承前


象徴主義」の画家とも、「世紀末芸術」の画家とも、「表現主義の先駆者」とも言われるフェルディナンド・ホドラーの晩年は、妻とは別の、20歳年下の女性美術教師、ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルと共にあった。1908年、55歳のホドラーがヴァランティーヌに出会ってから暫くすると、それまでの様な市場に出す大作を描く事を止め、ホドラーはヴァランティーヌとセルフポートレートをしか描かなくなった。


1913年、ホドラーとヴァランティーヌとの間に、ポーリーヌという女の子が生まれるが、その3ヶ月後の1914年に、ヴァランティーヌは子宮癌の宣告を受け、その1年後の1915年に、彼女は40歳でこの世を去ってしまう。ホドラーは、ヴァランティーヌと出会ってから彼女が死ぬまで、100枚以上の彼女の絵を描いた。そして死んでからも描いた。恐らく「因業」以外に、その事に対する十分な説明は付かないだろう。



1879年に、カミーユ・モネは、32歳でこの世を去った。カミーユが、カミーユ・ドンシューであった頃から、彼女はクロード・モネの絵に多く登場した。



カミーユとクロードが正式に結婚したのは、パラソルを差すカミーユの横で画家の方を向いている第一子ジャンが誕生してから3年後の1870年の事になる。それから5年後に、カミーユ結核を患う。その死の直前1978年には、第二子ミシェルを産んでいる。同年、クロードは、1877年に事業に失敗して破産し、債権者から逃れる為に国外逃亡をした印象派の大コレクター、パリの百貨店業界の大物エルネスト・オシュデが残していった、妻アリス・オシュデと6人の子供を引き取って、病のカミーユと共に暮らす事にする。奇妙な共同生活の中、クロードは久し振りにカミーユを描く。それはカミーユが死んでからのものだ。



クロードの達者な筆は、最小限の線で、それが骸である事を見る者に十分に判らせる。その絵が描かれてから、内省して整理するに十分な時間の後、クロードは友人である政治家ジョルジュ・クレマンソー宛の手紙で、その絵が描かれるに至った経緯について書いている。


http://counterlightsrantsandblather1.blogspot.com/2008/09/monet-paints-his-dying-wife.html


それは "mechanically(機械的)" であり、”automatically(自動的)" である様な、恰も ”an animal turning his mill(動物が石臼を回す)" であるかの様な "unconscious operation(無意識的操作)" から描かれたものであるとクロードは言う。少なくとも、ここに「愛(憎)」に類する単語は皆無であり、寧ろ如何にそうした「心理」から隔たっている絵であるかの説明に終始していると言える。


カミーユがこの世を去って2年後の1881年に、エルネスト・オシュデは死去。翌1882年に、クロードはアリスと再婚する。1886年、クロードはアリスの連れ子である22歳のシュザンヌをモデルに、再び「日傘を差す女」を複数枚描く。いずれの絵も、顔は不自然な形で省略されている。


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背徳的にすら見えるこれらの「死体画」もまた、西欧的な「身体」観の一端を示すものだろう。同じ「死体画」でありながら、例えば仏教絵画である「九相図」とは、その「身体」の意味するところが全く異なるどころか真反対ですらある。そうした「身体」観の、西欧にあって、他には見られない独特の習俗がデス・マスクである。ここでは数ある「黄金のマスク」等は、所謂デス・マスクからは外れていると見做す。



これはその内でも、最も「有名」なものの一つである、ベートーヴェンのデス・マスクだ。我々が知っているベートーヴェンのイメージとは程遠いが、これはベートーベンの死(1827年3月26日)後、翌27日の医師ヨハン・ワグナーによる検死解剖を挟み、2日後の28日に、画家ヨーゼフ・ダンハウザーによって作られた。


一方こちらが、1812年に作られたライブ・マスクである。



確かにこれはベートーヴェンである。その顔にはベートーヴェンの「意志」というものが感じられる。


親しい人や知人が亡くなって、棺の中の顔を見た事がある人は多いだろう。それは生前見知っていた顔とは、多かれ少なかれ異なるものだ。その一つは、死と同時に始まる、避け様の無い遺体の物性的変化による。そしてもう一つは、死に顔は誰もが100%「こうありたい」という「意志」的な形では「作れない」という事だ。鏡を見ながら「その瞬間」まで「顔を作り続ける」事は不可能だし、仮にそれが可能であっても、「その瞬間」に「弛緩」や「緊張」をしてしまうかもしれない。要するに、死顔というのは、徹頭徹尾「自分のもの」ではなく「他人のもの」なのである。フェルディナンド・ホドラーが、ヴァランティーヌの死に逝く様を描き続けた多くの絵は、ホドラーが相手が病人である事を良い事に極めて高圧的に振る舞わない限り、当のヴァランティーヌのその場に於ける「許諾」無しには生まれなかっただろう。しかしデス・マスクはそれとは異なり、それを生前に「許諾」しているケースであっても、最終的にそれを型取り、且つ公開する際には、本人の「許諾」を得る必要は全く無いし、それ以前にそれは全く不可能である。「されどデス・マスクを作るのはいつも他人」なのだ。



西欧のデス・マスクの伝統に於いては、それは故人(確かに「故人」のものには違いない)の「想い出」であるとされ、実際西欧では葬式の際にデス・マスクを飾っていた。言わば、葬式の「遺影」が「遺体写真」であり、マリリン・モンローマイケル・ジャクソンの葬儀に、検死解剖後の「それら」が使われる様なものだ。そう考えると、現代に至っても続く、西欧に於けるデス・マスクという習俗の特異さが判るだろう。


http://library.princeton.edu/libraries/firestone/rbsc/aids/C0770/index.html


「骨相学」の資料としても使用されてきたデス・マスクの地の人にとって、「相貌」や「容貌」は無視し得るものなのだろう。それはまた、目の前にいる人の「相貌」や「容貌」に「惑わされない」様に、「人体」を制作するという美術作品に於ける「身体観」と、どこかで繋がる様な気がする。実際、ベートーヴェンのデス・マスクなどは石膏像化され、「人体」を描く為のマスト・アイテムとなってさえいる。こうした美術の伝統の場合、極端な話、目の前のモデルは死んでいても「人体」でありさえすれば良いのだし、そもそも生きていても死んだ様に長時間静止して貰わなければ、絵も彫刻も初めから出来はしない。だからこそ、西欧美術に表現された人のポーズは常に生硬であり、それは死体の一歩手前にあるのだ。


平塚らいてうの夫」として名高い画家奥村博史は、1936年10月19日の魯迅の死去当日に、魯迅の死顔を「魯迅臨終の図」として描いている。現在それは、上海の魯迅記念館に保管されている(常設展示ではない)。明らかに「九相図」的な「身体」観が、日本社会から後退した事を、この絵は物語っているだろう。しかしその一方で、デス・マスク的な「身体」観が、それに代わって内面化したという訳でも無い。この国では「身体」はもとより「死」もまた、この「魯迅臨終の図」の様に宙ぶらりんのままだ。

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或る日の事、自分の母親の死体を発見した。警察官がやってきた。警察官が現場検証をしている間、簡単な取り調べを受けた。事件性は無いと結論付けられた。検死医が翌朝やってくると言い残して警察官は去った。幾つかの架電があった。幾つか電話を掛けた。それからアルコールを入れた。


魔が差した。母親の骸を撮影してみようか。それともスケッチをしてみようか。そしてそれを作品にしてみようか。「西欧の芸術家」でありたいのなら、それもまたありかもしれない。


止めた。何よりも面倒臭かった。それは誰かがやれば良い。


「だから『西欧の芸術家』としては駄目なんだな」


独りごちた。


【一旦了】