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種蒔き

【承】(及び【承「トロール漁業」】


「へぇボタン」すら「ドン・キホーテ」で売っていた、嘗ての人気番組「トリビアの泉」のNo.192は、「スフィンクスの目線の先には今ケンタッキーフライドチキンがある(2003年8月20日放送 97へぇ)」だった。「ぐるなび海外版アフリカ」によれば、この "KFC Sphinx" 店の営業時間は、午前11:00〜翌3:00。カードは不可(但し日本の KFC もほぼ同様)で、「『スフィンクスの目線の先にある』と日本のテレビ番組に取り上げられて有名になった。2階と屋上はピザハット。値段はほかのKFCに比べると少し高い」とある。20エジプト・ポンド(260円前後 2012年1月現在)で取り敢えず飲食可能という事ではあるらしい。但し、実際のスフィンクスの目線の先は、スフィンクス自体の高さからして、階上の「ピザハット」なのであるが。


そういう訳で、カイロの日本人観光客の人気観光スポットの一つであるこの店の存在は、また「世界的」にも有名であり、「KFC Sphinx」でググれば、わらわらと535,000 件程、検索結果が出て来たりする。YouTube にもその店の動画が結構あり、恐らくこの店は「世界一有名」な「KFC」であり「ピザハット」店舗という事になるだろう。「世界遺産」の「スフィンクス(ピラミッド)」と「多国籍企業」の「KFC(ピザハット)」という取り合わせの「妙」が、人をして「素晴らしきムダ知識」から「グローバリズム」まで様々な感慨に至らせるのは確かだ。


その「世界遺産」と「多国籍企業」の「絶妙」の取り合わせを、一枚のスチール画像にしようとすれば、例えば「スフィンクス」の後ろにカメラを持って回り、その後頭部を前景に入れつつ、後景に目線の先の「KFC(ピザハット)」を入れるという構図が「模範解答」になるだろう。もう少し「凝った」方法論としては、「ピザハット」の店内から、その窓ガラスに貼られた「ピザハット」のロゴ越しに「スフィンクス」を撮るといったものや、「KFC(ピザハット)」のガラスウィンドウや、店内の鏡に反射した「スフィンクス」を、画面内の一部に入れるといった様なものが「解答例」になるだろう。


しかし動画の場合は、スフィンクスと「KFC」の中間地点に立ち、初めにスフィンクスを画面に入れ、接続詞の「そ・し・て(そして)」的にパンニングして180度回転し、矢庭に画面に入ってきた、意表を突くであろう「KFC」で「落とす」というのが「模範解答」になると思われる。加えてそこに、痙攣的に軽くズームインとズームアウトを繰り返し、「ハラホロヒレハレ」とその場にいる者全てが藻掻きながら倒れ込めば、それで「クレージーキャッツ」の頃のバラエティの一丁上がりになる。


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「写真」は「部屋」に空いた「窓」だ。それは、「部屋」の「壁」に空いた「ピンホール」であると同時に、西欧の絵画が、建築要素としての「窓」の暗喩であった事にも由来している。今日の「写真」や「絵画」の多くが「矩形」であり、また「矩形」の限界内に留まるのは、それが一般的な「窓」の形態から由来しているからであり、それ故にか「絵画」のキャンバスの木枠は「大工仕事」の方法論で作られる。「写真」の「シャッター」という語もまた、開口部関連の「住宅用語」である。そうした「世界」に開かれ、同時に「世界」を切り取る「窓」はまた、「世界」への「意識」を形にしたものの一つであると換言して良いかもしれない。


「写真」は、「鏡」でも使用しない限り、カメラの「後ろ」を写す事が出来ない。目玉の「後ろ」が見えないのと同じだ。カメラと撮影者が、被写体(「窓の向こう」)を注視すればする程、フレームの中の「絵(「意識」)」に向かえば向かう程、自分の「後ろ」どころか「上」も「下」も「横」すらも見ないし、見えはしない。そうした「後ろ」や「上」や「下」や「横」は、「意識」の「外」になるだろう。それは自身の「意識下」としての「無意識」ではなく、「意識外」としての「外意識」であり、即ちそれは「他者」のエリアに属する。「意識」側に属するものを「シグナル」、「外意識」側に属するものを「ノイズ」と換言する事もまた可能だろう。写真の黎明期には、感光剤の感度が低く、それ故に長時間露光となる為に、被写体となる人物の頭が動かない様に「首押さえ」なる「拘束具」が存在したが、それ以前に、撮影者そのものが、自らの「意識」の対象である「シグナル」に対し、それを「前景」化する為に自らの頭を「拘束」している訳である。


周囲にある街並みや、観光バスで次々と運ばれて来る観光客の姿や、「KFC(ピザハット)」等の「ノイズ」を排除する様な「スフィンクス」の撮影では、時に人払い(「他者」の排除)すらされる。こうして、砂漠の真ん中に今でもポツンと存在しているかの様な「再現前」的「スフィンクス」の「写真」が出来上がる。その「写真」は、まるでこれらの「絵画」の時代と殆ど変わっていないかの様だ。




これら19世紀の「スフィンクス」の絵画を描いた「画家」が、その周囲の現在「市街地」となっている方向を「描写」しなかったのは、勿論当時の「画家」にとって「スフィンクス」や「ピラミッド」こそが描くに値する対象であり、それ以外のものは「意識(関心)」の外にあったからだろう。しかし果たして、当時の「画家」が、パンニング可能な「ビデオカメラ」を持っていたらどうだっただろうか。或いは "iPhone" や "iPad" を持ち、そこに Microsoft の "Photosynth" をインストールしていたらどうだっただろうか。少なくともそれによって、「スフィンクス/KFC(ピザハット)」的な、当時の「世界 - 内」に於ける「スフィンクス」の「位置付け」というものが「写る」事だろう。それは即ち「スフィンクス」の「世界」に対する「批判」的な目差しである。


例えば、この動画が、そのままで優れた「美術批評」に成り得ている様に。


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しかしそれでも、「写真」もまた「写真」なのである。それは徹頭徹尾「機械」が切り取るものだ。ここが画面の全てを「人間」が作り出さねばならない「絵画」と異なっている。しかし決定的なところで、「絵画」もまた「機械」の「写真」と同じであろう。例えば、あのマーシャル・マクルーハンの「グーテンベルクの銀河系("The Gutenberg Galaxy")」に収められた、余りにも有名過ぎるエピソード(ネタ)がある。


This man – this sanitary inspector – made a moving picture in very slow time, very slow technique of what would be required of the ordinary household in a primitive African village in getting rid of standing water – draining pools, picking up all empty tins and putting them away, and so forth. We showed this film to an audience and asked them what they had seen, and they said they had seen a chicken, a fowl and we didn’t know there was a fowl in it. So we very carefully scanned the frames, one by one for this fowl and, sure enough, for about a second, a fowl went over the corner of the frame.


...


Wilson: We simply asked them: what did you see in the film?



Question: No one gave you a response other than “We saw the chicken”?


Wilson: No, this was the first quick response— “We saw a chicken.”


— from “Film Literacy in Africa”, by John Wilson (Canadian Communications vol.1 no. 4, summer, 1961, pp. 7-14), cited in McLuhan’s “The Gutenberg Galaxy”.


1950年代、ロンドン大学のプロフェッサー、ジョン・ウィルソンが、アフリカの或る伝統社会に於いて、公衆衛生の重要性を教育する映画を上映した。それは、保健衛生員が、村落に放置されているボウフラが湧いた空き缶の水を捨て、それを廃棄し、斯くしてデング熱や黄熱病等の伝染病の脅威を取り除いた村は、極めて衛生的になったという「ストーリー」であった筈なのだが、しかしその映画の感想を問われたアフリカ伝統社会の住人は、「鶏を見た」というばかりであった。疑問に思った西欧人スタッフが、それを再度見直してみると、或るシーンで、確かに一瞬、鶏が道を横切っている。西欧的啓蒙の立場からすれば、「鶏」は「公衆衛生」という、何よりも優先されなければならない「シグナル」の遥か下位に属する「偶発」であり、それは啓蒙の「西欧人」にとっては「意識外」の「ノイズ」であるものだが、しかしそれを「見せられた」側からすれば、「衛生」こそが「意識外」の「ノイズ」であり、それは彼等にとっては「偶発」だらけの、少しも理解出来ないものである。


「意識外」の「ノイズ」が必然的にインクルードされる「絵画」や「写真」。それがより亢進し、或る意味で「意識外」の「ノイズ」のみで構成されているものが、 Microsoft の "Photosynth" や、Google の「ストリートビュー」だろう。それらの「共有」的「パノラマ」には、撮影ポイント確定に於ける「ベストポイント」はあっても、所謂「ベストショット」は存在しない。従って、これらは新たな「表現の可能性」をもたらすものであるよりは、寧ろ「表現の不可能性」をもたらすものであろう。何故ならば、「表現」とは「ベスト」とされるものの「個人」的「所有(占有)」である一方で、こうした「共有」的「パノラマ」では、現実の「世界」(=「共有物」)同様に、「ベスト」を見出すのは、常にそれを「共有」する各個人である。即ちその「共有」的「パノラマ」の中の、「公衆衛生」をベストとする者もいれば、「鶏」をベストとする者もいる。或いは"c i n e m a s c a p e s - Street View Edition" の Aaron Hobson氏の様に、「カレンダー写真」をベストとする者もいれば、そうでないものをベストとする者もいる。

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拙ブログ「トロール漁業」に関連して、数日前にこういうツイートが「写真家」福居伸宏氏から寄せられた。


大村さんには、フォトシンス(Photosynth)についての意見も伺いたいものです。<@nakashima001 ●逃れ去ったイメージの脅威: ストリートビューカメラ(トロール漁業)と表象の関係についてのエッセイ。 RT @omuraji: ブログ更新「トロール漁業」


https://twitter.com/#!/n291/status/158801432353579008


併せて関連していると思われる囀が、数本ツイートされていた。


http://twilog.org/n291/date-120116


当方は iOS 搭載「モバイルフォン」を所持していない為に、それを実際に「街中」で使用した経験は無く、他人が作成した「パノラマ」を「見る=共有する」に留まっている。


"Photosynth" の Wikipedia による解説はこちらになる。併せて "Photosynth" の 「公式サイト」はこちらになるが、そこにはこう書かれていて、 "Photosynth" がどういうものであるかを過不足無く表している。


Capture your world in 3D

Shoot wraparound panoramas or full "synths", share them with friends, and publish them to Bing.
Gear up by checking out some of the best:


「あなたの世界を3Dでキャプチャしましょう」とあり、それを「友人とシェアしたり Bing で公開」するものとしている。即ち "Photosynth" の「パノラマ」もまた、「公開」の後、「共有」される事こそが重要なのであり、「パノラマ」を、「作者」の「所有(占有)」の内に留まらせる「作品」作りの新たなプラットフォームとする事に、それ程の意味は無いだろう。"Photosynth" は、「作る=共有する」であると同時に、「見る=共有する」である。それは「真理」に至る事の無い「散種」であるが故に、「多種多様な表現の拡散=多義性」に似て全く非なるものであり、勿論インターネット上に舞台を移した伝統的な意味での「表現」ではなく、またそうした「表現」の「作品」である事を、今更ながらに「利害関係」を持つ者以外の誰も望んではいないだろう。


それに加えて、「ストリートビュー」の「大仕掛」ではなく、誰もが所有可能である「モバイルフォン」が、入力デバイスの核となっているところが極めて重要だと思われる。「パノラマ」の回転軸は、「モバイルフォン」によって、極めて広汎に複数化する。それは例えば、1990年代初頭の福田美蘭による「帽子を被った男性から見た草上の二人」「ゼフィロスから見たクロリスとフローラと三美神」「幼児キリストから見た聖アンナと聖母」「侍女ドーニャ・マリア・アウグスティーナから見た王女マルガリータ、ドーニャ・イサベル、ベラスコ、矮人ニコラシート・ベルトゥサートと犬」等々といった、視点の複数化が全面化した様なものだ。


ベラスケスの「ラス・メニーナス」の登場人物の、「マルガリータテレサ・デ・エスパーニャ」「フェリペ4世」「マリアナ・デ・アウストリア」「マリア・アウグスティーナ・デ・サルミエント」「イサベル・ベラスコ」「マリア・バルボラ」「ニコラシート・ペルトゥサート」「マルセーラ・ウリョーア」「ディエゴ・ルイス・アスコナ」「ホセ・ニエト・ベラスケス」「犬」、そして「ディエゴロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス」それぞれが "iPhone" を持ち、それぞれが "Photosynth" をインストールし、それぞれがそれぞれのポジションで作成した「パノラマ」を「公開」し「共有」し、しかしただ一人だけ、「芸術家ディエゴロドリゲス・デ・シルバ・イ・ベラスケス」だけが、それを「公開」はするものの、一方でその「共有」は拒み、それを「占有(所有)」としての「作品」としたとする。


現在「作品」と呼ばれているものは、「作品」である事を「常識」で「普遍」なものとする「思い込み」によって、「教育映画」に於ける「衛生」の如くに「前景」化されているかの様に見える。しかし同時に、「作品」という名の「意識」のエリアの外には、「作品」の「外意識」がぐるりと取り囲んでいる。それは「作品」が占めている「ポジション」に立って、頭の中でぐるりと "Photosynth" をすれば、その「パノラマ」の中に於ける「作品」の「位置」が、すぐにでも「見えて」くるだろう。そうした「作品」の「外意識」は、しかし決して "non-literate societies" では無く、"various-literate societies" という、極めて「当たり前」であったりするのだ。