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ゲリラ

【承「トロール漁業」】


【枕】


その駅ナカの書店は、ガラスウィンドウのディスプレイに、順位の数字と共に、売り上げランキング順に本が並べられていた。講談社刊の「スティーブ・ジョブズ」が、発売後2ヶ月経った今でも、堂々の2位になっていた。


仮にジョブズが "February 24, 1955 – October 5, 2011" ではなく、" - (to) " 以降が "Apple I" や "Apple II" であったとしたら、果たして彼の伝記が、これ程までに「日本」の「一般書店(しかも「駅売店」)」で「ベストセラー」になっただろうか。それは "Macintosh 128K" の頃であっても、 "NeXT" の頃であっても、 "iMac(初代)" の頃であっても、 "Mac OSX(10.1)" の頃であっても、そうはならなかったのではないかと思われてならない。要するに、ジョブスは「パーソナルコンピュータの時代」、即ち 「"Apple" マシンの時代」や「"Macintosh" の時代」に、「パーソナルコンピュータの人」として「死んではならなかった」のだ。


その時々の「メジャー」に対して挑戦者であり続けていた、どちらかと言えば「抵抗勢力」的だったレインボーロゴの時代から、今やバイトされた単色リンゴマークは、すっかりソフィスティケートされたイメージの「メジャー」側のものとなったが、それは "iPod" や "iPhone" 、特に "iPhone" が、"Macintosh" に代わってApple を代表する「顔」になってからの事だろう。パーソナルコンピュータでは、Microsoft 製の OS が世界で一番であると思っている(「思わさせられている」含む)ユーザや、Ubuntu 辺りを PC で走らせている様な「臍曲り」でも、しかしそれらパーソナルコンピュータ以外のリンゴマークの製品ならば、抵抗無く買って使えるという事が少しも不思議ではなくなった。ベストバイのパーソナルコンピュータが、一にも二にも "Let's note" であると思っている(「思わさせられている」含む)ビジネスマンでも、「音楽プレーヤー」や「モバイルフォン」は、リンゴマークの "iPod" や "iPhone" というケースは極めて普通である。


各地のアップルストアが客で賑わっていても、それは勿論 "Macintosh" 目当ての「コア」客がいるには違いないが、しかし同時にそこには、 Windows マシンから "Macintosh" に買い換えようなどとは、今迄も、そしてこれからも、金輪際思わない客も多い事だろう。そうした彼等の目当ては、勿論「音楽プレーヤー」や「モバイルフォン」だ。そうした Apple の現在を顕著に見る事が出来るのは、 "Apple" コーナーを設けた家電量販店の店内だろう。パーソナルコンピュータ "Macintosh" を扱う "Apple" コーナーは、極めて閑散としているが、他方で、今や家電量販店の「顔」になったモバイルコーナーの "iPhone" コーナーは鈴生りだ。 "iPhone” のニューモデル発表は一般メディアのニュースに成り得ても、 "MacBook Pro" のニューモデル発表は、一般メディアのニュースには成り得ない。あのスティーブ・ジョブズの伝記が、「駅売店」ですらベストセラーになった背景には、やはり "iPhone" の「成功」があればこそだ。現在の Apple は、「 "Macintosh" の会社」ではなく、「 "Macintosh" も作っている会社」である。現在の「ヨドバシカメラ」や「ビックカメラ」が、「カメラ店」ではなく、「カメラも売っている量販店」である様に。

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"iPhone" を、技術史的な系統樹に組み込むとして、"iPhone" が「電話」のステム(幹)上にあると仮定してみる。しかし果たして、 "iPhone" は、その商品名に尾骶骨の様に残っている「電話(phone)」の子孫なのだろうか。"iPhone" が、「グラハム・ベル(例)」の「電話」の進化系であるよりも、寧ろ「ニセフォール・ニエプス(例)」の「カメラ」の進化系や、「リュミエール兄弟(例)」の「ビデオ」の進化系や、「ジョン・フォン・ノイマン(例)」の「コンピュータ(計算機)」の進化系や、「オシロスコープ(例)」に始まる「ゲーム機(おもちゃ)」の進化系としてみたらどうだろうか。しかし「カメラ」や「ビデオ」の進化系が、 "iPhone" であるというのは、ケータイにカメラ名を冠した、Panasonic の "LUMIX Phone" 的な「座りの悪さ」を感じさせるかもしれない。最早「カメラ」は、「モバイルフォン」という新種の融合体に名を貸す立場には無いのだ。


いずれにしても、こうした「モバイルフォン」と現時点で呼ばれているものが、「電話」を飲み込み、「カメラ」を飲み込み、「ビデオ」を飲み込み、「コンピュータ」を飲み込み、「テレビ」を飲み込むという、まるで諸星大二郎の「生物都市」状態になってくると、飲み込まれた方のそれらの技術の「今後」というものの、行き詰まり感が際立ってくる気もする。即ちこれから「電話」はどうなって行くのか、「カメラ」はどうなって行くのか、「ビデオ」はどうなって行くのか、「コンピュータ」はどうなって行くのか、「テレビ」はどうなって行くのかという問いに対して、それら「単独種」としての「絶滅」という言葉を用意しなければならなくなるかもしれない。

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諸星大二郎の「生物都市」は、1974年の第7回(上期)「手塚賞」入選作品であり、氏の「メジャー誌」デビュー作でもある。これを「週刊少年ジャンプ」誌上で読んだのは、美大受験で東京・目白の美術予備校に通っていた頃だった。何故に「週刊少年ジャンプ」を読む習慣の無かったその当時に、それを「リアルタイム」で読んだのかは今となっては覚えていない。或いは、たまたまそれを置いてあった飲食店で読んだのかもしれないが、いずれにしてもそのインパクトは大きかった。ウィリアム・ギブスン(William Gibson)の 「ニューロマンサー(Neuromancer)」の10年も前の、その邂逅(後年の自分の個展会場での作家御本人との邂逅含む)に感謝したい。


「生物都市」は、木星の衛星イオの調査船が地球に帰還するところから始まり、そこから周囲に異変が「伝染」して行くという話だ。その異変は、「機械」と「生物」の融合、「無機物」と「有機物」が融合していくというものであり、それは「接触感染」によって広がっていく。野鳥によって宇宙船の外に運ばれた異変は、エネルギーネットワークである「電線」を介して、急速な拡大をする。一方で、当時のネットワーク通信網である「電話線」を介して、電話と耳が融合し、取材のカメラと取材者が融合し、工場の機械と工員が融合し、壁と恋人が融合し、パトカーと警官が融合する。


環境変化に対する生き残り策の結論として、不死の機械と融合する事を選択した惑星イオの住人達の言葉がインサートされる。


人びとの意識はつながり 広がってひとつになり 一方 機械は人間の神経をかりて感じ 頭脳をかりて 意識をもつにいたりました
イオの全住人と機械の完全な共同体・・・一個の巨大な 新しい生物が誕生したのです


それを聞くイオのクルー達は、既に宇宙服との融合が始まっていた。


もう・・・きかなくてもわかる・・・
機械の意志が私の中に入ってくる・・・・私の体が 広がる
無限に広がるのが わかる・・・


「無機物」と「有機物」の融合体は、融合体としての「意志」に基づいて、宇宙船に再び帰り、そのまま宇宙船と融合した融合体として地球に「帰還」する。宇宙港のスタッフが宇宙船に乗り込む。「宇宙船/船長」との会話。


では科学は・・科学はまけたのではないのだな・・・?


とんでもない この新しい世界で 科学文明は 人類と完全に合体する
人類に はじめて 争いも支配も労働もない世界がおとずれるのだ


すばらしい 夢のようだ・・・新しい世界がくる・・・ユートピアが・・・


ユートピア」からの「難」を逃れる為に、金属製のものや、機械類を全部捨てた少年は、エネルギーや情報のネットワークから遮断された、「自然物」に囲まれた生活を営む男性の元に逃げ込む。焚き火で、この時点では「汚染」されていないと思える魚を焼く少年。しかし、ここもまた「時間の問題」ではあるだろう。

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明らかに、現在既に、一般的な「撮影」の場に、純然たる「デジカメ」や「ビデオカメラ」を持ち出すというのは「大袈裟」に見える。「ストリートフォト」のベストアイテムは、ライカ判の「レンジファインダー」の「カメラ」であるという通説も、その昔には存在したりもしたが、しかし現在それを極めてプラグマティックに考えれば、「モバイルフォン」を措いて他は無いとすら言える。大抵の場合、「モバイルフォン」は、何処にいても「すぐに取り出して扱える」状態にしているのに対し、「カメラ」や「ビデオ」を、何処にいても「すぐに取り出して扱える」状態にしているという人間は、撮影を生業としているか、余程のカメラマニアであるか以外は極めて少ない。電車の中や街中で、今時「カメラ」や「ビデオ」を首から下げて歩いている人間がいたら、それは「仕事の人」か、「趣味の人」か、「変態の人」か、「観光客」であろう。但し「(一部の)仕事の人」や「変態の人」や「観光客」は、さっさと「モバイルフォン」に移行しつつある。最後まで残るのは「信念の趣味の人」と「信念の仕事の人」位のものだろう。


しかしそうした「信念」は、湿板から「質」的に劣る乾板への時代、乾板から「質」的に劣るロールフィルムへの時代、ブローニーロールフィルムから「質」的に劣る35ミリフィルムへの時代、35ミリフィルムから「質」的に劣るデジタルの時代にも見られたものだ。そして今、「カメラ」から「質」的に劣る「モバイルフォン」の時代が来ている。写真に於ける技術史の過去を振り返れば、常に「質」的に劣るものの方が、産業的勝利の側に入り、一方でそうした「信念」は、常に一定の遅れを伴って消滅していく。21世紀にロールフィルムを否定して、湿板や乾板をこそ最上のものとする「信念」の人がいたら、それは単なる「化石」か「臍曲り」だろう。では何故に「質」的に劣る方が、常に残るのであろうか。それはマーケティング理論に言うところの「イノベーションのジレンマ」にも関係し、恐らくそれ故に「イノベーションのジレンマ」を回避出来なかったコダック社の凋落もそこにあるだろう。コダック社そのものが、ロールフィルムという破壊的技術(disruptive technology)で、「高品質」の既存技術である乾板写真に、産業的に勝利する事で、興隆した企業であるにも拘わらずだ。


テレビニュースの「視聴者提供」の画像や動画は、大抵「モバイルフォン」で撮影され、また「プロ」による海外取材や、中継放送ですら、「モバイルフォン」を用いている(しかも「中継機能」すら、やたら大袈裟な「中継車」ではなく「モバイルフォン」だったりする)ケースも多い。今や「逃げ去るイメージ」、世界の光景を切り取る最も一般的なデバイスは「モバイルフォン」なのであり、「カメラ」や「ビデオ」はその座から降ろされた。現実的に、記念撮影やスナップ撮影は、最早「カメラ」で撮るものではなく、「モバイルフォン」で撮るものに移行している。子供の成長も「モバイルフォン」、結婚式も「モバイルフォン」、葬式も「モバイルフォン」、有名人を見掛ければ「モバイルフォン」、事件を目撃したら「モバイルフォン」、プロフィール写真に「モバイルフォン」、人生の節目節目に「モバイルフォン」…。21世紀始まって間も無く、当時誕生したばかりの「カメラ付き携帯」で、公園で遊ぶ子供を楽しそうに撮影している若い夫婦の姿を見て、その時に「カメラの時代」の終焉と同時に、「写真の時代」の終焉を確信した。


写真という技術は、そもそもが「逃げ去るイメージ」を、如何に「定着」させるかという欲望に基づいていた。今でも「定着」こそが写真の絶対条件であると考える立場からは、現状では「銀粒子」を措いて他は無いとされる。デジタル画像のフォーマットは「永遠」ならぬ疑いが払拭出来ないが、「銀」ならば「永遠」である。「フラッシュメモリ」に一旦「定着」したかに思えるイメージは、「銀」の物的特性の「永遠」に比べれば、不安定に保持された電荷でしかない。それは、何かの拍子で失われるものだ。但し、デジタルデータを次から次へと別のデバイスに「永遠」にコピーしていけば、それは確かに「永遠」のものにはなる。しかしそうした事をする様な「永遠」への欲望そのものが失われているだろう。今や「永遠」はかったるいのだ。「定着」から始まった写真術は、しかしその「定着」から離れ、再び「逃げ去るイメージ」に還りつつある様にも思える。

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「モバイルフォン」はネットワークである。但し、それは所謂「ネットワーク」のみを意味しない。各人各一台である「モバイルフォン」で、「逃げ去るイメージ」を切り取るノードのネットワーク。それはまた、「フォトグラファー(アーティスト)」という、特権的で限定的なノードが求められていたかの様に見えた時代の終焉を意味していないだろうか。こういう時に、「フォトグラファーにとっての、これはチャンスである」と言ったりする事は、ややもすると「イノベーションのジレンマ」に陥る羽目になるかもしれない。仮にそれに「対抗」しようとするステージに立ったとしても、それが可能なのは「個人」としての「フォトグラファー」、即ち「正規の職業兵」では無いだろう。「モバイルフォン」の世界は、誰もが「兵」で有り得る「ゲリラ」の世界だ。


【続く】