纏ったもの

承前


それにしても「ぬぐ絵画」なのである。


或る意味で、このタイトルは、画家の描くそうしたものの本質を、かなり見誤っていると言える。「デッサン室」や「アトリエ」で、「ヌードモデル」を前に、実際に絵を描いた事の無い人、或いは芸術家の実際を知らない人の手によるものではないかという疑問すら湧いてくる。画家や彫刻家が描いたり作ったりする「あれ」は、決して「ぬぐ」事によってもたらされる「はだか」ではないのだ。


嘗て画学生だった自分もまた、黒田清輝門下の、そのまた門下の、そのまた門下のと辿っていった、その端っこにいたりした訳で、必然的に「ヌードモデルを描く」伝統の中にいた事もある。モデルさんが部屋の中に入ってきて、そこに設えられた貧相な更衣スペースの中で衣服を脱ぎ、画学生の前に「ネイキッドな身体」を差し出す。画学生は、その「ネイキッドな身体」を参考にして、「人体」を描いたり彫塑したりする。ここでは「はだか」は、全く重要ではない。「人体」こそが重要なのだ。美術モデルには「『人体』のサンプル」である事こそが求められている。一方で、画学生は、そこに「はだか」を見る事を半ば禁じられ、「人体」をこそ観察し、学習する様に訓練される。美術の「ヌードモデル」が裸であるのは、「人体」をより観察し易いからという一事に尽きる。そこにある「ネイキッドな身体」は、画学生がプライベートな生活で知っていたりする「裸体」とは全く異なるものなのだ。


「美術」に於いて、「人体」の何が重要視されるのかと言えば、それは、多くの美術大学のカリキュラムにも組み込まれている「美術解剖学(Anatomy for Artists、Artistic Anatomy」である。


美術解剖学


美術解剖学(びじゅつかいぼうがく,英Anatomy for Artists、Artistic Anatomy)とは、主に人体を中心とした、生物の解剖学的な構造を美術制作(主に具象芸術)に応用しようとするもの。また、そのための知識体系。


概要


主な研究対象は人間である。近代以前までは、騎馬像の需要から馬も研究された。他には、犬、家畜、鳥などがある。 以下の解説は、人体の美術解剖学に関する内容である。


美術解剖学は、生体の体表観察では的確に捉えることが難しい体表面の起伏や構造を、解剖学的に認識することで捉えやすくしようとする。その目的から、体表の形状に最も直接的に影響を与える運動器系、すなわち、骨格系と筋系が主に取り扱われる。 その他に、循環器系は皮静脈が皮下に観察されることから、その走行が取り上げられる。いわゆる内臓は通常は扱われない。皮下脂肪を含む、結合組織も取り上げられる事は少ない。体表であり特徴的であるにもかかわらず、外生殖器も通常扱われない。


解剖学を主な情報源とした応用解剖学の一つと見なされる。人種差、性差、年齢差のように人類学や生物学また発生学的な情報も含まれる。 また、人体の比例、プロポーションや、顔の表情などを扱うのも特徴的である。


このように、美術解剖学は、人体の造形の参考になる情報を、様々な研究領域から集めて総合的に再編纂したものである。


Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E8%A1%93%E8%A7%A3%E5%89%96%E5%AD%A6


参考:美術解剖学
http://www.geidai.ac.jp/soc/saa/about.html


即ち、画家の「人体」に対する興味の大部分とされるものは、「体表の形状に最も直接的に影響を与える運動器系」である「骨格系」と「筋系」にある。


つまりはこういう事だ。



後はこれらに表皮を被せれば、画家の欲する「人体」が出来るという訳である。即ち、「オノレ・フラゴナール」に表皮を被せたものが、画家の「人体」なのだ。《智・感・情》に於ける、黒田清輝の最大の関心事もまた、畢竟こういう事なのだと思える。


多くの美術大学には、骨格標本や人体模型などもあったりして、モデルの横にそうしたものを置きながら制作させたりもする。いざ講評ともなれば、筋肉の付き方がおかしいだの、骨折している様に見えるだのと指導される事もある。そうした場所で、講評の対象となるのは、骨や筋肉に関する事ばかりであり、顔が似ている/似ていないであるとか、肉付きが良い/悪いであるとか、肌が綺麗/汚いであるとか、ましてやエロスがどうのこうのなどは全く問題にされない。美術に於いて「はだか」に見えるものは、骨の上に筋肉を纏い、そこに表皮を被せた「構造」としての「人体」である。即ちそれは、「纏ったもの」=「人体」であり、「脱いだもの」=「はだか」ではない。「人体」と「はだか」は、表皮という界面が共通するだけであり、両者は全く異なるベクトルの下にある。画家は解剖学的「人体」を描いているのに、周囲からは「はだか」を描いていると思われてしまう。だからこそ、「芸術(人体)」と「猥褻(はだか)」という問題には結論が付かないのだ。何故ならば、全く同じに見える、しかし全く違うものを前提にして議論されている訳であり、結果として、それは永遠の平行線を辿るしかなくなる。


多くの芸術家が興味を持つ「人体」とは、事実上「骨格系」と「筋系」のみである。Wikipedia の解説にもある様に、内臓、皮下脂肪を含む結合組織、外生殖器等は、その視界に入っていない。寧ろ皮下脂肪などは、「人体」の構造を覆い隠す余計なものでしか無い。芸術に於ける「人体」の「肥満度」が常に低めであるのは、「合理性」に乏しい皮下脂肪をなるべく描きたくないからだ。太い骨や太い筋肉には「合理性」が見られるが、三段腹や爆乳や大きな乳輪には「合理性」の欠片も無い。「非合理」な性毛や女性器の描写は省略される事が多いが、同じく「非合理」な乳首に関しては申し訳程度に描かれる。しかし、場合によっては、乳房すら必要ないと画家は思っているだろう。モデルの顔は千差万別だが、絵に於ける「人体」の顔は、美し気に見える匿名的なマネキンの首(当然「美術解剖学」的に無問題な)でも付けておけば良い位に思っているところもある。


画家が、「人体」を描くのに、深い理由など存在しない。「はだか」ならば、「衣服を脱がせる」という行為自体に、大いに意味が出てくるが、「人体」は「脱がす」ものではない。画家にとって「人体」を描く事は、「自然」な行為である(と思わされている)。モデルに表皮を晒させる事も、「さあ描こうか、ハイ脱いで」で終わるものであり、言わばそれは医療的な「診断」に近いものだ。従って、そこに御大層な「物語」など存在する筈も無い。


とは言え、描かれた「人体」が、周囲から「はだか」と見られてしまう事は、致し方の無いところだ。だからこそ、画家は、対「はだか」戦略をあれこれと考える。周囲から見て「はだか」にしか見えない「人体」を描く事に深い理由が無いからこそ、そこに後付けの形で、無理矢理「理由」としての御大層な「物語」を付帯しようと、画家は苦心惨憺する。さしずめ、安井曽太郎の「画室」などは、不器用なまでにそうした理由付けに拘った作品だろう。しかしそこまで行かなくても、「『愛』だからはだか」であるとか、「『神話』だからはだか」であるとか、「『開放的な気持ち』だからはだか」であるとか、「『風呂』だからはだか」であるとか、「『画室』だからはだか」であるとか、「『エロ』だからはだか」であるとか、兎に角そうした、「何故ここで『はだか』でなくてはならないのか」を説明しようとする牽強付会感とでもいうものが、常に「はだか」に見える絵には存在する。この展覧会は、画家のそうした牽強付会の数々を見るだけでも楽しいだろう。しかしそれにしたところで、極めて「不自然」な話ではあるのだ。結局、描くのに大した理由が無いという「非合理」によって描かれた「合理性」の「人体」に、別の「合理性」の「理由」を後付けするという「非合理」がそこにはある。


「人体」を描くのは、着衣の下の「構造」としての「人体」を描くのに役立つからだ。その程度の話だ。画家は、着衣のモデルが如何なる人物であれ、常にその着衣の下の「人体」を思い浮かべて制作する。今、目の前にいる人物の、骨はどうなっている、筋肉はどうなっている、あそこはどうなっている、ここはどうなっている…。「欲情をみたすために女を見る者は誰でも、その女に対してすでに心の中で姦淫を犯したことになる」らしいが、制作のために「女」の「人体」を「透視」する画家は、その「女」に対してすでに心のなかで姦淫を犯しているだろうか。


いずれにしても画家というのは、因業な商売なのである。


【続く】