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風狂

承前


「風流」はまた「風狂」の原形でもあるだろう。


ふう‐きょう【風狂】‐キヤウ


1 気がくるうこと。狂気。
2 風雅に徹し他を顧みないこと。また、その人。


大辞泉


「ただの石ころ」に「鎌倉の風景」や「観世音菩薩」を見るとは、何とおかしな事だろうか。例えば現在、いきなり「俺、この石に鎌倉の風景が見えるんだ」とか、「私、この石に観音様が見えるの」などと言えば、様々に疑われる事は必至だろうし、そういう人物とは関わり合いになりたくないとも思われるだろう。或いは「親切な人」から「良い医療機関」を紹介されるかもしれない。いずれにしても、恐らくそうした人物に、21世紀的な「通常」の「社交(つながり)」に於ける「友人」は出来難いと思われ、「あいつアスペじゃねえの」等と言われるのが落ちだったりする。ただの石に「観世音菩薩」を見た頼山陽や、ただの石である「夢の浮橋」を至宝とした中国人→足利将軍家後醍醐天皇豊臣秀吉徳川家康等は、21世紀の精神病理学的に言って、何がどうなのかは専門家ならぬ身としては判らないが、或いは何らかの「障碍」があるとされるのかもしれない。


それでもまだ、「水石」という、「(精神分析学の)近代」以前から存在する「ジャンル」があるから良い様なものの、アスファルト路面の凹凸に「鎌倉の風景」を見たとか、ビルの解体現場のコンクリート片に「観世音菩薩」を見たとかになると、これはもう、21世紀の精神病理学的には、確実に問題のある人になるのであろう。床の間の石に水を吹き掛けて、ニヤニヤしながら眺めたり、河原で熱心に石を拾ったりするのは良く(健常)ても、雨の降る日に表へ出ては、アスファルト路面を飽きもせずにニヤニヤしながら眺めたり、事ある毎に工事現場を訪れては、コンクリートガラを熱心に拾う人間がいたら、或いは通報の対象になり、恐らく早晩精神科医の出番になると思われる。「述語」的なものを丁番にして、異なる「主語」を「相似」的なものとして折り畳む事は、今では一律に、「何たら失調症」や「何たら症候群」等と「診断」される事になって、その「知能」をすら疑われるのかもしれない。鎌倉の風景を見るのであれば、実際の鎌倉の風景に似ても似つかない、凡そ再現性に乏しいアスファルト路面を見るのではなく、実際の鎌倉にこそ行け、観世音菩薩の像が欲しければ、仏師(彫刻家)に頼めというのが、現在の「健康」な「常識」である。


仮に「アスファルト路面=鎌倉の風景」的な、「相似性」や「類似性」の「見立て」の文化を、「自同律」的な断案によって「精神障碍」の側に入れるとすると、「見立て」の文化圏に属する者は、多かれ少なかれ「精神障碍」である事になる。しかもその「精神障碍」が、限られた「特異な存在」としての「芸術家」のものではなく、広く一般に共有され、誰もが持ち合わせていたとなると、これはもう「大変」な事なのである。


しかし現在では、「精神障碍」は限定的な「特異なもの」とされているから、「精神障碍」を持っている様にも見える「特異な人物」による「特異な行為」を物見遊山で眺めに行ったりする。例えば「(仮称)草間彌生」という「失調症」だか「症候群」だかの「特異な人物」が仮にいたとして、「(仮称)草間彌生」を見に行く人は、「無関係な人」という意味での「他者」としてそれを眺める。即ち「(仮称)草間彌生」の持つ身体的精神的機能を、自らのものとして共有しているのではなく、飽くまでも「珍しいもの」として外部化する事で、「観察(鑑賞)」を可能なものとしている。


しかし今以上に「(仮称)草間彌生」に近付こうとするならば、簡単な話、自分自身が「(仮称)草間彌生」に「なって」しまえば良いのだ。「(仮称)草間彌生」に重なり、「(仮称)草間彌生」を見る自らが「障碍」的なものになる。それは「(仮称)草間彌生」に対する、腰の引けた「理解」以上の何ものかにはなるだろう。そうした場合、「作品を見る」という行為は、通常考えられている様に、自らは安全(健常)な場所にいつつ、対象である「特異なもの」を、「観察(鑑賞)」するという安寧としたものではなく、それを見る事で己が崩壊の危険性すら孕んだ、極めて剣呑である様なものになるだろう。少なくとも「そこにあるもの(作品)」を挟んで、見る者が、作る者に対して「狂って下さい」をひたすらに求めるのであれば、その逆に、作る者が見る者に対してひたすらに「狂って下さい」を求めても良い事になる。見る者も、作る者同様のリスクを負う。少なくともそれならば、「フェア」であるとは言えるだろう。


自分とは関わり合いの無い他人(多くは「芸術家」)による、「アスファルト路面=鎌倉の風景」の表現結果をただ見るという「観察(鑑賞)」の立場を捨て、自分自身が雨の降る日に表へ出て、アスファルト路面を飽きもせずにニヤニヤしながら眺める。恐らくそれこそが、「あいつアスペじゃねえの」を恐れない「風狂」であり、「風流」な生き方であろう。それは極めて「反・社会」的なのである。少なくともそれは一次消費的であり、「誰か他人の作ったもの」の二次消費では無い。それはより「直接」であり、また、より「省力」であり、尚もまた、より「独立」なのだ。


【続く】