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つくられたもの/つくられていないもの

承前


もう少しだけ枕。

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國破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪


杜甫「春望」


松尾芭蕉ならば、これに続けて「笠うち敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ」と書き、「夏草や兵どもが夢の跡」と、無常観を漂わせて詠むのである。21世紀の日本に於いて、引用に際しての一般的な言い方は、「〜によれば」という引用元の明示である。しかし少なくとも数十年前までは、「杜甫によれば」であるとか、「芭蕉によれば」などとは言われなかった訳であり、「奥の細道」にもそうした引用元が明示されている訳ではない。当時、漢籍は広く「一般常識」の範囲内にあった。引用元を一々明示するのは、該当引用部分が「一般常識」の範囲内には無いからだろう。今ならさしずめ「殴ったね。親父にもぶたれたことないのに」や、「逃げちゃ駄目だ」といった21世紀日本の「一般常識」に対して、「アムロによれば」であるとか、「碇シンジによれば」などと、一々その引用元を書かない様なものだろうか。しかしそれにしても彼我の差である。数十年前までの平均的日本人は、漢籍や自国の古典(=アジアの古典)に対して、21世紀の平均的日本人よりもかなり一般教養があったから、例えば太平洋戦争終結時に於いても、「國破山河在」が心の拠り所の一つにはなり得た。今なら同じ事があったとして、果たして日本人は何を拠り所とするのだろう。「逃げちゃ駄目だ」か。


杜甫の言う「国」とは何であろうか。「破」とは何であろうか。「破」を「やぶれる」と読み、その音から「破」を勝敗の「敗(やぶれる)」と解釈しがちなのは、多く日本人である。しかし「破」は「破壊」の意味の「破れる」であり、それは「荒廃」を表わす。戦に勝とうが負けようが、「破」に於いては全く同じ事なのだ。一方で、例えば太平洋戦争終結に際して、丸切り焦土と化した地もあれば、そうでも無かった地も現実的に存在する。しかしそのどちらも「破」であったと言えるだろう。「破」は物理的なものを意味すると同時に、社会的、心理的なもの等も含む。物理的「破壊」が存在しなくても、それでも「破」は存在し得る。


こうなると「春望」に於ける「国(國)」という言葉の意味の重層性も見えてくる。それは寧ろ ”nation" に近いものであり、勿論「国家(この場合「唐室」)」の意味がある一方で、「国民」の意味もあり、「民族」の意味もあり、「社会」の意味もあり、また "nation" 概念以前の「共同体」の諸概念すら含まれているだろう。しかし、そうした様々な「国」に共通するのは、いずれも「つくられたもの」を表していると言える。それに対して「山河」とは「つくられていないもの」を意味するだろう。ならば、「國破山河在」とは、「『つくられたもの』が退けられても、『つくられていないもの』は存在し続ける」と解せる。そうした「つくられたもの」と「つくられていないもの」の対比が、この五言律詩の冒頭にはある。芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の「夏草」と「兵(つわもの)」の対比もまた同様である。

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「文化」は「國」の側にあるのか、「山河」の側にあるのかと言えば、これはもう「國」の側にあると言えるだろう。「文化」は「つくられたもの」の側にある。五言律詩「春望」は、杜甫が仕官の口(官位は高くない)を得たばかりの時に、安禄山(のち「大燕皇帝」)の軍事クーデターによって長安から脱走した挙句、賊兵の手に捕まり、囚人として再び長安に護送された際に詠んだ詩だ。安禄山の出自は、西域サマルカンド出身のソグド人と突厥系の混血の「胡人」であり、長安に代表される唐の「文化」の「対極」にあった。杜甫は長安の「文化」が、凡そ「文化」を解さない「胡人」によって無残に破壊される


所謂「文化」はストラクチャーであり、どこかで「文化」を成立させるストラクチャーに依存する。卑近な話、「文化」の人達が、「文化予算」が削減されたり、「文化施設」が閉鎖されたりする事を嘆いたりするのは、そうしたストラクチャー無しには「文化」が成立し得ないと認識しているからこそであろう。しかしそうしたストラクチャーは「つくられたもの」であるが故に、「國」同様に「破」れる運命と常に隣り合わせだ。

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三度(みたび)、九鬼周造の「風流に関する一考察」から引く。


 風流には、なおもう一つの大切なものとしての第三の要素がある。それは自然ということである。第一の離俗と第二の耽美とのいわば綜合として、世俗性を清算して自然美へ復帰することが要求されるのである。したがって風流の創造する芸術は自然に対して極めて密接の関係にある。(略)風流にあっては自然と芸術は裏表になっている。自然美と芸術美とを包摂する唯美主義的生活の実存を風流は意図するといってもいいのである。自然美を包蔵しない芸術美だけの生活は風流とは言えない。日本人が特に自然を愛する国民であるところに風流が勝義において特に日本的色彩を濃厚にもっている理由が見出される。ともかくも風流には「造化にしたがひて四時を友とす。みるところ花あらずと云ふことなし。おもふところ月にあらずと云ふことなし」(卯辰紀行)という趣がなくてはならぬ。したがってまた庭道と花道とは、風流にあって重要な地位を占めてくるのである。なお自然美は決して人生美を排斥するものでないことを見逃してはならぬ。風流は「造化にしたがひ造化にかへれ」(卯辰紀行)と命ずるとともに「高く心を悟りて俗に帰るべし」(赤双紙)と命ずるのである。しかしこの俗とは風流が出発点において離脱した単なる俗と同一ではあり得ない。風流を止揚した俗である。または俗の中にある風流である。


「自然」に関しては、 "nature" から「じねん」、老壮的「渾沌」まで様々であろうが、要はそれを「つくられていないもの」と解する事も可能だろう。であれば、文中の「風流にあっては自然と芸術は裏表になっている。自然美と芸術美とを包摂する唯美主義的生活の実存を風流は意図するといってもいいのである。自然美を包蔵しない芸術美だけの生活は風流とは言えない」は、「風流にあっては『つくられていないもの』と『つくられたもの』は裏表になっている。『つくられていないもの』の美と『つくられたもの』の美とを包摂する唯美主義的生活の実存を風流は意図するといってもいいのである。『つくられていないもの』の美を包蔵しない『つくられたもの』の美だけの生活は風流とは言えない」とする事が可能だ。「つくられていないもの」に、良かれと思って、下手に「つくられたもの」としての「竅」を穿てば、七日にして「つくられていないもの」は死ぬのである。


「造化にしたがひ造化にかへれ」。「つくられていないもの」に従い「つくられていないもの」に還れ。「つくられたもの」の側にある「文化」と、「つくられていないもの」の側にある「風流」は、対立的関係にあるのではない。「造化にしたがひ造化にかへれ」の「かへれ」こそが、「風流を止揚した俗(「文化」)」としての「つくられたもの」に対する「態度」としての「風流」という事なのであろう。


【続く】