デプス

承前、又は幕間】


非番なのだろう。いつもと異なる私服姿の二人は、フィフティーズなアメ車のオープンカーに乗っている。東京の下町に長く住む、いかつい顔をした男が、通り過ぎる街の光景を見回しながら言う。


「高層ビル増え過ぎだよな! さらに作ってるし 東京の空も段々小さくなってくるよ」


恐らく葛飾方面から六本木に向かう道程にあるのだろう。国会議事堂脇を通り過ぎるオープンカー。その行き先は「Shine City 六本木」。「中川不動産」が開発しているプロジェクトである。


「Shine City 六本木」は「地上3階建て」で、ショッピングモールの他に1,000世帯が住む住居部分がある。「3階建て」にも拘わらず、エレベーターは20基もある。


「3階建てでこんなにいっぱいいらんだろ」


こち亀こちら葛飾区亀有公園前派出所)」の通算1,556話、単行本164巻の7話(「週刊少年ジャンプ」掲載は、2008年30号)のサブタイトルは、「(^o^)東京新都市構想の巻」だ。


確かに、両津勘吉が言う様に、3階建てにエレベーター20基はアンバランス過ぎる。しかし、このプロジェクトは「ジオフロント」なのである。


ジオフロント


ジオフロント (Geofront) とは、広義には地下空間の総称、狭義には地下に作られた都市、およびその都市計画のことを言う。名称はウォーターフロントをもじったもので、地下の(geo)開拓線(front)の意味。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%88


8ページ目の構造図から判断するに、「Shine City 六本木」は地上3階、地下80階である。地下構造体(中川圭一はそれを「地下ビルディング」と呼んでいる)は20階毎に球体カプセルに入れられ、「Shine City 六本木」の場合はそれが4ブロック、デプス方向に連結している。中川圭一の説明によれば 「球体1個が20階建て320世帯の居住エリア」、「IIブロックが地下高速地下鉄のプラットホームエリア」、「IIIブロックが企業オフィスエリア」、「IVブロックが憩いのエリア」となっている。


「高層ビルは巨大地震の統計があまり出ていませんから '95年の地震で地下街が地震に強い事が証明されています 地上環境保護と安全を考えて地下ビルディングを提案します 球体は圧力を分散するので安全です(中川圭一)」


この後、中川コンツェルン御曹司による「Shine City 六本木」の詳細な説明に入るのだが、その一々が、何とかヒルズであるとか、何とかミッドタウンであるとかが喧伝するところの、歯の浮きそうな惹句と「遜色」の無い所が、流石に「こち亀」であると言えよう。或いは、それら実在のプロジェクトの方こそが、「こち亀」レベルでしかないと言えるかもしれない。



例えばこれは「歩く都市」である。ここに「両津勘吉」が描かれていない事の方が、却って不思議に思えたりもするが、しかし「秋本治」ならば、ここまで荒唐無稽な外観ではなく、もう少し「まとも」な外観を持ったプランにするだろう。 或いは「東京計画1960」にしても、「東京計画2107」にしても、「両津勘吉」や「ナウシカ」の不在が、却って不自然ですらある。


ストーリー後半は「ジオフロント」に「金」の匂いを嗅ぎ付けた両津勘吉が、所轄を現状の地上3階をそのままに、地下22階建ての地下ビルディング化するのであるが、そこからいつもの如く、彼の暴走が始まる。地下世界が、誰の目からも「見えない」のを良い事に、土地をどんどん広げていき 次々と別の建物を作っていくのである。「外観」の存在しない地下構造物の特徴が、上手く表現されていると言えるだろう。 最後には「悪巧み」が露見して署長らに追われる両津であるが、彼は自ら手掛けた秘密の脱走路を伝って逃走する。しかし逃走はするものの、位置関係の照応性に欠ける地下空間で、逃走の「手順」が記された「メモ」を「紛失」してしまう。結局、両津は地下空間で遭難して行方不明になるものの、最後にはいつもの様にひょんな事から発見されるという「こち亀」伝統のパターンで話が終わる。

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上野・不忍池は、江戸の昔より東都の名所であったから、様々な絵師や写真師によって、描かれたり撮られたりしている。葛飾北斎安藤広重、或いは司馬江漢等も不忍池を題材に絵を描いている。小田野直武の「東叡山不忍池」もその一つだ。



少なくとも、池の外周が競馬場となり、また噴水塔や、ウォータースライダーや、観覧車等が設置され、1907年の東京勧業博覧会が行われるまでは、江戸から明治の中頃に掛けての不忍池の周囲の風景は、それ程に変わるものではなかった。永く不忍池は、緑の中の天然池であった。


今は流石に、特に池之端方面にはビルが建て込んでいて、樹木の上から顔を覗かせているものの、それでもそれらを「背景」化する事はまだ可能ではある。15年程前、上野動物園に、仕事で毎日の様に通っていた時に、不忍池の脇の「動物園通り」を使っていた。そしてその時、対岸の池之端に、「背景」化される事を殊更に拒否する、子供っぽい「異形」を見た。それは如何にも「建築家」がやりそうな、「建築家」位しかやらなさそうなといった様なものだった。基本的に「無意識」の領域に属する「ミニマルアート」を、自らのものとして経験した事の無い(四角かったり、構成要素が少なければ、それだけで「ミニマル」というものではない)「建築家」は、常に「意識的」に「新しい形を作る」病に罹患している種族であろう。そこには「キャンバス」が、常に「建築家」に与えられているという、確信めいたものが常に存在している。全ての「建築家」は、「地上に『異形』を作る者」と一括する事も可能だ。池之端のそれはこんな感じのものだった。



クリスマスツリーに見えた。しかし正しくは五重塔だという。どちらでも良いと思った。クリスマスツリーにしても、五重塔にしても、実際には少しもそれらではない。子供がレゴで作った様な、しかし子供のレベルではないその構造物は、こちらがそれにニコニコしながら付き合い、「建築家」の思うが儘に見立ててやらなければならないものであり、しかもその見立ては少しも楽しくは無い。しかしそんな「異形」も、それから僅か10年余りで、跡形も無くなってしまった。成程、これこそが、本当の「新陳代謝」というものだ。大体「建物」の名称からして、「ホテルCOSIMA」から「ソフィテル東京」と「新陳代謝」しているではないか。


「建築家」というのは、「新陳代謝」をするにも、一々「新しい形を作る」ものである。「建築家」の「建築」を褒める者は、その「新しい形」をこそ褒め、「建築家」も内心では「新しい形」を褒めて貰いたいと思っている。しかし、人は「形」に住むものでは無い。では「建築家」から「新しい形を作る」事を奪ったら、そこには一体何が残るのであろうか。


「Shine City 六本木」に見られる様に、「形」の無い地下にすら、人は潜水艦の様に住む事が可能だ。地下にも「新陳代謝」はある。ならば、「建築家」に対して、「ジオフロント」のお題を出してみれば良いのかもしれない。彼等は早速、そのアイディアスケッチを描くだろう。様々に「新しい形」を考えては試行錯誤して、それで決定となった最終形は、しかし土に埋められてしまって、少しも見る事は出来ない。「形」を褒めようにも、誰にも「建築」の「形」は見えない。「形」は「図面」から想像するしか無い。では、人はその「建築」の何を褒めれば良いのだろうか。


こうして「ソフィテル東京(菊竹清訓 1928年4月1日〜2011年12月26日)」は、地下建築になった。小田野直武の「東叡山不忍池」は、また「元の風景」に戻り、北斎や広重や江漢の見た不忍池になった。両津勘吉ならば「東京の空が、少しだけ広くなった」と言うだろうか。



【続く】