは飽くまでも「中国経済バブル」に影響された一時的なものであり、「中国経済」が失速すれば、再びパブロ・ピカソが最上位に君臨する「正常」な状態に戻る筈だという反応だ。裏を返せば、世界のベスト−セーリング・アーティストは、「西洋人」の「西洋美術」作家が独占しなければならないという事になるのだろう。百歩譲って、それが「非−西洋人」であったとしても、最低限「西洋美術」の「系譜」にある作家でなければならない。決して「西洋美術」の上に、それとは全く異質で非連続的な存在である「水墨画」が君臨してはならない。それは美術の「イエロー・ペリル」だ。「水墨画」が世界の頂点に君臨しても良いのは、「西洋美術」のコンテクストに則った限りに於いてである、云々。その上で、作品の「セールス」と、作品の「善し悪し」は違う、といったフェール・セーフな最終クッションが用意されている。


こうした立場は、「中国(加えて「アジア」)」の早期の「没落」をこそ欲している訳である。数十年は待てない。今すぐ「没落」して欲しい。そして「中国」の「没落」の暁には、再び「西洋」にヘゲモニーが移るという可憐な願望に基づく認識がある。しかし「中国」の「没落」は、現状でも美術市場の40%が失われる事をも意味する。「中国没落」後のその40%を、次に何処が肩代わりするのかは判らないが、しかしそこでもまた同じ様な事が起きるだろう。即ちベスト−セーリング・アーティストは、自国に「誰もいない」場合は別にして、必ず美術市場を握る国の中から、その経済力に見合った形で排出されるものだ。そしてその「次」が、「西洋」諸国に回ってくる可能性は、現実的に低い。


中国経済が早晩「崩壊」するという観測に一縷の希望を託す人にとって、この先100年近く、中国が「美術(市場)の中心」であってはならない。最低限「市場」の中心であっても構わないが、「論理」の中心であってはならない。中国の「金」には大いに期待するが、決して「頭」には期待していない。分を識れ。身の程を弁えろ。アジアには何も無い。「美術」の「スタンダード」は「パブロ・ピカソ」側にあり、「張大千」側には無い。留学すべきは「ニューヨーク」や「ヨーロッパ」各都市なのであり、決して「北京」や「上海」ではない。しかし何かの「間違い」で、「中国経済」がこの先も順調に突き進み、結果として、21世紀後半の「美術」の「スタンダード」が「張大千」にならないとも限らない。その時にこそ、極めてプラグマティックに、「西洋文明」最後の徒花の一つである、所謂「現代美術」そのものが過去化される事になるのかもしれない。さすれば、「現代美術」で「トップを取る」等という、「成功」の形態それ自体が、全て過去化してしまう事になるだろう。


「西洋美術」への「復讐」を、「現代美術」と称される、20世紀的方法論で果たした(「やった」)かにも見えるカタール・ドーハの "EGO" 展。世界のベスト−セーリング・アーティストのオークション総売上の、その数倍から数十倍の「資産」を持つ、「作品の売上」だけでは説明が付かない、また「作品の売上」に於ける様々な方法論による「リッチ」なアーティストのランキング。そして「美術」に於ける「中国」の「論理」の抬頭と伸長。これらはバラバラの様でいて、しかしどこかで繋がっているのだろう。即ちどれもが「価値」の問題なのである。


【続く】