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好き嫌い

子育てに於いて、食べ物に対する子供の「好き嫌い」というものを、肯定するか否定するか。しかし通常多くはは、否とされるものだろう。「好き嫌いをしないで、出されたものを全部食べなさい」と「躾ける」のが「正」であるとされ、「好き嫌いがあるのが本来の人間というものでしょう。人間らしく、どんどん好き嫌いをしなさい。にんげんだもの」としたり顔するのは「誤」であるとされる。


独立行政法人日本スポーツ振興センターの「平成17年度 児童生徒の食生活等実態調査結果」によると、小学生の「好きな料理」は、「寿司」(29.8%=小学校全体 以下同)、「カレーライス、ハヤシライス」(22.9%)、「ステーキ」(16.3%)、「ラーメン」(14.9%)、「ピザ」(11.9%)、「オムライス」(11.7%)、「さしみ」(9.5%)、「ハンバーガー」(9.3%)、「デザート」(9.2%)、「チャーハン、ピラフ、パエリア」(8.8%)、「焼き肉」(8.3%)、「スパゲッティ」(7.6%)、「ぎょうざ、しゅうまい、はるまき」(7.4%)「グラタン」(6.8%)、丼物(6.7%)、「お好み焼きなど」(5.8%)となっている。


反対に「嫌いな料理」は、「レバー料理」(36.1%)、「サラダ」(13.4%)、「酢豚」(12.8%)、「うなぎ」(12.0%)、「あえもの」(11.4%)、「野菜炒め」(11.2%)、「つけもの」(10.1%)、「煮魚」(9.9%)、「焼き魚」(8.9%)、「野菜の煮物」(8.1%)、「さしみ」(7.2%)、「フライ」(5.6%)、「鍋もの」(5.3%)、「おでん」(5.1%)、「もち(お雑煮、いそべもち)」(4.9%)、「麻婆豆腐」(4.3%)である。中学生もまた、「好き」しても「嫌い」にしても、小学生と似たり寄ったりの傾向を示す。


複数回答」という事であるから、例えば調査対象者数の約1/3が、「寿司が好き(29.8%)」であったり、「レバー料理が嫌い(36.1%)」という訳では無いだろう。いずれにしても、全員が全員、それを「好き」だったり「嫌い」だったりする訳では無いという事だけは言える。「レバー料理」が食卓に上がって来ない事に落胆する「レバー命」の子供がいない訳では無い。「鮒ずし」や、「くさや」や、「へしこ」や、「塩辛」や、「ゴルゴンゾーラ」といった、どちらかと言えば「肴」系である様なものを、無上の「おやつ」であるとする子供の存在を否定は出来ない(と言うか、実際に知っている)。


それにしても「好きな料理」のラインアップから判断すれば、「かっぱ寿司」、「CoCo壱番屋」、「フォルクス」、「餃子の王将」、「マクドナルド」、「バーミヤン」、「牛角」、「サイゼリア」、「すき家」、「ガスト」辺りに小中学生を連れて行きさえすれば、概ね彼等の御機嫌を損なわずに済むという事にはなりそうだ。「トイザらス」で学齢に達しない子供を一日中遊ばせる(「キュアハッピー」や「仮面ライダーフォーゼ」のドールを買わされたとしても、それでも「ディズニーランド」よりは「ローコスト」であろう)様に「楽」に済ませようと思ったら、そうした子供受けのするチェーン店に連れて行く事は、子育ての「省力化」に繋がる事は確かだと言える。その逆に、総じて所謂「家庭料理」には人気が無く、また「うなぎ」の意外な不人気ぶりも目を引く。「酢豚」や「麻婆豆腐」の不人気は、それが「極端」な味だからだろう。正月の「もち」を、いやいや食べされられているという場面も、ここからは想像出来る。


いずれにしても、1960年代の「巨人・大鵬・玉子焼き(1961年)」の「玉子焼き」などというものは、21世紀に於いてはランク外であり、勿論「巨人」にしても「白鵬大鵬ではなく)」にしても、それもまたランク外だろう。しかし、その1960年代に、これと全く同じ調査をすれば、「ステーキ」、「ピザ」、「ハンバーガー」、「焼き肉」、「グラタン」等の名前が、「好きな料理」に上がる事は無かったと思われる。何故ならば、半世紀前の1960年代には、それらは一般人が「手が届かない」存在か、そもそも「知らない」存在であったからだ。もっと簡単に言えば、1960年代には、それらを出す「大衆価格」のチェーン店や、色鮮やかに魅力的にパッケージングされた加工食品が、日本社会に存在しなかったからなのである。当時、仮にそれらがあれば、「玉子焼き」などは瞬時にランク外になる筈だ。


また、同じ調査を縄文時代に実施すれば、「好きな食べ物」は「どんぐり」、「嫌いな食べ物」も「どんぐり」という事になるだろう。当然、「カレーライス」も、「ステーキ」も、「ラーメン」も、「レバー料理」も、「サラダ」も、「酢豚」も存在しない。結果として、それらに対する「好き」も「嫌い」も無い。縄文時代に「どんぐり」を「嫌い」と言っていたら、他に食べるものは殆ど無いとは言える。縄文の子供が泣き叫べば、「ハンバーガー」が出てくるという訳にはいかない。「じゃあ、芋の蔓でも食ってろ」と言われるのが落ちだ。しかし、縄文時代に各種外食産業や加工食品があれば、当然の様に「どんぐり」は「測定範囲外」になる。そしてその時、「食卓」に「どんぐり」しか出てこない様な縄文の家庭は、周囲から「児童虐待」の疑いを掛けられるだろう。


「好き嫌い」とは、「需要」の規模に対しての、過剰までの「供給」を前提にしなければならないと言える。即ち「選択肢」が豊富であればある程、「好き嫌い」は可能になって行く。従って「好き嫌い」を無くすには、「供給量」こそを抑えれば良いという事にはなるだろう。「好き嫌い」を是とするには、まずはその「供給」が、常に安定的に確保可能であるという前提条件が満たされなければならない。即ちそれを可能なものとする「産業」の存在に依存すればこその「好き嫌い」である。そして確かに、「好き嫌い」の存在が当然である様な世界では、「好き嫌い」が可能な世界こそが「人間らしい生活」と言われ、「好き嫌い」が不可能であったり、「好き嫌い」の選択肢が狭い世界は、憐愍の対象ですらある。そして「嫌い」とされた「需要」されるに至らなかった大量の「供給」は、自分でするにしても、自分の目の届かない所で他人にして貰うにしても、闇から闇へ「廃棄」すれば良いのである。



http://www.time.com/time/photogallery/0,29307,1626519,00.html

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それ自体は、2010年のパブリッシングである。1973年ケニア生まれで、イギリスの "Oxford Brookes University" で、美術とデザインを学んだフォトグラファー、 James Mollison が、Chris Boot LTD. から上梓したのが、写真集 "Where Children Sleep" である。


http://www.jamesmollison.com/biography.php


世界中の子供の寝室を写したとするそれは、そこに編集的な「図式」や「バイアス」や「典型」を見る様な者にとっては、そのまま「図式」や「バイアス」や「典型」に見える。確かにネパールの子供の全てが、「花崗岩採石場で働いている」訳ではない。イタリア人の子供の全てが、「信号待ちをする車の窓ガラスを拭いて生計を立てている」訳でもない。それらは相互に入れ替え可能である。実際「外国にも2つの家がある」中国の少年はいるだろうし、「ファッションデザイナーになる」事を夢見るパレスチナ自治区の少女だっているだろう。そうした「典型的」なまでに「特異」に見えるものをピックアップしていくやり口は、確かに有り触れているものだと言えるかもしれない。しかしこの写真集には、恐らく「一枚」だけ、決して「特異」であるとは思われていないものの、しかしやはり「特異」である様な「肖像」と「部屋」の写真が「ある」。


この手の仕事に共通するのは、常に一つの「空席」が設けられている事だ。その「空席」には、この写真集を見ている自分自身のポートレートと、自分の部屋の写真が入る不可視のフレームが用意されている。そこに自分自身とその部屋を嵌めてみると、途端にそれが「特異」な「傾向」と、「特異」な「質量」を備えている事が見えてきて、他人から見て「特異」でない例外的な生活などは、存在しないという事が判ってくる。


これに類した仕事に、上掲動画の元になっている "Hungry Planet" を撮影した 1948年生まれのアメリカ人のフォトジャーナリスト、 "Peter Menzel" の "Material World (邦題「地球家族―世界30か国のふつうの暮らし」がある。


http://gigazine.net/news/20110901_families_and_their_possessions/


Amazon の「商品の説明」から。


内容紹介
「申し訳ありませんが、家の中のものを全部、家の前に出して写真を撮らせて下さい」
戦禍のサラエボからモノがあふれる日本まで、世界の平均的家族の持ち物と暮らしを写真で紹介します。


さまざまな問題をかかえながら、地球上には55億を超す人々が暮らしています。その暮らしぶりを地球規模で明らかにしょうというのが、この『地球家族世界30か国のふつうの暮らし』です。世界の統計的に平均的な家族がどんな物に囲まれ、どんな暮らしをしているかの報告です。この報告からは国ごとの部質的な事実と同時に家族の幸せ感など精神的な側面も読み取ることができます。物の溢れる日本に住むわたしたちが、地球の現実を知り、豊かさとは、家族とは、と改めて考えてみるための恰好のツールといえます。
ユニークな特徴として、家の中のもの(持ち物)を“すべて”家の前に出してもらい家族といっしょに撮った写真があります。さらにカメラマンは1週間、家族と生活を共にして暮らしの様子を取材しています。本書は2部構成になっていて、前半は写真を中心にして家族の持ち物と暮らしを紹介し、後半は各国の統計データ・家族のプロフィール(住居・労働時間、大切なもの・欲しいもの・家計など、家族にヒアリングした共通のアンケートをもとに構成)、カメラマンの所感で構成されています。


内容(「BOOK」データベースより)


世界の平均的家族の持ち物と暮らしレポート。高級車を4台もつクウェート。1頭のロバしかもたず毎日40分かけて水をくみに行くアルバニア。自家用飛行機2台と4頭の馬をもち今日を楽しむアイスランド。2週間も食べられなくてもすべて神様が決めることというインド、生きていることが成功の印というグアテマラは驚くほど物が少ない。テレビも飛行機も見たことがなくても仏に守られているかのように静かに暮らすブータン。物質文明の先端で信仰生活になぐさめを得ているアメリカ。環境や人口といった地球がかかえる問題を考えると子供の未来が不安だというドイツ。物が溢れる日本。


勿論ここにも「空席」がある。自分自身の家にあるもの一切合財を、この様に並べて写真を撮り、この写真集に潜り込ませてみれば、その「異常」さが際立って見えてくる事だろう。何故に「アート引越センター」や「引越しのサカイ」の車が、あの様に大型のアルミバンであるのかが、これを見たら判ろうというものだ。しかも、ぎゅうぎゅう詰めにされるアルミバンの荷室と、実際の生活空間の大きさにそれ程差は無いのである。であるならば、多くの日本人は、あの「アート引越センター」や「引越しのサカイ」のアルミバンの荷室の中に住んでいる様なものであるとも言える。つくづく、引越し荷物でぎゅうぎゅうになったアルミバンに、その家族全員をも詰め込んで撮影した「引越」という写真集が無いのが不思議に思える。


またこれらと似た様なものに、都築響一の「TOKYO STYLE」があった。しかし、これら"Where Children Sleep" や "Material World"に比べれば、まだしもそこには「同質」観がある。少なくともネパールとアメリカ、ブータンクウェート程の質的量的差異は無く、それらはあるエリア内の「傾向」の違いにしか見えない。

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さて、この各国の子供達は、どの様に遊んでいるのであろうか。日本の子供ならば、その多くは「ここに写っているもの」で遊ぶのだろう。しかし「何も無い国」の子供は、寧ろ「ここに写っていないもの」で遊ぶのかもしれない。そこに「トイザらス」が無い事は、果たして不幸な事であろうか。


"Material World" の日本の家の調度品には、「アート」の「ア」の字も感じられない。この家族もまた、決してそれに「親しんでいる」様には見えない。家の周囲の風景にもそれは無い。「何も無い国」の「トイザらス」や「ココイチ」不在の様に、「何も無い国」である日本の「アート」の不在。だから日本は駄目なんだという慨嘆は、こうしたものに対して向けられている。


しかし、同じ様な「アート」不在の慨嘆を、「ブータン」や「マリ共和国」にも投げ掛けなければ、フェアではないだろう。日本に対してそうした慨嘆を向ける人は、同じ様に、「だからブータンは駄目なんだ」「だからマリ共和国は駄目なんだ」、「アート」に接する機会の無いこの「何も無い国」の人達は、その「精神」性に於いて、極めて「不幸」だと言うべきなのである。これらの「何もない国」に於いて、「アート」が生活に根差していないからこそ、この国の人達の「精神」もまた、全く「駄目」なものに違いないと言うべきなのである。それは「トイザらス」や「かっぱ寿司」が無いから、彼等は「不幸」であるという言い方と極めて似たものになって来るだろう。そこで、「何も無い国」と、日本(という「何も無い国」)とは、事情が異なると言うのは、それ自体アンフェアで差別的な言い方であろう。


それでもやはり、「何も無い国」に「アート」が無い事は、不幸な事なのであろうか。これらの写真の、すぐ近傍に「アート」が無い事は、極めて「残念」な事であろうか。そして「日本」もまた、やはりそうした「残念」な「何も無い国」の側にあってはならないのだろうか。常に「好き嫌い」が言える程に、「アート」の過剰な「供給」が、その「需要」を大幅に超えるべきであろうか。しかしそれはまた「食べ物」と同様、「需要」に至らなかった過剰な「需要」未満を産む事になるだろう。そうした「アート」の「需要」未満を全て集めて、それを「家財道具一式」の様に並べて写真を撮ってみれば、否、寧ろ、今我々が「必要」であると思い込んでいる「アート」の全てをこそ「家財道具一式」の様に並べて写真を撮ってみれば、それもまた、そうしたものを「価値あるもの」と思い込んでいる、極めて「逆しま」的で、極めて「特異」で、極めて「奇妙」な、一文化圏の光景が現出するかもしれないのだ。