課程

承前


日曜日の東京の竹橋は、ゴーストタウンだ。毎日新聞社から地下鉄駅に降りる階段には、こういう看板が出ていた。




誘われるままに行ってみる。するとこういう看板が出ていて行く手を阻まれる。



まさに大どんでん返しだ。ならば最初の看板上にこそ、日・祝祭日は休業であるという、トホホな但し書きを書けば良かったのだ。


しかしまあ、それはそうだろうとは思う。印象派展や阿修羅展でもやらない限り、日・祝祭日に美術館に来る程度の客数だけでは、全く商売になるものではない。ここパレスサイドビルには、セブンイレブンファミリーマートドトールスターバックスマクドナルド等も入っているが、日・祝祭日に開いていないそれらの店舗というのは、全国でも珍しいものだと思われる。


繁華街に立地する以外の、各地の美術館の周辺を思い出しても、美術館は町を活性化するどころか、逆にそこを不活性化させ、寂れさせるかの様にすら思えたりもする。当の竹橋の美術館に入っていた「フレンチの鉄人」による(飽くまで「監修」)、その名前だけで、善男善女を楽ちんに呼べてしまう様なレストランすらも、既に撤退して久しい。恐らく嘗て大名屋敷が立ち並んでいたこの一帯は、風水的に言って、商売が失敗して当たり前的な、極めて剣呑な場所なのだろう。そういう何をやっても駄目な場所というのは確かに存在する。

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竹橋の美術館に、日曜日の閉館1時間前に滑り込んだ。捥りの女性は「5時に閉館になります」と言い、「工芸館は4時半に入場終了となります」と言ってくれた。今回、工芸館は端から頭に無かったが、常設は見ておきたかった。企画と常設合わせて1時間はかなりタイトなスケジュールだが、それでも、会期終了までここに来る時間は無い。足早に「ぬぐ絵画 ― 日本のヌード 1880-1945」を見た。


展覧会を見終わって、常設を含めてまず感じた事は、「そんなに苦労するんだったら、何も『はだか』なんか描かなければ良いのに」であった。しかしそうは行かないのだ。全ての「作品」に共通しているのは、そうした「そうは行かない」という「事情」である。壁面に貼り出された解説も、そうした「事情」についてばかりが書かれている。兎に角「はだか」を描かねばならなかった、日本の「美術」の「事情」をこそ、受け入れてくれと言わんばかりだ。しかし「事情」は常に相対的なものだ。そしてその様な「事情」が「教条」ともなれば、それは絶対的な必然として現れたりもする。


歴史に仮定の話は禁物だと言われている。もう、こうなってしまっているのだから、あれこれ考えても仕方ないではないか。まあそういう事なのだろう。しかし仮定の話、所謂「たら話」というものは、そんな「こうなってしまっている」現在を、相対化する位には役立つ。


明治元年は、キリスト紀元1868年である。日本の「近代化」は、遅かれ早かれこの辺りで「実現」していたと考えるのが現実的だろう。そこから50年前という事も、そこから50年後という事も考え難い。しかし敢えて、50年遅れで「明治」が始まったとしてみる。すると明治元年は、第一次世界大戦終結の年「1918年」になる。


仮定の歴史では、黒田清輝もまた、実際から50年遅れの「1916年」生まれだ。「1934年(18歳)」から「1943年(27歳)」まで、黒田は渡仏する。その当時も、留学先に選ぶべきは、ニューヨークではなく、未だパリであっただろう。果たして仮想的な歴史に於いて、法律家の道を捨てて、画家への道を決意した渡仏2年後の「1936年」に、黒田清輝が師事する作家は、やはり「ラファエル・コラン」の様な、1886年時点ですら既に折衷的で修正主義的と目されていた様な「凡庸」な画家であり、通うべきはそうした「凡庸」な画家が教室を持つ、「アカデミー・コラロッシ」の様な、「エコール・デ・ボザール」に繋がる、「フランスの伝統」を重んじるカリキュラムを持つ私設アトリエであっただろうか。しかし何せ、あの1930年代のパリなのだ。但し、翻ってそれは、1880年代のパリも同じ様なものだとは思うのだが。


実際史では、「アカデミー・コラロッシ」に入る前、法学を学ぶ者であり、また素人画家でもあった東洋人の黒田清輝に対し、師のラファエル・コランは、ルーブル美術館のデッサンをデッサンしてくる様にと命じる。それは、西洋画の基本である人体描写を最上のものとする、極めて伝統的なフランスの絵画プログラムである「素描手本(modèles de dessin)」模写の伝統に則っていると言えるだろう。フランスのアカデミーで教えられるのは、まず外形線を決め、そこをハッチングや擦筆等を使った陰影で埋めていくという、言わば「塗り絵」の様なデッサンの方法論である。学生に与えられる素描手本は、目や鼻や唇といった部分から始まり、そこから顔、手足と進み、最後に全身像の素描手本を素描する事で、デッサン描写の「スキル」を徹底的に仕込まれる。「二次元」→「二次元」であるから、デッサン描写の「スキル」習得は極めて早い。こうしてデッサンの「基礎」を、効率的に仕込まれたアカデミーの学生は、次段階になって初めて生身のモデルを前にして、デッサンをする事になる。同時に石膏像を描く事で、細部に拘泥せずに、量感として対象を把握する能力を養いつつ、古典に見られる人体の理想的規範を、現実のモデルに当て嵌めるという、Photoshop の "liquify(ゆがみ)"フィルタの如き修正能力も養う。それを通過して、学生は初めて油彩を描く資格が与えられる。黒田清輝が師のコランから油彩を描く事を許されたのは、入門してから1年半後の1888年1月であった。


何の事は無い。これは現在も尚、日本の美術学校受験に見られる一連のカリキュラムそのままだ。「素描手本」の摸写という過程は、黒田清輝が、彼の私設アトリエである「天真道場」で排した為に、日本ではそれが根付く事は無かったが、しかしそれもこれも、黒田清輝が19世紀の後半にパリに行き、しかも門を叩いたのが、怒涛の20世紀前半、黒田清輝が57歳でこの世を去って(1924年)数年後(1930年)に姿を消す「アカデミー・コラロッシ」であったからこそ、こうした当時のアカデミーのカリキュラムが日本にも導入され、それが恰も「『西洋美術』の『基本』」であると、以後今に至るまで変わらずに信じ続けてられてきたと言えるだろう。しかし黒田清輝が、仮定の歴史に於ける開国(「1918年」)間も無い日本から、1930年代のパリ(既に「アカデミー・コロラッシ」は存在しない)に行き、そこで初めて見る「西洋美術(しかも当時の「最先端」)」を元に、カリキュラムを組み上げて日本に持ち帰ったとしたら、随分と日本の美術教育は、今とは異なったものになっていただろうし、こんなにも「はだか」の絵や彫像が、展覧会や街中に溢れ返る事も無かっただろう。そもそも「人体」に、これ程に興味を持つ(様に洗脳される)画家も彫刻家も出なかったのではないだろうか。


しかし歴史に「もしも」は無い。歴史には「仮定」も無ければ「たら話」も無い。「人体」を表現対象として注目し、それを実際に「巧く」表現する事は、日本人がずっと追い続けていて、日本人がずっと追い付けないでいて、これから先も、日本人がずっと追い付けないかもしれない「西洋美術」のメンバーに入るには、不可欠な過程であると、明治以降未だに思われいて、しかも唯一19世紀フランスの「アカデミー・コラロッシ」のカリキュラムこそが、西欧への唯一の道であると思われていたりもする。「はだか」が、西欧に対するコンプレックスやルサンチマンであったとしても致し方ない。コンプレックスやルサンチマンであるかもしれないものが、日本が「西欧」に「なる」為の「課程」として美術展や街中に溢れているのにも、日本の「美術」の特殊な「事情」がある。そうした「事情」をこそ、日本人は見せるべきではないのか。そういう事を言う人もいる。それは「もう、こうなってしまっているのだから、あれこれ考えても仕方ないではないか」という事なのだろう。


そうなのか。


【エピローグに続く】