動物園

日本最初の動物園は、1882年(明治15年)3月20日に開園した東京・上野動物園という事になっている。


前身の「山下門内(山下町)博物館附属動物飼育場(明治6年〜明治15年:東京内山下町・現東京都千代田区内幸町一丁目)」は、70坪(約231.4 平方メートル)の敷地面積であった。決して広いとは言えない。「上野動物園百年史」中の「明治8年3月圏養動物表」によれば、そこに飼育されていた動物は「合計30種70点と1群」。獼猴(さる)、猫、ヤマネコ、狐、犬、熊、狸、オットセイ、野猪、鹿、水牛、ももんが鼠(ももんが)、ヤマ子、仏種兎、熟兎、鷲、シマトビ、シマミミズク、白烏、茶褐烏、鴝きゅうかんちょう(きゅうかんちょう)、雉、孔雀、鴿(はと)、鷦鷯(みそさざい)、亀、鯢魚(さんしょううお)、蜜蜂、蝸牛、その他「諸畜入用」。その殆どが国内で捕獲されたものである。


「山下門内博物館付属動物飼育場」という名前から判る様に、それは旧御城、山下門内の島津藩邸跡等の敷地16,935坪(55,983.4 平方メートル)に、6棟の陳列場(古器物・動物・植物・鉱物・農業・舶来品等)と、動物飼養所・熊室・動物細工所、植物分科園・植物寒中置場等の施設を擁する「山下門内博物館」の附属施設の一つであった。当時の観光ガイドブック「懐中東京案内」の表現を借りれば、「山下門内博物館」は、「金石草木魚虫の類」から、「天工人工」や「古今」を論ずる事も問う事も無く、「凡そ世界万国の珍物数万種を集め館内に羅列」していた施設であった。農業、山林、工業、美術、学校、製糸技術、塗物、製紙、画図、度量具、製鉄具、玉磨、陶製品、石羔粉細工夫、染物、動物、植物、鉱物、古物等が、ラベリングの違いだけで、「珍物」として並行的に「羅列」されていた。「懐中東京案内」には、「拝観の地」として「吹上御庭」「浜離宮御庭」に続いて、この「博物館」が挙げられている。「切手賃(入館料)」は二銭。


そもそも「山下門内博物館」は、1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会への参加準備の為に太政官正院に設置された「博覧会事務局(1872年、明治5年)」が元になっている。その一方で、1871年(明治4年)には「文部省博物局」が設置され、翌年1872年に湯島聖堂大成殿(現東京都文京区湯島)で、「日本最初」の「博覧会」が「文部省博物館」として開催されている。「文部省博物館」では、名古屋城金鯱が一番人気であったという。遠くにあるものを近くに見せ、近くにあるものを遠くに見せる設え。1873年(明治6年)3月、太政官正院の「博覧会事務局」は、「文部省博物局」「書籍館」「博物局」「小石川植物園」と合併し、薩摩藩の装束屋敷、飯山藩小城藩の藩邸であった山下門内に博物館建物を構える。1975年(明治8年)に合併解消、博覧会事務局は内務省所管となり、「博物館」と改称、その後「内務省第六局」、そして再び「博物館」と名称を変えて「博物局博物館」となる。


文部省博物局・博覧会事務局記録
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994338/1


1877年(明治10年)、上野寛永寺本防跡地で「第一回内国勧業博覧会」が開催され、そのパビリオンの一つが「美術館」と称され、これが日本初の「美術館」となる。その博覧会跡地に、農商務省所管となった「博物館」が山下門内から移り(1882年、明治15年)、その「博物館」の「農商務省天産部附属施設」が「上野動物園」となる。明治1882年(明治15年)3月20日、明治天皇行幸を仰いで開園式が行われる。式後の14時30分から一般公開。入園料は平日が1銭、日曜日は2銭。鳥獣室、猪鹿室、熊檻、水牛室、小禽室、水禽室等の施設があり、オープン半年後に水族館(日本初)である観魚室が新たに公開され、「うおのぞき」の名称で親しまれる。


http://www.ndl.go.jp/scenery/data/draw/uenodobutsuen.html


開園当時は、水牛、猿、鷲、鯢魚(オオサンショウウオ)等が人気であったというが、前述した様に、それらは国産動物が主体であり、所謂珍獣奇獣の類は殆ど無い。ここで当時の日本人にとって最も珍しかったものは、その辺りにいる日常的と言って良い様な動物を、二銭の入館料を徴収して見せる、「動物園」という「転倒」した展示形式そのものだっただろう。

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上野動物園は、開園以来永く「形態展示」であった。それは、檻の中に動物を入れ、主にその身体的特徴を見せるというクラシカルな展示方法(見世物)であり、現在でもそれは、ジャイアント・パンダを始めとした、上野動物園の展示方法の主体になっている。1996年に、東園の「ゴリラとトラのすむ森」とその周辺、1999年に、西園の「両生爬虫類館」の完成で、上野動物園にも「生態展示」の施設が増え始める。「生態展示」とは、生息地の環境を「再現」して見せる、所謂「ランドスケープ・イマジネーション」の導入による展示方法である。上野動物園の場合は、「ニシローランドゴリラ」と「スマトラトラ」という絶滅危惧種の繁殖(ズーストック計画)を企図し、その「環境」を整える形で「生態展示」としての「ゴリラとトラのすむ森」が整備されたという経緯がある。その施設は、動物にストレスを与えない名目から、どちらかと言えば、動物の生態を「覗く」形に設計されている。


一方で、現在「行動展示」が「ブーム」ではある。「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」という番組が、嘗て NHK に存在した(2000年3月28日〜2005年12月28日、全187回)。未だ多くの人の記憶に残っている番組であろうから、説明は要しないだろう。


放送の再末期である第183回(2005年)は、「旭山動物園 ペンギン翔ぶ 〜閉園からの復活〜」だった。日本最北の動物園である旭山動物園。トナカイ、アムールヒョウ、ペンギンといった、北の動物をメイン展示としていたが、市の予算不足で動物の補充が出来ない。目玉の無くなった動物園の客足は減る一方であり、園は負のスパイラルに陥っていた。獣医や飼育係といった「現場」の発案によって、旭山動物園は「動物のありのままを見せる」というコンセプトの下、決して希少種や人気種とは言えない動物の生態の「見せ方」を工夫する「行動展示」に切り替える。途中、獣医と飼育係の間に、互いの専門性に拘るが故の対立が存在したが、観客こそが動物園の中心でなければならないと思い直す。果たして、客足は飛躍的に伸びる。入場者数は、それまで「雲の上」の存在だった、東京上野動物園を上回る。そして「プロジェクトX」に取り上げられる。動物園展示「最先端」となった旭山動物園への、動物園関係者の視察は続いている。

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1988年。東京・恵比寿の茶屋坂に ”Heineken Gallery Bar" なるアートスペースがあった。名称からも明らかな様に、ビールのハイネケンがスポンサーだった。ハイネケンビールを飲みながら、作品を見るという趣旨の巨大飲食店であり、そこでは簡単な軽食等も食べる事が出来た。独自通貨(メダル)を作り、またオープニング・パーティーには、ハイネケンビールや、ライセンス生産先の日本の食品メーカー製の飲料や、そこの厨房で作った軽食等が出て、何人かの芸能人も動員されていた。この後、ハイネケンは、原宿にやはりアートスペースである "Heineken Village" を展開。併せて若い作家の個展のオープニング等に、ハイネケンビールを無償で提供するという事も行なっていた。ハイネケンは、当時の日本の現代美術の大「パトロン」だった。


その ”Heineken Gallery Bar" で、展覧会をした事がある。そこでは、旧作を出しても良いのだが、基本的には新作を出す事が条件だった。そしてもう一つの条件としては、その新作を、なるべく併設の制作スペースで制作する事というものだった。制作スペースは「テント」製(寒い)である。その三面が「壁」になっていて、残り一面全てが透明ビニールだった。即ち「金魚鉢」での「公開制作」である。前の作家が展覧会をしている最中、一ヶ月ばかりで巨大店舗のスペースを埋める新作を作る。当然それは難しいので、殆どの作家が予め作業場で作ってきたものを、アッセンブルするに留めたものの、しかし「そこで作っている」という演出は、客に対してしなければならない。使う当ての無いものを、そこで切ったり塗ったりしてみせたりした。


入れ替わり立ち替わり、ハイネケンの入った客が覗きに来る。ガラス張りならぬ透明ビニール張りであるから、こちらがしている事は、彼等/彼女等に丸見えだ。「動物園の動物だな」。さしずめそれは「生態展示」であり、またどこかで「行動展示」であっただろう。

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12月10日付の拙ブログ「モッサリ」に於いて、冒頭に引用した中島智氏の「後期試験」のレポートが上がってきたという報を、一週間前に目にした。


「オカンアートミュージアム設立構想」レポートの採点終了。皆さん、ボックスティッシュに布カバーを着せたがるオカンの愛情をしっかと受け止めている様子で、大変安堵した。ともかくさまざまな「配慮」があった。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/147734330100301824


例えば、オカンアートの経年劣化(褪色など)に配慮して、きちんとフォトアーカイブズも併設しようというもの。あるいは小学生の手製持ち物に特化した「愛のカタチ」比較ルームも併設しよう、とか。また、ミュージアム設立に反対する意見も。「オカンを《アーティスト》枠に押し込めてはならない」と。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/147736058992398337


自室に侵入してくることは共通して危惧を抱いているようで、その避雷針として○○邸でたまたま遭遇するといった設定が目立った。そのモデルルームとして、特に「息子の部屋」、都会で一人暮らしをしている男子部屋が設定される傾向も認められた。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/147737657672351744


母親と息子、贈与者と被贈与者。その授受の「思いのズレ」自体をあぶり出そうとするもの。あるいは更に広げて、オカンアートのバラまきマップ作成と、その関係、各被害者?による解説などにより構成する、といった社会学的指向も見受けられた。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/147738972213350401


展示空間は圧倒的に民家が多かったが、「ヒトはなぜ創るのか」というテーマを引き出すためにあえてホワイトキューブを選ぶ人もいた。あるいは、再現部屋に原寸大写真パネルで「生活」を考え、隣のホワイトキューブで実物を観ながら「アート/評価」自体を問う、という案も。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/147744121245802496


いやいや、パンク少年の部屋とか英国女王の寝室とかをバッチリ、モッサリさせよう、と言う者も。そうではなく、きちんとモッサリ侵食過程そのものを展示すべきであり、出口のミュージアムショップをオカンのバザーにしてトドメを刺すべき、と言う者も。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/147745481844461568


そうではなく、「オカンアートは提示性じゃなくて喚起性にある、つまり記憶と共にある」わけだから、BGMは洗濯機や掃除機の音、テレビも点いていて、もちろん学芸員は家着、コタツの上のオカンアートを観ながらそれぞれのオカンを想う空間、との声も。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/147747146676977664


ならば、記憶よりもさらに無意識への潜入を促すトリップ空間がよいのではないか、と、「紅茶に浸したマドレーヌ」のような地下一階から地下三階までを緻密に設計した人もいた。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/147748111949901825


あるいは、オカンアートは装飾(モダニズム/デザイン)ではなく愛玩(フェティシズムアニミズム)なのだから、ポスト高度成長期をフツーに生きていくためのフォークアートとして捉えなおすべきだ、と言う人も。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/147749185473626112


さすがに「出前ミュージアム」だけは念入りに回避されていたようだが、@omuraji さんのブログ「モッサリ」 http://bit.ly/rJlHJ7 を資料としてプリントしてきた人もいたし、あきらかに参考にしたと思われる意見・構想も少なくなかった。

https://twitter.com/#!/nakashima001/status/147751490004582400


オカン(アート)を「形態展示」するのか、「生態展示」するのか、はたまた「行動展示」するのか。しかしそれはまた、見慣れた水牛を「形態展示」しても、「生態展示」しても、「行動展示」しても、「展示/観察(鑑賞)」という「転倒」の形式に、些かも変わりが無いのと同じかもしれない。


"Heineken Gallery Bar" では、透明ビニールを一枚隔てて、こちらに対して一種の「珍獣奇獣」として見ている視線を常に感じたものだった。しかしその一方で、こちらからはそうやって覗き込む人に「珍獣奇獣」を見ていたというのも事実なのである。1989年に、故東野芳明氏関連の企画展に作品を出品した際、その東野氏から相談を受けた。「君の作品の中に、隠しカメラを入れたいんだ」。作品を鑑賞している最中の、観客の「間抜けな顔」を撮りたいという事であった。一も二も無く承諾した。「美術」に於ける展示/鑑賞をする「観客」というものは、それ自体で、十分に珍獣奇獣的な展示/鑑賞の対象となり得るものだ。



「オカンアート」の展示を工夫しようとする自分を展示する。「オカンアート」に何かを見ようとする自分を展示する。それはキリリとした顔なのだろうか。それともどこかで何かが抜けた顔なのだろうか。

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熊やオットセイの咆哮が聞こえた「山下門内博物館」の跡地には、その後「鹿鳴館」が建った。それもまた、一生懸命何かを見せようと努力している様をも見る事が出来る、「珍獣奇獣」の館であっただろう。


参考過去記事:「珍奇の館」 http://d.hatena.ne.jp/murrari/20110108/1294494290


【続く】